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光明掲示板・伝統・第一

 

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聖経『甘露の法雨』の功徳 (91)
日時:2015年01月25日 (日) 05時06分
名前:伝統

《何故、聖経『甘露の法雨』に功徳があるか》

            * 『白鳩』誌 40年4月号 より

神は遍在であり、到る処に在すのであるから、
神の愛は、常に到る処に〃神の子〃たるあなたに注がれていて、
〃神の愛〃の護りからあなたは外されることはないのである。

それは例えば、ラジオの放送電波は空間に遍在していて、
何処にいても、何処かの局からの放送を受信し得ないことはないのとよく似ているのである。

しかしながら、それを受信するには一つの条件がある。
それは、その放送電波に波長が合うという条件である。

肉体人間は時々、恐れたり、憎んだり、慾心を起したり、冷酷になったりして、
神の愛の波長に合わないことがある。
そんな時に破壊の波長に合って災難を受けたりすることになるのである。

そんな時にも役に立つ、神の護りの補助受信装置になるのが
聖経『甘露の法雨』なのである。
この実際的功徳は無数にあって、誌友諸賢が講習会の席上で
その体験を発表していられる通りである。

併し、何故それが神の護りの補助受信装置になるかというと、
それは生長の家の人類光明化運動の本尊たる観世音菩薩の作詞せられた詩であるから、
その作者観世音菩薩の詩のリズムが聖経に宿っていて、

神の護りの「愛」の霊波が、詩のリズムと波長が合って
其処に救いが現実化することになるのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/23074090.html


<関連Web>

(1)“本流宣言”掲示板「甘露の法雨・世界平和の祈り ムーブメント (58)」
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=29   

(2)光明掲示板・第一「奇蹟の『甘露の法雨』」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=64   


          <感謝合掌 平成27年1月25日 頓首再拝>

《7時間海中に浸りながら聖経の中身が濡れなかった神秘》 (218)
日時:2015年02月07日 (土) 03時31分
名前:伝統

       *新講『甘露の法雨』解釈(P305〜308)より

昭和38年11月22日、日本大学講堂で生長の家大講習会があった時、
それは私が海外旅行から帰朝しての第一声であったので、
無量一萬人近くの聴講者が集って非常に盛大であった。

その時東京都葛飾区鎌倉町465に住んで入れる樺山滋人(かばやましげと)さん――
この人は料理学園園主であり、東京都の民生委員をしておらる方ですが、戦争中、広島の
広町にあった海軍将校官舎でお目にかかった人で、次のような体験をお話になりました。


  『皆さんありがとうございます。私は終戦の時まで26年間海軍に生活致しまして、
  爾後追放令該当者に指定され、或いはブラジルに行って開拓をやり、つぶさに
  辛苦をなめて参った者でございます。

  去る5月、谷口先生がハワイにおいでになられまし後を私は追いまして、家内同伴で
  ハワイに参り約2週間、かの地に滞在いたしました。先生の御人気の素晴しさ、
  これを身近に聞きまして私達は非常に嬉しい気持ちで日本に帰って参りました。

  ロサンジェルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ブラジル各地、いずれも私達の
  曾遊(そゆう)の地でございまして、私の子供4人ブラジルに移住しておりますが、
  かの地からのの便りによりまして谷口先生御夫婦の御巡錫の地、到るところ歓声が
  湧き起って大変なものであったという事、私の子供も先生のお出でになるのを
  首を長くして待っていたのでございます。

  先生も思い出して下さると思いまするが、ちょうど昭和19年、先生が呉軍港に御巡錫
  にならりました砌(みぎり)に、私は同僚の黒田君と先生を宿舎にお招きしまして
  当時の戦争中の貧しい晩餐をつきあって頂いたのでございます。

  その時に私は、太平洋戦争の初期に起きました私の体験を申し上げまして、
  「甘露の法雨」の功徳をお話し致しましたのでございますが、その時先生は、
  それは当り前の事だというようなお話をなさいまして、
  私に「一切万事我より発し我に帰る」という短冊を書いて頂いたのでございます。

