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愛国復活・掲示板

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(264) 《雅宣総裁へ》1月末の聖典裁判後に<独立分派が続出しても>いいのですか!? 投稿者:  苦言を呈す67歳

昔、40年も前に、元生長の家地方講師だった五井昌久講師が独立して「白光真宏会」という宗教団体を立ち上げ独立しました。

その教義は「現象あり」というもの・・・・。笑ってしまいますが、それでも2万人が
信徒になったというのですから驚きです。


最近知ったのですが、「唯一会」という分派がウエッブ上で立ち上げ。100人ほどの信者がいるそうです。道場も教化部もなく、インターネットと集会のみで運営している変わり種の宗教団体です。


谷口雅宣総裁へ。

このまま「左翼路線」を進み、生長の家解体をすすめるならば、来年1月末の「聖典裁判」以降、続々とこのような、「反雅宣総裁派」による分派が多数できるのではないですか。世界救世教の3大分裂どころではありません。

生長の家は、他教団よりも教祖になれるようなカリスマ性や宗教的高みのある講師が多いのは他教団から見ても一目瞭然です(講師が1万人以上いるのですから層が厚いのも当然ですね)。谷口雅宣総裁。いち早く、愛国路線に復帰し、「谷口雅春先生」の新刊を出して下さい。お願致します。参考にウエッブ上で開いた教団のレベルを御覧下さい。雅宣先生は笑えないはずです。

   (現象ありの教義)
    
      http://www.yuiitsukai.org/kyougi/kyougi_main.html 
  
   (団体の概要)
        
      http://www.yuiitsukai.org/gaiyou/gaiyou_main.html


「生長の家を学んでいる信徒さん」が普通にこの教義を見たら笑ってしまうでしょう。このような「現象あり」というレベルの低い教えでも100人クラスの人間が集まるのです。まして、月1000人クラスの人間が退会する生長の家・・この現状はあまりと言えばあまりです・・・・。





2011年12月04日 (日) 19時49分


(266) 総裁先生 お読みになられましたか・・。 投稿者:   iiko



1日9時間インターネットをされている谷口雅宣総裁は、
必ず影響力の大きいこの掲示板を見ているはずです。



2011年12月04日 (日) 21時14分


(274) 白光真宏会について 投稿者:通りすがりの者です。

『教義』
<人間と真実の生き方>
人間は本来、神の分霊であって、業生ではなく、つねに守護霊、守護神によって守られているものである。
この世のなかのすべての苦悩は、人間の過去世から現在にいたる誤てる想念が、その運命と現われて消えてゆく時に起る姿である。
いかなる苦悩といえど現われれば必ず消えるものであるから、消え去るのであるという強い信念と、今からよくなるのであるという善念を起し、どんな困難のなかにあっても、自分を赦し人を赦し、自分を愛し人を愛す、愛と真と赦しの言行をなしつづけてゆくとともに、守護霊、守護神への感謝の心をつねに想い、世界平和の祈りを祈りつづけてゆけば、個人も人類も(しん)真の救いを体得出来るものである。

<世界平和の祈り>
世界平和の祈りは、いつでも、どこでも、誰でも祈ることが出来ます。この祈りを祈ることによって、個人的苦悩も、いつの間にか、世界平和という大目的の中に昇華されてゆきます。この祈りは、個人の幸せと世界の平和を同時に成就させる大きな働きをします。

世界人類が平和でありますように
日本(にっぽん)が平和でありますように
私達(わたくしたち)の天命が完(まっと)うされますように
守護霊(しゅごれい)様ありがとうございます
守護神(しゅごじん)様ありがとうございます

この祈りは、五井先生と神界との約束事で、この祈りをするところに必ず救世の大光明が輝き、自分が救われるとともに、世界人類の光明化、大調和に絶大なる力を発揮するのです。
守護霊、守護神とは、常に私たちの背後にあって、私たちを専属的に守護し、運命の修正に尽力している神霊です。

