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- 無名 - 2007年10月22日 (月) 14時19分
ムスカにいちゃんは、何故かとても動物に好かれる。 本人はあんまり動物好きじゃないというか、正直どうでもいいと思っているらしいんだけど、飼い慣らされた犬猫は言うに及ばず、野生のリスや小鳥までもが何故かムスカにいちゃんには懐いていく。 昔、僕の村にいた頃にも犬が膝に乗って昼寝しちゃったり(僕らも一緒に寝かせてもらった)、猫がネズミや虫を咥えて持ってきたり(ムスカにいちゃんは悲鳴を上げていた)、巣立ったばかりでまだ上手に飛べない鶸の子が肩にとまったり(皆で捕まえようと追い回して叱られた)と、常にムスカにいちゃんの周りには甘える動物の姿が絶えなかった。 一噛みで人を殺せるほどに獰猛な軍用犬が、ムスカにいちゃんにはぶんぶん尻尾を振って腹を見せて甘えるなんて姿も見たことがある。あの時の調教師の愕然とした表情は忘れられない。 そういえば、犬っころなんて渾名の付いた人間にも懐かれている。 兄ちゃんに懐いているから犬っころなのか、犬っころだからムスカにいちゃんに懐くのかは分らない。本人に言ったらきっと怒るだろうから聞かないでおくことにした。 それくらいの分別は、ある。
それとは逆に、僕は動物は大好きなんだけど、何故か動物からは嫌われることが多い。 くんくんと鼻を鳴らす子犬を撫でようとすれば噛みつかれ、ごろごろと喉を鳴らす猫を抱き上げようとすれば引っかかれる。 もう半分以上諦めてはいるのだが、やっぱり寂しい。ムスカにいちゃんのようにのべつまくなしに動物に懐かれたい、とまでは言わないけど、でも、硬く逆立った毛ではなくふかふかの毛皮を撫でてみたり、鋭い爪ではなく柔らかい肉球パンチを受けてみたり、硬い牙ではなくあったかい舌でぺろぺろ舐められてみたい、と夢に見ているわけだ。 尻尾も耳も背中の毛もビンビンに逆立てて僕の指にがっぷり牙を立ててぶら下がってるキツネリスの姿に、夢は遠いなぁと思ったりもしているが。
キツネリスと、ついでにそれに噛み付かれた僕の所為で折角のお茶の時間は中断してしまった。 「コイツは大人しいはずなんだけどなぁ?」 不思議そうに首を傾げながら、兄ちゃんはぷっつりと牙の形に穴が開いた指を消毒して包帯を巻いてくれた。使い終えた消毒薬や包帯を救急箱に仕舞うと、兄ちゃんは慰めるように僕の頭をぐりぐりと撫でて立ち上がる。そしてそのまま、救急箱を仕舞うついでに新しいお茶を取ってくるよ、と部屋を出て行く。 行ってらっしゃい、と包帯の巻かれた手を振って見送った僕は、思わずはぁ、と溜息を付いた。 僕の指に穴を開けたキツネリスは、ロッキングチェアに座ったムスカにいちゃんの膝に乗っかって暢気にアクビしながら後ろ足で首筋をかいている。ムスカにいちゃんが指先で顎を掻いてやると、気持ち良さそうに緑色の目を細めてちろちろとその指を舐めた。 僕の指に噛み付いていた時の警戒した様子は微塵もない。 「また何か彼が嫌がることを仕出かしたのではないのかね? 尻尾を踏むとか、耳を引っ張るとか」 「してないよ! ………今日は、まだ」 「…まぁ、今更か」 僕の答えに、ムスカにいちゃんは呆れたように軽く肩を竦める。 前回会ったときは、籠の中で寝ていた所をうっかり籠ごと蹴っ飛ばした。その前は、躓いた拍子に下敷きにしかけた。更にその前は窓を閉めようとして尻尾も一緒に挟んでしまった…と考えてみれば、わざとではないけれども、会うたびに嫌われても仕方が無いことばかりを仕出かしているような気がする。 