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「人の上に立つ者に求められること」 (73)
日時:2015年01月23日 (金) 18時29分
名前:夕刻版

         *『致知』2014年6月号
          特集「長の一念」(P9)より

中国の古い昔、龐蘊(ほううん)という坊さんが師匠に弟子入りを願い出た。


禅門は簡単に入門を許さない。

玄関で待っていると師匠が現れ、いきなり桶の水をバサッとかけた。
他の志願者は皆腹を立て帰っていったが 龐蘊(ほううん)だけは残り続け、入門を許された。

弟子になって間もないある日、師匠が外出した。

龐蘊(ほううん)は蔵に入り、普段は食べられないご馳走をつくって皆に振る舞った。

ところが、思いがけず予定より早く師匠が戻ってきた。

師匠は激怒し、龐蘊(ほううん)を寺から追い出したばかりか、
ご馳走した分を町で托鉢してお金で返せ、と要求した。

龐蘊(ほううん)は風雨の日も厭わず托鉢を続け、ようやくお金を返した。

すると師匠は、

「おまえが托鉢している間、野宿をしていたのは寺の土地だから家賃を払え」

と迫った。

龐蘊(ほううん)はその言葉に従い、また黙々と托鉢を続けた。

その様子をじっと見ていた師匠は弟子を集め、
自分の後継者が決まった、と宣言し、龐蘊(ほううん)を皆に紹介した――。


弊社主催の徳望塾で、円覚寺の横田南嶺管長が述べられた話である。


これに続いて、横田管長はご自分のことを話された。


横田管長は45歳で円覚寺の管長に選ばれたが、なぜ自分が選ばれたのか分からない。

ただ一つ、これかなと思うものがある。

それは「ここを離れない」という一事。

どんなことがあってもここから離れない。
ここを見限らない。ここに踏みとどまる。

自分が貫き得たのはこの一つ。

それを師匠は見てくれていたのではないか、 と横田管長は話されていた。


ここを離れない――

長の一念はここに始まりここに尽きるのではないだろうか。


国であれ会社であれ家庭であれ、
あらゆる組織はそこにいる長がどういう一念を持っているかで決まる。

それがすべてといっていい。

様々な分野の長にお会いしてきたが、
すぐれた長には共通して2つの条件があることを強く感じる

(1)「修身」
(2)「場を高める」

この2点に意を注がない長は長たる資格がないと断言できる。


気まま、わがまま。ムラッ気を取り去る。
修身とはこのことである。

さらには、公平無私、自己犠牲、先義後利(自己の利益を追わない。義務が先、娯楽は後)
を率先垂範することである。

長が私意をほしいままにして、組織が健全に成長するわけがない。



次に場を高めること。
長たる者は自分のいる場に理想を掲げ、そこに集うすべての人をその理想に向け、
モチベートしていく人でなければならない。

「適切な目標を示さず、社員に希望を与えない経営者は失格である」とは
松下幸之助の言葉だが、まさに至言である。



加えてもう一つ、長の一念を安岡正篤師が明示している。

「偉くなることは必ずしも富士山のように仰がれるためになるのではない。
なるほど富士山は立派だけれど、それより立派なものは大地である。

山を載せて一向に重しとしない。
限りなき谷やら山やらを載せて敢(あ)えて厭わない。
常に坦々としている。

この大地こそ徳である。
われわれもこの大地のような徳を持たねばならぬ」


最後に、逝去された経営コンサルタントの船井幸雄さんの晩年の言葉を付記する。

「40余年経営コンサルタントをやってきてわかったことがある。

どうしたら経営がうまくいくか。

それはそこにいる人が命を懸けている。
それが第一条件。
いるところに命を懸ける。これが大事」

長として欠かせない姿勢であり、一念である。

            <感謝合掌 平成27年1月23日 頓首再拝>

いまリーダーに求められるもの (83)
日時:2015年01月24日 (土) 19時59分
名前:伝統

        *『致知』2014年6月号
          特集「長の一念」(P76)より

《いかにしてこの歴史的偉業は成し遂げられたのか》

 【対談】(童門冬二 渡部昇一)