  先程の先生のお話を承りますると、将に私に頂門の一針を与えて下さったんだろうと
  思います。皆さん「甘露の法雨」と申しまするが、これは印刷した紙と表紙の布で
  何とか纏(まと)め上げた“物質”と申すようなものではございません。

  私は“物質”ではないと申しているのでございます。これは「甘露の法雨」という名に
  よって、谷口哲学の神髄の「生命の實相」を代表する“神”であります。
  “紙”ではありません。ペーパーではありません。ゴッドであります。

  私はこの神様をいつもと同じに、
  戦争の時にはひしと心深くだきしめまして決戦場に出て行きました。

  吾は神の子なり。吾は神の子、神と偕にあれば、吾が魂は常に平安なり。
  弾(たま)は或いは人間の肉体を傷つけるでありましょう。
  しかし神様を傷つけることは出来ないのであります。

  私はソロモン海戦並びに南支那海におきまして二度乗艦を撃沈されまして、何とか
  救(たす)かって海中に投げ出されたのであります。鱶(ふか)の生息する海面をただよう事
  7時間、かくして救けられました時、先ず私は懐から「甘露の法雨」を出しまして
  拝みました。

  表紙はずたずたに海水にぬれておりますが、ひとたび中味を開きました時には、
  一滴も海水はしみていない。唯今私はここに持っています。
  (ポケットから『甘露の法雨』を出して聴衆に示す)

  表紙は糊がはがれてもうボロボロでございます。
  これは私がもう昭和10年から持っておる『甘露の法雨』でございます。(拍手)
  この中身は御覧の通り昔のままでございます。一滴も海水は入いっとらん。
  7時間も海の中を泳ぎましてこういう状態、これを皆さん奇蹟とおっしゃいます。

  人間の五感で認識する縦横厚みの三次元の世界を遥かに超越したところの無限次元の
  世界、即ち神様の世界におきましては真実のみが存在します。奇蹟はございません。

  私は唯今東京都民生委員児童委員の職を仰せつかりまして働いておりますが、
  近頃非行少年がふえつつございます。
  これは少年が神から離れた哀れな姿でございます。

  皆さん、青少年を神から離れた姿に放ってはおけません。どうぞどの家庭も神から
  離れた姿には放置できないのであります。社会環境が神から離れた姿でないように
  持ってゆこうではありませんか。

  生長の家の個々の力の積み重ねが、その努力によってやがては全世界の平和を確立
  すると、私は確信するものでございます。

  この場で、この理意義深い大講習会に、ここに所見を申し述べる機会を与えて下さい
  ました事に対しまして、深甚の謝意を表しますと共に、この機会に本当に生長の家の
  信徒が一団となり、尚かつ生長の家以外の人でも志を同じくし、目的を同じくする者は、
  大きな力となり一団となって世界平和をかちとるという事が、この講習会を最も意義
  あらしめる事であると確信致します。有難うございました。』


このような『甘露の法雨』の奇蹟的体験は無数にあるのであります。

奈良教区方面の生長の家の幹部である太田英夫(ひでお)さんは、
戦争中輸送船が敵の魚雷で撃沈され、千数百名の兵隊及び軍属と共に、
渦巻きながら撃沈し行く船体と共に海底に吸い込まれましたが、

その時携帯せる『甘露の法雨』のお陰で、浮かび上がる船の破片木材を手に握って、
浮かびあがることが出来、炎天の照りつけられと4時間漂流後救われたとて
表紙のボロボロになった当時の『甘露の法雨』を見せられたことがあるのであります。

樺山さんの如きは鱶が沢山泳いでいる海中に7時間も漂うて無事だったことと
全く一対の奇蹟というほかはないのであります。

          <感謝合掌 平成27年2月7日 頓首再拝>

御守護 『甘露の法雨』 (363)
日時:2015年02月18日 (水) 04時15分
名前:伝統

          *『生長の家』誌(昭和39年6月号)より

最近随分、交通事故による死傷者の数が増えているのであるけれども、
これは全く、現代の日本人が信仰を失い、唯物論に陥って、神の愛が自分を護って
おられるという深い信仰がない  

