[83] お初物語(兄ちゃん×大佐) |
- ななし - 2007年07月31日 (火) 01時01分
寒い夜だった。 暖炉にくべた薪はきちんと燃えているのに、部屋の中はまだ寒い。底冷えがするのだ。ただでさえこの国の寒さに慣れ切れずにいる二人は、何もないこの部屋に、未だベッドの数を増やせずに居る。寒い冬は暖かい町で育った男にも、何より体力を失ったムスカには到底耐えられないものだった。毛布の1枚や2枚で事足りるものではない底冷えを、二人は互いの体温で遣り過ごして来た。
今日は、この国に来てからとびっきりに寒い日だった。 倒れ込むようにして帰宅した男を出迎えたムスカは、急いでコートを脱がせ暖かい室内用の服と毛布を着せ掛けると、すぐに暖炉前に座らせた。氷のように冷たい手を震えながら火にかざした男に、ポットで暖めたワインを持たせる。同じものを持って、ムスカも隣に座った。 「ム、ム、ム、ムスカ…は?寒、く、ない?」 「私はずっと暖炉のある室内に居た」 「で、で、…でも、今日……部屋の中も、さむい、よ」 「とりあえず君は、その凍った舌をワインで溶かしたまえ」 うん、と頷いて、男はワインを啜った。何口か飲み、ほう、と息を吐く。 「……生き返るなあ…」 言った直後、男の腹がぐうと鳴った。 「今日はもう、ここで食事をとるか?」 「え?」 「まだ寒いだろう。持って来るから、温まっておきたまえ」 立ち上がったムスカを、男はきょとんと見送った。ムスカは意外と行儀に煩い。逃亡中などは場合が場合だけにさほどでもなかったが、海辺の故郷で暮らしていた時も結構煩かった。食事の前には手を拭け、玄関では靴の泥を落とせ、皿は揃えて重ねろ、など、枚挙に暇がない。どうも、きちんとしていない状態というのが嫌いなようだ。男は自分がかなり大雑把であることを自覚しているが、ムスカのそういう癇症なところが、わりと好きだった。腹が減って我慢が出来なくてつい手を拭く前にパンを摘んでしまった時など、手を拭く用の濡らした布ではなく横においてあった乾いた布で手と顔をゴシゴシときつく磨かれてしまったが、そうやって怒りながらでも元気にしている様子を見ると安心するのだ。
最初にムスカを浜辺で見つけた時は、てっきり水死体だと思った。 何とか元気になったと思っていたら軍部がやって来て、ムスカは連れ去られるし、自分は拘束されてよくわからない尋問をされるし。不可解ながらも流されるまま、ムスカを助け出すという男たちの話に乗った。何をしたかはよく覚えていない。ほとんどの時間をただ待って過ごしたように思う。
再会したムスカは、目を覆いたくなるほど悲惨な状態だった。 逃亡を手伝ってくれた男たちが持って現れたぼろ布に包まれていたのは、意識のない、裸同然のムスカだった。すぐに気がついた、剥がされた手足の爪、体中に走る鞭や縄の痕跡、切られ、焼かれた皮膚、そして暴行のあと。目を逸らそうとしてもありありとわかる、血と、**の臭い。 「て、手当てを…っ」 「後だ。先に囲みを抜ける」 「でも!」 「後だ!」 反論を許さない口調に、男は項垂れた。腕の中のムスカがなるべく揺れないように、しっかりと抱きしめておく以外何も出来ない自分がただ歯痒かった。 彼らの言う『囲み』がどんなものかはわからなかったが、とりあえず一息つけるという場所まで案内され、拙いながらもムスカの手当てをした。こんな酷い事が、何でにんげんは出来てしまうんだろう。泣いていると、淡々とムスカの手足を調べていた男が言った。 「あ、骨も筋も無事じゃん。眼球も…平気っぽいですね、さすがー」 年かさの男が笑って言った、 「特務ほどじゃないがな、慣れって奴だ。そんなヘマはしないさ。それよりお前ら、何人でマワしたんだ?溢れて来てんじゃねえか、加減出来る奴だけ選べつっといたろうが」 「これでも人数出来るだけ絞ったんですよ。7人だったかな?あ、でも安心して下さい、下は一人ずつって決めてましたんで、切れちゃあいますけど裂けてまではいません。腸も無事……」 ―――――我慢が出来なかった。 気付けば、若い方の男を殴り倒していた。こいつらがこんな事を、ムスカにこんな事を、こんな酷い事をしたと。目の前が真っ赤になった。何か叫んだような気がするが、それは覚えていない。若い男を殴って吹き飛ばした直後に、年かさの男に鳩尾へ強かな蹴りを食らわされたからだ。
次に気付いた時、男はがたがたと動く何かに乗っていた。飛び起きると鳩尾が痛み、呻いた。腕が腹の前で縛られている。背に何かを感じ、ばっと振り返ると、ムスカの髪だった。手当てをされ、おそらく全身を拭われ、きちんと服を着て真新しい毛布に包まれたムスカ。 「起きないよ。今は薬で眠ってるからね。っていうか、暫く大佐には寝てて貰う」 声の方向に顔を向けると、若い方の男だった。咄嗟に殴りかかろうとしたが、腕だけではなく足まで縛られていて、どうにも出来なかった。バランスを崩して倒れ込んだ男に、リンゴを齧りながら、特務に居たという青年はあのさあと呆れたように言った。 「俺たちに腹立ててるみたいだけどさ、お門違いだっての」 「何がだよ!こ、こんな酷い事しといて……っ」 「酷いつっても」 食べ終わった芯をぽいと放り、青年は頭を掻いた。 「だからさあ、この人、国家反逆罪と大量殺人罪と機密漏洩罪と…あと何だっけな。とにかく、十回以上死刑になってもおかしくない罪状で捕まってたんだけど?」 「……でも、こんな」 「軍部はさあ、この人手放したくなかったんだよ?作戦立案力も魅力的だけど、何より今んとこ、この人以上に暗号関係に精通してる人間居ないわけ。頭意いい奴はいっぱい居るけど、とびきりなんだよこの人は。つまり大佐は、反逆しちゃ駄目な人なんだよ。何があっても、絶対にね。わかる?」 「……?」 「わかんない?」 青年は紙袋からもう一つリンゴを取り出すと、服の端でゴシゴシと拭いた。がぶりと噛み付く。 「反逆しちゃ、駄目なんだよ。―――――だったら、反逆させなきゃいいんだよね。反逆する気がなくなるようにしたらいいんだよ。反逆出来なくなるようにしたらいいんだよ、この人を」 「だ…から、って!……拷問、とか、あ、あんな事を…」 「拷問はさあ、手っ取り早いんだよね。痛いの嫌なら反逆なんてやめときなよ、みたいなの。犯すのも一緒だよ、手っ取り早いんだ。屈辱的だろ、何人もに入れ替わり立ち替わり便所みたいに扱われてさ。拷問された後にマワされてみなよ、普通の人間なら大概、もう二度と立ち上がれないよ」 「あ、あんたたち……ムスカを助けたいんじゃなかったのか!」 「助けたいよ」 「だったら、何で!」 「何かもー俺が殴りたいよあんた。……拷問ってさ、エスカレートすんだよ絶対に。やってるうちに限度がどこらへんか、途中でわかんなくなっちゃうの。だからあの人が拷問吏にわざわざ入って、後遺症残らないようにブレーキかけてたんじゃん。