(二月)の法語・言葉 (150) |
- 日時:2015年02月01日 (日) 04時44分
名前:伝統
このスレッドでは、(二月)の言葉・法語として、次の著書等から紹介して参ります。 ただし、要点のみの紹介になりますので、全文については、それぞれの著書等において、 ご確認くださいますようお願いいたします。
(1)『 光明法語<道の巻> 』 (二月の法語「神は今ここに」)~一部抜粋部を紹介
(2)『 生命の實相 』第三十七巻幸福篇 (二月「衣を更えて」)~一部抜粋部を紹介
(3)『 光明道中記 』(二月「天地そろう」)~「タイトル」部分を紹介
(4)『 生長の家 』 昭和二十四年二月号 ~ ”明鏡 さま”のブログより一部抜粋部を紹介 (http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12879012.html)
(5)『 生長の家 』 昭和二十五年二月号 ~ 「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐」へリンク
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<「光明道中記」如月・天地そろう~はじめの言葉 より>
吾々の『生長の家』は毎号、諸君自身の内に宿る力を指示するために発行されるのである。
他に依頼心を持つ者は躓くであろうが、 自己の内に埋蔵されたる宝庫へ幸いに振向く人は救われるであろう。
救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、 わたしはその在(あ)り所(か)を指示するだけである。
吾々の光明思想になった結果病気が治ると云うのも、 諸君自身がそう云う思想になった結果であってわたしはただ指(ゆびさ)すのみである。
文章の力による指し方は可也り上手であるので、 文章の力で病気を治したとも謂い得るが、 精(くわ)しく言えば文章の力は、よく諸君の心を振向けただけである。
そこに自己内在の無限の力を見出すのは 諸君自身の力であって私の力ではないのである。
光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、 私は喇叭(らっぱ)であり、指南車である。
指を月と間違え私の書いた符号を本物と間違える者は 実相を見ることが出来ないでああろう。
私はただ諸君を振向かすために文章で叫ぶだけに過ぎないのである。
私を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたい。
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【一日の法語・言葉(2月1日)】
(1)《感謝は恩恵の流れに対してスイッチを捻る事である》
吾らはすべての恩恵を与えられているのであるが、 それは先ず自分が恩恵に向かって感謝することによってのみ、 その恩恵がわがものになるのである。
感謝すると云うことはスイッチを捻(ひね)る事に当る。
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(2)《眼はその人の心と運命を現している》
人に逢うて何かなつかしく、いつまでもその人と話していたいと思える人と、 そうでない人がある。
眼の光のなごやかな人と、鋭い人と、温かい人と、冷たい人と、なんとなく凄い人と、 狡(ずる)そうに見える人と、人間にもいろいろあるものだ。
濁りに染まない幼児の眼のような心になりたいものだ。
いろいろの眼の光のあるうちで、一番わたしの好きでない眼は狡い光の眼である。
隠し心のある眼、正面(しょうめん)を真正面(まとも)に見られない眼、 下を向いていて上眼(うわめ)づかいで見る眼、顔の向かぬ方を盗み視(み)する眼 ―― およそ狡(ずる)い眼の光はこういう眼の種類である。
ぱっちりと打ち開いた愛くるしい隠しのない眼の光で相手を見る人は必ず好運である。 形は心の影である。 眼の形、眼の光、そのとおりの形のものがあなたの運命をあらわしている。
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(3)《賞め讃える日》
【真に幸福になろうと思うものは、既に自分が幸福であることを知らねばならぬ (『生命の實相』第一巻)】
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(4)《霊とは自覚原理である》
霊とは意識すなわち心のはたらきがあるところの 眼に見えざる霊妙なる存在を呼んで云うのである。 これを称して 「 自覚原理 」 と呼ぶことも出来る。 みずから“ある”ことを自覚している原理であり、 みずから計画し設計するところの原理である。 だからそれを 「 自己創造原理 」 とも呼ぶことが出来る。
(http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12879012.html)
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(5)《報い求めぬ愛は尊し》 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58
<感謝合掌 平成27年2月1日 頓首再拝>
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