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2011年10月19日 (水) 23時33分
一求道者
「法脈・血脈一体」についての、私の感想(5)

「未生」殿、拝復、ありがとうございます。

 又もや、すばやい御返信を頂きありがとうございました。しかし、この度の御返信は御貴殿の書かれた(意図されている)論旨が混乱しているように私には思えました。従って、他の閲覧者の方々も非常に難解な内容になっていると思われていると感じます。まことに失礼な譬えでは御座いますが、御貴殿のご返信の切っ先が相当に乱れてしまった感を持っております。(雅宣先生の「今の教えは」元来が隙だらけで御座いますので、一分の隙もない雅春先生の『御教え』の前では雅宣先生を幾ら論理だてて擁護しようとしても、どうしても切っ先が乱れるものですね)。どこに乱れが生じているかと申し上げますと、①御貴殿の考えておられる「法燈」の内容について、 ②生長の家の「信徒」の正確な意味について、 ③『御教え』と「今の教え」の混同について、主としてこの三点です。以下、一つ一つ述べさせていただきます。


A. 「法燈」とは何か? でありますが、「生長の家大神・住吉大神=開祖・谷口雅春先生=神示である『御教え』」この不可分にして一体なるものが、所謂「法燈」であると私は理解させていただいております。それでは、御貴殿の考えられている「法燈」とは、どのようなものかについてご説明いただければ幸甚に思います。


B. 御貴殿は、<現在の教規では、総裁になるには法燈継承云々は、必要ない>と解釈されていますが、そのとおりです。生長の家教規第十条の中の<継承者>と言う言葉は、<総裁職の後継者>のことです。そして、この教規第十条の中に「法燈継承」の言葉が使われていない理由は、<総裁職の後継者>はいうまでもなく、極めて当然のこととして、「生長の家大神・住吉大神=開祖・谷口雅春先生=神示である『御教え』」この不可分にして一体なる、所謂「法燈」を100%信奉している人であるからこそ<総裁職の後継者>として総裁から選ばれたわけです。

だから、清超先生が総裁の職責として、雅宣先生を「副総裁」に選ばれた時も、当然のこととして、当時の雅宣先生が、「生長の家大神・住吉大神=開祖・谷口雅春先生=神示である『御教え』」この不可分にして一体なる、所謂「法燈」を100%信奉して、次期総裁として立派に開祖先生の創始になるところの「生長の家」教団を引き継いで行くと判断されたからだと思います。つまり、教規第十条の前提条件として、「法燈」(簡単に表現すれば、開祖先生の『御教え』)を100%信奉し、田中忠雄先生の「盃の水」の譬えの如く、「開祖である雅春先生の『御教え』という盃の水を、そのまま全部、一滴も零さず、残さずに次の盃に移し替え」てさらに、続く次々期総裁へ伝え続けて行ってもらえることを心の底から信じておられたと思います。

しかし、雅宣副総裁先生は、副総裁に御就任後、実質的権限無き副総裁であると気づかれ、退職金を貰われて生長の家教団を一方的に退職されました。しかし、時間を経ず、清超先生は雅宣先生を元の副総裁に再び迎え入れられました。このときの再就任条件は、極めて大幅な副総裁権限の付与と雅宣先生のお考えにしたがって、生長の家教団の運営を行なってよろしい、という全権委任的な内容であったと私は聞いております。そして、月日の経過と共に雅宣副総裁先生は、開祖先生の『御教え』を『生命の實相』第三十三巻P.53~59に書かれている<宗教は、自ら改革しながら進まなければ形骸化する>部分を盾に、“時代即応の教え”の必要性を強く主張されるようになり、開祖の『御教え』の重要部分を換骨奪胎して、どちらかと云えばリベラル左翼的色彩の強い「今の教え」を、表面上は<唯神實相・唯心所現・萬教帰一>と言う言葉のオブラートで上手に包みながら、実質的には<非・生長の家雅宣教>とでも言えるものを、これが平成現代の“時代即応”の生長の家の教えであると説き始めたのです。