<渡部>

童門先生は、どんな時代にも共通して求められる長の資質というものを挙げられますか。



<童門>

6つの条件があると思います。

(1)先を見る力
(2)情報を集める力
(3)その情報を分析判断する力

(4)問題解決の選択肢から一つを選択する決断力
(5)それを実行する実行力
(6)生身の人間が行なうことだから健康・体力


<渡部>

それは古今東西、普遍の条件ですね。


<童門>

また、いままではよく信長型、秀吉型、家康型と天下人を3タイプに分ける癖が
ありましたが、これからはそれではダメだと。

古いものを壊していく信長、
新しいものをつくりだす秀吉、
よいところを長持ちさせる維持管理の家康、

この三つを兼ね備えていることが求められます。

つまり、陋習を打ち破り、新しい価値を創造し、その中からよいものを残していく
指導力を持ったリーダーが望まれますね。


<渡部>

きょうは明治維新のリーダーたちについて話してきましたが、
私は、明治維新は単に江戸時代が終わって明治になったのではなく、
世界に例のない有色人種の近代国家をつくったという大事業であった点を、
もっと多くの日本人に認識してもらいたいところです。

そして、その維新の立役者の中には、明治天皇もいらしたのではないかと。
若くして天皇になられ、あれだけの激動の時代を君主として過ごし、
日本を近代国家へと発展させました。

確かに、明治天皇が直接何かをされたわけじゃないんです。
しかしそれが将の将たるゆえんというのでしょうか。

例えば漢の高祖なんか戦争で勝ったためしがないんだけれど、
何となく皆に懐(なつ)かれる資質があった。

あるいは初代エリザベス女王の時代にイギリスはパーッと成長したわけです。

じゃあエリザベスが何か画期的なことをしたかというと、そういうわけではない。
ただ、エリザベスに従う人たちが非常に張り切ったんですね。

仮にエリザベスのお姉さんであるメアリーが長生きしていたら、
あれだけイギリスが発達したかといったら、それは分からないと思います。

そういう意味では明治天皇の時代、日本はいろいろな人材が大活躍しました。
人をして大活躍させる徳が君主にあったということでしょう。


<童門>

明治というのは、二百六十年間の鎖国時代の蓄積があったから、
人材にしても、何にしても、それが一気に爆発した時代なんでしょうね。
近代日本の青春時代だと僕は思っています。


<渡部>

名君には、ただ在位するだけで国家が発展するという徳がある。
しかしその根底には、国を思う深い一念があるのだと思います。

明治維新は明治天皇と、そこに関わるすべてのリーダーたちの
強く深い一念によって成し遂げられた日本史上稀にみる偉業であることは間違いない。

現代のリーダーたちにも維新の元勲たちに負けないような強い一念を抱いて、
再び国家の徳を取り戻してもらいたいものですね。


<童門>

私はちょっと逆説的になるのですが、一人ひとりがキョロキョロしないで、
それこそ一念を持って、いまいる場で全力を尽くすことだと思います。

先ほどもありましたが、維新を推進したリーダーたちは皆、地方の下級武士たちですよ。

彼らは天下を取ってやろうと野心を抱いて、クーデターを起こしたのではなく、
自分の最善を尽くしていく中で明治維新が成し遂げられていったわけです。

いま日本各地にいるそれぞれが、一念を持ちその場で全力を尽くすことが
、やがて国家をも動かしていくということを、
維新のリーダーたちが教えてくれていると思うのです。

