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- ななし - 2007年09月14日 (金) 22時09分
「適当に、楽にしていると、いい」
着任の挨拶の為執務室に訪れた青年が敬礼と共に口上を述べた時、薄暗い部屋の主はこちらをちらりとも見ずに、ゆっくりと、静かに静かに口を開いた。 「制服姿の軍人が、ピリピリしたまま横に立っているのは」 上官となるべき人物は、机の前に居なかった。部屋の隅の椅子に腰掛け、ぼんやりと座っている。 「……鬱陶しい」 眠ってでもいるようにゆっくりと、およそ軍人らしからぬ事を言った青年の上官となる筈の人物は、そう言うとまた、ぼんやりと天井を眺めだした。 青年は途方に暮れた。 「は……発言をお許し頂けますでしょうか、大佐」 上官は暫く何の反応も返さなかったが、やがて、寝入るようにゆっくりと頷いた。 「自分は、どこで書類を片付けたら宜しいでしょうか」 上官の手が、ゆっくりと持ち上がる。それが指す場所に机を置けという事だろうか、と視線で追うと、指は部屋の中央の窓辺にある、上官自身の重厚な机をまっすぐに指していた。 「……あれを」 「大佐の机が、いかがなさいましたか」 「使いたまえ」 てっきり冗談だと思ったので、青年は遠慮がちに笑ってみた。が、上官は笑うどころか、こそりとも音を立てず天井をぼんやりと眺めているだけだった。 ―――――か、会話、し辛ぇー……。 冷や汗をかいて笑いを納め、青年は机を運び込む許可を貰う事にした。いくら上官がそうしろと言ったからといって、まがりなりにも上官の机を本当に使う訳にはいかない。 上官はどうでもよさそうに、青年に対して許可を出した。 「ああ……しかし」 「は」 「あまり大勢が、室内に入るのは、嫌だな」 「……は、」 「机を入れるなら、君一人で運び込みたまえ」 「かしこまりました」 事務室などで使っている、先日まで青年も使用していた机は、この目の前にある上官のものほどでもないし飾りも何もついていない灰のシンプルなものでしかないが、それでも一人で運ぶとなればかなり重い。一人でちゃんと持ち上がるのだかどうかすら、試した事もない。だが、一人でというのが命令ならば従うしかないだろう。部屋の前までは誰か同僚に手伝って貰おうと、青年は敬礼をした。 「ところで大佐、任官の証書にサインを頂きたいのですが」 小脇に抱えたファイルを持ち直し、青年は上官に向けてそれを見せた。部屋の隅で天井を見ていた上官は、億劫気に首を振ると立ち上がった。意外に姿勢がいい。てっきり猫背で歩くものと思っていたんだけど、と青年が考えていると、机に到着した上官は座ってペンを手に持ち、青年に手招きをした。 失礼いたします、と断ってから、まっすぐ机に歩み寄る。窓から入る光で、青年はようやく上官の顔を拝む事が出来た。明り一つ点していない室内の、恐らくもっとも薄暗い位置に居ただろう上官は、広い部屋の距離もあり、顔どころか髪の色までほとんどが判別できなかったのだ。 上官は青年の示した書類をざっと斜めに眺めただけで、すぐに末尾にさらさらとサインをした。作ったように綺麗な字だった。ペンを持つ指があまりに細い事に、青年は驚いた。よく見てみると、肩も随分と薄い。色々と噂話のある人物だが、前線指揮のくだりは完全にでっちあげなのだろうな、と何となく感じた。白兵戦どころか、この手は銃の重さにすら耐えかねるのではなかろうか。 「……きみも」 「は?」 「ご苦労な、ことだ」 ファイルを閉じ、流れるような仕草で目の前に出される。反射的に両手で受け取り、青年は息を呑んだ。視線を上げた上官と、初めて目が合ったのだ。 「余計なことだけは、しないように」 猫のような金色をした目が、薄暗い部屋の中で僅かに光を弾き、こちらを見て来ていた。青年は、自分の口の中が乾いていくのを知った。視線をはずす事も、身動きをする事すら出来なくなった。 やがて上官は、それこそ猫のような仕草で、ふいと横を向いた。もうこちらに興味はなくなったのか、再び立ち上がって部屋の隅の椅子に向かい、腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げた。
任官初日の出来事だった。
三日ほど上官と僅かながらに接してみて、青年にもわかった事がある。
