「……さん、僕だよ……。開けてぇ……」 初め、あたしは“その声”を1時間ほど前から吹き続けている吹雪の音なんじゃないかと思った。でも、次の瞬間あたしはその音を人の声だとはっきりと理解した。 「お母さん、僕だよ。開けてぇ……」 ぎょっとしてあたしがドアを開けると……そこには誰もいなかった。 ギャァァァァァァァァァァ!!!!! あたしは悲鳴をあげて旅館のロビーに駆けて行った。 「ど、どうしたんですか?」 あたしの悲鳴を聞いて旅館の女将さんが飛んできた。 あたしは肩で息をしながら、女将さんに「お母さん、僕だよ。開けてぇ」という声を部屋で聞いたこと、そして、ドアを開けたら誰もドアの外にいなかったということを話した。 あたしの話を聞き終えると女将さんは神妙な顔つきになってこう言った。 「……また出たのね……。あの子が……」 あの子? とあたしが訊ねると女将さんはお茶を持ってきて進めると、あたしに不思議な話をし始めた。 「これはね……私が生まれる前、私の祖母が義母から聞いた話だよ……」
****** 今から100年前、旅館があった場所には小さな家があり、そこには男の子と母親が住んでいた。とても美しい親子だけれども、村から離れた場所に住んでいるのは男の子が月光のような銀の髪、真雪のように白い肌、血潮のように真っ赤な目をしておりそれを父親に疎まれて母親共々捨てられたとも、村長の屋敷で働いていた母親が、許されぬ恋の末に生まれた子と共に生きるために敢えて村はずれの原っぱに移り住んだと言われていたが、真相は謎のままだった。 そんな暗い噂が流れても母子は原っぱを耕して野菜を取ったり、男の子が村人の家に忍び込んで鶏を取ってきたり、山に入って木の実や山菜、植物のつるなどを集めて食べ物や生活の役に立つ道具を作ったりして生活していた。 彼らはとても幸せに暮らしているのだなと時々彼らの姿を見た村人はそう思ったし、母子の方もそう思っていた……“その時”が来るまでは。 ある年の冬だった。その年の冬は来るのが異常に早く、その上異常に寒かったのだ。寒い冬には悪い病が流行ると言われるように多くの村人達が病に倒れた。そして、それは村はずれの原っぱに住む母子にも容赦なく襲いかかって来た。
「お母さん、大丈夫……?」 男の子は自分の手よりも真っ白な手ぬぐいを母の額に載せて不安げに聞いた。 「……大丈夫よ。だから、お前は早くお休み……ゴホッ、ゴホッ」 「お、お母さん!?」 急に咳きこんだ母を見て男の子は泣きそうになった。 「大丈夫よ……すぐに良くなるわ……だから……」 白い息子の頬を熱い両手で挟んでにっこりとほほ笑んだ。 「早く休みなさい……」 男の子は力なく頷くと薄い布団にもぐりこんだ。 30分くらい経っただろうか男の子はこっそり布団から抜け出すと今まで自分がかぶっていた布団を母にかけて草履を引っ掛けると激しい吹雪が吹きつける中、村の方に向かって駆け出した。 ******
……それで、その子はどうなったんですか? とあたしが聞くと女将さんは悲しそうな目でこう言った。 「……それっきり帰ってこなかったそうだよ。母親、つまり祖母の義母は駆け付けた医者が助けてくれたそうだよ」 お医者さん、来たんですか? とあたしが聞くと 「祖母の義母の話によるとね、医者は真っ黒な髪の美しい男に案内されてきたそうだよ」 と女将さんは答えた。 「祖母の義母が元気になってしばらくするとね、さっき、あなたが聞いたいなくなった息子の声がするようになったのよ。でも、扉を開けても息子はいない……。それでも、彼女は息子がいつか帰って来ることを信じてここに旅館を開いたのよ」 そうだったんですか……とあたしが呟くと女将さんは静かに頷いた。 「それとね……あなたの部屋があるあたりがね、昔祖母の義母の家の玄関だったのよ」 あたしはひゃ〜っと言うとお茶を一口飲んだ。その味を感じながら、男の子はどこに消えたのだろう……? と思った。
誰も知らない真実……それは黄昏の歪んだ時に落ちた者の話……。 あの日、吹雪の中を走りながら男の子は思った。 (村人は……変な見た目の僕や僕を生んだお母さんをいじめて追い出したってお母さん、言ったけど……こんな時ならなりふり構わず助けてくれるよね……) 冷酷な風が男の子の腕を削り、無慈悲で鋭い雪が体に張り付いたがそれでも男の子は必死で走り続けた。 どれぐらい走っただろうか。原っぱの真ん中あたりに来た時、男の子はぐらりと倒れた。この寒さに加えて、母の看病疲れに加えて飢えで体力が限界に達してしまったのだ。 (い、いやだよぅ……こんな所で倒れて死んじゃったらお母さんまで死んじゃうよぉ……) 雪よりも白い2つの瞼から涙がこぼれ落ちた。 (誰か……助けて……!) 男の子が心の中でそう叫んだ時、風の隙間からちらりと覗いた黄昏の緋い空から真っ白な着物を着た女が舞い降りた。 「今晩は、坊っちゃん」 女は雪まみれでぐったりした男の子の頭をなでながら静かに言った。 「た……助けて……」 ぼんやりとした意識の中で男の子は言った。 「もちろんよ。貴方も貴方のお母さんも……条件があるけどね」 条件……? 男の子は不思議に思ったがなりふり構っていられない、と思いその条件を呑んだ。 それは……
吹雪の中、男の子は懐かしい家に向かって駆けていく。 そして扉に向かってこう叫ぶのだ。 「お母さん、僕だよ。開けてぇ」 扉がゆっくりと開く。そこにいたのは……真っ白な着物を着たあの女だった。 「お帰り、坊や。ご飯できているわよ」 男の子はお母さんってこんな人だったかな? と思いながらも
黄昏の残光を背に受けて
食卓についた。
第参謡、終
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