            <感謝合掌 平成27年1月24日 頓首再拝>

「包容力を持て」 (188)
日時:2015年02月04日 (水) 21時09分
名前:伝統

         *『生長する青年』(昭和25年11月号)より

「包容力を持て」〜 徳久克己講師  



 ―― 私の養成したい人間は、ただの正しい人間ではない。

包容力の偉大なる人間である。万物と克く調和する人間である。

調和包容力のない人間は、それ自身正しくとも

誰一人をも生かすことが出来ないのである。 

    ――  谷口雅春先生 『青年の書』より


指導者となるために必要なことは、偉大な包容力をもつということである。

ちょっとした感情の行き違いや、物の貸借関係等の些細なことで、
自分のために協力してくれる重要な友人や部下を失うようなことでは、
偉大な仕事を完成させてゆくことは出来ないのである。

諸君の協力者が諸君に対して面白くない行為をした時には、
彼等を責める前に先ず彼等が何故にそんなことをせねばならなかったか、
彼等がそんなになったのは諸君自身の彼等に対する愛が足りなかったのではなかったか?

というように先ず自己反省をしなければならない。


相手を責めるということは相手を排斥するとであって、自分への協力をことわることであり、
折角自分の中に入ってきたものを外へ放り出してしまうことなのである。


水を沢山入れようと思えば大きい器が必要であると同じように、
諸君が偉大な指導者になればなる程、諸君自身の器が大きくなる必要があるのであって、

どんな人間が諸君のふところへ飛び込んできても包容できる、
偉大な包容性というもが必要となってくるのである。


包容力を養え、ということを強調すると、すぐ「我慢したり、耐えたりする」人があるが、

これは根本的に誤りであって『甘露の法雨』の冒頭に 

「怺へたり我慢してゐるのでは心の奥底で和解してゐぬ」

と説かれているのである。

包容性とはその根源が愛に基いたものでなければ、真の包容性ではないのであって、
結局 「万物と克く調和すること」 なのである。

調和とは感謝であり、感謝は自他一体の愛から生れてくるのであって、
太陽が総てのものに惜しみなく光を与えるが如く、

自分にとって都合がよいとか悪いとか、
美しいもののみに光を与えるというようなのではなく、

太陽は総てのものに平等に光を与える如く、

好き嫌いとか都合とか不都合とかいう、感情や利害関係によって支配される愛は、
ニセモノの愛である。

相手の欠点をほじくり出して排斥するような偏狭な心では、
指導者としての資格はないのであって、偉大な仕事はできないのである。

太陽が肥料の上にも光をあてて、それを美しい花に変ずるあの偉大な包容性、
吾々は学ばねばならないのであって、

偉大な包容力を持つならば、
集り来る如何なる人々をも唯々素晴らしい人々に変えてしまうのである。

諸君は自分が正しいからと云って、決して他人の不正を責めてはいけないのである。

吾々は信仰に入ったから云って、或は神についての多少知識を持つからと云って、
信仰薄き者、或は信仰なき者を決して軽蔑してはならないのである。

自分が神の子であるという自覚を得れば得る程、
総ての人を神の子として拝みそして包容するようになるのが、本当の信仰であって、

多くの人々の中で一日でも早く神と結ばれた諸君は、
偉大な包容力を持って総ての人々を限りなく愛さなければならない。

諸君が他人のことを心配したり責めたりしなくとも、
神は既に総てを知り給い、全智全能なる神は彼を最もよく導き給うのである。


包容力を持つということは、絶対なる神を信ずることであって、
諸君が真に神を信じ、諸君自身が無限愛なる神の子であるとの自覚を得るならば、
諸君に包容性は自然にそなわってくるのである。


技巧的な包容性はニセモノで、必ずメッキがはげる時が来るのであるが、
神の子の自覚からくる包容性こそ、真の包容性であり、
諸君を偉大な指導者となすのである。

   (光明掲示板・第一より転写いたしました。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=116 )