――  という其の人の其の時の心の状態があらわれているのである。

聖経 『甘露の法雨』 を懐中していたために、自動車が衝突したけれども、
救かったという体験談が続々として語られるのであるけれども、

それは、 『甘露の法雨』 というお経を印刷してある 「紙」 という物質に、
自分を護って下さる力があると思うのは間違いである。

聖経 『甘露の法雨』 はそれを示し給うた観世音菩薩の生命のヒビキが
その一語一音にあらわれているで、これを持つことによって 

「私は神の愛に護られているのだ」 という深い信念が自分の心の中に出来、
神の愛を眼のあたり、直下に握っているような心境になれるものだから、
そのような奇蹟的功徳があらわれて来るのである。

 或る子供は自動車に衝突して撥ねとばされる瞬間 「神様」 といって 
『甘露の法雨』 をポケットの上から右手でしっかり握ったといっている。 

そして気がついてみたら傷していなかったというのである。

         (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18634829.html

          <感謝合掌 平成27年2月18日 頓首再拝>

自分の心に真理を聴かせること (479)
日時:2015年02月27日 (金) 04時35分
名前:伝統

          *『光の泉』誌(昭和47年7月号<P14〜16>)より

『生活の智慧 365章』 262頁には、次のごとく書いてあるのです。

『 ・・・ 病気に対する恐怖を除くことです。 
病気の恐怖は、病気を実在すると思うから起るのです。 

神は病気を造らないのであるから、病気などは存在しないのです。 
存在しない病気は進行する筈もないのです。 
「無い病気」 があなたの生命(いのち)を奪う筈もないのです

  ―  この真理を繰返し自分の心に言ってきかせるが宜しい。 ・・・・ 』

 
自分の心に 「病気はない」 という真理を言って聞かせるには 
『甘露の法雨』 というお経があるんですが、それを、毎日、仏前又は神前で朗読するとよろしい。 

この聖経には “病気は無い” という真理を、一種の新体詩のように
リズミカルに書かれているので、詩のリズムによって、‘コトバの’力が増幅して
その人の潜在意識へ真理が深く入って来るのです。


“本来・人間神の子・完全円満” という 「真理の言葉」 が
潜在意識に深く印象されるということになりますと、

  ―  潜在意識というものが吾々の生理作用を内部から支配しているのですから、
生理作用をその潜在意識が支配して、肉体を “神の子” のような完全な姿に
整えてくれることになるのであります。


潜在意識というものは、肉眼には見えないが、黙々として心臓の鼓動を、
現在意識は知らないうちにちゃんと整えて血液の循環をよくしてくれたり、

或いは呼吸を1分間18回位適当に呼吸させいて呉れたり、
或いは胃袋の中には電燈が灯っていないでも食べ物に対して適当な処置をしてくれる
不思議な心であります。


その潜在意識に、 “人間・本来神の子・完全円満” のその念(おもい)が
強く印象されて往きますと、潜在意識の支配下にある生理作用がその完全な想念に支配せられて、
病める者は健康を恢復し、健康者は一層健康になるということになるわけであります。


聖経 『甘露の法雨』 及び 『天使の言葉』 『続々甘露の法雨』 は
生長の家の三大聖経といわれていまして、

単に 「病気本来無し」 の真理を伝えるだけではなく、
これらの聖経は観世音菩薩の霊感を頂いて書いたものですから、
観世音菩薩の生命の波動がコトバのリズムにあらわれているので、

危急の場合に弾丸を避けたり、
交通事故に遭っても不思議に救われる如き体験が出て来るのであります。

http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19046016.html

          <感謝合掌 平成27年2月27日 頓首再拝>

火葬炉の中に残る、火にも焼けなかった聖経 (623)
日時:2015年03月11日 (水) 03時40分
名前:伝統

愛国本流掲示板に「聖経が火に燃えず。 (7095)」という記事があります。

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=2625

それぞれの記録の写真に関した記事を、順に紹介させていただきます。
(今回は、「火葬炉の中に残る、火にも焼けなかった聖経」に関してのものです)