俺だってそうだよ、大佐最初はヤク中のイカレた奴らばっかの監獄に放り込まれかけてたんだぜ?それを頑張って下士官小屋まで引っ張ってって、人数絞って、無茶する奴蹴飛ばしてって俺たちの涙ぐましい努力、何だと思ってる訳?あんたその間何してた?馬鹿面下げて待ってただけだろ?放ってたら大佐、どうなってたと思う?」 何を言う事も出来ず、男は項垂れた。青年の言う通りだった。何も出来ずにただ、無事であってくれ、と願って待っていただけだ。そんな自分に一体、誰を責める事が出来るだろう。 青年は苦い顔で舌打ちをすると、ああもう、と頭を掻き、紙袋に手を突っ込んだ。 「大佐は多分平気だよ。元々体使う人だったし。―――――ほら。食えよ」 ぽんと投げられ、咄嗟に受け取る。口に運ぼうとしたが適わず、男はムスカを見た。暗い中でもわかるほど憔悴した、包帯だらけのムスカを。 「食えよ。明日の夜までの食料、このリンゴだけなんだから」 「……食えないよ…」 「食うんだよ。ったく、大佐だけでも難しいのにわざわざあんた引っ張ってきてんだからな、途中で倒れたら荷物が増えんだよ。ゴチャゴチャ言ってっと肉塊にするぞこの野郎」 男はリンゴを見つめた。赤いリンゴだ。持っているだけで甘酸っぱいいい匂いがする。美味そうだが、食べたいとは思わなかった。しかし食べないと、余計にムスカの、彼らの足手まといとなるのだ。それは避けなければならなかった。 3口ほど齧った。口の中に広がる果汁と果肉を、時間を掛けて呑み込む。視線をムスカから離す事が出来なかった。やがて男は、3つ目のリンゴを齧る青年に話しかけた。 「……何で、連れて来たんだ?」 「うん?」 「俺を」 「ああ」 青年はにこりと笑った。人懐こい笑顔だ、まるで今聞いた酷いことなど、欠片もできそうにないほど。 「だって大佐、あんたが大事みたいだからさ」 「……ムスカが?俺を?」 青年は頷いた。拷問に入る前に接触をした時、ムスカが気にしていたのはただ一点のみだったのだと。ご協力に上がりました。そう告げた青年に、ムスカは言ったのだ。
『では、私と暮らしていた漁村の青年を保護したまえ。五体損なわず故郷に戻すように』
「普通なら、自分の逃亡のための手筈を聞くか指示だよ。どうあがいても拷問コースは免れないし、よくて薬漬けで一生軟禁ってとこだからね。でもこの人自分の事、ひとつも言わなかったんだよ。脱出の概要だけでも告げようとしたんだけど、『早くしたまえ』だよ。どうしようかと思ったよ俺は」 「…………」 「で、悩んだんだけどね。あの人と相談して決めたんだよ、まあどっちにしろ大佐は酷い目にあわせちゃうから、もしそこで生きる気力まで削げちゃったら困るよね、って。だって俺たちは大佐に人生賭けちゃったからね。そこであんたの出番だよ」 「俺が……どう……?」 「察し悪いなあ」 青年は困ったように笑った。 「人質なんだよ、大佐に対しての。あんた殺されたくなきゃとっとと元に戻って下さいねって言えば、まあ努力するでしょ。ていうか、俺たちじゃ無理っぽいじゃない。散々痛め付けて犯した張本人たちが立ち直ってくださいって言っても、無茶な話だろ?」 男は首を振った。 「……勝手だよ」 「恨み言でも言う?聞くだけは聞くけど、俺たちもうあんた解放する気はないよ」 男はまた首を振った。ムスカの髪をそっと撫で、青年に顔を向ける。 「―――――連れて来てくれて、……ありがとう」 青年から、もう一つリンゴが投げられた。縛られたままの手で男はそれを器用に受け取り、一つ目のリンゴを瞬く間に食べ終えると、二つ目のリンゴに齧り付いた。
最初のうちの移動はほぼ、乗っていた幌付きのトラックで為された。ムスカはその大半を薬によって寝て過ごした。起きていると傷が痛んで余計つらいから、この方がいいのだという。 幾つ目かの街で、数日だけ休憩が取れた時、とった宿で初めてムスカは明確に意識を取り戻した。起き上がる事は出来なかったが、覗き込んだ顔と声、そして体の痛みで状況を察したらしかった。ムスカは何よりも先に、その震える声で怒りを発した。 「……何故彼が、ここに居る」 それはムスカを助け出した青年たちに向けられた叱責だった。 「お叱りは幾らでもお受けします」 「その声は、聞き覚えがある。……脱出を促した特務実働部隊の下士官だな。君には直接指示をした筈だ。私の命令が聞こえなかったと言うのかね」 「聞こえていました。が、不可能だと判断致しましたので」 年かさの男が言葉を引き継いだ。 「大佐に生き残って貰わねば、我々が路頭に迷いますんでね」 ムスカは薄く開けていた目を閉じ、長く息を吐いた。 「彼を解放したまえ」 「そりゃあ無理な話です」 「うん、無理ですね」 「私は頼んでいるのではない」 「俺たちが云々って話じゃありません」 「俺が、やなんだよ、ムスカ」 声を掛けると、ムスカはびくりと竦んだ。包帯だらけの手をそっと撫でる。 「やなんだよ。……ムスカが痛い思いするの、もうやなんだよ。俺、何も出来ないけど、包帯くらいなら換えられるよ。ほら、うちでもいつも俺が換えてたろ?あれだって最初はすごく下手だったんだけど、ムスカの意識がない時に、頑張って覚えたんだ。結構サマになってたろ?」 乾いた口の中を舐め、喘ぐように続けた。 「こ……殺し…たり、銃で撃ったり……は……出来るかわかんないけど、必要なら多分頑張れるよ。だから、もうムスカがこんな痛い思いしないで済むとこに行こう」 ムスカは弱々しく首を振った。それ以上動かないのだろう、けれど懸命に首を振った。 「君は、そんな事、しなくていい」 「大丈夫、頑張るから」 「しなくていいから、」 「平気だよ。平気になる」 「しないで……くれ、頼むから……!」 初めて聞くムスカの悲痛な声に、軍人たちは思わず顔を見合わせた。そうして頷きあう。 「……ま、つもる話は山のようにあるでしょうが、喧嘩はしないで下さいよ。私たちとしちゃあ、銃の扱いも碌に知らないシロウトにドンパチさせるような賭けはしたくないんでご安心を」 「健康な玄人がここに二人も居るんだから、荒事はこっちに丸投げしてくれりゃいいんですよ」
彼らはその言葉の通り、本当に全ての荒事を引き受けてくれた。 満身創痍のムスカとほぼ一緒に居た男にはわからないやり取りも、無数にして来たのだ。幌のついたトラックを乗り捨ててもそれは変わらなかった。真新しい傷を淡々と自分で治療している姿を何度も見た。男が気付いたのに気付くと、見なかった振りしろよ、とばつが悪そうに笑っていた。 それはこの、凍てついた街にやって来ても変わらない。 頻度こそ減ったようだが、彼らがまだ何かをやっているのはわかる。 ムスカがやっと自力で外を歩けるようになったばかりの頃、どうしようもない連中のうちの一部がした事が原因だった。彼らは連中をゴミだと言った。この部屋の両隣に陣取っている彼らは、今でもたまに、ちょっとゴミ掃除に、と出掛ける事がある。連れ立っての時もあれば、ひとりで行く事もあった。彼らはそれ以上何も言わなかったし、ムスカも何も言わない。だから男も何も言わなかった。