清超先生としては全く予想外の事であったと思います。雅宣先生は、平成十一年に総裁代行に昇格され、教団の経営権力を実質的に完全に掌握され、開祖先生の『御教え』が完全に換骨奪胎の変革を遂げ、<非・生長の家、雅宣教>へと変身いたしました。本部役員・本部講師の中でも、開祖先生の『御教え』への復帰を意見具申された方々も多数おられましたが、雅宣先生は、独裁的人事権と給与決定権を使って、それらの意見具申者を左遷人事という手段で依願退職せざるを得ない方向へと追い込まれたことは事実です。そして、下手に諫言すれば身の破滅と誰も表面的には雅宣総裁先生の意に逆らって意見をいう者はいなくなりました総裁・清超先生にとっては、まさかここまで雅宣先生が暴走しようなどとは夢にも思われておられなかったことでしょう。しかし、IQ指数の極めて高い(机上ではあるが)緻密な将来計画策定能力と抜群の意思貫徹力(所謂、押しの強さ)を持つ雅宣総裁代行先生には、いかな総裁・清超先生といえども歯がたたず、結局ここで、わたしの上記定義による「法燈」は中断してしまったと考えて良いと思います。この「法燈」の中断は、雅宣・現総裁先生が何らかの事情で総裁職から退かれ、それに替わる次の総裁が、開祖先生の『御教え』の全面復活を宣言されるまで続きます。


C. 雅宣総裁先生は、宗教家として極めて特異な考え方をなさる人です。どのような宗旨・宗派といえども、教えの開祖に対しては格別の尊敬と感謝を捧げ、後継者と全信徒は常に開祖に対して、格別な思いを馳せるものなのです。(開祖の教えに承服できない弟子は、自ら辞去し独立の宗旨・宗派を起こしています。)したがって、弘法大師の高野山では、今なお毎日、開祖にお食事をささげ、天理教では、開祖のお座りになる場所を今なお(空席ですが)設けています。金光教では開祖の教え100%の継承を「金光教は、教組・金光大神が神伝によりて開創せられたる教義を奉じ・・・」とハッキリと文字で表現しております。

 これにくらべて、雅宣総裁先生だけが特異だと思います。生長の家=(イコール)開祖・谷口雅春先生ではない、雅春先生の為されたことでタブーとなっていたこともこれからは、検証していかなければならない、雅春先生も間違ったことを説かれていた、雅春先生の御著書でも現代にそぐわないものもある、と開祖先生を否定し、実質的な尊敬の念を持たれず、ご自分の左翼リベラル価値観の「今の教え」を開祖・谷口雅春先生の『御教え』だと新しい信徒が考える方向へ誘導(洗脳)を施されています。この様な「教え」の後継者は宗教界ではめったにお目に掛からない人ではありますまいか?


D. 「未生」殿が仰るように、<現在の教規では、総裁になるには法燈継承云々は、必要ない>のであるのに、なぜ雅宣総裁先生は「法燈継承」にことの他こだわられるのであろうか? 平成十五年度「生長の家教修会」における三大シンポジウムの大テーマのひとつとして「法燈継承」を位置づけ、三人の本部講師に研究発表させ(その原稿は事前提出で雅宣先生の三回にわたる内容チェック修正がなされた)、最後にまとめの講話をされ、結論的には、「自分は、平成二年の『副総裁就任の時』に「法燈継承」済み(ズミ)と全本部講師(全教化部長を含む)、全本部講師補の前で公認せしめられ、翌月の「聖使命新聞」で全信徒に報道されたのです。(しかし、この「法燈継承公認」行事は、雅宣先生の“自作自演劇”であったことは既述の通りなのです)。さらに、開祖である谷口雅春先生の御帰幽後の贈り名(法名)には,“大聖師”の文字が最初にあります。しかし、二代目の清超先生は“大聖師”は雅春先生お一人のみ、自分には付けないように言われていたにかかわらず、雅宣先生は、清超先生の遺志に反して“大聖師”と付けられました。(その裏には雅宣先生ご自身も、帰幽に際しては“大聖師”を願望されている事は皆さんの意見の一致するところです)。これ等の一連の事柄は何を意味しているのでしょうか?それは、雅宣先生の宗教家としての稀にみる権威主義・自己顕示・驕慢なる性(さが)の発現だと私は考えているのです。御謙遜であられた開祖の雅春先生とは対極的であると断言できます。