(1)火葬炉の中に残る教典一冊

  @生長の家宇治別格総本山 〜 楠本加美野氏講演

   私はその後、河口湖道場に勤務しましたが、その頃は周りに何もなくて、
   あるのは富士山だけ(笑)という状況でした。

   そこで毎日、拡声器を富士山の方に向けて、当番を決めて、
   「聖経の間」を設けて『甘露の法雨』を一日中、連続して誦げておりました。

   そうしたら、「焼津港報」という新聞が私の手許に送られて来て、
   「昭和40年8月31日、静岡県焼津市のある火葬場で奇跡がおこった。

   千二百度の高熱を出して燃える火葬炉の中から『甘露の法雨』が焼却されずに、
   原型を残して発見された」という記事が目にとまった。

   千二百度で2時間も焼いたのに、
   表面が焦げただけで、殆ど無傷であったというのですね。

   もう感激してねぇ、何と素晴らしいことだろうと、
   さらに熱心に『甘露の法雨』を誦げたわけですが、
   現在この『甘露の法雨』は、総本山の温故資料館に大切に保管されています。

       (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=415415&mode=res&log=282


  A生長の家宇治別格総本山 〜 楠本加美野氏講演

   1200度で燃える火葬炉から甘露の法雨』が焼えずに発見された

   どういう奇跡が起きたかと言うと、
   163ページ(『よろこびの先祖供養』)にあるけども、

   ≪昭和四十年八月三十一日、
   焼津市のある火葬場で、奇跡が起こった。

   1200度の高熱を出して燃える火葬炉の中から、
   『甘露の法雨』が焼却されずに、原型を残して発見された。≫


   1200度ですよー?
   御祖母さんが亡くなったんで、
   御祖母さんが愛用していた、『甘露の法雨』を入れて、骨を拾いに行ったら、
   骨と一緒に『甘露の法雨』が出てきたって。

   これはもう、
   人類始まって以来の奇跡だねぇ。

   そうでしょう?
   紙が燃えて・・・1200度で、
   他の物、皆燃えて・・・眼鏡だって、皆融けちゃってるのにね。

   紙が燃えてない!
   大変な奇跡が起きたねぇ。

   その『甘露の法雨』はあそこに、保管されているでしょう?
   温故資料館にね。
   長く長く、保管されているでしょう?
   そういう奇跡が起きたんですねー。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/ningenhakaminokodearu/212612.html


  B火葬炉の中に残る教典一冊〜『生長の家』四十年史(P44〜45)

   『日刊・焼津港報』という業界新聞の昭和四十年九月一日号のトップ記事で、
   「火葬炉の中に残る教典一冊」という大活字の標題で、先ず次の如く、

   「炉内千二百度の高熱を有している焼津火葬炉の中で、生長の家で発行している
   『甘露の法雨』という教典が、焼却されずに、原形を残して三十一日午後発見され、
    現代では考えられない事実とあって話題をよんでいる」と事件の要点を書いて、

   更に、中見出しには、「二度の火葬後に発見、焼津火葬場で奇跡的と話題」と
   書いて記事本文は次の如く続くのである。

   「市営焼津火葬場勤務の増田鉄次さんが三十一日午後0時三十分ごろ、
   三機ある火葬機の中央炉内を清掃すると紙製の長さ十五センチ幅五センチの教典らしい
   未焼却な一冊のケース入りの本が出て来て、主任の松島正臣さんに報らせた。