『随分と頭がいいようだ』という噂は、どうやら誇張ではないらしい、という事。 それがどの位かはわからないが、例えば朝、両手の山ほどの書類を抱えて上官に渡したとする。ほとんどが情報部からだ。すると上官は面倒そうにペンを取り、恐ろしい速さで処理を始めるのだ。1枚の書類に掛ける時間は長くて数秒。青年も士官学校を出てからずっと本部勤めで無数の書類を見ているが、軍内でも、情報部経由の書類というのは他部署に比べ、書式から内容からが大概が恐ろしく難解で面倒な出来になっているらしい。情報部の書類は取り扱うに地位以外の権限が必要なので、青年自身は見た事がなかった。ただ、情報部の次に厄介らしい法務部からの書類が1枚でも来たら、青年は腹痛を起こして家に帰りたくなってしまう。仕事なので我慢はするが。 しかし上司は、その腹痛以上らしい情報部の書類をまるで絵本を一瞬見るような眺め方だけでさらりと何事かを書き込み、サインをしてしまう。本当に読んでいるのか疑問に思っていたら、処理の済んだ書類の山は二つに分かれていて、うちの一つは『不備書類』との事だった。目を通しているだけではなく、本当にきちんと読んでいるらしい事を知り呆然となった。 書類の山はどれほどの大量であったとしても、午後を過ぎて残っている事はない。
また、この上官の今までの護衛官達は、任官から十日ほどでほぼ全員が移動願いを提出していたそうだ。帰順してきて数ヶ月だというのに、変わった護衛官の数は両手に余る。そのうちのほとんどが地方へ移動となっていたが、二人ほどは本部でまだ働いていた。彼らに少しだけ話を聞く事が出来たが、別々に聞いたというのに示し合わせたように、もはや思い出したくもないという口振りで、 「気が狂いそうになる」 と教えてくれた。まず部屋の明りをほとんどつけない。つけようとしても止められる。なのにカーテンを開けない。書類をする時すらだ。換気もしない。薄暗い部屋の中で、午前中に恐ろしい速度で仕事をした後、午後はじっと部屋の隅の椅子に座ってぼんやりとしているか、一歩に数分ほどを掛けて室内をぐるぐると歩き回るか、時計の秒針をじっと見つめているか、床の真ん中に座り込んでいるかだ。 更に、『見せた事もない癖や、次にしようとしている仕草を当てられる』。 「『君は今、鼻が痒いと思ったね。右手の人差し指で2度掻くだろう』『私が部屋から出たら、勝手にカーテンを開けておこうと思っているな』『階段を2段飛ばしで降りる癖があるようだ』なんてズバリと言われる。しかも、当たってるんだよ。他の言葉はよそを向いた上途切れがちなのに、そういう時に限って饒舌で、しかも視線を合わせて来るんだ。あの目を見ていると、気が狂う」 それ以上は、二人とも黙ってしまったので聞けていない。 彼らの言っている事が、青年には少しだけ理解出来た。 上官の行動は、どう控えめに見ても奇矯と映るものが多い。この三日間だけで言っても、上官は書類を処理する以外では机に寄り付きもしなかった。ほとんどの時間を部屋の片隅の椅子で過ごし、時折立ち上がるが、また座り込む。それは椅子の時もあれば、床の場合もあった。薄暗い中で、ほとんど空気も動かさずにじっとしている人間と無言で同じ部屋に居るというのは、確かに気が滅入る。 ただし青年は、その時間を取り留めない考え事に使っていたので、あまり苦ではなかった。上官がぼうっとしている(ように見える)間、青年もぼうっとしているのだ、しかもソファに座って。任官の書類を本部の事務に提出した後上官の執務室に戻り、ドアの前で銃を掛け姿勢を正して立っていようとしたのだが、再び鬱陶しいと言われてしまった為だ。立ち位置が悪いのかと色々うろついてみたが、最後にはソファを指されて座っておけと命令されてしまった。上官命令なので仕方なく座り、やることもないのでぼうっとしていたら勤務時間が終わったので、上官を車で屋敷まで送った。
翌日が休日だった事もあり、引越しをした。辞令で、護衛担当官はこの上官の屋敷に部屋を一室貰う事になっているらしい。他の上級士官の護衛ではそんな話は聞いた事がなかったので、やはりこれも亡命して来た上級士官に対する特殊な措置なのだろう。詳しい事はわからなかったが、初日に貰う予定の部屋を聞いていたし、家具も何もかもが揃っていたので、それまで住んでいた官舎の部屋を引き払った。同僚や友人達が引越しの手伝いを申し出てくれたが、執務室にすら余人が入るのを嫌がる上官だ。荷造りだけを頼んで手伝って貰い、運ぶのは自力でした。 部屋には前任者のものらしい私物が幾つかあった。前任の護衛官は、噂では青年が任官する前日に、銃殺刑で処刑されたそうだ。そこに何があったのか、噂話でしか青年は知らない。私物はあまり数がなかったが、捨てるのも一存では出来ず、とりあえず箱に詰めて物置に入れておく事にした。 上官は、引越しの作業をしている間中、一度も姿を見せなかった。
