「生かされている」ということを
強く感じた経験(宗教経験)を
持つ人は「人を生かす力もある」ようです。あの
服部仁郎先生もそうでした。
芸能人の「ピーコさん」もそんな経験を持つ一人だそうです。
ピーコさんは現在66歳です。ピーコさんは44歳の時に、左目にマリグナント・メラノーマ、悪性黒色腫が出来て、摘出手術を受けられたそうです。30万人に一人の病気だそうです。ピーコさんとちょうど同じ時に同じ病気で入院していた男性がいたそうですが、その方は2年後に亡くなったそうです。
それまで、自分が死ぬということをあまり考えたことがなかったそうですが、この時に初めて、命というのは限りがあるものだと実感したそうです。それまでは、自分一人の力で生きている気でいて、考えることといえば、楽しいこと、気持ちいいこと、おいしいもののことばかりだった。ところが目を摘出したら、いろんな人が手を差しのべててくれた。それは、家族であり、病院の先生であり、看護士さん、そしてたくさんの友人だった。永六輔さんは、ピーコさんに義眼をプレゼントしようと、お金を集めてくれたりしたそうです。
そうしたことが驚きで、自分一人で生きているんじゃなくて、いろんな人に助けられているんだ、そう気付いたときに、これからは、「自分のため」のことは、一番最後にしようと決めたそうです。
そう考えると、人は欲というものがなくなるんですね。あんなに好きだった宝石も、みんな友達にあげてしまったほどだったそうです。「人に良く思われたい」という気持ちもなくなり、そういうことにこだわっていたそれまでの自分がバカみたいに思えてきたから、とても不思議だったそうです。すぐに文句を言ってたのが、それもなくなった。そうするとみんなから「きれいになったね」と言われることが増えたんですね。「もしかしたら、内面が変わってそれが外に出てきたのかもしれない」、そう思ったそうです。
昨年、ある病院の看護専門学校の文化祭に招かれて講演をしたそうです。その後、一人の先生がやってきて、70歳くらいの肝臓ガンの末期のおばあちゃんの病室へ来てくれるよう乞われたそうです。最初は、乗り気でなかったのですが、行ってみた。その患者さんはピーコさんの大ファンで、講演をとても楽しみにしていたのですが、直前になって具合が悪くなり意識がなくなった。注射で一時、意識はもどったものの、講演を聞きに行く力はなく、また意識が混濁したそうです。。。
病室に行って、先生が「ピーコさんが来てくれましたよ」と言ってもしばらく意識不明。
そこで、ピーコさんが、「ピーコです。お見舞いに来ました」と言ったそうです。
すると、意識不明であったおばあちゃんが、なんと・・・
「えっ、ほんと!?」と叫んで、
起き上がったというのです。
まわりの方が補助して
助け起こすと「信じられない・・幸せです」と言ったそうです。
さっきまで意識のなかった人がですよ。
先生たちは「奇跡だ」というし、付き添っていた娘さんは泣いてしまわれたそうです。それで、ピーコさんは、私がこんなふうに役に立つのなら、呼ばれたらそこへ行ってお会いすることが、もしかしたら私の「役目」ではないかと思った。
同時に、「生きること」というのは、その「お役目」が何なのかということを探すことかもしれないと、このおばあさんとの出会いを通じて感じられたそうです。
「意識不明」のおばあちゃんが起き上がり、生き返るのですね。
今の生長の家には、この根本的な「宗教的いのち」が無いのではないでしょうか。
神様から頂いた「体験」軽んじる今の「原宿教団」。
だから益々神の功徳なく、「神癒」も「奇蹟」も起きないのです。
私の友人からのメールによると(先月の状況)、宇治別格本山など、いまだかつてないくらいに
練成会受講者がふえているというのに(今春は前年度に比べ、参加人数、
50パーセントアップだと聞きました。。)・・。
一方、「大自然賛歌」に見る調べは、誰が読んでも、
「悟り」のなさを暴露しているではないでしょうか。
「激怒」「失望して」1か月で1万人が
退会するはずです(戦後最大級の退会数)・・。
一体、何が違うのでしょうか・・。
かの 人間智 で書かれた「詩」を褒めるのは
その顔ぶれたるや「厚顔無恥」な節操のない人々のみです。情けない。