<白光真宏会とは>

目的
個人の平安と世界平和の実現

白光(びゃっこう)とは、澄み清まった光、人間の高い境地から発する光をいいます。ホワイトスピリット、すなわち高級神霊の光です。
本会は、この光を自己のものとして働く菩薩心そのものの人間をたくさん育て、その光を真に宏大(こうだい)にして、人類を正しい方向に導くという目的で設立されました。
本会の教えの特徴は、自分が救われながら、同時に世界人類の平和のためにも貢献できる、というところにあります。


2011年12月05日 (月) 15時28分


(275) 「現象はある」という教義。御参考までに。 投稿者:   いいだりんこ





[現象あり]の教義です。

 他宗の誹謗はよくないのであえて申しませんが・・
 たいへん参考になりますね。<笑>



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「中庸実相一元論」

~矛盾した二元論~

 教義の特長を一言で申しますと、
「中庸実相一元論」と言えます。

 宗教には、「人間は神の子であって完全円満である。悪や病気や不幸は無い」という実相論と、「善因善果、悪因悪果。思った通りになる世界」という想念の法則論(現象論)の二つの教えがありますが、この二つの教えは、まったく異なった原理に基づく教えなのであります。

 なぜかと申しますと、前者は、「人間は神の子」として認めるのに対して、後者は「人間は不完全な罪の子」という前提の上に成り立つ教えであるからです。
ですから、この二つの教えを同時に説きますと、そのお話は矛盾対立した二元論になってしまうのです。

 実相完全論を説くならば、徹底して、それのみを説くべきであり、「想念の法則は、真理の法則、宇宙の法則、絶対の法則である」と説いて、人の悪や欠点をあばくような教えをしては、人間を天国へと連れて行きながら、その同じ宗教が、今度は地獄へ叩き落としてしまうことになるのです。

 その矛盾に気づいた五井先生は、自他を責め裁く原因となる恐るべき「想念の法則論」(心の法則論)を捨て去り、明るく生きられる「実相論」だけの一元論に修正したのです。

 次の段階として知らなくてはならないことは、今までの実相論が、未成熟で不完全な実相論であった、という事実です。現実を無視した、理想に片寄った旧実相論では、どうしても偽善者となり、無理な生き方となってしまうのです。 

~旧実相論の欠陥例~

(1)偽善の業が厚くなる。

 たとえば、「病気は無い」と口先で真理を言っても、実際に自分が風邪をひいたりしますと、病気でないふりをしなければならず、風邪をひいたことを、人に正直に言えなくなります。

「誰をも神の子として拝みなさい」と言ったら、その手前、内心では嫌いな人に対しても、嫌いでない顔をしていなくてはなりません。

「どんな人をも神と宣言して拝みなさい」と教えている宗教団体の教祖や幹部職員ですら、自身はそれを実行できずに、人の悪口を言っているのです。道場の中だけで形式的にやっても、日常生活の中でできなければ、なんの価値もありません。それでは、そうした説教は、自身を偉く見せかけるためだけの虚栄行為にしかすぎません。

 汚い物は、実相には無いのですから、汚い物を見ても汚い物の存在を認めることはできません。路上の乞食を見ても、「美しい」と言わなくてはなりません。そうした行為をしておりますと、偽善的な嫌らしい匂いがただよってくるのです。虚栄行為、偽善行為は業想念なのですから、いつまでたっても、本心が現われてくることはありません。

(2)正直な人は心苦しくなる。

「完全な神の子にできないことは無い」のですから、できそうもないことも「私にはできない」とは言えなくなり ます。正直に自分の思ったことを言えない、現実をありのままに言えない、というのは、非常な心の苦しみとなります。

 現実を無視した神の子観は、なまじ神の子観を知ったがため、かえって人間を不自由な、嘘いつわりの多い、苦しみの底に突き落としてしまうのです。 不正直な人は、ますます偽善の皮を厚くしてゆくのに対して、自分に正直な人は、無理にかかとを上げて、背伸びをしているように疲れ果ててしまうのです。