時折、叫びだしたくなる時がある。 血生臭い事に、男は縁がなかった。 内海に面した暖かい猟師町で生まれ育った彼は、海と共に育ち、人のいい人間に囲まれて小さな世界で生きて来たのだ。それが今、あの時では想像もつかないような凍える町で、硝煙と流れる血に目を背け耳を塞いで生きている。 ―――――でも。
長方形のトレイに、幾つかの皿を載せて、ムスカがゆっくり歩いて来た。 男の帰りは早くない。いつも先に食べててくれと言っているのに、ムスカは頑なに男と食事をとる事に拘った。ひとりだと、食べる気がしないのだという。実際、放っておけばムスカは殆ど口にものを運ばない。あまり動けないから腹が減らんのだと言っていた。男と一緒なら、男が口やかましいせいもあるが、ムスカはある程度普通に食事をとる。それに気付いて、男ももう何も言わなくなった。食べてくれるなら、そして一緒に食べる事が出来るなら、そっちの方が嬉しいに決まっているからだ。 「ちょっと横にずれてくれ」 「うん。あ、受け取るよ」 「その凍った手でかね。やめたまえ、今日のは自信作だ」 「シチュー?」 「違うね。完璧なシチュー、だ」 口の端を上げて笑い、ムスカは盆を床に置いた。真っ白のシチューからは、ほかほかといい匂いの湯気が立っている。沢山の野菜と鶏肉が、いい具合に柔らかく煮られているようだった。 「ホントに?こないだみたいに、味がついてなかったりするんじゃない?」 「あれはっ、……レシピを知らなかったんだ。今日のはちゃんと、市場で聞いた通りに作った」 「市場行ったんだ?」 「昼間にね。日があるうちは、夜ほど寒くなかったから」 爪が生えだし、一時膿んだ背中の傷も粗方癒え、体を損ない続けた薬もようやく抜け出してきて、ムスカは食事を作るようになった。筋肉が衰え切っていて、ものを細かく動かす事すら出来なくなっているのだという。そんな状況で火や刃物を使わせるのには抵抗があったが、多少なりと危ないからこそ神経を使うからいいのだと言われてしまえば、男に反論は出来なかった。 ただしムスカの頭の中には、さまざまな難しい知識が無数に詰め込まれてはいたが、料理のレシピというものはただの一つも入っていなかったようだ。最初のムスカ作ディナーを見た男が、野菜は皮を剥いた方がいいよ、と言った瞬間の、愕然とした表情は忘れられない。 「今日は、パンも焼いてみた」 「ホント?凄いな。俺もパンは焼けないよ」 「レシピを貰ったのでね。理屈さえ分かれば簡単だ」 その理屈がないと、少なくとも料理には手も足も出ないムスカは、どうだと言わんばかりにパンの籠を差し出した。そこには本当にふっくらと焼けた美味そうなパンが沢山乗っていて、男はどうしようもなく嬉しくなって笑った。ムスカも笑った。 「では、食べよう。たまには床でというのも悪くなかろう」 「うん。いただきます……あ、ムスカ」 「うん?」 男は被っていた毛布をちょいとまくった。 「寒いだろ?おいでよ」 「…………寒くはないが」 「嘘だよ。暖炉前で毛布被ってる俺が寒いんだから、ムスカだって寒い」 「君は外から帰って来たばかりだから」 「もう十分部屋に居るよ、ほら、ね、一緒にかぶろう」 ムスカは暫く口をへの字に結んでじっとしていたが、いつまでも毛布をめくり続ける男にとうとう根負けした。もぞもぞと膝で移動し、男の捲る毛布に大人しく包まる。 「もっと寄っといでよ。はみ出ちゃうだろ?」 「……食べにくいじゃないか」 「俺が食べさせてあげるからさ」 「君はどうやって食べるんだね」 「俺にはムスカが食べさせてくれるんだよ」 ね? 首を傾げると、ムスカは目を伏せ、また口をへの字に結んだ。 「……自分で食べた方が、早い」 しかし男は知っているのだ。 シチューに差し入れたスプーンをムスカが、最初に男の口へ運ぶことを。
食事を終えて湯を使い、ベッドに入ると、いつも日付を越えてかなりの時間が経っている。 「うわー、吹雪いてるねえ」 窓をがたがたと揺らす吹雪に、男が肩を竦める。ムスカがしっかりと毛布に包まっているかを再び確認すると、ムスカも男の肩が毛布から出ていないか確認をして来た。 「俺は平気だよ」 「どうだか」 互いに気の済むまで確認をし終えると、何だかおかしくなって一緒に噴き出した。笑いの精は中々去ってはくれず、子供のように震えて笑った。腹筋が痛くなるまで笑った男は、溜息をついてまだ笑い続けるムスカを見た。 「……シチュー、美味しかったね」 「……あの…レシピは、正解……だった、な、」 まだ震えながら、ムスカは答えた。目尻に涙まで浮かんでいる。天井を向いていたムスカがころりと男の方に向かって寝返りを打ち、笑った。 目を細めて、笑ったのだ。
「―――――っ、ご……ごめんっ!」
気がついた時には、キスをしていた。 ほんの、軽く触れるだけのものだ。それでも男は己のしでかした事に気付き、がばりと身を起こして咄嗟に謝った。ムスカは目を見開いていた。 「ごめん、……本当にごめん!そんなつもりじゃなかったんだ、俺、……そんな事しようとなんて、思ってない、思ってないんだ、本当だよ。本当なんだムスカ。ごめん、ごめん……っ」 ムスカは驚いていた。 ああ、キスをされているな、と思ったのだ。こんなに寒いのに何故この男の唇は温かいんだろうな、とも思った。そうして、嫌がりもせずそれを不思議とも思っていない自分に、驚いたのだ。 しかし、弾かれたように身を引き謝る男の姿に、冷静な思考が戻って来た。 「……落ち着きたまえ」 ムスカはふうと息を吐いた。今の自分の声は震えていなかったろうか。 大丈夫な筈だけれど、念の為、ムスカはもう一度溜息を吐いた。唇を指で撫でる。ムスカの口は、そう、ムスカの口はキスなんてする器官では、そもそもないのだから。 ムスカはもう一度唇を撫でてから息を吐いた。 「違う――――違うから、ムスカ、ごめん」 「わかってる。毛布を剥いでしまうと、寒いだろう?」 ムスカの唇の対人に於いての役割は、喋るか、咥えるかだ。遠い昔、まだ子供とも言える頃に、自分の体の利用価値を知って以来ずっとそうだった。キスなんてそんなものをする為に使う器官では、決してない。誰にでも弾みとか魔が差したなんていうものはあるのだし、だからといって男のものを咥え**を飲み干してきたような場所に口をつけて気分がよいわけはなかろう。 「ムスカ、ごめ……」 「口をゆすいで来るかね?気持ち悪いだろう」 謝り続ける男にそう言ったのは、本心だった。 こんな夜中に毛布から出て体を冷やしては風邪を引いてしまう。早く横にさせたくてそう言った途端、ハの字に眉を下げた情けない男の顔が、一瞬で色をなくした。こぼれそうなほど見開かれた目に首を傾げる間もなく、がしりと大きな手がムスカの両肩をきつく掴む。 