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2011年11月06日 (日) 17時58分
宮本景子
ついに 此処まで来た。原宿教団
重大な情報です。
「 本流宣言 」より引用です。
雅宣教団が『生命の實相』を捨てると通達!
日時:2011年11月06日 (日) 12時32分
名前:北杜の剣
平成23年11月4日付の通達で、雅宣教団は、11月30日の判決の26日前というこの時期に、みずから敗訴を認め、しかも、ドサクサに紛れて『生命の實相』を捨てると宣言しました。その通達のポイント(と言っても、ほぼ全部)は次の通りです。
★ポイント1★
>>さて、財団法人生長の家社会事業団による(株)日本教文社
>>に対する一方的な出版契約解除通告により、誠に残念ながら
>>同社発行の聖経、『生命の實相』頭注版の一部に品切れが発生
>>する事態となっておりますことをご報告申し上げます。
このように書いて、雅宣総裁の指示によるトンデモナイ違法行為によって出版契約の解除に至った責任を、社会事業団に“一方的に”責任転嫁しています。途中から出版契約を勝手に無視して著作権表示を意図的に変更させ、著作権使用料(印税)の支払いをストップさせた契約違反の違法行為を自ら指示した責任が雅宣氏にあることは明白です。
★ポイント2★
●本年11月中に品切れとなる見込みリスト
『四部経』『ブック型 四部経』
『ブック型 日々読誦三十章経』
『生命の實相』頭注版第1巻・第3巻
●6ヵ月以内に品切れとなる見込みリスト
『携帯版 甘露の法雨』『手帳型 四部経』
『生命の實相』頭注版第10巻・第15巻
●1年ほどで品切れとなる見込みリスト
『生命の實相』頭注版第2巻、第4巻、第5巻、第6巻、
第7巻、第9巻、第11巻、第20巻、第39巻
●1年半から2年ほどで品切れとなる見込みリスト
『生命の實相』頭注版第12巻、第17巻、第18巻、第22巻、
第23巻、第28巻、第29巻、第34巻、第37巻
敗訴することがわかりきっているからこそ、品切れを予告していることは明白です。雅宣総裁は、ご自分の主張が社会的に絶対に通らないことを地裁判決で思い知らされたのです。もしも自分が正しいと信じているなら、「11月30日に決着しますから12月に入ったら配本します」とだけ連絡すれば済むのに、わざわざ2年先まで絶版予告をしているのは、ご自分の行為と主張が、高等裁判所はもちろん、最高裁判所でも認められる可能性の全くない、反社会的な違法行為であることを自ら告白していると言えます。
★ポイント3★
>>各位におかれましては、このような実情を踏まえ、練成会を
>>はじめ各種行事の開催に当たり、品切れの聖典はテキストに
>>用いないよう、ご配慮いただきたく、お願い申し上げます。
同じ裁判で教団側は
>>「生命の實相」を含む亡雅春の著作の出版その他の利用は、
>> 「生長の家」の布教活動の根幹であり、と主張しています。“根幹”とまで言うのが本当なら、教文社から出版できなくなっても別の出版社から出版されるなら、そちらの聖典を使うよう指示すべきです。それと矛盾する、このような「教文社で品切れの聖典を使うな」という指示は、『生命の實相』は布教活動の根幹、という裁判での主張自体がウソであると自白しているのと同じです。そしてドサクサに紛れて神殿たる『生命の實相』を捨てるという宣言にほかなりません。みなさん、そのうち、トンデモナイ別団体の本がテキストとして指定される可能性が......
★ポイント4★
>> 来る11月30日に知的財産高等裁判所で判決が下りる予定です。
>> この判決において当法人や(株)日本教文社の主張が認められた
>> 場合、(株)日本教文社では品切れおよび品切れが迫っている
>> 聖経、聖典について、順次、重版する予定でありますことを
>> 申し添えさせていただきます。
なんか哀れですね。敗訴を予想しているけど、大金を支払って有能な弁護士集団を雇っているから、万が一、勝訴するかもしれないという、かすかな望みを書いているのです。地裁判決を読めば、誰でもこんなデタラメな主張に裁判でお金を使うべきでないと判断するでしょう。もう、いい加減にしてほしいです。そして雅宣総裁は、裁判費用を教団に返金すべきです。
【ご参考:『生命の實相』第3巻・本文の冒頭より】
七つの燈台の点燈者の神示
わが第一の神殿は既に成れり。名付けて「生命の実相」という。完成(ななつ)の年になりてわが第一の神殿が完成するのも生命の顕現には周期的波動があるからである。七つが事物の顕現の周期律になっている。われに神殿は不要であると嘗(かつ)て示したことがあろう。われは道(ことば)であるから、わが道(ことば)を語るところに吾が神殿は築かれる。わが道(ことば)を載せた『生命の實相』こそわが神殿である。『生命の實相』はわが本体であり、無形の「生命の実相」を形にあらわしたのが『生命の實相』の本である。「言葉」を載せた書物を「本」と言うのも、「言葉」こそ事物の本(もと)であり、本質であり、本体であり、本物であるからである。「言葉の宇宙」が先ず出来て、「形の宇宙」がその映像(かげ)としてあらわれるのである。今迄の宇宙は、「言葉」が実相を語らず、不調和で濁っていたから、宇宙の万物の運行が乱れて生活苦や病気や、天災や戦争など不調和なことばかり起こったのである。『生命の實相』の本が出た以上は、言葉が実相を語り、善き円満な調和した言葉の「本(もと)」が調(ととの)うたのであるから今後何事も急転直下する。『生命の實相』を開くだけで病念は去り、煩悶は解決し、人々ただ自己の生命の実相(ほんとのすがた)を知り、歓喜踊躍(かんきようやく)して手の舞い足の踏む所を知らないに至る位はその三番叟に過ぎない。その歓びの相(すがた)こそ人間の生命の実相である。わが道(ことば)を「生命の実相」と呼ばしめ、それを本の形にして、披(ひら)いて読むものにさせたのも象徴的因縁あることである。『生命の實相』が展開(ひら)けば形の理想世界が成就するのである。今は過渡時代であるから、仮相(かりのすがた)の自壊作用として色々の出来事が突発する。日支の戦いはその序幕である。神が戦いをさせているのではない。迷いと迷いと相摶(あいう)って自壊するのだ。まだまだ烈しいことが今後起こるであろうともそれは迷いのケミカラィゼーションであるから生命の実相をしっかり握って神に委(まか)せているものは何も恐るる所はない。(昭和七年一月十一日神示)