私は谷口雅春先生をないがしろにする今の教団の方針に疑問を感じ、組織会員を脱会した者です。ただ、光明思想社の編集方針にも同様に疑問を感じています。
新編『生命の實相』はなぜ40巻ではなく、65巻なのでしょうか。章立てを頭注版のものと変えるなど、もってのほかだと思います。これでは他の聖典の中で「『生命の實相』○巻○頁を参照のこと」と書かれていても、探し当てることができません。谷口雅春先生の講話テープでも、頭注版を使って説かれていますので、新編では参照することができません。
頭注版は、漢字であるべきところがひらがなになっているからオリジナルのものに近づけた、と聞きましたが、それに対しては愛蔵版がその役割に応えていたではないですか。
今の頭注版に注文をつける人も、振り返ればそれを読んで自分が救われたのではないですか。その頭注版にどれほど不自由・不満を感じていたのか、自分を振り返ってみて下さい。
新編『生命の實相』だけではありません。従来の「日めくり日訓」の意匠をそっくり真似した「光明日訓」は、どこかの国のコピー商品みたいで独自性は全くありません。一企業として恥ずかしい行為です。
谷口雅春先生のお召物布地を付けたという聖経も、本当にそんな趣味的なものが家庭の供養に必要なのですか。必要なのは、沢山の信徒に行き届く、安価で携帯にも便利な聖経ではないですか。
さらに著作権問題で争っていながら、『月刊誌「谷口雅春先生を学ぶ」』誌の、これまでの目に余る聖典からの無断転載の数々…。人のことは批判しても自分には甘いという了見は理解に苦しみます。生長の家社会事業団はなぜこういう出版社を相手にしているのか。もっとまっとうな出版社と取り引きして欲しい。
先の裁判により従来の聖経が末端信徒に行き届きにくくなった今、社会事業団は、日本教分社が担っていた役割を引き継いだはずです。一部の人たちの趣味的なものを作るのではなく、従来のものと同様な聖経や『生命の實相』を発行し、多くの人たちに真理を伝えていくことを、自らの使命であると自覚してほしい。