「どうし――――」 恐ろしいほど真剣な表情の男の顔が、ゆっくりと降りて来た。 躊躇うように恐々と、唇が触れる。すぐに離れたが、視線を合わせ、男は目を閉じた。唇が合わさり、また離れる。何度もつけては離れるだけの仕草を繰り返して、熱い舌がぺろりとムスカの唇を舐めた。 「きみ、」 開いた唇の隙間に、舌が差し込まれる。驚き身を竦めるムスカに構わず、男は僅かに開いた歯の間にまで舌を入れて来た。喉の奥に縮こまったムスカの舌を何度も舐め、歯も、上顎も舐める。捉えた舌の先に舌を絡め、吸い、食むように柔らかく噛んだ。 息が荒くなるほど長い間、そうして男はムスカにキスを続けた。 やがて、降りて来た時と同様に、ゆっくりと離れていく。息をついで、男の目をムスカは見た。睨むように真剣な顔で、しかし男は徐々に情けなく眉を顰めた。 「き……気持ち悪いんじゃないんだ……」 泣きそうな声だ。男は躊躇うように息を吸った。 「そうじゃなくて、ムスカ、……キスしたかったんだ。ムスカにキスしたかったんだ、笑ってるムスカを見て嬉しいなぁって、思ったんだ。だからついキスしちゃったんだ、ごめん……」 「……それは、謝る所なのかね?」 男は頷いた。 「だって俺、ムスカが嫌なのが嫌なんだよ。痛かったり辛かったり、させたくないんだよ。笑ってほしいんだ、さっきみたいに。ずっと。でも俺、……ムスカが気持ち悪いなんて、絶対ないよ。でも」 「でも?」 「……き、気持ち悪いって、思われたくないんだよ……」 ムスカは首を傾げた。 「何が気持ち悪いんだね」 だって、でも、と男は言い淀んだ。もう一度ムスカが聞くと、観念したように目を閉じた。 「軍で、拷問とか……ご、強姦されたの、嫌だった…だろ?」 「いい訳はないじゃないか」 男の唇がわなわなと震えた。細く息を吐く。 「お、……俺、キスだけじゃなくて、お、おなじこと…ムスカにしたいって、思ったんだよ」 ごめん、と、男はもう一度謝った。そして、歯を食い縛るようにして口を閉じた。 かなりの沈黙が、凍てついた部屋に訪れた。 「……薬漬けにしてから複数で強姦したくなったのかね?」 「ち……違う!」 ふむ、とムスカは頷いた。 「拷問の方か。確かに、嫌だな。耐える訓練はしているが、敢えて耐えたい訳でなし」 「違うよ、そんなんじゃない!」 「違うのか?では?」 聞くと、黙り込む。どういう事だねと言おうとしたムスカから、男は僅かに身を引いた。 「ムスカには笑ってほしいんだ。本当だよ。辛いことなんてさせたくないんだ。本当なんだ。……俺、ムスカに酷いことした奴らと、一緒なんだと思う。……でも、」 何を訳の分からない事を、と溜息をつこうとして、ムスカはぎくりと息を呑んだ。 あの暖かい漁村でも、凍てつくこの街でも変わらず男が言う言葉。 『俺、ムスカが嬉しいのが嬉しいよ』 笑ってほしいと男は言った。辛いことも痛いこともさせたくないと。苦しいことがあるなら取り除きたいと、嬉しいことを増やしたいと。―――――それは一体、何と言う言葉で表される感情だろう。
「―――――でも俺、ムスカが好きなんだ」
「……な、にを……」 「好きなんだよ。でも、好きだからって何してもいいわけじゃないだろ。俺、ムスカが嫌がることなんて、する気なかったんだ。嬉しそうな、幸せそうな顔が見れたらそれでよかったんだ」 だからごめん。嫌な事してごめん。謝り続ける男に、ムスカは手を上げて自分の口を覆った。 何を言えばいいというのか。 誰よりも優しい男にこんな事を言わせるようなものなど、ムスカは何一つ持っていないというのに。 「私はね。軍部で、権限を拡大する為なら何でもした。……体を使って取り入るのも、誰に強制された訳でもない。自ら進んでやって来たのだよ。もう知ってるだろう」 「うん」 「私は自ら上官たちに足を開いて来た」 「うん」 「そんな男に、好きだの何だのと抜かす気かね。やめたまえ」 「でも俺、ムスカがそれを嫌がってたのも知ってるよ」 「何を根拠に。自分の選択に文句を言うのは思考と品性が欠如した馬鹿だけで十分だ」 男は俯き、躊躇ったようだが、僅かに声を落とし、それでも続けた。 「……夜中に、うなされてる。最近は、減ったけど」 ムスカの唇が、ひくりと震えた。 「ずっと、嫌だって。やめてくれって、もう嫌だって、泣いてた」
最初に自分の体の利用価値を知ったのは、一体幾つの時だったろう。 そう、まだ、正式に軍に入ってはいなかった。士官学校の、特殊カリキュラムを受けていた頃だ。学校をよく訪れていた、中年の将軍だった。ムスカは彼のお気に入りだった。他にも何人もの生徒が彼の部屋に出入りさせられていたのは知っているが、ムスカほど頻繁に呼び出されたものは、当時は居なかった筈だ。その理由は将軍自身が最中に常々語ってくれた。曰く、君のその、 ―――――恐れる時の目がいい。 ―――――悲鳴を堪える瞬間がいい。 ―――――無感動な顔が鼻白む様がいい。 ―――――人形のようにただじっと耐える風情がいい。 ―――――泣き叫ばないでおくれ、泣き叫ばせてあげたいのだから。 正直言って、ムスカはかの将軍に多少なりと、感謝らしき気持ちすら持っている。 彼のお陰で、人間とはここまでやっても死なないのだと、実感できた事が幾つもある。それはムスカの後の人生に於いて非常に役に立った。ムスカの立てる『この痣は来週まで残る』『この痛みは明後日までには取れる』などといった予測は、その折の経験を基にしている、かなり確実なものだった。つまり行動の予定を驚くほど立て易かった。かの将軍と全く同じ意味の言葉をもってムスカを組み敷く男は軍内には無数に居たし、ムスカは彼らのどれと関係を持てば地位と権限の拡大に繋がるのか、正確に検討出来るだけの冷静な観察眼と頭脳を持っていたのだ。 体とは、ムスカにとって、彼の能力の一部だった。噂すらムスカは、最大限に利用した。それは当然の事だと思っていた。ラピュタの王族として、限りなく強い一族の悲願の結晶として、自分は生まれたのだから。持てる限りの能力を駆使してラピュタの復活を目指す事は当然なのだ。暗号を解くように腰を振り、作戦を立てるように舐めしゃぶり。ラピュタを復活させる為なら何だってする。 そんな事はムスカが生まれる前から決まっていた、当然のことだ。 だからムスカはそうして来たし、それが嫌かどうかなんて。
「…………嫌…だった……」