三日目の朝、つまり今朝なのだが、寝坊をしかけてバタバタと起き出してみると、リビングには既に、きっちりと軍服を着込んでコーヒーを飲む上官が居た。敬礼とともに挨拶をし、頷かれ、その時初めて青年は、昨日のうちに朝食の用意をしておくのを忘れていた事に気がついた。 昨晩は荷造りを手伝ってくれた友人達と食べに出たし、今まで暮らしていた官舎には朝食と夕食が食べられる食堂があったので、失念していたのだ。 断られるのを覚悟で、青年は上官に申し出てみた。 「恐れ入ります、大佐。大変申し訳ないのですが、朝食にパンか何かを分けて頂けないでしょうか」 言った途端に腹が鳴り、大層恥ずかしい思いをした。 上官は、―――――上官は、驚くことに目を丸くして驚いていた。いやこれではどちらが驚いているのかわからないが、とにかく上官は驚いていて、上官の驚いた顔に青年は驚いた。 「……パン……」 上官は小さく呟いた。あのやっぱいいです、すんません、というのを出来るだけ丁寧な言葉で表現しようとしていると、上官はコーヒーを手にしたまま、ふらりと立ち上がった。 「パン……は、ないな……」 そのままキッチンに向かってしまった。パンはないが他のものならあるという事だろうか。だとすると用意させるのはダメだろう、と思い、ある場所を教えてもらって自分で用意しようと青年も立ち上がった。 果たして上官は、キッチンで、丸い筒を開けていた。それに青年は見覚えがあった。 「―――――固形食、ですか?」 「うちに、食べ物は」 上官はフタを開けると、中から固形食のクッキーを取り出し、横の引き出しからバターも出して来た。 「これしかない」 「……え?!」 思わず大きな声で返してしまったら、上官は少しだけ眉を顰めた。それは不快を表すものではなさそうだった。どちらかというと、困惑に近いものだと青年は思った。 「他に……何か、あったかな……」 「いや、あの、すんません、不満なんじゃないんです、クッキーで十分です!」 体裁を忘れてそう叫んだら、上官は俯いて探ろうとしていた引き出しから顔を上げ、ひたりと視線を合わせて来た。慌てて口を塞ぐ。上官に対してすんませんだの十分ですだのはないだろう。 ―――――う……。 この目はあれだ。怖いというか、何と言うか。 無言の重圧に青年がうろたえていると、上官は再び視線を引き出しに戻し、『あった』と小さく言った。取り出して来たのは、粉末のポテトだ。暖めたミルクか水で戻すとマッシュポテトが出来上がる。これも先ほどのクッキーと同じく、見覚えのある、つまり軍用の固形食だった。 これでも足りないか、というように首をかしげた上官が、再び眉を顰めたので、青年は『これだけあれば腹が一杯になります!』と急いで叫んだ。上官は、そうか、小さく頷き、リビングへ戻って行った。 「あの、大佐は、召し上がらないのでしょうか」 出して貰ったクッキーにたっぷりとバターを塗り、ポテトも貰った分だけ大量に作って皿に盛ると、手を付ける前に、青年は遠慮がちにそう尋ねてみた。 「朝は」 「はい」 「……食べない」 さようでございますか。とも言えず、青年は大人しくポテトを口に運び出した。 食べ物は、固形食しかないと上官は言った。しかし引越しの作業をしていた昨日、上官が出掛けた形跡はなかった。つまりそれは、昨日一日、何も食べなかったという事ではないだろうか? それも尋ねてみたが、上官の反応は、僅かに首を傾げただけだった。意味を図りかねて言葉を次ごうとすると、『時間』と上官は呟いた。時計を見ると、出勤の規定時間まであと少ししかない。青年は急いでポテトとクッキーをコーヒーで流し込み、上官を乗せて車に乗り込んだ。運転が少し乱暴になったが、上官は文句を全く言わなかった。 というよりも、そこから昼近くまで、会話が一度もなかった。