今日は…今日は、何を仕出かしてしまったんだろう? あの子がクッキー齧ってるのを可愛いなぁって思いながら眺めてて、その欠片がヒゲにくっついてるのに気付いて、なんかくすぐったそうだったから取ってやろうと手を出したら………ひょっとして、横取りされると思ったんだろうか? 確かに僕は甘いものも好きだし食いしん坊だって言われるけど、幾らなんでもキツネリスが齧ってるクッキーを取ろうと思うほど意地汚くはないんだけど。 まぁ、動物に言っても仕方ないからなぁ…とまた溜息が漏れた。 「…触るかね?」 じっと羨ましそうな視線を向けていたのに気付いたムスカにいちゃんが、そっと僕を手招きする。嬉しい申し出に思わず声を上げそうになるのを押さえ、僕は何度も頷いた。リラックスしてるキツネリスを脅かしてしまわないように、なるべく音を立てずに近寄っていく。 それでも僕の気配を察したのか、キツネリスはピクッと耳を震わせて立ち上がる。警戒し始めたキツネリスを、ムスカ兄ちゃんはいきなり暴れ出したりしないように両手で押さえてくれた。 自分は噛み付かれたり、引っかかれたりしないと信じてるから出来ることだろう。 チィッ、と警戒した声を上げるキツネリスを両手で包み込むようにして、逆立った背中をゆっくりと撫でる。 「大丈夫だ…ほら、怖くないから…」 ムスカにいちゃんの声に少しは落ち着いたのか、唸るのだけは止めてくれた。以前、兄ちゃんに習ったとおりに、脅かさないようにそっと下から差し出した僕の手にキツネリスは鼻先を近づけてふんふんと匂いをチェックしている。 「ほら、怖くなんかないだろう?大丈夫だから…っと、こらっ!」 そのまま動かずに待っていると、不意に嫌そうに鼻先に皺が寄り、ピンと立っていた耳がきゅうっと後ろに反り返る。消毒液の匂いが嫌だったのか、それとも純粋の僕の手が気に食わなかったのか、次の瞬間、シャアッと警戒した声を上げてあっちに行けと言わんばかりに前足が宙を引っかいた。 慌てて押さえようとするムスカにいちゃんの手をすり抜け、野生そのものの素早さで僕の手へと爪を振りかぶる。 「わ、ごめんって―――あ、あれ?」 慌てて手を引こうとするも間に合わず、鋭い爪が僕の手に振り下ろされ…先ほど巻かれたばかりの包帯に引っかかる。鋭く、先の曲がった爪は妙な形に布に食い込んでしまったらしく、僕が手を引こうとするとそのままキツネリスまで引きずられて付いてくる。 外そうとするものの、動かない前足にパニックを起こしたらしいキツネリスはじたばたと暴れて手が付けられない。一度手元に引き寄せてから、と思うもののムスカにいちゃんの膝に爪を立てて踏ん張って動こうとすらしないのだ。 「痛っ!こら、二人とも、暴れるな!」 「あ、ごめ…って、にいちゃん、危ない!爪、爪折れるっ!押さえて!」 爪が刺さったらしく、ムスカにいちゃんの悲鳴が部屋に響く。 引っ張ったら外れるかとも考えたが、無理に力を加えると爪が折れそうで怖い。僕はキツネリスが前足を振るのに合わせて必死に手を動かす。 状況を察したムスカにいちゃんも慌てて爪を外してやろうとするが、パニック状態のキツネリスには通じなかったらしくその手を避けて、逆ににいちゃんの腕を伝ってその肩へと駆け上ってしまう。 「ぅわ…!」 引っ張られてバランスを崩した僕はムスカにいちゃんに倒れ掛かり、元々安定の悪いロッキングチェアは二人分の体重を支えきれずに真後ろに倒れてしまった。 