ムスカの呟きに、男はうんと小さく頷いた。 「ごめんな。……ごめん。俺、頭、冷やして来るから」 最後にまた謝って退こうとした男の体が、ぴたりと止まった。 「ムスカ?」 胸元を、ムスカの手が掴まえていた。 「――――君は……耳がないのか。嫌だったと、言っている」 「……うん。ごめん」 「違う」 ムスカはむずがるように首を振った。白くなるほど男の上着を固く握り締めている。大体が癒えたとはいえ、まだあまり力を入れていい状態ではない。男は何とか手を外させようとしたが、ムスカはますます固く手を握り締めてしまった。 「ムスカ、手が……ムスカ、」 「だから、私は、」 嫌、だったのだ。 考えた事もなかったけれど。 いつだって嫌だった。臭い息には反吐が出る。けれど嫌がったからといって何になっただろう。止められる訳でなし、止める意味もない。ラピュタの捜索は個人では限界がある。その為に軍部に入ったというのに、手段を自ら遮断する訳にはいかなかった。個人の好悪など関係のない世界にムスカは生まれ、そして生きて来たのだ。でも、 「……嫌だった」 「うん、ムスカ」 「だから、嫌だったから」 「うん、手を、ムスカ」 「聞きたまえ!」 突然叫んだムスカに、男は目を見開いて頷いた。ムスカは何度も唇を舐め、躊躇った。言おうとして、いやしかし、と考え直し、でも、とまた口を開け、閉じる。 「ちゃんと聞くよ、ムスカ」 男の手が、ムスカの手に重ねられた。こんなに寒いというのに、暖かい手だ。喉元に来る熱い塊を飲み込みながら、ムスカは俯いた。 「嫌、だった……が」 「うん」 「い、いまは」 「うん」 「い……いや、き、君は」 「うん」 段々と声が小さくなる。ムスカはますます俯いた。男が首を屈め、耳を近づけて来ている。ちゃんと聞く。そう言った。ムスカは自分以外を信じる事などない。しかしこの男の言葉だけは、嘘がない事を知っている。唇を舐めた。蚊の鳴くような声になってしまったが、それでも、言った。
「……君は、嫌じゃ、ない」
男が息を呑むのが聞こえた。次の瞬間ムスカは、痛いほどに抱き締められていた。ムスカ、ムスカ。何度も名前を呼ばれ、返事して、とねだられる。どうしようもなく顔が熱い。 「キス……していい?」 頷くと、嬉しそうな男の顔が目の前に来た。啄ばむような軽いキスを何度か繰り返し、男は都度相好を崩していくと、深く唇を合わせて来た。ムスカは目を閉じて、舌を絡めた。
唇が腫れそうなほどキスを繰り返した二人は、ほうと溜息を吐いた。 ムスカは嬉しそうな男の顔を両手で掴まえると、真剣な表情で真剣な事を訊ねた。 「君、男は、今まで?」 「し、した事ない」 「そうか」 自分が乗るべきだろうかと考えていると、だから、と男が言った。 「俺が痛いことしそうになったら、絶対に言ってくれよ」 「別に私は痛くても構わないが」 しかしやはり、男が挿れたいようだ。そちらの方が慣れている事だし、ムスカもあっさりと頷いた。が、男はムスカの返答にいたく不満を感じたようだ。 「痛いのは嫌だってば!」 「そんな事を言われても」 「あ、じゃあこうしようよ、ムスカ!」 ぽんと手を叩き、男はにっこり笑った。まるで子供のようなその笑顔を、ムスカは好ましいと思う。しかし男の口から出たのは、好ましいとはあまり言い難い言葉だった。 「ムスカが気持ちいいと思う事を俺がすればいいんだよ。どこがどういう風に気持ちいいか教えてくれたらいいんだよ!」 ね、そうしよう!意気揚々と拳を握る男に、ムスカは口ごもった。 「……いや、それは…」 「ムスカ、服脱がせていいっ?」 「…………」 「ダメ?寒い?」 「……自分で、脱ぐ」 うんわかった、と男は頷き、いそいしと自分の服を脱ぎ始めた。あっという間に素っ裸になり、まごまごとボタンを外しているムスカの服に手を掛ける。 「自分で脱ぐというのに」 「指痛いだろ?いいからいいから。任せて」
全てを脱がされ、何枚も重ねた毛布の中で、寒いねなんて言いながら唇を合わせた。 「あー、緊張する。心臓ばくばく言ってる」 言葉の通り、裸で触れ合う男から伝わって来る鼓動は随分と早い。ムスカは自分の鼓動も早くなっている事に気がついた。途端に、何が、とは言えないが、何かが猛烈に恥ずかしくなってしまって、カッと顔に血が上った。月明かりはあるものの、顔色までは判別が出来ない事にムスカは感謝をした。 腿に熱く固いものがあたり、ますますいたたまれなくなる。 軍部に居た頃は、もっと恥ずかしい事でも顔色ひとつ変える事なくこなして来た筈なのに、頬の熱を止める事ができない。なんてざまだろう。ただ裸で抱き合っているだけの事をこんなに恥ずかしがる必要なんてない筈なのに、原因のわからない羞恥はムスカを強く苛んだ。 馬鹿みたいに音を立てて何度もキスをして、それだけで眩暈がしそうになっている。 壊れ物を触るかのようにムスカの体を這っていた無骨な指は、恐れるように、確かめるようにムスカを辿って行った。肩から肘へ。首筋から鎖骨へ。**に辿り着くと、ちょんと突き、摘みながら執拗に弄りだした。そこはいい、と言おうとしたら、ぬるんだ舌の熱い感触が急に降りて来て息を呑んだ。 「くすぐったい?」 こくこくと頷く。 「気持ちわるい?」 首を振った。気持ち悪いなんて事はない。男のすることでムスカが気持ち悪いと思うことなんて、ないのではないかと思う。そう言うと、じゃあもっと舐めるねと笑顔が返って来た。 「右と左とどっちが気持ちいい?」 「………」 「じゃあ両方舐めるね」 「ひ、ひだり……っ」 「左かあ。舌と指とどっちがいい?」 「………」 「じゃあ両ほ…」 「指!」 思わず答えたが、ムスカは後悔した。左に指が来て、右に舌が来たのだ。以前軍部のお偉方に、訳の分からない器具で責められた時も思ったのだが、男の**というものは生物として何の役にも立たない癖に何故あるのだろう。ただ色づいて存在しているだけならまだしも、 「……ぅ…」 感覚まであるのだから、始末に負えない。 ムスカはかたかたと身を震わせた。男の肩に手を掛けて、引き剥がしてしまいたい。そうこうしているうちに、指だけの左へ舌まで来た。唾液をたっぷり乗せた舌が、摘んだ先をちろちろと舐める。そんな風にされてしまうと、もどかしい感覚が体の内に凝ってしまう。 「あ……!」 少しきつめに吸われて、反射的に軽く仰け反った。首をもたげ始めたムスカが男の腹に当たる。 「きもちいい?」 「……、」 「言葉にしてくんないと、わかんないよ」 男の指が再びそろそろとムスカを這う。次第に舌へと進み、とうとう足の間まで到達した。 「ねえ、ムスカ」 掴んで、しごかれる。 「……き…もち、……いい……」 「どっちがきもちいい?こっち?」 どうしてこんなに、とわめきたくなるほど、目頭が熱くなるくらい恥ずかしい。 「どっちも、……どっちも、きも、ち、…ぁ、あ……っ」 指だけならこんな事にはならないと思う。舌だけでもだ。擦り上げられたからって、こんな風になる筈はない。ないのにムスカは、喉元にせり上がってくる感覚にたまらず喘いだ。どちらかというと感覚は鈍かった筈なのに、男の指先がなぞると喉が震える。舐めて擦られると、身の震えが止まらない。 ―――――声、が。 男の囁く声が。 耳に入って来るだけで、たまらなくなるのだ。 無骨な指は侵食をやめない。片手が柔らかくムスカをしごいている間に、もう片方の手はじりじりと奥へ進んだ。慣れた場所、様々な男達だけでなく、器具や道具までをも咥え込んで来た場所。そこをつうとなぞられて、ムスカはびくりと身を竦めた。暫く使っていない事だし、多少辛いかも知れない。まあしかし、大したことではない。何の下準備もなく立ったままねじ込まれて事だって1度や2度ではないのだ。ここまで慎重な男がそう無茶はしないだろうし、仮にされたとしても死にはしない。 ムスカはふと、小さく笑った。 好きにすればいい、と思った。それは彼の今までの人生で、何百回も唱えた諦めの呪文だった。 好きにすればいい。死にはしない。私にはやるべき事があるのだから。 しかし今、ムスカが男に対して思ったのは、同じ言葉だけれど違う意味の呪文だった。そんな事を考えるなんて恥ずかしくて死んでしまいそうだが、既に羞恥はムスカの全身を覆ってどこへも行きそうにない。これにあと一つ二つ恥ずかしい事が増えたからといって、どうという事はないだろう。 男はムスカを好きにすればいいのだ。 ―――――好きに、して、ほしい。