青年の視界の端で、現在上官はぼんやりと床に座っていた。 そろそろ昼だ。朝、かなりの量のマッシュポテトを腹に納めた青年だったが、それは既に消化を終えてかなりの時間が経過してしまったように思われる。つまり青年は腹が減ってきた。 しかし、上官を放ったらかして自分だけが先に 「飯行って来まーす」 なんて出来たらそれは軍ではない。青年はいままでかなり上下の楽な上官に当たって来たが、流石にそれは出来なかった。しかも現在の相手は6つも7つも階級の離れた上官だ。不可能すぎる。 だから青年はちらちらと、早くこの上官が『昼食に行く』とか何とか言い出さないかな、と待っていた。 それから一時間が経過し、青年の腹はそろそろ限界を迎えようとしていた。つーかこの人朝抜いてんのに腹へんねーの?おかしくね?それおかしくね?なんて頭の中でぐるぐると考えていたら、ふと視界が翳った。目を上げると、思ったより近い距離に上官の顔があった。ぎょっとして身を引くと、上官は無表情のまま、あの金色の目で青年をひたりと見据えて言った。 「君は今、私をどのようにして食事に向かわせるかで頭を悩ませている。そうだな、『そろそろ食事をお持ちしましょうか、大佐』とでも言ってみようかと考えて、私に食べたいメニューを聞こうとしていた」 青年は息を飲んだ。それはまさに、今青年が考えていた事と、寸分違わなかったからだ。 青年は、任官前に過去の護衛官から聞いた話を思い出していた。 『見せた事もない癖や、次にしようとしている仕草を当てられる』 まさしくそれだ。 「すっご……」 だから口から漏れた言葉は無意識だった。上官が首を傾げた事で、青年は自分の呟きを認識し、慌てていやあのすみませんと謝り、直後に申し訳ございませんと謝り直した。傾げた首の角度が戻らない上官に、怒られるかな、どうかな、と思いながら、青年は思い切って尋ねてみる事にした。 「あの大佐、何でわかったんでしょうか」 「何がだね」 「俺が、いや小官が、空腹である事です」 上官は、僅かに目を見開いた。朝に見ていたので、それが彼の驚きの表現であると青年は知っている。何に驚いているのだろうかと思っていると、上官はふむと頷いた。 「今は昼だ」 「はい」 青年が頷いて目を合わせると、上官は再び目を少し見開いた。 「難しい事じゃない。君の表情が、朝腹を鳴らした時と似ていた。そして今は昼だ。腹が空いたのだろうというのは理解できる。食べに行きたいが、私がここでぼんやりとしているものだから、自分だけが食べに行くなんていい出し辛い。だったら上官を食べに行かせればいい。しかし君は私が人嫌いと言うのを知っている。引越しも一人でしていたからね、正しく私の言葉を理解しているのだろう。つまり私が人の沢山居る食堂に行くなんて行動は望めない。とすれば食事を運ばせる以外にない。佐官以上は執務室に食事を持って来させる事が出来るからな。だがそろそろ腹が空いて限界だ。私が食事を運ばせると言い出すまで待っている事が出来そうにない。では自分から言い出そう。昼なのは確かだし、時間に気付けば私も昼食をとる事に頷く可能性が高い。好きなメニューを聞けば更にその可能性は高まるかもしれない。……という考えだったのではないかと、想像してみたのだよ」 青年は思わず、おおお、と目をキラキラさせて上官を見てしまった。ついでに腹も鳴った。急いで腹を押さえ、申し訳ありません、と小さく謝る。上官の言葉は、隅々に至るまで全く正鵠を居ていた。目を見てその説明を受けて、青年はしかし首を傾げた。 ―――――滅茶苦茶凄いって思うんだけど、前の護衛官達は何が嫌だったんだろう。 確かに、いきなり提示された『行動予測』や今の説明は、それまでのぶつ切りの単語のようなものではなく、流れるような流暢な言葉だった。しかし聞いてみるとその内容は大変分かりやすかったし、どちらかと言うと上官の目が怖いのは無言の時だと青年は思う。この人は本来、全くの無口ではないのではないだろうか。そんな事まで考えた。青年の頷きに見開き、そして細められる目は、無言の時の重圧を感じさせない、生きた人間の動きをするから。 青年の腹が再び鳴り、僅かに身を寄せていた上官は床に座りなおして扉を指した。 「食事に行って来たまえ。この室内での食事は許可しない」 「は、あの、大佐は」 「私はもう、昼食をとった」 「いや召し上がってらっしゃいませんよ?小官は大佐をずっと拝見しておりましたが、朝から今までにおとりになったのは、ご自身で淹れられたコーヒーを三杯のみです」 実はコーヒーは青年も淹れてみたのだが、上官はそれらを悉く無視し、自分で淹れたものしか口をつけなかった。淹れ方に拘りがあるのだろう。隙があれば、上官の好みの淹れ方を聞こうと思っている。青年に書類仕事がない訳ではないが、この任務について以後非常に数が減っていて、それこそ朝に数枚処理するともう何もする事がないのだ。 「見ていたなら、目にしていた筈だ。三杯目のコーヒーと一緒にとった」 言われて記憶を探ってみたが、三杯目、三杯目、と思い起こしてみても、やはり上官は食事らしい食事をとっていない。