さっきまでNHK教育でやってた、バッハ「ヨハネ受難曲」(オランダ・バッハ協会合唱団・管弦楽団)。 あまりに心を衝いてきて、はらはら泣いてしまいました。 デュルフレのレクイエムも、ああいうふうに歌わないといかん〜ってことですね。
信仰があるとかないとか、それはおいておいて、 神の炎のかけらが人間ひとりひとりに宿っているがゆえに、 人はすなわち神の一部を魂の内に持っており、 そこを見つめることで神と対話し、一体となりうるという思想は 特定の宗教にとらわれない発想だと思います。
日本の思想にも、 人の思念が誰かに影響を及ぼすことをおそれて 縁起の悪い発言や行為をつつしんだりする習慣がありますが、
心や魂の働きが人の肉体という器を離れて、 時に他人に働きかけ、 時に現実世界さえ超越してしまうというのは 誰しも、実感したことはなくとも、ありうるよなぁと 思っていただけることでしょう。
そういうことの一環としてレクイエムを歌うと、 やはりクリスチャンでなくとも神妙な思いになりますよね。 (聖書の記述をどれだけ知っているかという点で、 神妙さに個人差はあるでしょうけれども。)
冒頭に書いたように「ああいうふうに歌わないと」ってのは、 雰囲気を真似することは、研鑽を重ねれば、 まあ、ごまかせるかもしれません。 ですが、クリスチャンとしての信仰を持たない人間でも 聞いて涙したということは、裏を返すと、 彼らの演奏と歌声は、宗教や民族を超えた、 通民族的な観念に訴えていたということではないかと思うのです。 そう思ってみてもいいのではないかと思うのです。
もしその可能性があるなら、 きちんとした信仰をもたない人の多い日本人でも、 自らの内の「不思議で深い」部分にアクセスすることで、 心を動かす演奏は実現可能なのではないでしょうか。
もちろんそこには、キリスト教のための音楽が、 あるべき姿に演奏されないという危険も含まれているわけですが、 ここまでの前提が有効だとすると、 「キリスト教徒でないから」と言う前置きは以前ほどの重みを持ちません。 「キリスト教徒でないから、わかりません」というのも、 「キリスト教徒でないから、しょうがないよね」というのも、 あんまり意味がないです。
聖書にもとづく文言の象徴する意味や背景は、難解で、 ちょっと調べただけではわからないことが多いですが…、 現実を離れる気持ちや想像力、 いつもの自分から解放されて不思議スイッチをオンにして歌うと 知識の不足も多少は補えたりしないかな、なんて思います。
少なくとも、 楽譜にしがみついて、拍子と音符にふりまわされているうちは、 なかなかそういう表現ができない(現実から離れられない)ので、 はやいとこ音を体に入れてしまいたいものです。
すみません、自宅でひとりでワインで酔っ払っているので(笑)、 書きたいことを書いてしまいました。 ここまで読んでくださった方、いるかしら。 ご意見お待ちしてまーす♪
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