「…………ムスカぁ」 覚悟を決めて笑った途端、情けない声を上げた男が、声に見合う情けない表情でムスカを呼んだ。 「……どうし…」 「ここ、……濡れてない……」 「は?」 「やっぱ無理?興奮しない?どうしよう、えーと」 頬を摺り寄せてくる男に、ムスカは息を整え、心底呆れた声を出した。 「……馬鹿かね、君は。そんな所、濡れる訳がないだろう」 「えぇええ!?」 耳元で叫ぶな、と言うと男は慌てて口を手で押さえたが、驚きは去らなかったようだ。目を見開いて固まっている。ムスカはかりかりと頭を掻いた。 「どうかしたか」 「え、だって、男ってここでするんだよね?」 「そうだが?」 「濡れてなきゃ、どうやってするんだよ!」 「どうって」 ふむ、とムスカは口元に手を当てた。軍部に居た頃は、大体がオイルかローションを使っていたように思う。もれなく催淫効果つきだったので、媚薬入りではないオイルの存在をムスカは知らない。そういったものをそもそも用意しない手合いは、一貫して慣らしもしないので、痛みを堪えているうちにそのうち切れていい具合に血がかわりを果たしてくれていた。 「そのまま挿れたらいいではないか」 だからそう言ったのだけれど、男はとんでもないと首を振った。 「だってそんなの、痛いよ。痛いだろ?」 「まあ、痛い事は痛いが…」 「だったら」 「そんなに気にしなくても、切れたらそのうち血で滑るものだ」 「ダメだってば!ああもう、酒場でもっとちゃんと聞いとけばよかったっ」 ああっと頭を抱えムスカの胸に突っ伏した。暫く唸っていたが、やがて恐ろしい事をぽつりと言った。 「そうだ、舐めたらいいんだよ」 「……は?」 言うなり男はムスカの足をぐいと割り開いた。頭を落とし、抱えた足を更に持ち上げる。二つに折り曲げられるような格好になって、ムスカは痛いと呻いた。 「あ、ごめん。ムスカ体かたいから、ムリだな」 「か、体が柔らかくても、そんな所を舐められてたまるか!」 「あっ、後ろからはどうだろ?ムスカ、四つん這いになってみて!」 「い、嫌だ」 「だって、じゃないと痛いよ」 「舐められる位なら、そのまま突っ込まれた方がましだ」 「ヤだよー、痛いもん」 「君が痛いわけじゃない」 「ムスカが痛いと俺も痛いよ」 譲らずじりじりと膝を進めて来る男に、ムスカは冷たい汗をしたりとかいた。 「お……オイル……そう、オイルかローションで濡らせば、痛くない」 ギリギリのムスカの提案に、男はきょとんと眉を上げた。 「ローションかぁ。うーん、うちにはないなあ」 「クリームでも、何なら、料理油でもいい!唾液よりはよほど滑る!」 くりーむ。呟いて、あ、と男は身を起こした。ちょっと待ってて、と裸のままベッドを降り、寝室を出て行く。せめて何か引っ掛けていけばいいのにと思っていると、すぐにバタバタと戻って来た。 「さ、寒いぃー!」 「当然だろう」 ベッドに飛び込んできた男の体は、あんなに僅かの間だけだったにも関わらず凍るように冷たかった。直接その冷たさがぺたりと引っ付いてきたものだから、ムスカも思わず鳥肌を立てた。 「ごめん、冷たかったね。あー、さむ。もげちゃうかと思った!」 にっこりと子供のように笑う男は、手に持った小さな入れ物をムスカの目の前に差し出した。 「これねえ、昼間に、角の道具屋のエルツおじさんがくれたんだ。最近ムスカ冷たい水を使って料理してるって言ったら、塗っとけって。手荒れ防止のクリームなんだって。間違って子供が食べても平気なもので作られてるんだって言ってたんだけど」 これじゃダメかな。不安そうな顔で聞いてくる男から入れ物を受け取り、ムスカは蓋を開けた。くん、と嗅いだが、嫌な匂いもしない。ぷるんと、おそらく半透明の柔らかいゼリーのような表面に、指を入れてみた。そのまま手に塗ってみたが、ぬるぬるとしたそれは伸ばすと意外なほど肌に馴染んだ。 「どう?ダメ?舐めたほうがよさそう?」 「これを使ってくれ」 即答をした。
親身かつとんでもない申し出を何とか退け、クリームを手に、二人は再び長いキスをした。こう、ムードがあるのだかないのだかわならいない運びも、ムスカの知らないものだ。一旦興が冷めたらもうその気になんてならない筈なのに、舌を絡めあっているとすぐに、熱に浮かされたようになってしまった。男の匂いを感じていると、胸が痛くなって来る。二人の息が再び上がりだした頃、ムスカの右足がくいと持ち上げられた。カタリという小さな音。入れ物の蓋を外す音だ。すぐに、ひやりと冷たくぬるむものが、奥に塗り付けられた。ムスカはその冷たさに、びくりと身を固くした。 「たっぷり塗った方がいいよね?」 にちにちと塗り付けながら、男が聞いてくる。はあ、と息を吸い、吐いている途中で 「ムスカってば」 返事を急かされた。頷きで返しても納得しない。言葉でないと駄目なんて、よくもこんな恥ずかしい状態の時にそんな恥ずかしい事を言わせようなどと思うものだ。それでも答えようと努力するムスカはもう、救いようがないのかも知れない。 「た……くさん、じゃなくても、ある程度で……」 「ぬるぬるになったらいい?中も塗った方がいいよね?あ、俺にも塗った方がいい?」 男はもう一度入れ物からクリームを掬い、ムスカのそこに落とした。 「中、塗るよ。指で、ゆっくりするからね」 「―――――ぅ、ん……っ」 言葉の通り、男の指はもどかしいほどゆっくりと、ムスカの中へ入って来た。つぷりと先が入り、一旦止まってからくるりと回す。少し進んで、関節の節だった感触を過ぎると、中でくにくにと動かし出した。一旦出て、クリームを指になすりつけると今度はもう少し奥まで入る。 「どんな感じ?ここってきもちいいとことかある?あるなら言って?」 唇を震わせていると、情けない声で名前を呼ばれた。だからそれは反則だと思う。そんな声で呼ばれて、逆らえる訳がない。気持ちよくない、訳がないというのに。 