E. 生長の家の「信徒(信者)」とは、どのような人をいうのでしょうか?「未生」殿は、現教団発行の月刊誌の定期的購読者、聖使命会加入者という名簿登録者(組織会員)を「信徒(信者)」という、と定義されていると思います。とすると、「生命の實相」も月刊誌も読んでいない、教義の内容も少しも知らない、どちらかと云えば無信仰の名前だけの聖使命会員や出生前のお腹の赤ちゃん、乳幼児も聖使命会員名簿に登録されておれば信徒(信者)という矛盾が生じます。

 私の考える生長の家信徒(信者)とは、名簿登録などの組織会員だけではなく、生長の家開祖の谷口雅春先生の説かれた真理を学び信じ求道し、自己人生や毎日の生活に生かしている人達は皆、生長の家信徒(信者)だと考えています。現教団の組織会員に限定する考え方は間違いです。

だから、御貴殿が、<一求道者様は、当然、マサノブ氏に反対される立場ですから「破門」される立場であり、自ら、「生長の家」教団を潔く退かれ、現在は「生長の家」の信者ではない、生長の家教団とは無関係の立場の居られるかと思います。(たとえ過去はどうあれ)>と書かれている事はまちがっております。ハッキリと申し上げますが、「私は現在でも『生長の家』の信徒(信者)である」と堂々と公言しているのです。ただし、この場合の「生長の家」とは、開祖である谷口雅春先生の御創始された『御教え』を奉ずる「生長の家」であり、「非・生長の家 雅宣教」という現教団ではありません。

 さらに、御貴殿が間違っておられる重要な点に触れておかなければなりません。それは、<一求道者様は、当然、マサノブ氏に反対される立場ですから「破門」される立場>と書かれている部分でありますが、これは逆です。「破門」される立場にあるのは、マサノブ氏>なのです。私は、開祖である谷口雅春先生の『御教え』を入信当時から今年で四十八年間信奉し続けています。「破門」という言葉は一切当てはまらない事を明確に自信を持って申し上げます。逆に、御貴殿のいうマサノブ氏は師に当たる雅春先生の『御教え』に逆らって、雅春先生が御創始された教団に居座り続けているわけですから、マサノブ氏こそ「破門」なのです。このことが分からないで雅宣総裁先生を擁護する人は、現象唯物的思考力はあっても、形而上的な霊的思考能力なき人だと言わなければなりません。


F. 「未生」殿は、 <「生長の家」教団をどのような方向に持っていくのか、それを決めるのは、教団内部の人間であり、たとえ雅春先生のお立場や思想と違っていようとも、教団外の人間が、偉そうなことを主張するのは、「分」を超えた、越権行為です。>と書かれています。この考え方は生長の家教団が平時なら御尤もでありますが、今は異常時です。どこが以上かといえば、開祖の『御教え』が、三代目の雅宣総裁先生によって、換骨奪胎され骨抜きになり、細々とした信仰者グループは点在しても、人類社会に大きな良き影響を及ぼす『御教え』が地上から消えてしまう危険性が濃厚となりつつあり、雅春先生の「生長の家」教団が破綻から消滅に到る坂道を転げ落ちつつあるからです。

雅春先生の「生長の家」教団が破綻消滅してしまうことは、全人類の不幸であり、生長の家地上出現の使命を実現するという雅春先生のお志に反することであります。雅春先生に対する私たち信徒の最大の御恩報じは『御教え』の完全復活なのです。此処の所をシッカリと御認識いただかねばならないのです。


