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(1222) いま味わいたい・・「真理の言葉」 投稿者:   信ちゃん

『叡智の断片』14p――

清 寂 の 生 活

 道は絶対である。絶対には対立がない。

道に乗って生きるとは絶対無我の生活になり切ることである。

一切の対立がなくなることである。一切の対立がなくなるから一切に和解し、
一切を敬(とうと)び、一切が清まり、一切が寂である。これが茶道の清寂であり、
そのまま清まる日本の道である。対立する争いをもって生活するが如きは、日本の道ではなかったのである。

道は「寂」であり、動くものなくして動いており、その動くや必ず万物を生かすのである。

対立のなき動きは全機であり、無にして一切であり、○(ゼロ)であるから一切と調和するのである。それを大和(だいわ)の道と言う。構える心がないから、事を構えず、事を構えないから事が起らないのである。

構えることがなければそのままとなり、其のままは実相であり、実相は善ばかりであるから善きことのみが現われる。「私」のはからいがないから、全体の動きとピッタリと「一」である。全機である、全即一であり、一即全である。


 本常に明るいと云うのは、全然対立がない「無」になり、無構えになって、天地と一つにとけ合って「寂」となることによって自然に得られる明るさでなければならない。

真の明るさは構えた明るさではない。そのまま天地の明るさがあらわれたとき、真に明るくなり、立ち対(むか)うところが悉く明るくなる。――



「悪」に抗することなかれ

「悪に抗することなかれ」と云うキリストの教えは、生長の家の「汝等天地一切のものと和解せよ」の神示によって完成するのである。悪に抗して悪を一時排斥し得たとしても、それは「悪」の存在をみとめているがゆえに、それは存在するところの悪を抵抗によって一時遠ざけたに過ぎないのであるから、「悪」の存在が消えたのではないのである。それは一時締め出しても、亦あらわれる。

厳重な家庭に於ける制裁や処罰や威嚇による強制はこれである。何物に対しても和解せず、単に抵抗によってこれを退けんとする者は、結局、空しく抵抗して何物をも支配することは出来ないのである。其の支配は、天地一切のものと和解することによってのみ得られる。天地一切のものと和解するとき、天地一切のものは汝の味方であり、こちらを生かすためのみに働くからである。

「悪」を消滅する道は「悪」をみとめないことより始まる。闇をみとめながら闇を撲滅せんと欲しても、到底それは不可能のことである。

 如何に敵対する者も敵だと思わずに味方だと思って愛すればその情愛に感動して、敵と見えていたところの相手が味方にかわるのである。病気の症状に於いても此の事は真実である。

熱を敵だと思わずに、味方として愛すれば速かにその熱のために病菌は消滅してその病いは癒えるのである。疼痛、喀血、吐血、発疹、下痢、嘔吐――ことごとく敵だと思わず、治す働きだと――感謝して受けるとき、それは味方となって却って病いを撲滅し健康を回復してくれるのである。

凡そ「悪」よりして善徳は生ぜず、「悪」よりして生かす力は生じない。

「憎み」は悪であるから「悪」を憎むと云うことは結局は、「悪」に対するに「悪」をもってするに過ぎないのであるから、それは永久循環して再び「悪」は姿を顕わすのである。ただ「善」のみを認め、一切を「善」と信頼して感謝して受ける無抵抗のみが「悪」を消滅する力であるのである。

「悪」に抵抗するところの心境に於ては尚「自我」が滅していないのである。ただ相手の利己主義を遠ざけんがために、自己主義の利己を護らんとするに過ぎない。真に「悪」に無抵抗になるときにのみ、それは「自我」さえも滅し去って、ただ「神」のみ、「善」のみ、実相のみが現前するのである。

そのとき「真の自我」実相の自我、絶対自我が本当の姿をあらわして自由自在の境地に達するのである。




心で自分自身を神の子なりと尊敬して拝む

『古事記と日本国の世界的使命』18p――

 さてこの神は大神(おおみわ)神社としてお祭りしてある神様であります。『日本書紀』によりますと、大国主命(おおくにぬしのみこと)が『お前はどういう神様であるか』と訊かれますと、『私はお前の奇魂(くしみたま)である。我をよく斉(いつ)き祀れば国がよく治まり物事が成就するであろう』という意味のことを云われたということが書いてあるのであります。自分の奇魂をお祀りするというのは、自分の生命の實相(ほんとうのすがた)は神性仏性でありますから、その神性仏性をよく認めて、自分自身を拝む心になれという意味を現わしているのであります。

自分のみたまは奇魂(くしみたま)である、『奇し』というのは、奇しき、いぶかしき、霊々妙々なという意味で、人間の實相の魂は妙法そのものである。自分のうちに妙法そのもの法体そのものの仏性神性が宿っているのに、それに気付かずして、他から貰った付焼刃の力で、そんな少名毘古那の、小さい、指の股からでも漏れ出るような力でこの国を治めているという風なことでは、教えて貰える間はいいけれども、付焼刃ですからやがては漏れ出て駄目になってしまう。

自分の實相を悟り、自分の仏性神性が輝き出さなければならない、自分の魂を神として祀らなければならないというのであります。それで大国主命は自分の奇魂を大和の大神(おおみわ)神社へお祀りになったのであります。吾々は必ずしも自分自身の神性仏性をお宮を拵えてお宮に祀らなくても宜しいが、また祀っても宜しいが、吾々は自分自身の奇魂、實相の御魂というものを祀るが如く尊ばなければならぬ。

祀るというのは拝むことです。本当に自分自身の實相を拝んで自分自身の中に神様が宿っているのであるということを知って、自分は神の子仏の子である、決して不完全なものではない、立派なものであるということを信じて、自分の生命を礼拝する心にならねばなりません。生長の家の『七つの光明宣言』の第一箇条に『吾等は生命を礼拝し』とあるのはそれで、必ずしも掌を合わせて拝まなくとも、心で自分自身を神の子なりと尊敬して拝む、そうしますと自分の力が発揮されて、何事でもスラスラと事が運ぶのであります。



二十七日の経言――自己浄化の言葉

吾れはいま幽(かく)れたる霊的実在の世界に入(い)ったのである。吾れは今、『一切の根元なるもの』と接触しつつあるのである。眼に見ゆる世界のものは今扉の外に遂(お)い出したのである。

吾れはいま吾が存在の奥殿にとじこもっているのである。生命(せいめい)と愛と平和なる神は吾れを囲繞しているのである。神のうちに吾れは生き、呼吸し、存在しているのである。吾が吸う息はことごとく神の霊である。吾れは生命(せいめい)の水を思う儘飲みつつあるのである。純な聖(きよ)き愛の流は、吾が身体(からだ)の隅々まで貫いて流れているのである。此の愛の流は吾れより一切の不純、利己的思考、一切の弱点、一切の悪、一切の卑しさ、一切の罪を洗いきよめてくれつつあるのである。それは吾が肉体、吾が心の隅々からことごとくの吾が罪を流し去ったのである。

いま吾がうちには清浄と愛との他に何ものもないのである。神の生命(せいめい)の水が吾を充たしているのである。神の生命は、吾がうちに充ち溢れている。神の愛は吾がうちに満ち溢れている。神の平和は吾れを捉えてはなさない。恐怖、不安、及び神らしからぬ一切は吾が心身から逃れ去ってしまったのである。吾れは神の愛にみたされている。神は此処に坐(まし)ますのである。

神に感謝し奉る。


2012年07月18日 (水) 07時35分




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