インターネットで下記のような「主張」を見つけました。
かなり、いい加減な文章です。
生長の家は「神一元」「光一元」「善一元」です。
「悪は無い、と説きながら、精神分析で自他を責め裁き、悪の存在を認める矛盾がある」「反省なき偽善者になるか、または罪人意識に把われてしまう」「現実的に無理がある」・・
これらは、あくまで ≪智慧があっても、愛なき時に≫裁く場合であり、「頭脳知」にとどまる場合であって、晩年、谷口雅春先生が・・・というのは「でたらめ」であると思われます。
今日のように、3代目総裁が「根本聖典」を全否定するような御時勢ですからこそ、信徒はしっかりと聖典を拝読して、「より信仰を深めて参りましょう。」
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「光明思想とはどういう意味なのか?」
≪某団体の生長の家否定論「現象あり」≫
「五井先生の光明思想は、生長の家の光明思想とどこが異なっているのか?」
このような質問を受けて、私は徹底的に五井先生の光明思想を解明しようと思い、研究しているうちに自然にこの本がまとまりました。
光明思想といいましても、光明思想という言葉を使っている人は、生長の家の教祖谷口雅春師と白光真宏会教祖五井昌久先生だけですから、その信者以外にはまだまだ一般には知られていない思想です。そのせいか、二教団の信者たちさえも、教祖の説かれた光明思想の真実の意味を知らずに、自分勝手に解釈している人が少なくないようです。
宗教指導者が光明思想の真実の意味を知らずに、自分勝手に浅く解釈してその思想を宣伝しておりますと、光明思想を普及させるつもりが、信者たちをとんでもない冷酷思想へと導いてしまうことにもなりかねません。ですから、光明思想の意味をよく理解しておく必要があるのです。
この本では、谷口雅春師の光明思想と五井先生の光明思想の違いが、五井先生によって徹底的に比較されております。五井先生は、谷口雅春師を光明思想の先駆者として尊敬し非常に讃えながらも、谷口雅春師の光明思想のどこに重大な欠陥があったのか、を冷静に指摘されていて、独自の新しい光明思想を発表されております。
従いまして光明思想といいましても、谷口雅春師の光明思想と五井先生の光明思想とは、全く異なる内容の思想である、とまず私たちは知らねばなりません。
五井先生は、生長の家の光明思想について、「悪は無い、と説きながら、精神分析で自他を責め裁き、悪の存在を認める矛盾がある」「反省なき偽善者になるか、または罪人意識に把われてしまう」「現実的に無理がある」とその欠陥を指摘して喝破しました。
生長の家の光明思想は、五井先生の教えられるように、確かに矛盾していると私も思うのです。ところが不可解なことに、業想念のなせることだと思いますが、矛盾を矛盾と気がつかない人々が案外に多いのです。谷口雅春師ご自身も晩年に至って、実はこの矛盾に気づいていたのですが、そのときにはもう訂正できなくなってしまったようです。
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