(3)人に冷酷な感じを与える。

 他人に対しても、横たわっている病人に向かって「病気などというものは無いのだ」「あなたが、『病気はある』と思っているから、病気が治らないのだ。病気は無い。あなたは完全健康体の神の子である。…今すぐ、立て」というような言葉を、真理に把われている人は、つい言ってしまいがちなのです。

 真理の言葉を言う側は、励ますつもりで言っているつもりでも、聴く側の病人にとっては、「なんと冷たい人だろう」と感じるのです。説教している側は、高い真理を説く満足感で陶酔しているのですが、聴いている側にとっては、その真理が心にしみてこないで、かえって冷酷に聴こえたり、反発すらおぼえるのです。

(4)「想念の法則」を持ち出してくる。

「人間は神の子である。病気は無い。不幸は無い。悪は無い」と教えられても、現実には病気も不幸も悪も満ちております。いくら「無い」と言われても、現実には見えるのですから、よほど高い心境の人は別として、ふつうの人の心境では「無い」とは思えません。

 そうしますと、「なぜ、無いはずの病気や不幸や悪が、自分にはあるのだろうか?」と考え始めます。すると、旧実相論では説明がつかなくて、苦しまぎれに「想念の法則」を持ち出してきて、旧実相論の足りない部分を補おうとするのです。

 これが二元論になった原因です。「人間は神の子である。人類に罪は無い」と光明思想を説いても、想念の法則を宇宙絶対の真理として、「おまえが不幸なのは、おまえの罪だ」と罪の存在を肯定してしまっては、せっかくの光明思想が消えてしまうのです。

(5)守護の神霊への祈りが薄れる。

「私は完全な神である」と思いますと、完全な神である自分が、他の何者かに頼ってしまっては完全とは言えなくなりますから、守護の神霊へ頼ることも薄れてくるのです。そこで、「私は神である」という念を強めてゆけばゆくほど、守護の神霊への感謝の祈りは少なくなってゆき、自力となってゆきます。

 しまいには「自分が神である。自分の運命は自分で決める。自分以外の何者にも頼るな。守護の神霊にも頼るな」ということになり、まったくの自力的生き方となってしまうのです。こうなりますと、五井先生の他力易行道が見失われ、自力難行道へと変質してしまいます。

 守護の神霊への感謝の祈りが何よりも大切であるのに、守護の神霊への感謝の祈りは希薄となって、それよりも「私は神である」と宣言する行法のほうが重んじられてきます。そうなりますと、守護の神霊の加護も力を失ってきて、人格が落ちてくるのです。

旧実相論には、以上のような欠陥がひそんでいるのです。

~新実相論の特長~

 そこで五井先生は、旧実相論を修正して、次のような新実相論を発表したのです。

(1)「業は無い」から「業は消えてゆく姿」へ

 第一の特長として、五井先生は「悪や病気や不幸は無い」という表現を、「悪や病気や不幸は、今は存在するが、消えてゆく姿である」と改め たことがあげられます。

「人間は本来は神の子である。しかし、今は神の子の本体を現す過程であるから、仏像を作る時に削りくずが出たり、トンネルを掘る途中で泥をかぶるように、悪や病気や不幸などの業想念が現れているのである。

 これらの不完全な存在は、完全な実在が現れる迄の消えてゆく姿であり、業想念が消えてゆくにしたがって、神の子の実相が現れてくるのである。

 だから、無理に『私は神の子である』と宣言し、神の子になったふりをしてみせたり、心の底から本当に思ってもいないのに、『悪も病気も不幸も無い』と否定する必要もない。

『悪や病気や不幸は消えてゆく姿である』と否定するほうが、ずっと自然に無理なく正直に生きられるのである」と五井先生は、理想(実相)に片寄らず、現実にも片寄らない、天と地の
ちょうど中心に位置する中庸の「消えてゆく姿」の教えを発表したのです。