            <感謝合掌 平成27年2月4日 頓首再拝>

《指導者となるための指標》 (281)
日時:2015年02月11日 (水) 17時42分
名前:伝統

         *『生長の家』昭和二十五年六月号・巻頭言

(1)汝のもてるすべてのものを以って強力に前進すべし。
   今の瞬間に汝の凡ゆる未来がかかってあるかの如く今手近にある所の仕事に集中せよ。

(2)進歩発達は責任の加わる毎に増加するのである。
   自から求めて責任を負うべし。
   これを避けるべからず、人生を一大冒険と考えよ。

(3)明日希望する所の仕事のために、今日を用意せよ。
   そのために常に受けるよりも一層多くを与うべし。
   これが成功に到る大道である。

(4)常に静かなる自信をもちて行動し、常に次のことをモットーとせよ。

   「常識を逸脱せず周囲と調和し而も勇敢に行動せよ」
   大いなる成功は常に「敢えてなす勇気」を要するのである。

(5)「行き届く」という良習慣を発達せしめよ。
   すべての細部にわたりて行きとどく習慣こそ成功の生きた要素である。

(6)凡ゆる材料をあつめて沈思熟考したる後、断乎と決意せよ。

(7)誰が世間の名声を獲得するかについては思い煩うこと勿れ。

(8)何事もどんな忠言にもよき聴き手たるべし。

(9)命令を与えたり対決を表明する前に他の人の意見を悉くきけ。
   それ迄は自からを表す勿れ。

(10)これはほめる値打ちがあると気がついたならば速かに賞賛せよ。
   非難すべきことが必要ならばひそかにその人のみに語れ。

(11)人の犠牲に於いて自からも利せざるよう注意せよ。

   一時の個人的な利益よりも友人同僚の協力こそ永遠に尊き価値があるのである。
   汝の好まざる人をよく深切に導け。
   而して彼らの美点をほめることを試みよ。

(12)決して不平の心をおこすべからず。
   心の曇りを毎日きれいに拭い去るべし。
   寛容雄大の精神を教養せよ。

(13)自分を悲しみの心を以て汚すな。
   必勝の態度を常に保て。

   クロムウェルのモットー「思いを深くして感謝せよ」に従うべし。

(14)今日一日の生命と思いて生きるべし。
   取越苦労はいらぬのである。

(15)仕事の合間、ほっとした時にニ、三回深呼吸を行いて精気を新たならしむべし。

      (米国の光明思想実践運動D・I・Aの標語より)

