|
[8608] 新島八重さんのこと(2)
投稿者:naka
投稿日:2012年12月24日 (月) 16時55分
|
戊辰戦争で八重も断髪・男装して籠城し新式のスペンサー銃と刀をとって果敢に戦った。 落城の時、白壁に涙ながらに刻んだ和歌がある。よく知られている。
””明日の夜は何国の誰か ながむらむ なれし御城に 残す月かげ””
戊辰戦争から3年後の1871(明治4)年、当時京都顧問となっていた兄の山本覚馬を頼って八重は母・姪とともに上洛する。 兄の推薦により京都女紅場(女子に裁縫や読み書きを教える学校)に勤めることになる。 この頃、キリスト教学校設立に向けて山本覚馬のもとに出入りしていた新島襄と知り合う。 1875年10月に新島襄と婚約する。 当時、新島のキリスト教主義の学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが京都府知事・文部省に圧力をかけていた。 そのため京都府は婚約直後、突如女紅場を解雇しました。 ちょうどこの頃、新島襄はアメリカの養母であるA.H.ハーディー夫人への手紙で 「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムウーマンなのです。」と書き送っている。 二人は1875(明治8)年婚約し、翌年1月京都で日本人として初めてキリスト教式の結婚式を挙げた。 ちなみに1875年11月に同志社英学校が開港されている。 この頃八重は女紅場で働いた経験を生かし私塾を始める。同志社女学校の基礎を築いたのです。 1890年(明治23)一月、大磯で療養していた新島襄が危篤に陥り、八重は京都から駆け付ける。 昼夜を問わず献身的な介護をするも襄は八重に抱かれながら「グッドバイ、また会わん」と言い残して亡くなった。 わずか14年の結婚生活でしたが、襄にとって八重は生涯最良の伴侶でした。 この臨終の席で徳富蘇峰は過去の非礼を詫び、八重と和解する。
| |