そういうと、君は案外見ていないねと言われた。 「砂糖を齧った」 「ああ……」 言われて見れば、三杯目のコーヒーの時だけは、机の引き出しから出した砂糖を齧っていた。コーヒーの豆もそこから出したものだ。と考えて、もしかして、と恐る恐る、青年は思い当たった事実を尋ねてみた。 「大佐の昼食って、あの砂糖ですか」 「そうだ」 即答だ。何の躊躇いもなかった。 「砂糖だけですか」 「そうだ」 「それは食事ではありません」 あまりの断言に、青年もそう断言した。上官は僅かに眉を顰めた。 「私の昼食が何であろうと、君には関係がない」 「いや大佐、朝も召し上がらないで、昼が砂糖って。夜は何を召し上がるつもりですか」 「君も朝、食べたろう」 青年は眩暈がしそうになって、立ち上がった。 「……昼食を手配して参ります」 「やめたまえ」 「体に悪いです、大佐」 「君の任官証書にサインをした時に言った言葉を覚えているかね」 ―――――余計なことだけは、しないように。 記憶している。しかし、これはないのではないだろうか。 青年は俯いて少し悩み、方向を変えてみた。 「……軍人たる者、己の健康管理は最低条件です、大佐」 おや、と上官は顰めた目を丸くした。 「食事は健康の第一です。あなたの摂取量は著しく不足していると、小官は認識します。遠からず栄養失調かなにかで倒れるでしょう」 「面白いことを言うね、少尉。君は私に意見すると、そう言うのかね」 青年は息を飲んだ。そうして、自分が今言った事が、上官への不遜な自己主張であると自覚した。しかし、後には引けない。顎を引き、金の目を睨むようにして、言った。 「意見致します、大佐。お選び下さい。食事を用意させてここで召し上がるか、小官が随行致しますので敷地の外へ食べに行くか、それとも士官食堂で済ませるか」 上官は、どれも出来ないね、と投げやりに顎をしゃくった。 「この部屋に運ばれたものを、私は食べない」 「では食べに参りましょう」 「知らないのかね?私の私的な外出には、軍務相の許可がいり、申請には三日から十日はかかる。たとえすぐそこの売店にガムを買いに行くのであっても、だ」 そう言えばそうだった、と青年は唇を噛んだ。 「では、士官食堂です。大佐のお口には合わないかも知れませんが、」 「人の多い場所は嫌いだ」 「死にたいんですか……!」 怒鳴りつけた。あんまりだと思った。小食とか、そういう問題ではない。この上官は常軌を逸している。街の五歳の子供でも、もう少し食べるだろうに。睨みつける青年に、金目の上官は静かに言った。
「私は死なない」
「死にます。そのままでは」 「死なない。その為に、食事を制限している」 「し過ぎです。あなたのしている事は、単なる絶食です」 上官は目を細めた。青年はうろたえた。今のは、笑顔ではないだろうか。ここは笑うところなのだろうか。訳が分からなくなって、それでも目を離す事は出来なかった。 「……私がここに来たとき」 上官の声の色が変わった。口調も、がらりと変わる。今の今まで話していた流暢なものから、初めて会った時のような、ぶつ切りの音だけの言葉に。 「食事をとった。この、部屋で」 まるで目の前に、フルコースが並んだろうな仕草。上官は何も持っていない手でナイフとフォークを握り、それを口に運んだ。優雅な仕草だった。 「私は仕事柄」 ナイフを持っていた手が、僅かに開く。開いた手で口元を覆った。 「舌が敏感に出来ていてね。―――――特に」 もう片方の手が、更に口を覆う。 「……薬物には」 「―――――え……?」 「命の危険は、ないものだね」 「……大佐」 「しかし、常習性がある」 「大佐」 「しばらく様子を見てみたが」 「大佐、」 「私は、この部屋で食事を頼まなくなった」 青年は、何も言えなかった。言う事が出来なかった。それはつまり、この軍部のどこかか誰かが、そうしているという事だ。固形食の事を、青年は思い出した。あれは支給以外に個人で購入する場合、倉庫へ直接行き、倉庫番達の監視の下で欲しいものを自分で、山の中から取って来るのだ。そして出口で清算をする。確かにあれでは薬物を混入するなど出来ない。固形食は尉官以下の兵士達がよく買うので、下手をすれば本部に麻薬が蔓延してしまう。 そう。麻薬だ。 それを自ら回避しているのだと、彼は言っているのだ。だから青年が淹れた部屋備え付けの豆を使ったコーヒーは飲まなかった。自ら用意した豆を自ら挽き、淹れたものだけを口にしたのだ。 「死なないために、ですか」 「薬物中毒など、死んだも同然だと私は考えるよ」 青年は頷いた。彼自身は薬をやった事はない。だが、薬に溺れた者を見た事なら、幾度かある。 あれは、人を家畜にする道具だ。 「―――――士官食堂から、食事を持って参ります、大佐」 「持ってきても、私は食べない」 「残念ながら、小官には毎日の外出届を軍務相に受理して貰う事は出来ません。が、」 「が?」