「いったた…」 小さなキツネリスを押しつぶしてしまわないよう庇っていたため、二人して上手く受身が取れずに床に投げ出される。当のキツネリスは、ブラシみたいにぼさぼさになった尻尾を振り乱してにいちゃんのシャツの中に隠れようとしていた。 「うあっ!何処に入ろうと…こら、や、めろ!」 「に、にいちゃん!暴れないで!」 にいちゃんもにいちゃんで、服の下で暴れまわるキツネリスを押さえようとしていらしいんだけど、くすぐったさにどうにも出来ない様子だ。悲鳴に近い笑い声を上げながら体を捩るにいちゃんを制しながら、キィキィと甲高い声を上げてますます奥に潜ってしまうキツネリスを引っ張り出そうとする。 もうこの際また噛み付かれるのを覚悟して、足でも尻尾でも頭でも適当に手に当たった所を掴んで引きずり出してやろうと思いっきり手を突っ込んで適当に掴んだ瞬間、僕らの騒ぎ声を掻き消すほどの怒声が響き渡った。 「―――貴様!何してる!」 え?と思った瞬間、ぐっと喉が詰まる。 何が起こったかも分らないまま、一瞬宙に浮くような感覚があって、ぐるりと視点か回転して―――そして、目の前が真っ暗になった。
なんだかほっぺたにふかふかしたものが当たっている。気持ちいいけど、ちょっとくすぐったい。 なんだろうかと目を閉じたまま手を上げると、そのふかふかが動いた。ばふっと鼻先をくすぐられて、思わず小さなくしゃみが漏れる。 「……ぁ…あれ?」 鼻先を擦りながら目を開けると、目の前に大きな緑色の目があった。その後ろでは、茶色と黄色のシマシマの尻尾がぱったぱったと揺れている。さっき僕の鼻先をくすぐったのは、どうやらこの尻尾らしい。 手を伸ばすと、さらさらした手触りの布が指に当たる。首を傾けると、柔らかい羽根枕に沈んだ頭がズキンと疼いた。どうやら、ベッドに寝かされているようだ。 なんだか良く分らない状況にそのままぼんやりしていると、僕の顔を覗き込んでいたキツネリスが、ほっぺたに前足を乗っけて鼻先を舐めてくる。毛皮と肉球からはみ出た爪の先っちょが頬に刺さる痛みと、ざりざりの舌で舐められるくすぐったさに僕は笑いの混じった悲鳴を上げてしまった。 「いたたっ、ちょ、痛いよ」 天敵と言っていいほど嫌われているはずのキツネリスに擦り寄られ、その上ぺろぺろと舐められ、僕は感激なんだか戸惑いなんだか色々混ざって声がはしゃいでしまう。そっと手を伸ばすとキツネリスは素直に顔から下りて僕の指先を舐めてくれた。 「気がついたようだね」 かちゃん、とドアの開く音がしてムスカにいちゃんが入ってきた。 慌てて体を起こそうとすると、まだ寝ていたまえと止められる。 「随分強く頭を打っていたからな。吐き気はないか?眩暈は?」 心配そうに眉を寄せながら顔を覗き込んでくるムスカにいちゃんに、大丈夫だと頷き返す。まだちょっと頭を動かすと痛かったが、気にならない程度だ。よかった、と頭を撫でてくれるその手つきに思わずうっとりと目を細めて、自分から頭を摺り寄せてしまった。ふと気付くと、キツネリスももっともっとと強請るように僕の手に擦り寄っている。 「えっと…僕、どうしたんだっけ?」 ムスカにいちゃんに撫でられ、キツネリスを撫でてやりながら訊ねてみると、馬鹿共に投げられたんだ、と至極あっさりと説明をしてくれた。 「………あぁ、そっか」 勘違いされたんだっけ、と呟くとムスカにいちゃんは一瞬困ったように眉を寄せた。 ムスカにいちゃんは、僕の前でその手のことを連想させる話を持ち出すことを非常に嫌がる。それは丁度、子供の頃母さんに『赤ちゃんはどうやってできるの?』