[生長の家今昔物語]より。
不眠症克服の秘訣(1)
(『神経の新医学』服部仁郎著・
P.218-226、昭和14年版)
人間必ずしも眠る必要はない
『四祖の道信は「祖風を継いでより心を摂して寝(い)ぬる事なし」とあるから、衣鉢を伝へられて以来、眠る事がなかったものらしい。
それでも別に神経衰弱で夭死(わかじに)したのではない。
彼は七十二歳でじ示寂(じじゃく)したのである。
私が不眠症の人に示して必ず治る秘訣がある。
それは不眠の人に、ロンドンで四十数年間一時間の睡眠もとらないで健康状態で続いて来、最近七十四歳の長命で亡くなったと云う実話である。
この話が或る新聞に報じられると、ウィーンでは「私は二十何年間一睡もしないで活動を続けている。眠る必要がなくなったので仕事をしないと退屈で仕方がないので一日二十四時間としての時間割を作って仕事をしている」と云って発表した人があったと云うことである。
それから文士の倉田百三氏が約一年間不眠が継続していて、その揚句(あげく)の果てに廓然(からり)と悟ると十数年間の全身結核がケロリと治って、夏は水泳までも自由に出来るようになったと云う実話である。
こんな話をしているうちに「人間かならずしも眠る必要はない」と云う観念を得、不眠に対する恐怖が消える。
するとその晩から大抵その人はグゥグゥ眠るようになるのである。不眠症――実は不眠恐怖症に過ぎなかったからである。』
これは、昭和十四年七月号の『生長の家』誌の『慶びの花束日記』に谷口(雅春)先生がお書きになった一節でありますが、神経衰弱で夜眠られないと云う人は、この一節を味読されれば、これだけで充分治るものなのであります。
さて、谷口(雅春)先生は、『不眠症――実は不眠恐怖症に過ぎなかったからである』と被仰っていますが、誠にもその通りで、不眠症もひとつの強迫観念に過ぎないのであります。
それはどう云う強迫観念かと云うと、睡眠が不足すると健康に悪いと云う観念が心の底にあるので、睡眠の不足を無闇に恐怖し、嫌悪する。
すると恐るるもの皆来るの心の法則によって、その恐怖するところの睡眠不足が不眠症になって顕われて来るのであります。
ところが事実は、人間の健康は決して睡眠に支配されるものではないのであります。
ロンドンで四十年間一時間の睡眠もとらないで健康状態で続いて来、最近七十四歳の長命で亡くなったと云う実話、二十何年一睡もしないで活動を続けたと云うことは、その間の消息を最も雄弁に物語っているわけであります。
一体睡眠と云うことは、眠ろうとか、眠るまいとか、眠られなかったら困る、と云うような、所謂、心の力みを放してしまった時、起こる現象でありますが、これが不眠症となると眠ろうとする心の努力はたいしたものであります。
心が努力することは、それだけ生命を使っているわけであります。
ところが、一般の常識と生長の家の真理には、ここにひとつの大きな開きがあるのであります。
一般の常識では、人間の生命を、いつの場合でも一定の時間なり、質なり、量に限って観る癖があるのであります。
それで生命も、使うと消耗するものだと云う観念が出来あがるのであります。
しかし生命の本質は決して、限られたものではない、神から無限に与えられているのでありますから、使えば使うほど、次から次ぎへと新しい生命が湧いて来るのであります。
だから前にも既に云いましたが、
生長の家では『生命は使へば使うほどふえる』と云う標語を健康増進のために使っているのであります。
それで、不眠症のばあい、『眠ろう』と努力することは、心を使い、生命を働かせているのですから、次々に生命が湧いて来て、決して健康には影響しないのであります。
ただ、その生命の使い方が妥当でない、自然でない、律に適っていないから、心の中に闘いが起こり、頭が濁ったり、気持が苛立ったりして、そこに病的現象がおこるのであります。
若し、これが神の心に叶った、正しい心の使い方、生命の働かし方でしたら、心に他から邪魔者が入らないから、健康状態は益々良好になってくるのであります。
ともあれ、不眠症の人は、考えても考えてもあとからあとからと考えが湧き出して来るのですから、神経衰弱どころか非常に精力的で、生命力が旺盛なわけでありますから、意を安んじていいし、ただ、その生命力を、如何に振り向けるのが有益に順用することになるかと云うことが問題になってくるのみであります。
効果的な不眠克服法
それで先ず眠ろうとする努力を根本から棄ててしまうこと。
『眠っても眠らなくとも人間は疲れない。
眠らないのは生命力が旺盛な証拠であるから有難いことだ。
眠らない間に本でも読もう』
こういう風な心持になって、床の中にいて『生命の實相』でも読めば自然に眠られて来るのであります。
又、就寝前に、神想観を行ずること。これは安らかな睡眠を得るには最もいい方法であります。
それは、或る意味に於いて魂の入浴のようなものであります。
神想観と云うのは、要するに自分の心の波長が神の波長と一致することでありますが、それによって、心の底にあるところの、睡眠をさまたげるような観念は、知らず識らずのうちに、摧破(さいは)されてゆくのであります。
特に就寝前に『自分は誤って犯せる全ての人の罪を赦(ゆる)したから、すべての人からも赦されているのである』と繰り返し念じて、一切を赦す心になって眠ると速やかに眠りに入る得るのであります。
又、谷口先生の長詩『甘露の法雨』を黙読、又は目誦(もくしょう)することも非常にいい方法であります。
それはただ気分や心の転換と云った意味以上の功徳があるのであります。
なぜならば、心と云うものは波動(コトバ)によって出来ているものでありますから、『甘露の法雨』のように、絶対真理のコトバの波が自らの魂に響きわたることは、それだけ心が浄められ落ち着いて来、他から放送されて来る逆念などは、この真理の鳴り出づるコトバの力によって、すべて消殺(しょうさい)されてしまうことになるのであります。
ただ、その消殺作用が潜在意識の裡(うち)でおこなわれる場合には、その間の微妙な過程が、吾々の客観的意識には不明なためにその功徳が奇跡的だと思われるのでありまして、潜在意識に真理の言葉が印象され、心が平和の極に達しますと、生理作用も落ち付いてくる」、
これが『甘露の法雨』読誦の効果の内面的機構だと思えば間違いはないのです。
更に、眠れないのは、昼間に働かなかった、従ってあまり疲れていないから眠る必要がないので眠りを催さぬのを、不眠症だと錯覚していることがあります。
不眠症の人のうちで昼間働いていない人は、昼間筋肉運動を必要とする仕事をなさいますとよく眠れます。
就寝直前の激しい筋肉運動は興奮させることがあります。
兎も角、眠れない時『眠らぬといかぬ』と云う観念を棄てることが必要で、眠れぬのは神さまの何かのはからいで『ありがとうございます』とそのまま受ける心になることが必要であります。
次に、『生命の實相』を読んだり、その他生長の家の著書に親しんで、不眠症を克服された方の感謝状の一部を『實相体験集成』から再録し、
なお、その次に生長の家の真理によって、脊髄瘻(せきずいろう)が奇跡的に治ったことによって有名になられた巽忠蔵氏が、曽(かつ)て深刻な不眠症になやまされた体験記を寄せられましたので、その体験記の中から真理を汲みとってみたいと思います。