 五井先生のこの真意を知らず、「『悪や病気や不幸は無い』という教えのほうが、五井先生の『消えてゆく姿』の教えよりも高い教えであるから、五井先生の時代よりも心境の進んだ皆さんは、今からはもっと高い教えである『悪や病気や不幸は無い』と断定的に否定するべきである」と説いている宗教者がいます。

しかし、これは非常な誤り、と言わねばなりません。

「悪や病気や不幸は無い」という言い方よりも、「悪や病気や不幸は消えてゆく姿」という教えのほうが、一見すると低い教えであるかのように見えるかもしれません。

 しかし、これは高過ぎる音量を適度な音量に下げたり、熱過ぎる風呂のお湯を、水を加えて適度な温度にするように、高過ぎる真理の言葉を、肉体界の人間にとって、ちょうどよい位置に修正した、と言うべきなのです。

 真理の言葉も、過ぎたるは及ばざるがごとし、なのです。

(2)「現在、神の子」から「未来、神の子」へ

 第二の特長として、五井先生は「現在すでに神の子である」という表現を、「未来において神の子になる」の表現に改めました。

 旧実相論では、真理を早く実現させようと焦り過ぎて、「私はすでに神になった」と宣言したために、現実と矛盾して、真理が現実に現われなかったのです。それに対して新実相論では、本来は神の子の自分であるが、現実の自分は、まだ神の子の姿を現わしていない、とまず正直に現実を認めます。

 それを認めた上で、現在の業は消えてゆくのであり、消えてゆくとともに、本来の神の子の自分の姿が現われてくるのだ、未来の神の子である理想を認めるのです。

 新実相論は、人間が神の子であることを否定するものではありません。人間は本来は神の子であり、未来においても神の子の姿を現わすという理想を認めているのですが、現在はその過程であるから、現在の人間は不完全な存在なのだ、と観るのです。

「未来において神の子になる」という神の子観は、「今、私は神である」という宣言よりも、一見すると低い心境のように思われ、弱々しくも見え、おとなしい表現ですが、自然で無理がありません。

 旧実相観は、真理を現実に早急に現わそうと焦ったのであり、行き過ぎてしまったのです。それを五井先生は、時間をかけて段階をおって、真理を現実化する光明思想へと変えたのです。新光明思想は、現実とも理想とも矛盾しておりませんから、正直に生きられて、無理なく理想へと歩んでゆけるのです。

(3)「矛盾した二元論」から「矛盾のない一元論」へ

 第三の特長として、「現在の業は消えてゆき、未来に人間は神の子になる」という新実相論なのですから、「想念の法則論」を持ち出す必要はなくなった、ということです。

 旧実相論においては、「現在、人間は神の子である」と宣言してしまったために、現実の悪や罪を認めることができませんでした。つまり、現実を無視した神の子観であったのです。

 旧実相論は、「現実の悪は存在しない」と主張するのですから、現実にある悪の存在と矛盾してしまいます。そのために、旧実相論でだけでは説明がつかずに、「想念の法則論」を持ち出さざるをえなかったのです。

 それに対して、新実相論では「現実の悪は存在している」と認めるのですから、現実と矛盾しません。しかも、「現在の悪も時間の経過とともに消えてゆく」と理想を説いているわけですから、理想にも矛盾しません。

 業は消えてゆくのですから、業を相手取って争う必要もないわけです。業は消えてゆくのですから、「想念の法則」をつかって、善の想念だけを念じて、悪の想念を否定するという行法もいりません。「想念の法則」は、悪の存在を実在と認めているのに対して、新実相論では、悪の存在を一時的には認めつつも、実在としては否定しているからです。

 つまり、新実相論では、「想念の法則」をきっぱりと捨てたのです。そして、「人間は神の子になる」という中庸の神の子観だけの一本に教えをしぼったのです。中庸の神の子観によって、矛盾のない一元論が完成されたのです。