「食堂から持って来たものを、大佐の前で毒見する事なら可能です」
青年の断固とした言葉に、上官は項垂れ、深く、長く重い溜息を吐いた。 「……君と同じことを言って、実行に移した者が居たよ」 「その人の気持ちが分かります」 上官は俯いたまま、首を横に振った。 「馬鹿な真似をして、挙句の果てに処刑された」 ああ、と青年は嘆息した。同僚達から、この任務につくにあたって聞いた、様々な噂話のうちの、少なくとも確定された事実だ。青年の前任であるムスカ大佐の護衛は、軍法務部より10分間の審議の後、その日の午後にスピード銃殺と相成ったらしい。通常法務部を通しての銃殺刑の執行には最低10日はかかるらしいから、異常な事だ。青年はソファを降り、床の上に座り込んで項垂れる上官の前に膝を付いた。首を下げ、顔を近付ける。 「僭越ながら、大佐。何て言ったらいいのかわかりませんが、少なくとも小官は、毒殺や銃殺をされたりしないと思うんです。この国の軍部からはという、限定ですが」 「大言壮語が事実になる確率を試したことがあるのかね」 「試したって言うか、いや申しましょうか、……えー、申し上げにくいんですが、小官の実家は少し大きい家で、うちの軍部にも何人か、偉いとこに親戚が居るんですよね。……いえ、おりまして」 青年は、幾人かの名を次々と上げた。耳にすれば誰もが、ああ、あの一族の、と納得する、政財界に至るまで無数の著名人を輩出している家だ。 詳しくない人間が少し調べただけでも、すぐに沢山の名が出て来るような。 「……君は」 「あ、小官の今の姓は、母方の祖母の旧姓です」 「履歴書には、そこまで書かれていなかったな」 「書く欄、ありませんから」 おっと、と青年は気付いたように姿勢を正した。 「勿論、士官学校に叩き込まれた時から軍人として死ぬのは仕方ないと折に触れ教示されて来ました。が、それ以外で怪我でもしたら相手を八つ裂きにしてやるとも言われてるんです。何ていうかうちの親戚筋の人達、お、いえ小官に対して矢鱈と過保護で」 親戚達は全能ではないが、可愛がってる甥の敵討ちくらいならしてくれると、青年は笑った。その笑顔は、愛されて来た者特有の、信頼と照れが含まれているものだった。 「では、ちょっと食堂から取ってきますんで、お待ち下さい」 「待ちたまえ」 「大佐、ですから小官が毒見を」 「君は薬物を舌で嗅ぎ分けられる自信があるのかね」 言われて、青年ははたと気がついた。そんな自信の持ち合わせが、全くなかったのだ。盲点を突かれて黙り込んだ青年に、上官は静かに語り掛けた。 「君の提案は、ありがたく受け取ろう。しかし君の舌が信頼できない以上、単に二人の中毒患者を出す可能性が高い。私は食べたら分かるが、それでもこれ以上薬物を体内に取り込みたくないのだよ」 「じゃあ、……じゃあ、士官食堂に行きましょう!あそこは大鍋から直接、目の前で掬って貰うんです。目は一つじゃないし、何か入れたら誰かが絶対に気付きます。オバちゃんがちょっとコショウ入れ過ぎただけでもブーイングが飛ぶとこなんです。あそこで取って来て、そのまま大佐にお出しして、ついでに俺が毒見までしたら、もう完璧だと……」 「私は人混みが嫌いだ」 「子供みたいな事言わないで下さい」 ぎろりと睨まれ、やばい、と首を竦めた。口が滑った。今のは上官侮辱罪になるだろうか。ビクビクとしていると、上官はなんと、口を尖らせた。青年の中で何かが鳴った。それは末っ子独特の、そして周囲から可愛がられて来たもの独特の、無意識のうちに『許される空気を感じ取る』センサーの明滅音だ。センサーは青年に、こう命令を下した。 ―――――いける。押せ。 こういう場合、青年は逆らわない。そして今まで、失敗をした事がない。 「じゃあ行きますよ、大佐!はい、立って立って!」 「だから、人混みは……」 「大丈夫ですよ、今もうピークから結構経ってますからぎゅうぎゅう詰めって事はないです。第一、本部の佐官の方々はほとんど自室で食事をなさいますからね。大佐なんて高官が来たら、誰も近寄ってこないし、静かになります。話し掛けても来ない筈ですよ!」 