   松島さんと一緒に確かめると厚紙製のケースは、こんがり焼けているが、
   形は崩れておらずケースから中の本を出すと、完全に原型はとどまっている。

   本は生長の家で発行している『甘露の法雨』という同教の信者間では、
   キリスト教のバイブルと同様に、最も大切にする教典。

   松島さんは紙製であり、不燃焼物でなく不審をいだいて、
   三十一日の午前中に火葬へふした人の経緯(けいい)を追ってみた。

   当日は午前九時三十分に着火して市内関方384−1農業杉本さくさん
   (明治三十八年九月生まれ)を火葬した。

   そして中央の炉は同十一時三十分市内小川1272の五渡仲昌さんを続いて火葬にした。

   火葬炉の中は耐火レンガで覆われ、鉄板上に寝棺をのせ重油バーナーで火葬する時は
   千二百度の高温とする装置で炉内の物は完全に焼却できる事になっている。

   教典は、杉本さんが生長の家の信者で(市立病院で死亡している)同家の人は、
   同教典をさくさんの手に握らせ胸の上に組ませて寝棺に入れたという。

   炉の中でどうして焼けずにいたかはナゾだが松島さんに聞くと・・。

   『私も長い間、火葬場をお守りしているが、紙製の本が未焼却で完全残置されたのは
   始めてだ。杉本さんの信仰が通って家族の人にこの教典を残したという事でしょうか。
   奇蹟という言葉が当てはまるでしょう』

   と一日午前十時に同教典を手にしてつくづくもらした。

   またこれを発見した増田鉄次さんはこういう。

   『昨日は午前九時と十一時に二体を火葬し、午後一時から三回目の火葬者があって
   その前清掃時に発見したのですから、二度も炉の中で焼け残った事になります。
   (骨拾い時は炉内にあった)杉本さんの家の方にも知らせたと思います。』

   この教典は、生長の家谷口雅春氏が著したもので昭和二十六年版。
   THE HOLY SUTRAとされ英訳によって世界に出版されているもの。  

   (http://blog.zaq.ne.jp/sinseityounoierengou/article/258/

          <感謝合掌 平成27年3月11日 頓首再拝>

「火にも焼けなかった聖経」A (727)
日時:2015年03月22日 (日) 03時40分
名前:伝統

(今回は、「火にも焼けなかった聖経」に関しての続編です)


(2)同様な事例として

  @《火中にあって焼けず》〜新講『甘露の法雨』解釈(P336〜337)より

   昭和33年7月20日、東京都品川区公会堂で常住精進会がありましたとき、
   私は『甘露の法雨』によっていろいろ功徳が得られた体験談の録音の筆写を揃えて
   整理して持って行って話したのでありましたが、

   それを筆記してくれた人が、完全筆記をしないで要点筆記をしてくれたので、
   それをつなぎ合わして話そうと思うのであります。

   その中に長崎県の佐世保市の講習会で
   瀧口清太郎という人が次のような体験を話されたのであります。

   瀧口さんの体験談は長崎特有のバッテン言葉で話されたので、
   そのまま朗読しても一般人には意味がわかりにくいのでありますが、
   その要旨を述べますと、


   村の敬老会で神前で読誦した『甘露の法雨』が中身だけなくなり紛失した
   のでありましたが、

   その祭礼の後始末にシメ縄や茣蓙(ござ)のような藁工品を焼いて、
   熱灰(あつばい)をその儘にしておいたのであります。

   翌朝、何もしらない村人によって前夜燃やしたわらの熱灰を取り片付けようとすると、
   その中から光り輝くものが出て来た。

   それは表紙はよごれていたが、経文の文字のある中身は全然燃えていなかった
   『甘露の法雨』だったというのであります。

   生命の実相は「火にも焼けず水にもおぼれず」と教えられておりますが、
   生命の実相(ほんとのすがた)を説いた『甘露の法雨』が火にも焼けなかった。


  A”真理の書”は火にも焼けず〜新講『甘露の法雨』解釈(P357〜359)より

   先日、書簡を整理していると、ずいぶん古い体験談の筆記が出て来た。
   その頃は録音機がまだ普及していない時代で、当時生長の家にいた速記者、
   倉橋公宣君の筆跡であって、その用紙も、褐色になって古びがあらわれている。

   昭和18年8月14日仙台に於ける講習会の際に発表された体験で、
   話者は伊藤徳四郎という人である。
   次のように話しておられる。


   『只今、御紹介にあずかりました伊藤でございます。
   私の入信はちょうど10年も前からでございます。

   別に自分の体が悪いというようなことが原因で入信しましたのではありませんが、
   家族の者に病気がありまして、その際突然にお知り合いの徒弟の方に御本を戴きまして、

