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(432) 生長の家信徒たちよ。今こそ、久遠常住の「今」を生きよ。 投稿者:真理学習資料担当(神島 )

生長の家本部から、「神癒」の文字が削除され、
「祈願指導課」という頼りない名前になったと、
後輩から聴きました。私は昔の人間ですから、
大きな事は言えませんが、

どうも最近は「先達」の思いを
「忘却」しておるようであります。

お世話になった恩師の御文章を御紹介致します。

服部仁郎本部講師(御神像製作者・
           生長の家本部初代神癒祈願部長)

現代に於いては正しい宗教、正しい科学が把握されなければならないと思うのであります。私が小学校時代に先生から聞いた話にこんなことがありました。

 或る神主さんのところへ伺いを立てて貰いに行ったところが、立ててある御幣がカサカサゆれだした。神主さんは早速これは神様が降りて来られたのだと云ったが、折から強風がさっと吹いて、その御幣が倒れてしまった。すると御幣の根本からどじょうが一匹跳び出した。このようにして信仰はインチキなもので一種の迷信であると話してくれたことを覚えておりますが、世の中には、病人が信仰に入っていて寿命で死んだ場合、あれは迷信をやっていたからと一概に片付けてしまいます。

 然しこの筆法をもってするならば、医師にかかって色々の特効薬を使用しながらも遂に死ぬ人は、その医者と薬が悉くインチキであったと云わねばならない。然し、世間は斯くの如くには判断しないで、不断人事を尽すも薬石効なくして死んだと云います。しかし死と云うことは天寿であります、死ぬことは科学に結びつけても又、宗教に結びつけてもそれは迷信になります。『いのち』のことは神様に全托しなければならない問題であるのであります。



 私達は、自分と云うものが如何なるものであるかを考えてみなければならないのである。これは私の洋服、これは私の身体であると云うのです。そう致しますと自分と称する此の肉体は自分の意思表示をする道具即ち心の持ちものであります。

 これは神を母胎として神の心をいただいて生まれている事実から先発するのであります。そのいのちは「甘露の法雨」に示されております通りに、宇宙に遍在しているのであって、その神のいのち ―― 神の心が一人一人の使命を果すため念(こころ)を通して自己を現象世界に時間空間の制約をもって、肉体と称する自分を現しています。

 でありますから現象の五官では念体だと云うことが出来るのであります。そして現象世界には法則と云うものが因果くらまさずと申す様に厳然として行われて居ります。

 科学に科学の法則がある様に、宗教的に申しますと因縁因果という法則にあてはまり、これを釈迦は三界は唯心の所現といい、生長の家ではこれを心の法則と申すのであります。


 この世が神の造り給うた世界であるならば何故不完全な病気や不幸が存在するかと云うのでありますが、本来そのようなものは存在しないのでありますが、この世は念(こころ)の投影する世界であって、肉体を実在だと思い物質が存在していると信じ、物質に執着し、肉体に執着するとき、それは不幸となって現れ、病気となって現れてくるのであって、従ってこの世界の暗黒的現象は神の責任ではないことが理解されるのであります。


 さて、悟りとは何か、神に造られた自分とは「心」であると物質より「心」の方にふり向くのです。この様に正念を以て實相を観るのであります。念(こころ)が本物の正しい念になる時妄念が消え、一切の不幸、病気等が消えてゆくのであります。

 悟ることによって病気や不幸が消えるので、生長の家は医者にかかるな薬をのむなと云うのではない。悟ることによって病気にならないのであります。病気の場合お医者にかかり、薬を飲んだら科学の法則として薬は効くのであります。それでなければ科学の法則は成立(なりた)たないので、生長の家は科学を認めないのではないのであります。

 尤も熱は病気を癒すために出るのでありますから症状は病気其のものではないのであります。医師は、肺炎やチブスには投薬によって熱を下げないのです。つまり薬を服むというのはお酒を飲んで酔うのと同じであり、お酒の効いている間は酔っているのと同じように薬が効いている。その間だけその反応があるということになり、結局病気が癒るためには『いのち』が働かなければならないという事になるのであります。

 宗教は『いのち』の自覚であります。そのいのちを医者がくれると思うことは科学迷信であります。


 世間には往々神社宗教というものがあります。それは神様とは神社にお祀りしてあるものであり、仏とは伽藍の中に在(いま)すと思っている考えであります。そうしてお供物をあげ、手を合わせる人を、信仰深い人であると云います。


 それは宗教の行事でありまして、宗教の全てではないので、それを宗教の全ての如く思うと一種の偶像崇拝であり、迷信に陥り易いのであります。ですから神社や伽藍はラジオのアンテナを張ったり、受信機を造ったりするのと同じことであり、合掌をしたり、お供物をあげたりするのは波長を神に合わしているのであって、その後は神様の放送などとても忙しくて聞いて居られないという風になってしまうので、それではいけないのであります。

 つまり、宗教は即生活という風に神仏のみ心そのままの生活にならなければならないのであります。
    

 既成宗教は因縁因果を説いて一向人々から因縁因果を離脱さて居ない。と云うよりは因縁因果を説き、その業縁を掴ませ、因縁を離脱するには供物を捧げ献金し寺に詣で宮を拝する事を宗教の如くに説き、宗教とは如何なるものであるかを真に説き得て居るものが少ないと思われるのであります。

 寺に詣で宮を拝するのは宗教の儀式行事であって、それは一つの信仰であるが、宗教の全てではない。それを全ての如く思うのは本当の正しい信仰ではない。何処に居ても神と倶だと神仏を拝み得るのが本当の信仰である。

 因縁因果応報とは心の法則でありまして、心の法則は現象の法であります。世人はややもすれば因果と申しますと悪い事のみに解しますが、善因善果であり、悪因悪果であります。生長の家では悪因悪果はない、善因善果のみあると説くのであります。一言にして申しますと、現象はわが心の思いに対する答えであります。


 この様に考えていました時、私の心に光のように『今』と云うのが浮んで来ました。一切の因縁離脱は此の「今」にあるのだ、此の今とは無始無終で久遠常住の「今」であります。宇宙と一体であると云うところの「今」であったのであります。神のいのちのみの世界であり現象本来なし、もともとない現象があるかの如き形を現わすのが時間、空間の制約を以って現象となって表現されて来るのである。時間が働く時必ずそれは過去になるのであります。

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2011年12月24日 (土) 08時21分




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