「しかし、」 「大丈夫大丈夫!」 それでもしつこく床に座り続ける上官に、青年は少し迷ったが、失礼しますとだけ前置きをして、脇に手を入れ立ち上がらせた。うわ、と驚いた声を上げた上官は、しかし青年を睨むだけで、喚き散らして上官の権威を振りかざしたりはしなかった。 「……大佐、ヤバいくらい軽いです。沢山召し上がってくださいね」 「余計な世話だ」 「今日の昼飯はねー、えーと何だったかな。あ、ポークチャップです!俺、いや小官大好物!一昨日は豆のスープだったから、今日は粒コーンかな?大佐、士官食堂入った事あります?」 「ない」 扉を開け、渋る上官の背中を押して、外へ出す。まぶしい、と上官の口から不満声が漏れた。 「室内暗くしてるからですよ。何で明り入れたりカーテン開けたりしないんですか?」 「目が、光に弱い。色のついたレンズの加工職人が中々見付からなくて……先日ようやく見つけて、今作らせている所だ」 「痛むんですか?」 「疲れる」 「カーテンは閉めたままで、窓開けません?換気も出来てないし」 「さむい」 そういえばこの人は、あまりに流暢に喋るものだから言った先から忘れるが、外国の人間なのだった。諸国に比べ、この北の国は寒さが厳しい。部屋の薄暗さも、換気しないのも、聞いてみれば何の事はない、一応意味があったのだ。早くレンズが出来ないかな、と青年は呟いた。 「レンズが出来ても、部屋のカーテンは開けない」 「何でですか?」 「暗い方が落ち着くからだ」 「暗いとこでごそごそしたり、じーっとしてるのが落ち着くんですか?」 「考え事をしている時は、何をしているのかあまり認識していない」 ぼうっとしているだけに見えていたあの奇怪な行動の数々は、何と考え事の副産物だったらしい。士官食堂に向かいながら、青年は、ふと気付いた事実に何だか浮かれそうになりながら、三日目の上官に進行方向を指して歩き続けた。とりあえず―――――あくまでとりあえずに過ぎないが、上官は青年を毒見役としては使うと、諦めてくれたらしい。 「何か、申し訳ありません、大佐」 「今更己の強引かつ無礼な態度に反省の意を示そうというのかね」 「強引なのはいいんですけど、ご無礼なのは申し訳ないと」 「……強引さをそもそも、反省すべきだな」 「そっちは小官、現在自分を褒めている所ですので」 姿勢よく、しかしゆっくりと歩きながら、上官は眉を顰めた。 「とりあえず大佐、小官の毒見の腕をご覧下さい。で、」 「腕ではなく舌ではないかね」 「えー、まあ舌をご覧頂いた後にですね。今度外出届を出しておきますから、街に出ましょうね。行きつけの、美味い店があるんですよ。そこも、店の鍋から取って貰うのが見えるとこでね」 「ごめんこうむる。わざわざ食事の為などに、出掛けたくはない」
ごちゃごちゃと会話をしながら、二人は士官食堂に入った。 青年の指摘通り、佐官の、それも黒く悪い噂ばかりが飛ぶ亡命上級士官が突然入って来たのだ。食堂内は一瞬、水をうったように静まった。 「あ、大佐ー。あっちの端が空いてます。座っておいて下さいね、俺、じゃなかった小官、並んで大佐の分も取って来ますんで」 上官は、大人しく青年の指した先、端の人がほとんど居ない席に向かって歩いて行った。まるで古代の逸話のように、人の波が割れていく。それを横目で見ながら、青年はプレートを受け取る列に並んだ。横から小声で同僚の一人が、おい何やってんだ、と聞いて来た。 「飯食いに来たんじゃん」 「何であの大佐連れなんだよぉ!」 「部屋で飯食うの、どうも嫌いみたいなんだよね。でさ、あの人ホラ、外出制限厳しいみたいでさ。だったら食堂しかないし」 「今まで来てなかったじゃねーか!」 「何かさー、昼抜いてたみたいなんだよね。人混み嫌いで」 ああ、と同僚は頷いた。嫌いそうだな、と。 「だったら何で今日は来たんだよ」 「だって俺腹減ったもん。でも上官が抜いてるってのに俺が食うわけにはいかないじゃん。ていうか俺護衛だから、あんまり離れらんないじゃん。だからついでに一緒に食いましょうって」 「……俺はお前の、そのぶっとい肝が時々こえーよ……」 事実を適当に誤魔化しつつ、ある程度真実を話して聞かせたら、同僚は何となくだが納得をしてくれたようだった。これで周囲にはある程度広まるとして、明日からは多少、このぎくしゃくした空気は軽減されるだろう。にっこりと笑って、青年はあと五人になった列に視線を戻した。 この食堂に入った時から、匂いで腹が鳴っている。とりあえず大盛りを頼んで。あ、ついでに大佐の分も大盛りにして貰って。 