[89] 初秋の午後のひと時 |
- 七梨子 - 2007年10月05日 (金) 15時33分
秋を迎えた海辺の村は、目を閉じていても感じられる暖かい日差しと、かすかな潮の香りを含む涼しい風が共存していた。日中の光を直接見てはならないときつく言われていたムスカは、時折葉をそよがせる裏庭の木の陰で涼みながら、この家で過ごすようになってからの日々を考えるとも無く回想していた。
時折、嘗て己を駆り立てていた何物かの存在が思い出されそうになることがある。とても大切なものの筈なのに、そのことについて考えていると、思い出すことを恐れるような気持も同時に沸き起こった。過去を無くした得体の知れない厄介者を、この家の主である人の良い男は当然の事のように受けれてくれた。何くれとなく世話を焼かれ、扱いが過保護だと感じることもしばしばであった。海岸で発見された後、昏睡状態で長期間過ごしていたという説明の通りに、体力は衰え一時は歩くのにも苦労するほどであった。その後、部屋の中にばかりいては治るものも治らないと言う男に手を引かれて近隣を散歩するようになり、拵えてもらった杖を持って出歩くうちに、僅かずつではあるが確実に体力は回復していった。
今では漁から戻る頃合を見計らって、港まで男を迎えに行くのが日課のようになっていた。散歩の折に案内された道を辿り初めて一人で歩いて行ったとき、男は先ず驚き、次に見えていないのに大丈夫なのかと心配した。歩数を数えていたからと言葉少なく答えると信じられないというようにさらに驚き感心して、持ち上げそうな勢いで抱きついてきた。そんな些細なことにまで大げさな反応を示す男に半ば呆れながらも、どこか嬉しいような、くすぐったいような思いが感じられていた。男の家で世話になるようになった当初、やたらと多い身体接触に不快な思いすら抱いていたものが、次第に気にならなくなり、今では認めるのは少々気に入らないながら心地よくすら思われていた。 光の角度が変化したのを感じ、そろそろ出掛けようと傍らに置いた杖を拾い上げて立ち上がったとき、家の中から物音が聞こえた。
「帰っていたのか。今日は随分と早かったんだな。」
返事は無く、常ならば此方から何かを言う前に話しかけ、手を取らんばかりの男が何故、と違和感を抱いた。
「どうかしたのか。」
さらに言葉を続けた時、漠然としたその違和感は明確な警戒心に変った。微かに漂う空気には太陽と潮の匂いとは似つかない硝煙と埃っぽい土の匂いが含まれており、近づいて来る足音は、これまでに紹介されたことのある村の誰とも違っていた。
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