「中で指動かすのと出し入れするの、どっちがいい?」 「指……抜き差し、方が……」 「うん、わかった。他は?」 「……」 「他は?ムスカ?」 ムスカは僅かに身を起こし、息を吐いた。呼吸を整え、男の顔を見る。目が合うと、キスをされた。口をへの字に曲げて恥ずかしさに耐えると、ムスカは自分の中を探る方の男の手首を掴んだ。 「指、伸ばして」 「うん」 息を吸い込む。手を添えて、息を吐きながら、男の手を引き、動かした。 「……ぅ……ここ……が、」 男は頷き、ムスカにキスをした。 「ここかあ。……きもちいい?」 示したそこを指の腹で撫でられ、爪先まで走る電流のような感覚にムスカはのたうった。抜き差しは続いている。男の声はムスカを呼び続けている。もどかしい速さは変わらない。変わらないのに、ムスカの呼吸は陸に上がった魚のように、早く浅く乱れ切ってしまった。 「あ、や、あ……っ」 「え、い、痛かった?痛かった?ごめんっ」 急に指が増え、ムスカは思わず高い声を上げた。喉を抜ける息がひゅうひゅうと、情けない音を立てる。抜こうか、と聞く男に、首を振った。そのままでいい。そのままでいいけれど。 「このままでいい?さっきのとこ、気持ちいいんだよね?こう?」 「ぁああ……!」 指が動く。ぬるぬると、体温で温まったクリームが液状に滑り、男の指の形までをありありとムスカに伝えて来る。2本だ。たった2本の指、それが動いているだけなのに、ムスカは一気に押し上げられ、ぎりぎりの崖まで来てしまった。 「も、指は、いい、いいから……君を」 「え、ダメだよ、まだ」 「頼む、頼むから、もう、……抜いて…くれ、頼むから……!」 男は少し悩み、じゃああとちょっとだけ我慢してねと囁いた。ちょっととはどの位だろう。考えている間にも、指は動く。擦られ、撫でられる。あんな場所、馬鹿正直に教えるんじゃなかった。息を詰めて我慢していたが、限界はたやすく訪れた。 「あ、あ…っあ、も、無理、む……、」 「え、これ無理?もうちょっときつくした方がいい?こんな感じ?」 「ひ、や、やめ……っぁあ!」
びく、と痙攣するように全身を震わせて、ムスカは達した。 出る瞬間に一層男の指を締め付けて、止めようもなく腰を摺り寄せてしまった。 はぁはぁと荒い息をしながら、まだ震え続ける体を意識した瞬間、男の無言に気付く。 血の気が引いた。 ……もう、駄目だと思った。 蔑まれるのも踏みつけられるのにも慣れているが、この男からの軽蔑の視線はきっと、堪えるだろう。嫌だったなんて言ったのはどの口だと。指で弄られた位で達するなんて、どんな体だと。余程の好き者に違いないと。聞き慣れた言葉達がムスカの肚に、今更ずんと圧し掛かる。いつも聞き流していた。何を言われても、気にした事などなかった。ムスカは唇を震わせた。顔を上げるのがたまらなく怖かった。だって自分は本当に指などで悦んで、腰まで振って。 「―――――ムスカ……」 歯の根が鳴った。涙が出そうだった。したいなんて、言わなければよかった。そうすれば、あんな視線をこの男から受ける事だけは、少なくともなかっただろうに。自分の浅はかさに吐き気がした。 唐突に、青い空を思い出した。高い高い青い空だ。どこまでも続く、吸い込まれそうな空。学生の頃、学校の敷地内にある森の中を散歩していて、襲われたときに見た空。複数の上級生から、殴られ蹴られ犯された。死ぬかと思った。死ぬことだけは、その時怖かった。意識を取り戻したとき最初に目に映った、木々の合間に青く青くとめどなく青い空。あの彼方にラピュタがあるのだと。空を見てムスカは立ち上がり、ボロボロに裂けた制服を着込んだ。空はあまりに美しかった。 この部屋にあの青空はない。 ラピュタももう、なくなってしまった。 「ムスカ、俺」 ぎゅっと目を瞑る。 何を言われても平気だった自分を思い出そうとした。
「どうしよう〜、うわ、うわ、嬉しい、えへへ……!」
底抜けに明るい声に、一瞬身を竦める。 「……え?」 聞こえた内容を認識した瞬間思わず目を開けてしまい、瞬きほどの距離に居る男にぎょっとした。その顔はと言うと、これ以上ないほどの満面の笑みだ。というよりも、でれでれと崩れ切っている。 男はすりすりとムスカに頬ずりをし、顔中至る所にキスを落として来た。瞼から目尻、額、鼻、耳にも顎にも、そして唇にも。んー、と声を上げて舌を絡めて来るのに戸惑い、ムスカはぱちぱちと瞬いた。 「えへへ、よかった。ムスカすぐ平気とか大丈夫とか言って誤魔化すから、ホントは気持ちよくないんじゃないかって俺、……俺、あーもーどうしよ、嬉しい、ねえ、ムスカ、よかったあ」 ……ムスカは。 肺の奥底から、大きく息を吐いた。 全身からぐんにゃりと力が抜け、本当に目尻に涙が滲んだ。何だこの単純思考の男は。知っていたけれど、底抜けのプラス思考は。知っていたけど、知っていたけど、この男は。 自分の悲壮な覚悟を返せとか、何だそのだらしない顔はとか、言いたい言葉が胸の中で渦巻く。万言の中から選びに選び抜いてようやく言葉を口から出す。 「……気持ち、よかった……」 男のこれ以上ないと思われた笑みが、より一層深まる。 ちゅ、と尖らせた唇が、音を立ててムスカの口にちょんとくっついて来た。ムスカも、恥ずかしさにどうにかなってしかいそうになりながら、ぎゅうと目を瞑ってちゅうと返す。男は喜んで、ますます沢山のキスを降らせて来た。ムスカも応戦するが、追い付かない。途中で、中に入ったままの指がくにくにと動き、反則だとムスカは口を尖らせた。その先にもまたキスをされてしまう。 「入れていい?」 頷く。はっと気付いて目を上げると、口で言ってくれとへの字に曲がった口が言っていた。 「い、……挿れて、ほしい」 にっこりと笑顔。ムスカ、と呼ばれ、指が抜ける。押し当てられる熱さにぞくりと背筋が泡立ち、ムスカはぶるんと身を震わせた。躊躇い、何度か唇を舐めてから、名前を呼んでみた。男は目を細め、もっと呼んでと甘い声で言った。もう一度呼んだ。男もムスカの名を呼んだ。 ぐ、と力が込められ、先が押し入ってくる。 クリームは、予想よりはるかに滑りがよかった。ぬぬ、と進む男の質量に、息が詰まりはしても傷つくことはなさそうだ。よかった、とムスカは安堵した。 ムスカが怪我をした時の男の顔は、見ているこちらが痛い。 粘膜を擦っていく男の熱さは、一旦収まりかけていたムスカの息をまたしても一気に荒くした。ぐ、と、そこを抉るようにされてしまった時など、目の中で光がちかちかと瞬き、また達してしまったのではないかと焦ったほどだ。時間をかけて根元までを埋め、男は一旦止まった。 「は、入った。入っちゃった、ムスカ」 自由になった指先で、繋がる場所をつうとなぞる。 「うわ、も、いっぱいいぱいって感じ。ひくひくしてる。……痛くない?」 首を振る。 「口で言って?」 「い……痛く、ない……っ」 男は挿れた時と同じように時間を掛けて抜くと、またにゅうとゆっくり押し入ってきた。