「アイツどこ行きやがった!?」 階下で荒々しい声が聞こえた。その声の主に見つからないよう彼が身体をもっと縮めようとした時、足元の床がざらついた音を立てた。 「尚志! いたよ! あの踊り場の所だっ!」 くるぶしまで届くような長いスカートを履いたガラの悪そうな少女がざらついた音のした場所を指差して叫んだ。 「あの野郎…もう逃がさねぇ!」 先程の尚志と呼ばれた荒々しい声の青年が階段の一段目に足を掛けるか掛けないかのうちに彼は階段を駆け上っていた。 「逃げるよ!」 「待て! おい、お前ら! 追いかけるぞ!」 尚志は仲間達に号令をかけると一気に階段を駆け上って行った。
斜陽が裏通りにある廃ビルの屋上を朱色に染め上げていた。そこに彼と先刻の尚志達が対峙していた。 「テメぇ……約束の金はどうした? あぁん?」 彼は怯えながらも目を見開いて尚志に言った。 「もうこんなことはたくさんだ! 僕は君達の奴隷でも財布でもないんだ!」 尚志の背後でガラの悪い少女がけらけらと笑った。 「へぇぇ! アンタ、私達に逆らうつもりなのかい? いい度胸だ……。尚志!」 少女の言葉の後を継ぐように尚志は下卑た笑みを浮かべた。 「そうだなぁ、玲香……。番長の俺に逆らったらどうなるかたっぷり教えてやるとするか!」 尚志の言葉と同時に玲香と彼らの背後に控えていたガラの悪い少年少女達が一斉に彼に迫った。 慌てて彼は屋上から逃げ出そうとしたが、その扉の前にガラの悪い少年の一人が立ちふさがる。 「逃げられるとでも思ってんのか?」 少年の拳が顔に当たる前に彼は慌てて飛びのいた。 ガラの悪い連中の拳が足が自分の身に迫ってくる度に彼は素早くよけてこの地獄から逃げようとしたが、遂に屋上の隅に追い詰められてしまった。 「さぁ、もう逃げられねえなぁ」 尚志が指の関節を鳴らしながら彼に迫ってきた。 本当にもう逃げられない、と彼は思った。万が一尚志の拳をよけたとしても彼の脇を固める玲香ともう一人の不良少女に捕まってボロ雑巾にされてしまう……。そう思った。 「俺達に逆らったらどうなるか、その身に刻みつけてやる!」 尚志の拳が迫る。 彼はひっと声をあげて屋上のフェンスに身を寄せた時だった。もともと錆びてボロボロのフェンスが少年の体重に耐えきれなかったのか、バキン、という嫌な音を立てて崩れた。 「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!」 彼は耳をつんざくような悲鳴をあげて屋上から落ちていった。 悲鳴が止まってからガラの悪い連中が怖々下を覗き込むとそこにあるはずの「彼のなれの果て」はなかった。 「アイツ……いない?」 玲香が尚志に訊いた。 「馬鹿な。確かに追い詰められて落ちたはずだ……」 彼らは息を呑むと一目散に屋上から走り去った。
それから数年後、とある女子高生達がこのビルの前を通っていた。 「この通り、駅までの近道なんだけど女の幽霊が出るって話なんだよねぇ」 「えぇ、嘘! クリスマス前の怪談はやめてよぉ!」 友人の話に少女は大げさに怖がった。 「大丈夫だって、その幽霊男しか襲わないらしいよ……って、あれ何?」 「え? どうしたの?」 少女が怪談話をした友人に訊いた。 「ビルの上に人が……」 友人の指差す先にある廃ビルの屋上に人が立っていた。その人物は何かに追い詰められているのだろうか、じりじりと後ずさりをしていた。 「危ない!」 少女が叫んだと同時にその人影は屋上の隅から落ちた。 突然の出来事に驚く女子高生たちの前でさらに驚くべきことが起きた。 「え……!?」 その人影はビルの2階ですぅっと消えてしまったのだ。 「い、今の見た……?」 「……う、うん……」 彼女達は顔を見合わせると悲鳴をあげてその場から逃げ出した。
その後、この通りにある廃ビルで次々と追い詰められ、屋上から落ちる人影を見る者が続出した。この人物の正体について人は学校や職場でさらには雑誌の読者ページやネットの掲示板で様々な話をした。 でも、そのどれもが憶測の域を出ていなかった。
彼らは過去にあったことを知らないから。 彼らは現在起きていることを知らないから。
彼がうずくまる廃ビルの踊り場に斜陽の影が迫る。 「また、来るのか……」 階下に気配がひたひたと迫ってきた。 それに見つからないように身を縮めても足元のコンクリートが立てたざらついた音で気配はすぐに彼を見つけて追いかけてきた。 「……今日は逃げられるといいな……」 彼は虚ろな目でそれでもわずかな希望を求めて屋上へと駆け上がって行った。
斜陽が裏通りにある廃ビルの屋上を朱色に染め上げていた。そこにたたずむ彼の背後に気配が迫った。 「……逃げなきゃ……!」 彼はドアへと駆けていったが、気配が脱出の邪魔をした。 「……どうして?」 そうして、逃げることもできずに彼は屋上の隅に追い詰められてしまった。 「あぁ、まただ……」 濃密な殺気が漂う。 じりじりと後ずさりをして彼はビルの屋上から落ちていった。 そうして落ちながら、2階が近づいてきた時彼はいつもそれ――数年前、落ちた時に彼を呑みこんだ黄昏色の光――を見る。 (今日も呑まれて、また明日吐き出されて……) ずっと、それを繰り返しながら自分はまだ生きている……彼はそう思った。
完全にそこに堕ちる瞬間、彼はいつも声なき声をあげる。
お願い、もう終わらせて
彼の目の前で黄昏の残光が残酷な色をたたえて
消えた。
第壱謡、終
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