   そのときちょうど子供が関節炎で、ギブスを固めました翌日おいでを願いまして、
   関節の方よりも悪うない他所(よそ)が悪かったのであります。

   他所が曲らぬようになったのでありますが、それを約15分間思念をして
   戴きました結果、それがすぐ自由に曲るようになりましたのであります。

   その頃生長の家の道のお話を伺いまして、なるほどと感じまして御本を拝借
   いたしまして、拝読いたしましたのが動機となりまして誌友にもならして戴き、
   今日に及んでいる次第でございます。

   さて体験と申しましては、家族の病気につきましては、ニ、三大変医者にも、
   医者がどうしても治せぬというようなものがひとりでに治りました。

   それよりも私共の心の摩擦とでも言いますか、4年前にちょうど4年前の
   10月の21日でありますが、午前9時に火事に見舞われたのであります。

   そして何物も出さず、一物も出さず全部火災の為に焼失したのでありますが、
   その頃に私、ちょうど母が京都に行っておりまして留守でありますから
   こういうことを言いました。

   どうも女というものは着物を非常に惜しがるものであるから、
   従来蔵(しま)って置きました着物をなくしてしまうということは
   非常に悲しいものじゃないか、ということを感じましたので、

   火事最中でありましたが、裏の寺の前に行きまして立っておりまして
   神想観をいたしまして、自分等のものは、自分並びに子供等のものは
   何がなくても差支ないのであるから、

   しかし母の着物だけは是非一つ焼かないで欲しいというような気分で、
   必ず焼けないという神想観を致しましたのでありますが、

   それがちょうど翌日になりまして警察の検査に立ちましたところが、
   幸いにも母のものは箪笥4つにありました着物の全部焼けないのであります。
   その他全部焼失致しました。

   申し遅れましたが、私の家はちょうど余り大き過ぎまして50幾坪とございまして、
   八畳間が7つもありました家で、その他小さい部屋もありましたが、そういう大きな家が
   全部焼けたのでありますので、箪笥や衣類などというものは必ず焼けるものと思って
   おりました。

   ところが、私の思念が天に通じましたものか母の品物と致しましては全部焼けないで
   そのままありました。(拍手)唯(ただ)水はかかりまして色とか何とかは
   悪くなりましたのですが、少しも焼けないでしまったのであります。

   洵(まこと)に有難いことだと思っております。

   尚その際に生長の家の御本「生命の實相」の前身である「久遠の實在」という
   皮表紙の御本を一番床置きに何時も置いておるのでありますが、

   そこには「甘露の法雨」もあり、
   叉「生長の家」という毎月の雑誌、あれも5冊ばかり重なっておったのでありますが、

   其れがどうかと言いますと、そこの一緒に置きました他所の本は、
   或いは掛物とかその他のものは全部焼けてしまって形がないのでありますが、

   生長の家に関係しました御本、要するに「生命の實相」と「久遠の實在」
   それから「甘露の法雨」是は水もかかりません、
   また焼けも致しませんでそのままそこにあったのであります。(拍手)

   尚「生長の家」の雑誌は水ですっかり濡れておりましたが一冊も焼けないであります。

   それを思いますと真理は水にも溺れず、火にも焼けずということは全く本当であると
   いうことを私は感じさせて戴いたのであります。

   それからここは私と致しまして最も感じおりましたことで、
   先にその当時も皆さんにお話を申し上げたのでありますけれども、
   繰り返して今日も先生に御礼旁々(かたがた)皆さんにもお聞きを願った次第であります。
   ここで失礼致さして戴きます。(拍手)』

 
   この体験で興味深いのは、火事の最中に裏の寺の前に行って、神想観をして、
   留守中の母の着物を焼きたくないと思ってそれを念じたら、他のもの皆焼けたのに、
   箪笥4つにあった母の着物が全部焼けなかったということで、

   「環境も肉体も心の影」と生長の家で説いている真理の実証となっていますが、
   本当に「焼けない」という念が起れば「焼けない」事実があらわれるのであります。

   火事が起った原因も、伊藤さんは、「私共の心の摩擦」といっておられます。
   実際、大抵火災が或る家に起る場合には、その家族の中に精神的摩擦があるのであって、
   それはあとで反省してみればわかるのであります。