ムスカの教えた場所を忠実に抉る。息を呑むと、そこだけを執拗に何度も責められた。 「ぁ、あ……あ、や、」 「どんな感じ?」 ムスカは首を振った。男は腰を回し、更に聞いて来た。ねえ、どんな感じ?答えねば、答えるまで同じようにされるのだと知り、ムスカは必死に言葉をつむいだ。 「こ、擦れて、……あつ、あつい……ゃ、や、そこ、駄目、だ、」 触っていい?と聞かれ、何にと聞き返す前に、ムスカの中心を男が掴んだ。ひ、と息を呑む。ぬるぬるとクリームのついた手が、ほんの少し前に達したばかりなのにもう十分に反り返っているそれを、滑りながら上に下に、何度もしごいた。 入って来ているだけでもういきそうなのに、動かれてもうどうしようもなくなっているというのに。 「ねえムスカ、いい?どうしたらもっとよくなる?」 はく、と口から息だけを吐いた。言おうとして、理性が止めたのだ。いつも大雑把な男なのに、ムスカのその仕草は見逃さなかった。何度も聞かれ、ムスカはとうとう観念した。 「―――――もっと……」 「もっと?」 「もっと、早く、……動いて……くれ、強く……っ」 「うん。……痛かったら、言ってくれよ?」 ムスカはこくこくと頷いた。言うから、動いてくれ、とまた懇願した。 ようやく自由に動き出した男に、ムスカは足を絡める。自分でも動いた。みっともない声は止めようと頑張ってみたが、ムスカが口を結ぶ度に男がキスでそれを開くので、途中で諦めた。 「きもちいい?」 「ぃ、い……もっと、そこ、あ、ん、んん……!」 喘ぎは止まらなくなった。時折目を開けると、同じくらい息を荒くした男が居る。目が合うと嬉しそうに笑った。自分がどんな表情をしたか定かではないが、少なくとも男が嫌がるような顔ではなかったらしい。だったらいい、とムスカは思った。泣きたいくらいに気持ちがよかった。それを伝えようとしては失敗し、それでもまだ伝えようとして、ムスカは男の名を呼んだ。
後悔というものと、あまり縁がなく生きて来たムスカは、現在どっぷりと後悔に浸かってた。 「お湯、もうすぐ出来るよー。狭いけど、一緒に入ろうな!」 一体何度ムスカは達し、男も達した事だろう。 夜の夜中からとはいえ、日が昇る時間が遅い為外は真っ暗だが、もう明け方に近い筈だ。 ―――――いい年をして。覚えたての子供でもあるまいに。 でれでれと相好を崩した男は、忙しそうに立ち歩いている。暖炉に薪を沢山足し、ムスカにキスをし、ワインを温めて中からも暖を取り、ムスカにキスをし、汗や色々なもので素晴らしい事になっているシーツを取替え、ムスカにキスをし、風呂を用意し、ムスカにキスをし、ムスカを抱きしめてムスカにキスをし、嬉しそうに笑ってムスカにキスをしている。 汗や色々なものをざっとシーツで拭ったムスカは、毛布でぐるぐる巻きにされて暖炉前のソファに置かれた。ホットワインを啜りながら男のキスを受け、暖炉で暖まりながら男のキスを受けていた。 「……落ち着きたまえ」 「えー?えっへへ、いやー、ムリ」 聞く気はないようだ。ムスカは溜息をついた。 「先に一人でゆっくりと温まりたまえ。二人などで入っては、ろくに湯が」 「嫌だよ。一緒に入る」 ムスカは本当に後悔していた。 何よりも、ホットワインを吹きながら啜る男に、キスをしようかななどと思う自分自身に。
朝食はいつも、右隣の男か左隣の男が作り、大抵揃って食べるようになっている。 最近はそこに、週に1度程度ではあったが、ムスカも参加していた。誰が作っても適当なものだ。卵とベーコン、カップスープにサラダにパン、たまにヨーグルト、そしてフルーツ。時折そこに凝ったものが混じるのは、大概が貰いものだ。パイだの、タルトだの、キッシュだの。 今日はムスカの当番だったので、男が出て行って暫くしてから、ムスカは台所の前に立った。野菜箱を見ると、幾つかを取り出す。昨日貰ったポテトのチップスをサラダに混ぜて、卵は片面焼きにして、と準備を始めようとした所で、ドアをノックする音がした。 「誰だね」 「あ、俺でっす。はよーございます」 俺などという知り合いは居ないと言ってから、ムスカは扉を開けた。首を傾げる。元特務の青年の手には、サンドイッチとオレンジジュースのビンが載ったトレイがあった。 「後であっちの人が、ディップ作るとか言ってたんで持って来ると思います」 つかつかと部屋に入り、テーブルにトレイを置くと、青年はムスカをまじまじと見た。 「つーか何か平気そうですね、大佐」 「体調は崩していないが?」 ことこととテーブルを整えだす青年に、ムスカは首を傾げた。 「今日は私の当番だったように記憶しているが」 「え?ああ、はあ、そうですけど」 では何故、という前に、再びノックがあった。ムスカが誰何すると、右隣の部屋の男だ。扉を開けると、こちらもからまじまじとムスカを見て来た。 「ん?平気そうですな」 「昨晩は寒かったが、別に風邪を引くほどでもあるまい」 ええ、まあ、そうですな、と男は手に持ったトレイを差し出した。トマトのディップとオムレツが4つ。あいつもそろそろ帰って来る頃だし、用意していいですかと聞かれ、ああ、とムスカは頷いた。 テーブルを整え終えた頃、男がにこにこと帰って来た。 「ムスカぁ!あのねえ」 手には大きな籠を持っている。 「仕事先の人がリンゴくれたよ。後で……あれ、もう居るの」 勢いよくムスカに話し掛けた男は、室内に既に待っていた他の二人にようやく気付いたようだ。ご挨拶だなと言われ、うん、おはようと返す。彼に通じる嫌味は、実のところあまりない。 「食わんのかね」 ムスカの言葉で、食事は始まった。オレンジジュースを回し、サンドイッチを一つ手に取ったムスカは、それを口に入れようとして、目配せをする二人に気付いた。 「何だね」 何か難しい事でも起こったのか。あまり朝食時にそういう事を言い出す二人ではないので怪訝に思いながら、ムスカはフォークを置いた。男たちは暫く肘で互いを突きあっていたが、やがて観念したように、青年の方が咳払いをした。 「えー、急なんですが、今日、この3部屋に内装工事を入れようと思いまして」 「内装工事?」 ええまあ、と青年はまた咳払いをした。 「管とベルはつけて咄嗟の場合でも対応は出来るようにしますが、壁を」 「壁を?」 「厚くした方が、いいんじゃないかなーって」 サンドイッチがぼとりと、ムスカの手から落ちた。 顔色が一気に紙より白くなり、薄い唇がわなわなと震えだす。 「壁分厚くするんだ?へー。何で?」 3つ目のサンドイッチにかぶり付く男の足の爪先に、元制服さんと呼ばれた男の硬い踵が落ちた。 「てめえのせいだっつの」
ムスカは本当に後悔をした。 何よりも、風呂場の壁も厚くして貰わなければなどと考えている、自分自身にだ。
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