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(343) ジェンダフリー!? 「生長の家は、ここまできた。」 投稿者:大阪将軍







●●●●は、先日の奈良の講習会でも、一生懸命「心の法則」因果の法則を語られていましたよ。何処の宗教でも説いていますがね・・・ま、世間話や「小閑の雑感」だけを話されるよりはましですけれどね。「私たちの時間もお金も尊いですから・・。お金を払ってまで、あまりにひどい時間つぶしには、付き合いきれません。」

しいて言えば、生長の家しか説いていない「實相独在」「天皇絶対」を語っていただきたいものです。


御参考までに、「本流宣言」への投稿から引用致します。

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男からお願いします。
   「御教えにかえれ」

日時:2011年12月12日 (月) 19時37分

       名前:み教え一筋

下に引用した文章は、宗教に関わっている人が最近お書きになった文章です。書いた人は「男」か「女」か、どちらでしょうか。

「文章の内容」からではなく、「文体」から答を見つけていただきたいと思います。
下の引用文のあとで、正解とお書きになった方への私からのお願いを申しあげます。


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ドイツで開催される生長の家の※国際教修会のため、この国に関する本をいろいろ読んだ。今回新しく買ったものもあるが、以前に買って一度読んだ本を、改めて読み返したのもある。

日本人とドイツ人は、似ているところがあると言われることもあるが、読後の感想では、生きる姿勢がだいぶ違うように思った。

これは、あくまでも私の個人的な感想である。ドイツ社会は左脳的であり、父性的だと思った。それに比べて日本社会は右脳的であり、母性的であると感じる。もちろん、どちらの国も両方の性質を兼ね備えているが、どちらが勝るかといえば、そのように思える。

私が言う「父性的」の意味は、どうすれば望むような結果が得られるかということをじっくり考えて、物事のルールをはっきり示し、それを守る社会を作ろうとすることだ。

それに比べ「母性的」とは、決まりはあっても一貫性がなく、その結果も十分に考えられていないから、良い結果が得られることもあるが、悪い場合もあり、不安定である。しかしその分、社会に融通が利く〝余白〟のようなものがあり、それが優しさとして感じられる。



ドイツ中南部の都市、フランクフルトの街を歩いていて、驚いたことがある。街路樹や公園、個人住宅の庭にある木が、大きいことだ。日本では、神社の境内などに大きな木が残っていることはあるが、街路樹などは毎年伐(き)られ、個人の家庭にも小さい木が多い。

それに比べ、この街では枝振りのいい数十メートルの高さの木が、街路樹としてだけでなく、住宅地の通りにも庭にも、それこそ文字通り〝林立〟しているのである。「無暗(むやみ)に木を伐らない」というのが、当地の人々の信条だと感じた。

この土地の人の話によると、市当局が行政上の埋由等で木を伐ろうとすると、国政にも影響力がある緑の党や環境保護団体の人たちが、木にしがみついて切らせないそうだ。ドイツ人には、「樹木」というものに対して相当強い愛着があることがうかがえる。



この話を聞いて私が思い出したのは、自分が住む東京の街路樹のことだ。東京・原宿の自宅から徒歩五、六分のところに、通称「青山通り」という片道四車線の広い国道がある。

この道の並木は、少し前まではマロニエ(セイヨウトチノキ)で、かなり大きく育っていた。それが突然伐られてしまって、今はひょろひょろとした幼木のケヤキになってしまった。木が伐られる前には、沿道の何カ所かに立札がされ、「ケヤキに植え替えることを理解してほしい」という内容が書かれてあったと思う。

が、それにしても、なおざりなやり方だと感じた。この大通りにつながる原宿・表参道は、立派なケヤキ並木で有名だ。それが街の特徴となり、多くの人が訪れる魅力的な通りになっている。



北海道の旭川市にも、立派な並木通りがある。去年の秋の紅葉の頃、空港から市内に向かう車窓から眺めて、素晴らしい道だと思った。大きな木があるだけで、その周囲一帯の景観が良くなる。新緑、紅葉、落葉を通じて、自然が身近に感じられるのである。そういう樹木がもたらす環境は、私たち人間にとってどんな人工の建物もおよばない魅力があるのである。

だから、青山通りのマロニエの大木が伐られる際、ドイツの人たちのように抗議しなかった自分が悔やまれた。もちろん、木にしがみつくようなことはしない。

が、木を守るために何らかの行動ができたはずである。公共のことに対して、余程のことがない限り反対しようとしない自分の"母性的"基準を残念に思ったのである。



最近東京都は、東京を緑の街にしようというので、木の〝オーナー〟を募集しているという。いくらかのお金を出すことによって、その人の名前がついた木が植えられるというのである。

マロニエの大樹をバサバサと伐っておきながら、都民にお金を出させて〝緑の街〟づくりとは、何と首尾一貫しない政策だろうか、と苦々しく思う。

都の担当者に聞けば、それなりの理由を並べるとは思うが、時流や流行に左右されて、町づくりの基本方針が簡単に変えられることが問題なのである。

また、そんな政策が許されるのは、行政の矛盾に抗議しない私自身の姿勢にも問題がある。ドイツの街々に林立する大樹を見上げながら、私はそう思った。

「木を大切にしよう」「街路樹を育てよう」――そういう確固とした信念があれば、それが街づくりにも反映されて、無暗に木を伐り、また植え替えるというような愚策とはならない。植樹というものは、時流を超えて百年単位で考えなくてはならないものだ。