と聞いたときの反応にとてもよく似ている。僕はもう、酒もタバコもどころか、人殺しだって慣れてしまった大人のはずなんだけど、ムスカにいちゃんの中では僕はまだイタイケな子供のままなんだろう。 「あれ?じゃあ、この子は…」 投飛ばされて気絶した、までは分ったが、なぜキツネリスがいきなり僕に懐いているのかが分らずにまた首を傾げる。その拍子にまたズキンと打ちつけた頭が痛み、思わず声を上げると、ムスカにいちゃんは冷たいタオルをコブになった所に当ててくれた。 「あぁ…馬鹿共の剣幕が余程怖かったらしくてな。それから『守ってくれた』君に懐いたんだろう」 「守る?」 「しっかり抱きかかえていたからな」 あぁ、そう言えば、と思い出す。 危ないと思った瞬間、咄嗟に手の中のものを抱きしめていたような覚えがある。 「…つぶされなくてよかったなぁ」 鼻を鳴らして擦り寄ってくるキツネリスの頭を撫でると、まるで返事をするようにきゅい!と一声鳴いてまた僕の頬を舐めてくれた。
静かな午後。邸内に響き渡るボロ雑巾を裂くような悲鳴に、キッチンでお茶の用意をしていた僕と兄ちゃんは手を止めて顔を見合わせた。 「あの声はパズーだね」 「みんな懲りないなぁ…あ、先にこれ持って行ってくれるか? お湯が沸いたら、お茶持って行くから」 兄ちゃんは、呆れたように笑いながらも棚から救急箱を取り出して、クッキーの皿と一緒に盆の上に乗せる。相変わらず誰にでも優しい兄ちゃんに感心してしまう。僕としては、放っといてもいいんじゃないかななんて思ったりしてるんだけど。 取り合えず言われたとおりに救急箱と菓子を持って居間に向かうと、やはり近付くに連れて騒いでいる声が大きく聞こえてきた。 「いっ、ててて!離せ、こら!」 「ムスカにいちゃん、クッキーここ置くよ。もうすぐ兄ちゃんがお茶淹れてくるから」 手にがっぷり噛み付いたキツネリスをぶら下げて大騒ぎしているパズーの横を通り過ぎて、読書に熱中しているムスカ兄ちゃんに声をかけてテーブルに盆を置く。返事が無いのはいつものことなので気にしない。ついでに、ちょっと乱れた感じの襟元を直してあげようかとも思ったが、止めた。それは兄ちゃんの仕事だ。 僕は救急箱と、クッキーを一枚皿から取るとまだキツネリスとじゃれているパズーに近付いていった。 「ほら、おいでー。そんなの齧ってちゃダメだろ。おなか壊すよ」 すっと手を差し出すと、キツネリスはあっさりとパズーの指を離して僕の手に乗ってくる。そのままとととっと肩まで駆け上ると、撫でて撫でてというように僕の頬に頭を摺り寄せてきた。 よしよしと頭を撫でてやりながら、噛み傷の付いた指を振っているパズーに救急箱を押し付ける。 「はい、ごほうびー。イイコだねー」 絨毯の上に胡坐を掻くと、その窪みにピッタリ収まるように膝に乗ってくる。きゅーきゅー甘える声で鳴きながら頭を擦り付けてくるキツネリスにクッキーを差し出してやると、嬉しそうに目を細めながら齧り始めた。 「ちょ…っ、そんなのってお前…何で人に噛み付いてご褒美なんだよ。ちゃんと叱れよ!」 「シッカリ自分の縄張り守ったんだもんなー、偉いぞー」 喚くパズーをわざと無視して、厭味代わりにキツネリスを褒めてやる。いや、ホントに偉いと思ってるんだけどね。 これからもちゃんとムスカ兄ちゃんを守るんだぞ、と撫でてやると、任せろというように大きな緑色の目を輝かせてきゅい!と鳴いた。
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