            <感謝合掌 平成27年2月11日 頓首再拝>

指導者の条件〜その1(あるがままにみとめる) (392)
日時:2015年02月20日 (金) 17時20分
名前:伝統

            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

《 あるがままにみとめる 〜 指導者は人、物すべてをあるがままに認めなくてはならない 》


聖徳太子のつくられた十七条憲法の第一条に、
「和を以て貴しとなす。さからうこと無きを宗とせよ。人みな党あり。・・・」とある。

”人みな党あり”というのは、
人間というものは、必ずグループ、党派をなすものだということであろう。
それが人間の本質だと太子は見抜いておられたのだと思う。

確かに、人間の集まるところ、大小の別はあっても、必ずグループ、党派があるといっていい。
そういうものが自然に出来てくるわけである。

けれども、そうしたグループ、党派というものが全体の運営の上で弊害をなす場合が少なくない。
特に昨今”派閥”と呼ばれるものにはその傾向が強い。

そういうところから、”派閥解消”ということがさかんに言われ、
いろいろと努力もされているが、その割にあまり効果が上がらないのが実情のようである。

これは、結局派閥をつくるのは人間の本質であり、
派閥をなくすことは不可能だからではないだろうか。

つまり、派閥というものはなくせるものではなく、
その存在を認めた上で、活用、善用すべきものだと思う。

そのことを太子は言っておられるわけで、だから
”和を以て貴しとなす”=派閥だけの利害にとらわれず全体の調和を大切にしなさい
と言われたのではないだろうか。

これが太子の偉大なところだと思う。

人間の本質というものは変えることが出来ない。
それを変えようといろいろ努力することは無理である。
というより、人間自身を苦しめることになる。

だから、その本質はまずこれをあるがままに認めなくてはならない。
そして、その上でどうあるべきかということを考える。
それが大切なわけである。

これは人間に限らず、物事全てについて言えることであろう。
けれども実際にはなかなかそれができない。

ともすれば、好きだとか嫌いだとかいった感情や、
自分の利害にとらわれて物事を都合の良いように見てしまう。

そうなると、真実と離れた姿しか見られないということになる。
それでは正しい判断もできないし、ことを誤る結果になってしまう。

だから、指導者たる者は、出来うる限りとらわれを排して、
物事をあるがままに見るようにつとめなければならない。

そうしたあるがままの認識があって、
初めて適切な指導も生まれてくることを銘記すべきだと思う。

            <感謝合掌 平成27年2月20日 頓首再拝>

「今日一日の用を以て極みとすべきなり」 (418)
日時:2015年02月22日 (日) 17時55分
名前:伝統

       *『致知』2014年12月号より 
        対談:荒井桂(郷学研修所安岡正篤記念館所長)
           川口雅昭(人間環境大学教授)


17世紀、江戸時代初期に生きた山鹿素行(やまが・そこう)という人物がいます。

当時、明や清といった中華の思想ばかりに目を奪われていた日本人に対し、
古来の日本精神に立ち戻るよう警鐘を鳴らし、そのための思想を樹立しました。

その思想は『武教全書』『中朝事実』という2冊の書物として残され、
200年の時を経て吉田松陰の魂を揺さぶり、明治維新の原動力となったのです。

まさに山鹿素行による発想の転換がその後の日本に大きな影響を与え、
幕末から明治にかけての歴史を変えたと言っても過言ではありません。


知られざる偉人・山鹿素行が残した教えの神髄、その「リーダー論」とは――。


          ・・・


荒井 かつて明の鄭和がインド洋、アフリカまで遠征し勢力を拡大したように、
   いまの中国が拡大政策を進め、その中で尖閣の問題が起き、沖縄が危機に
   さらされているわけですから、