(4)「自力」から「他力」へ

 第四の特長としては、「消えてゆく姿」の業想念が、一日も早く消えてゆくように、守護霊、守護神への祈りを勧め、守護霊、守護神による救われを説いている点です。

「真理の宣言」にしても「想念の法則」にしても、そこには守護の神霊に助けを求めるという姿勢はありません。ですから、「私は神である」とか「思った通りになる世界」という教えをやっている人は、しだいに守護の神霊を呼ぶことが減ってくるのです。

 すなわち、守護の神霊の存在を認めつつも、実際には守護の神霊を呼ばなくなり、守護の神霊への感謝の祈りよりも、自己の欲する宣言や想念の法則を使った念力を強めようとしてゆくのです。そうしますと、調子のよい時は問題がないのですが、調子が悪くなってきますと、守護の神霊に頼らない生き方をしているのですから、心が乱れるようになってくるのです。

 それに対して、自分と縁の深い守護霊が、いつでもぴったりと自分を加護して下さり、運命を修正して下さっていると知ることは、大きな安心感となります。常に守護霊に加護を願い、感謝して、守護霊の指導に、素直に行動しておりますと、守護霊は大愛であり、超能力を持っているのですから、自然と運命が善くなってゆくのは、当然のことなのです。

 そして、守護霊、守護神、分霊が一体となった時、はじめて人間は、神の子の完全な能力を発揮するようになるのです。

(5)「理想偏重」から「理想と現実の中庸」へ

 第五の特長として、これは先に幾度も述べたことと重複しておりますが、「理想偏重」の教えを「理想と現実の中庸」の教えへと変えたことがあげられます。

「人間は神の子完全円満で、悪や病気や不幸は無い」という実相論を「理想偏重実相論」と呼び、「人間は本来、神の子であるが、今は肉体界において神の子を現わす途中である。悪や病気や不幸などの業想念は、今の一時期は存在するが、いずれ消えてゆくのであり、消えてゆくにしたがって、神の子の本体が現われてくるのである」という五井先生の実相論を 、「中庸実相論」と私は名付けております。

 この「中庸実相論」があれば、今さら「想念の法則」(心の法則)を持ち出したり、「理想偏重実相論」を行じてみたりする必要はないのです。

 ある時は、五井先生の真似をして「消えてゆく姿」の教えを説き、またある時は「業想念は無い、私は神である、と宣言しなさい」と勧めてみたかと思うと、その舌の根もかわかぬうちに、「想念の法則」による願望成就法を教えている人が、もし居たとしたら、その指導者の思想は、二元対立どころか、三元対立の教えを説いていることになります。

 守護の神霊に感謝し、「世界平和の祈り」を祈っていれば、「人間神の子、完全円満、悪なし病気なし不幸なし」と無理に真理を宣言したり、「想念の法則」(心の法則)を使った「明るい言葉のみを 語れ、否定的な暗い言葉を語るな、聴くな」という教えのように、自力で想念を変えて運命をよくしよう、とする必要は全くないのです。

 五井先生は宗教理論として「中庸実相論」を説き、それを具体的に行とした教えが、「世界平和の祈り」であるのです。「世界平和の祈り」を祈りますと、すべての神霊の光明を一つにした大光明が輝きわたることから、新実相論は「中庸光明思想」でもあるし、「大光明思想」でもあるのです。

「中庸実相論」は、仏教にある「有にも空にも片寄らず、有にも空にも把われない、中正の道こそが唯一絶対の真実である」と説く「中道実相観」と同じ意味です。

~「世界平和の祈り」は完全なり~

 矛盾した二元論、旧実相論の欠陥、新実相論の特長を述べてきましたが、結論として申し上げたいのは、「世界平和の祈りは何も付け足す必要のない、完全な祈り言である」という真実です。