   それよりも更に不思議なのは、家が全焼しているのに、

   床の間に置いてある『生命の實相』『久遠の實在』及び聖経『甘露の法雨』と、
   5冊の『生長の家』誌等、真理の書かれている書冊が、同じところに置かれている
   他の本は焼けているのに、焼けていなかったという不思議さであります。

   ”真理”は火にも焼けず、水にも溺れずといわれますが、
   まこと『甘露の法雨』その他“真理の書”の功徳は素晴らしいのであります。


          <感謝合掌 平成27年3月22日 頓首再拝>

聖経、弾を通さず。 (806)
日時:2015年03月30日 (月) 04時49分
名前:伝統

愛国本流掲示板に「聖経、弾を通さず。」という記事があります。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=daityouwa&mode=res&log=2625

今回は、これに関した記事の紹介です。

《大東亜戦争に際して》

            *『白鳩』誌 昭和37年4月号74頁 より

大東亜戦争のときに於いて、
連合軍が欧州戦線を速かに収拾せんがために出動したけれども、
適当な上陸地点がない。

イタリーの南端シチリー島を上陸地点として選んだが、其処には堅固無類のトーチカ陣があり、
白人の軍隊も黒人の軍隊も皆全滅した後に、最後に選ばれたのが、ハワイの日本民族第二世の
軍隊で、時の生長の家ハワイ白鳩会長たる宮川和子さんが祈りをこめた生長の家の聖経
『甘露の法雨』をポケットに入れ、

「我れ『甘露の法雨』と共にあるから敵弾では傷つかない」との信念をもって上陸に成功し、
『甘露の方雨』に機関銃弾が当りながら傷つかなかった兵隊が沢山あったと云うのである。

その為に連合軍が速やかにヒットラー軍を爽撃して
欧州戦線を収拾することができたのでありました。

このためアメリカでは「こんな速かにヨーロッパ戦線が片付いたのは日本民族のお陰だ」とて
日本民族に対する尊敬と好意の念がさかんに起ったので、戦後、内地の日本人が食糧に
困窮し産業資金に窮乏している時に、

ガリオア資金の名の下にて食糧を供給してくれたり、
エロア資金の名の下に日本の産業復興資金を供給してくれたりして、
現在のように天之岩戸景気から更に行き過ぎてレジャーブームを湧き立たせる程になったのも、

日本の重大時期に際して聖経『甘露の法雨』を吾々に授けられた住吉大神が
如何に日本民族に恵福を与えるために活動せられたかが分るのであります。

       (http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/61

                  ・・・

《ハワイ日系二世部隊の奇蹟》

    *Web「生長の家「今昔物語」からの転載です。
       (神秘面より観たる『生長の家』四十年史(P.52−55))

しかしこのような奇蹟は個人に関する霊験の片鱗(へんりん)であって、
もっと重大な奇蹟は終戦当時及びその後、日本国家の運命に及ぼした『甘露の法雨』の
偉大なる事蹟(じせき)である。

私は終戦の翌々年八月北海道登別温泉の第一滝本舘本館の大広間で、
終戦後の北海道講習の第一声を挙げた。

ホテルの大広間は寿司詰めに坐ると五百人ばかり入れるのである。
集まる人が激減している終戦直後ではこの位の講堂で間にあったのである。

午前の講習を終わって昼食をしたためていると、
係りの人が、「先生、アメリカ軍の将校の人が先生にお目にかかりたいと言って来ています」
というのだった。・・・彼はハワイ生まれの日系第二世の将校であった。

彼は私の顔を見ると、嬉しそうな表情をして、
「先生、今度の戦争でヨーロッパ戦線で勝利を得た民族はどこの民族ですか知っていますか」
と言った。

「知らないよ。それは、何処の民族だろうね」と答えると、
かれは意気軒昂(いきけんこう)というような身振りをしながら、
「それは、日本民族ですよ」と言った。

「それはどういう意味ですか」と私は思わず言った。
するとそのアメリカ軍将校は大体次の様な事を話してくれた。―――

ヒットラー・ドイツを制圧するために連合軍が組織されて多くの船団に各国の兵隊を乗せて
ヨーロッパ戦線に送られて行ったけれどもどこにも適当な上陸地点がないのであった。