G. さらに、御貴殿は全くの意味の取り違いをされているところがあります。
それは、<「『御教え』に対して、疑問や不信を持った場合は、自らその教団から身を引き、外部で別の教団を起ち上げ独立するのが当たり前です。それが、宗教家の礼儀作法です。」 と指摘される点は、まったく御尤もで、「雅春先生を学ぶ」宗教団体の登録を、早くされることが賢明でしょう。別れた女房の愚痴をいつまでも言っていてもしょうがありません。>という部分です。この部分を誤解の無いように補足の言葉を入れて詳しく書き換えますと、――

< 開祖である谷口雅春先生の「『御教え』に対して、疑問や不信を持つ三代目・雅宣総裁先生は、自ら現教団から身を引き、外部で別の教団を起ち上げ独立するのが当たり前です。それが、宗教家の礼儀作法です。 財団法人「地球環境の家」の登録を、早くされることがこれ以上の好ましくない業を積まない為にも早く決断されるべきです。>

このように、私が使う『御教え』とは、開祖である谷口雅春先生の『御教え』であり、雅宣総裁先生の「今の教え」と明確に区別してつかっています。 


H. 最後に、御貴殿の今回のタイトルに書かれていた<法燈継承に「 面授 」は必要なし>について、申し上げます。
 
 私は、<現在の教規では、総裁になるには法燈継承云々は、必要ない>という御貴殿の解釈に対して、<総裁職の後継者>はいうまでもなく、極めて当然のこととして、「生長の家大神・住吉大神=開祖・谷口雅春先生=神示である『御教え』」この不可分にして一体なる、所謂「法燈」を100%信奉している人であるからこそ<総裁職の後継者>として総裁から選ばれたわけですから、“その通り”と申し上げました。しかし、この前提条件を充たす複数の総裁継承資格者がおられた場合は、その中からお一人の人を決定する場合には、先師の目から見て誰が最も「法燈」なる者を深く正しく悟られているかを見極められるわけです。これが、「面授」といわれるものであって、①真理の悟りの深さ、②総裁としての人格と品性、③組織統率能力についての見極めをされるのです。
このうち③は優秀な能力を持つ輔弼者の力を発揮させることで補えます。又、②についてはそのひとの日常の立ち居振る舞いや言行を観察すれば判断出来ます。しかし、①についての決定的判断は悟りの深さのテストによる判断が必要で、師と弟子の対座によるテスト方法が実施されます。

この狭義の「面授」の説明を、開祖である谷口雅春先生は、「無門関解釈」第23則「不思善悪」の公安解釈のお話の中で・・・

<< 禅宗五祖・弘忍禅師は、その法灯を七百人の弟子の最上席の「神秀」ではなく、米つき部屋の百姓出身の「慧能」に伝えた。その<面授>のいきさつは・・

  「神秀」の悟るところの一偈
    < 身は是れ菩提の樹 心は明鏡の台のごとし 
        時々勤めて払拭して 塵埃を惹からしむることなかれ >

  「慧能」の悟るところの一偈
    < 菩提は本、樹に非ず 明鏡も亦、台に非ず
         本来の無一物 何ぞ塵埃を払うを仮らん >

弘忍禅師、この慧能の偈をみて夜ひそかに米ゆき部屋を訪ね慧能に問いかくて曰く・・「米熟するや?」  慧能、答えて曰く・・・「米熟すること久し、なお篩を缺くことあり」、「よし!」と弘忍禅師は、杖をもって三回石臼を撃って「この時刻に吾が室に来たれ」と言うような目配せをして衣鉢(法灯)を慧能に伝えたのであった。これが、六祖・慧能大師であります。>> このように実例として説かれています。

故に、複数の次期総裁候補の中から一人の人に絞り込むためには、教規に明文化されていなくても師による「面授」のプロセスが為されるものである事を付け加えておきます。 再合掌



2012年07月19日 (木) 22時14分




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