「皆さんの心境が高まったから、世界平和の祈りをよりも、もっとすぐれた善い方法が、神霊の五井先生より与えられた」とか「この方法を加えれば、より効果的に自己の分霊の光が表面に現われてくる」とか「『世界平和の祈り』と『私は神である』という真理の宣言は、相互補完の関係である」と説いている宗教指導者がおりますが、すべて誤りです。

 その方法が、もし「世界平和の祈りよりも優れた方法である」と思っていたら、「世界平和の祈り」は必要ないではありませんか? どうして低い方法と思う「世界平和の祈り」を捨てないのでしょうか? もっとより良い方法があれば、過去の古くて低い方法は捨てたらよいではありませんか? そして、より優れた方法だけをなさったらいいではありませんか?

 自己の分霊の光を現わすのに、もっとも効果的な方法は、「世界平和の祈り」です。「世界平和の祈り」に他の行法を加えれば、より効果的に分霊の光が出てくる、などということはありません。それは嘘です。前にも述べたように、「世界平和の祈り」よりも、もっと効果的であるならば、「世界平和の祈り」をやめて、その方法をやったらいいではありませんか?

 相互補完ということは、不完全+不完全=完全ということです。「世界平和の祈りに何かを付け足せば完全になる」ということは、すなわち「世界平和の祈りだけでは不完全だ」と言っているのと同じです。心の奥底で「世界平和の祈りは不完全だ」と思っていて、「世界平和の祈り」をどんなに祈っても、祈りの力が持つ完全性が発揮されるはずがありません。

 何よりも、五井先生の提唱された「世界平和の祈り」を、直接的な表現でないにしろ、遠回しにしても、「不完全な祈り言」と臆面もなく説く指導者には、あきれて言葉も出ません。五井先生に対する、なんという冒涜でしょうか。

 皆さんは、何が正しいのか、どちらが正しいのか、よくよくお考えになって下さい。

 他の宗教団体の方々が、その伝統ある特有の祈り言をした後で、「世界平和の祈り」を付け加えてお祈り下さることは、それは大変喜ばしいことで、大歓迎です。そうした意味では、「世界平和の祈り」に何をお足しになっても、それは結構なことだと思います。世界の宗教者が、「世界平和の祈り」という共通の祈り言の中へ、一つに融合してゆくことを、私たちは望んでおります。

 また、「世界平和の祈り」を祈っている私たちも、他の宗教団体の祈り言を、ご一緒に声を合わせて祈らせていただく機会もあろうかと思います。正しい宗教であれば、どの宗教団体の方々とも手を結んで、共に世界平和実現のために働かせていただきたいと思います。

 しかし、「世界平和の祈り」を提唱する私たちが、「世界平和の祈り」に何かを加えなければ、「世界平和の祈り」は完全ではない、ということは言ったら、提唱者としての資格はなくなります。「世界平和の祈り」は何物もつけたす必要のない完全な祈り言であることを、私たちは信じております。

 中庸実相論を理解し、「世界平和の祈り」の完全性を信じれば、あなたは永遠の幸福を得るでしょう。五井先生の新実相論、すなわち中庸実相一元論は、完成された光明思想です。そして、五井先生の提唱された「世界平和の祈り」は完全な祈り言であるのです。

 以上が、教義の核心をなしているのです。

                               (「中庸実相一元論」完)

                         


2011年12月05日 (月) 18時25分


(276) 「谷口雅春先生」の教えに回帰する事が一番重要。 投稿者:白鳩愛国婦人会

谷口雅春先生の悟りは「現象はない」です。

神癒に関しても「現象なし」が大切と、徳久先生がよくおっしゃられておりました。五井さんは、それがわからなかったのですね。キリスト教も解釈で多くの宗派に分裂しました。

今後、原理主義と言われようとも、「谷口雅春先生」の教えに回帰する事が一番重要と考えます。


2011年12月05日 (月) 18時33分


(277) その通りです。 投稿者: ゆかこМ



その通りです。白鳩愛国婦人会さまの言われる通りです。


2011年12月05日 (月) 18時38分




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