そこで、最初に上陸の地点として選ばれたのがイタリーの南端のシチリー島であった。
ところがそこは天然の岩窟(がんくつ)の陰になっているところに要塞(ようさい)が
築かれていて、そこに砲塁(ほうるい)や機関銃座が沢山据えつけてあり、
上陸用舟艇がある距離まで近づいて行くと、其処に、砲弾・機関銃弾が集中して、
どの民族の部隊も全滅して上陸することが出来なかった。

最後に選ばれて上陸を敢行(かんこう)したのが、ハワイの日本民族第二世の部隊であった。

日本民族第二世の部隊が召集されることになると、
当時、ハワイの生長の家白鳩会の会長をしておられた宮川和子さんは、
英訳の『甘露の法雨』をたくさん印刷してそれに神想観して祈りを篭(こ)め、
応召出陣する第二世の兵隊さんのポケットにそれを一部づつ入れてやった。

そこでそれらの日本民族第二世の兵士たちは“われ『甘露の法雨』と倶(とも)なり。
不死身の軍隊なり”という自覚で難攻不落のシチリー島に弾丸雨注する中で勇敢に上陸を
試みた。

ところが、『甘露の法雨』を携帯しているために弾丸が不思議に中(あた)らない。           
中には『甘露の法雨』に明らかに機関銃弾が命中しながら、それを貫通することが出来ないで、
そこで弾丸が止まってしまっていて、肉体は傷ついていない人も大分ある。

英訳の『甘露の法雨』は日本文のそれのように硬いサックも表紙もなく、ただ白紙に、
新聞の五号活字位の大きさで印刷されているので、極(ごく)薄い紙片にすぎない。
それを弾丸が貫通しなかったのだから奇蹟というほかはない。
 
このような奇蹟があって、多勢の日本部隊がシチリー島に上陸することを得て
橋頭堡(きょうとうほ)が築かれ、続々と連合軍が上陸することが出来、
北上してイタリーのムッソリーニを仆(たお)し、さらに北上してヒットラー軍を
制圧して速やかに連合軍が勝利を得ることが出来たのであった。

常にこの日本民族第二世の部隊は、難処に至るほど勇気を鼓して先頭に立って奮戦し
連合軍を有利に導いて偉大なる戦功を樹てたのであった。
これ全く『甘露の法雨』のお蔭であるということであった。

私は、その時にはその報告の事実だけをただ素直に受け取っただけであって、
それがその後に及ぼす驚くべき影響については気がつかなかった。

だいたい大東亜戦争は、真珠湾集結のアメリカ太平洋艦隊に対する日本海軍の先制空襲に
よって始まった。それゆえに、日本に対するアメリカ側の憤(いきどお)りは実に
熾烈(しょくれつ)で、

アメリカ領のハワイ生まれの日本人第二世は、“アメリカ人”として市民権を本来持って
いるのだけれども、風当たりは烈(はげ)しくて色々の差別的な待遇を受けたそうである。

だから宗教でも、日本から往っている宗教の布教や集会は全然禁止せられた。
仏教の僧侶は勿論のこと、キリスト教会ですら、日本から往っている宣教師のいる教会で
は集会は禁止せられた。

生長の家も当然布教が禁止さるべきであったのである。
ところが英訳された『甘露の法雨』を米軍の検閲官が読んでみて、
「この宗教は、どこも悪いところはないではないか、布教しても宜しい」ということになって、
生長の家のみハワイは勿論アメリカ本土に於いても布教が許可されることになったのである。

ここに深謀遠慮(しんぼうえんりょ)の神さまの救済の摂理があったのである。

もし生長の家の布教が許可されていなかったら、ハワイ白鳩会長の宮川和子さんは、
英訳『甘露の法雨』を日本人第二世の兵隊に持たせることは出来なかったであろうし、
日本人第二世の部隊は『甘露の法雨』に敵弾が当たりながら貫通する事が出来ず、
傷つかずに、無事にシチリー島に・・・(以下省略) 

          <感謝合掌 平成27年3月30日 頓首再拝>



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