私も十数年前からの講習会から、ずっとこの雅宣現総裁の講話における「実相観」に疑問をもっておるわけです。
現総裁の実相観は「いつか到来する理想への期待感=実相観」であります。
これは氏の芸術観にもあらわれております。
簡単に言いますと「現象の不完全に対する不満をいつか訪れる実相顕現の期待感で満足したような気になりなさい。」とおっしゃってる。
「子供は大人と比べて不完全であるが、いずれ「大人」という完成形になり無限力を発揮するから、その可能性を見ることが実相観だ。」
これは雅春先生がご推奨された「実相観」ではありません。
雅宣総裁の「実相」は「未来」という「時間」に縛られています。
「実相」とは「時間」というものに縛られる世界ではありませんから。「時間」に縛られるのはやはり「現象」です。
よって雅宣総裁の「実相観」は「現象観」にすぎないといわざるを得ないのです。
「環境」においても、「芸術」においても、「教育」においても、「国体」においても、やはり雅宣総裁は「現象観」で対処されようとしています。よくいえば「現象期待観」です。
それがどういう結果をまねくか、甘露の法雨で神は
『夢を追うて走るものは 永遠に神の国を建こと与わず。』
とはっきり仰っております。