私の家の前の通りは、「明治通り」と呼ばれる。その街路樹は、毎年夏の終わりにバッサリと剪定(せんてい)される。秋になって落ち葉が通りを埋め、掃除に人手がかかるのを防ぐためだろう。伐られた後の木は、幹だけが残って無残な姿である。

木が大きく茂れば、それだけ酸素を出して、二酸化炭素を吸収してくれる。また、夏には日影を作って、日本の蒸し暑い夏に小さなオアシスを作ってくれる。落ち葉は集めて堆肥(たいひ)にしたり、バイオ燃料にもなる。それらを求める人々も増えているはずなのに、全体を考えた一貫性のある制度を作ろうとしない。こうして効率性、経済性だけを尺度とした行政が続く。

しかし長い目で見れば、無暗に木を伐る方が社会全体にコストがかかるのである。ヒートアイランド現象が深刻化し、気候変動が激化する。だから、目先の効率ではなくて、人間や自然環境のために本当に何が大切かを考えて、一貫性をもって物事を進めなくてはならない。



フランクフルトで巨樹を見上げながら、樹木と人間とは利害が対立するものではなく、本来一体であるという考えを多くの人が理解することが今、最も大切だと強く感じた。



※ 今年8月30日~31日にドイツ・フランクフルトで開かれた「世界平和のための生長の家  国際教修会」のこと。教修会とは、生長の家総裁が、講師、役員を対象に教義の徹底を はかるための集まり


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上のご文章は、『白鳩』誌No.20(2011.11.15発行)に掲載された谷口純子先生の、「日々わくわく……フランクフルトの巨樹を見上げて」というご文章です。


なぜ、宗教に関わっている人の文章なのに、「神」「仏」が一度もなく、「悟り」も「信仰」も「罪」もないのでしょうか。

「神」は本文の中で、「日本では神社の境内に木が残っている」のみ。「仏・悟り・信仰罪」は全くナシ。ついでに「明」は「明治通り」のみ。

「生長の家」の御教えの真髄である「物質なし・肉体なし」はナシ。だから「環境も自然も本来神の現れ」なし。あるのは「物質の環境・自然」だけ。

私はたまたま数ヶ月前に拝読した同誌の純子先生のご文章の中に「神・仏」が一度も出ていないのを不思議に思っていましたが、それは偶然ではなく先生の意志の結果なのですね。

白鳩会員である私の家内は平然と、
「『白鳩』は体験談と雅春・清超両先生の文章だけを読んでいる。私は良い所どりなのよ。」と言っています。

純子先生は信徒を馬鹿にしておられるのでしょうか。
もしも、「いや、そうではない。」とおっしゃるのならば、「生長の家」の御教えの神髄をお説きになってください。



上の御文章は男の文章か女の文章か……私はジェ○ダー・フリーの女性学者がまじめな顔をして文章を書いている姿を連想しました。

 「~である。」「~だ。」の多用。
 「~と思った。」「~感じられる。」という、厳粛だが余韻を立ちきる表現の多用。これは学者的です。
 「~と苦々しく思う。」「進めなくてはならない。」になると、渋面の男性学者。
  女性らしさを感じさせる「~です・ます。」「~なのではないでしょうか。」は
  一度も使われていません。



一方、輝子先生の文章は女性的な柔らかさを感じさせる文章だが、「強さ」を感じさせる文章、つまり「女性の強さ」を感じさせる文章でした。たとえば、「女(おみな)といえども~」という輝子先生のお言葉。

純子先生はこの御言葉そのものを「女性蔑視」として退けなさるのかもしれません。

それならばそれで結構ですが、女が男の文体に近づく(あるいは真似る)だけでは、男女の個性を、特に女性の個性を女性みづからが否定・抹殺するだけの事ではないでしょうか。



女(女性)の文章ならば、女性らしい柔らかみのある文章をお願いします。
谷口純子先生は「個性」を嫌っておられるのではないはずです。女性が男のような文章を書いてくださると、男は男らしい文章の書きようがないではないですか。既に私の文体の方が純子先生の文体よりも「女性的」になってしまいました。


ぜひぜひ私をはじめとする世の男をオ○マさんにしないような御配慮を。これで最後に困るのは若い白鳩たちなのですよ。





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私もそう思う

日時:2011年12月12日 (月) 20時14分

           名前:そうですか

あの女は化粧して女の顔のようだが、素顔は男のような気がする。
言いたい放題しゃべらせたら、男言葉だろう。
だから講習会では、あんなに台詞をしゃべるように話す。


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「そうですか」さんは、おそらく≪信徒ではないのでしょうし≫、少し言いすぎだと思いますが、それでもそのように言われたり、指摘されないような御発言、執筆をお願いしたいものです。

それにしても、「生長の家」もここまで、来たのですか。もう、谷口雅春先生や、先哲が積み上げた「徳」はすべて、使い果たしたかもしれませんね。衰退する既成宗教の姿に、極めて似ています。

その分、信徒たちがしっかりと≪そうですか≫さんのような部外者に、小馬鹿にされたり、侮辱されないような気高く凛とした「信仰者」になりたいものです。

やはり、先人がいのちをかけた「大東亜戦争」を、「侵略」と卑下しているうちは、
どのような擁護も無駄かもしれません。

そのように自国を貶(おとし)める行為自体「北朝鮮の工作員の活動」のようなものですからね。


2011年12月12日 (月) 20時37分




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