なんて考えていた青年は、あと三人の所で、列を抜けざるをえない事態に遭遇した。 視界の先に映った上司に、誰か数人が歩み寄ったのだ。上官の登場で静まり返った食堂に、その無駄に大きな声が響く。 「おや、どなたかと思えば、祖国を裏切りわが国に帰順した高名な大佐殿ではありませんか!」 うっわああああどう聞いても喧嘩売りやがった誰だありゃー! 顔色を変えた青年が走って近づくと、数人の先頭に居たのは、肩章を見ると階級は中佐。青年がおいそれと口を利ける地位の人間ではない。青年が辿り着く直前で、上官が音もなく立ち上がった。 「これはこれは、内勤専門で何故か前線指揮官の勲章をお持ちの中佐殿ではありませんか」 うっわあああああ喧嘩買っちまったぁー! 絶対こういう面倒事嫌がると思ってたのに!黙って遣り過ごすと思ってたのに何この喧嘩っ早さ! 顔色が白くなりそうな青年が滑り込んだ時、上官の金目は既にかの中佐殿しか捕らえていなかった。 「ほう、こうやってまじまじと拝見させて頂くのは初めてですが、改めまして素晴らしいですな。特にこの飛空艇栄誉艦長章!亡命してきたばかりで無学ながら、こちらの国では飛空挺に乗った事がない者にも授与されるのですな。勉強になります。おやこちらは有能な白兵指揮官へ送られるリボンですね。勤務数十年のうち、一度も前線経験のない方がどのように有能であるのか、一度ご教授頂きたいものです。何しろ私は亡命して来たばかりで、右も左も存じませんからね」 上官の声は、食堂に朗々と響いた。この人いい声してるなあ、と青年は、見当違いの所で関心をした。赤黒く変色をした中佐殿の顔が、不意に振られる。中佐殿の周りに居た兵士達が、一斉に身構えた。 「えー。失礼します、中佐殿。大佐殿に何か御用でしょうか、『大佐殿』に」 頼む階級を思い出して引いてくれ。青年は祈ったが、聞き届けられはしなかった。 となるともう仕方がなく、応戦するしかない。相手が飛び掛って来た瞬間、手近にあった長い卓の端を持つ。これは軽いので、青年ひとりでも持ち上げるに苦労はしないのだ。それを一気に、中佐ごと巻き込んで投げ付ける。向こうが怯んだ隙に、青年は叫んだ。 「ちょっと手伝って!」 途端に周囲から、わらわらと人が集まり、中佐殿とその数人の部下を取り押さえた。 「憲兵!誰か憲兵総府づきの奴居る?!」 「俺ー」 「証言そのいちー」 「はい、俺。喧嘩売ったのは中佐殿の方です」 青年は上官に振り返った。 「大佐、お間違いございませんか」 「……ないな」 「証言そのにー」 「んじゃ、俺。先に手を出したのは、中佐殿の方でっす」 「大佐、ご確認を」 「その通りだね」 「証言そのさんー」 「えー、階級差に気付いておきながらも、無視してました」 「大佐」 「事実だ」 憲兵総府付きの士官は、簡単なメモを取ると、では連行いたします、と手を上げた。 「誰か手伝ってくれよ。俺手錠二個しか持ってないんだ、足りない」 「十個くらい持ち歩いとけよ」 「重いんだよ」 わいわいと、十人ほどの士官が束になり、中佐殿を含む数人を取り囲んで食堂を出て行った。中佐殿は大声で喚いていたが、誰も聞く者は居なかった。ここ数年、最も階級に厳しいのは、前線と本部中枢だ。憲兵には特に、佐官以上の認可があれば例え高官であっても、階級差に関わらず即座に逮捕できる権限がある。そしてこの場には佐官最高位が居た。 食堂は、ざわつきを取り戻した。流石に青年の上官に話し掛ける猛者は居なかったが、青年自身はすぐに手伝ってくれた仲間達に大きな声で礼を述べた。 今度奢れよ、と言われて、給料日後にしてーなんて笑って。 さてまた並びなおすか、と振り返ると、何と上官は食堂を出て行こうとしていた。 慌ててその肩に手を掛け、引き留める。 「大佐!なんで出てくんですか!ようやくメシなのに!いや食事です食事!」 「騒がしい。だから嫌なんだ」 「もう静かになりましたよ!」 「食べる気がなくなった。君は食べて来たまえ、私は戻る」 「ちょ、た…」 「上官命令だ、少尉。食事をとってから戻って来たまえ」
有無を言わさぬ命令に、青年の伸ばした手がぱたりと落ちた。 折角ここまで、あんなに苦労して引っ張って来たというのに……!
青年がようやく大佐を連れて毒見の役目をまっとうする事が出来たのは、その後毎日毎日毎日毎日血の滲むような努力でもって地道に口説き続けた挙句の、一週間後の事だった。
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