   川口先生のおっしゃるように現代の日本人こそもう一度、
   この『中朝事実』に触れるべきだと私も思います。

   その中で我が国が世界史の中で果たさなくてはいけない
   歴史的使命のようなものが見えてくると思うんです。

   とは申し上げても素行の言葉は難解で、原書を読み解くのは容易ではありません。

   私は『中朝事実』の大意をまとめた本を近く致知出版社から上梓する予定ですが、
   その作業をとおして改めて気づいたのは、

   一つひとつの言葉を丁寧に見ていくと、示唆に富んだものが多いということです。

   これは『武教小学』も同じですね。


川口 「よく信じて偽らず」というのもその一つではないでしょうか。

   山鹿素行はまさにそういう人だったのだろうと私は思います。

   素行がいう信じるというのは、世間で言われるような意味ではなく、
   真心の世界に生きて一切の偽りをしないこと。

   そして、それを突き詰めると《誠》という一語に行き着くように思うんです。

   それは人間が生きていく上での基本の基本なんですね。

   その精神を引き継いだのがまさに松陰なんです。


荒井 私は素行の言葉を挙げるとしたら一つには、

   「大丈夫、唯(ただ)今日一日の用を以て極みとすべきなり」

   という士道論の一節をぜひ紹介したいと思います。


   人の上に立つほどの立派な人間は、
   この日一日をどう真摯に生きるかを以て生き方の根本にしなくてはいけない、
   という教えです。


   安岡先生のお言葉を借りれば、

   「永遠の今を愛する心」

   この一瞬を大切にして一日一日を生きる。
   その覚悟こそ武士道の根本ということになろうかと思います。


   ロシアのノーベル賞作家ソルジェニーツィンが、
   翻訳されたこの一文に触れて素行に傾倒したという逸話もありますが、

   私も初めてこの言葉を知った時、これはまさに名言中の名言だと思いました。

   これも上に立つものには大切なことですが

   「大丈夫、存心(ぞんしん)の工夫、唯義利(ぎり)の間を弁ずるに在るのみ」

   という言葉もお伝えしておきたいですね。

   人の上に立つ者が心を離してはいけないのは
   義(正しいこと)、利(儲かること)の2つをきちんと弁別することだと。

   それから安岡先生が簡潔にまとめた『山鹿流政治論』の中に
   「五治」というものがあります。


   (1)威(威厳)、
   (2)愛(国家や国民への思いやり)、
   (3)清(清潔)、

   (4)簡(簡明)、
   (5)教(教化)

   の5つ。

   これこそは統治者に必須だという教えですが、
   これもまた時代を超えて求められる大事な日本精神の要諦でしょうね。


川口 素行の人生や思想について論じてきましたが、そこで明らかに言えるのは、


   17世紀の素行の発想の転換によって、
   その後の日本の歴史もまた大きく変わっていったということです。

            <感謝合掌 平成27年2月22日 頓首再拝>

トップは万一の際、命を捧げる覚悟が必要 (458)
日時:2015年02月25日 (水) 17時49分
名前:伝統

         *『致知』2014年6月号 (人間環境大学教授・川口 雅昭)
          特集「長の一念」(P39)より

《吉田松陰『講孟箚記』が教える長のあり方》


『講孟箚記』は現在に生きる私たちに様々な人生や仕事の示唆を与えてくれますが、
その一つが組織の長たる者の姿勢です。

その中でも特に大切なものを2つ挙げれば、
「私心を去る」こと、そして「善を好む」ことです。

松陰は『武教全書講録』の中で、国家の長たる武士がなすべきこととして、
公私の来客に対応すること以外には、

「武芸を習ひ、武義を論じ、武器を閲するの三事に過ぎず」
(武芸習練、武士のあるべき様の学問、武器の手入れの三つに過ぎない)と述べ、

「武士誠に此の三事を以て日々の常識とせば、武士たらざらんと欲すと雖も得べからず」
(武士が本当にこの三つのことを日々の当然とし実践すれば、立派な武士たらんと
思わなくても、必ず心ある武士になるであろう)と結んでいます。

ここで松陰のいう「武義を論ず」とは、侍としてのあり方について学び続けることです。
『講孟箚記』では具体的に次のように言っています。


武士たる所は国の為めに命を惜しまぬことなり。弓馬刀槍銃砲の技芸に非ず。
国の為めに命さへ惜しまねば、技芸なしと云へども武士なり。
技芸ありと云へども、国の為めに命を惜しむは武士に非ず。

(武士の武士たる価値は、国家のために命を惜しまないところにある。
弓馬・刀槍・鉄砲などの技芸にあるのではない。
国家のために命までも惜しまないというのであれば、技芸などなくても立派な武士である。
いくら技芸があったとしても、国家のために命を惜しむようであれば武士ではない)
(『講孟箚記』告子下第二)


リーダーに必要なのは技芸ではない。

いざという時に国のために命を捧げる腹さえあれば、それでいいのだ
―― 松蔭のリーダー論は極めてシンプルです。

まさに私心を去ることの極みともいうべき言葉ではないでしょうか。


2番目の善を好むこと(好善)は『孟子』の思想の真髄で、
松蔭もとても大切にしていました。

「『善を好む』ということは、政治を執る人が座右の銘とすべき教えである。
政治を行なうことは難しいことではない。
善を好むことと他者を受け入れること、これができる人は国に利益を与える。

優れた人材を登用する時には国家は安泰で、
そのような人を退ける時には国家は危険になる」


「私心を除去する」
「善を好む」


この2つは、口にするのは簡単ですが、実行となると至難の業です。

しかし、事を為すにこれほど大切なことはありません。
その目標に向かって突き進み、その如く生きたのが、まさに松蔭だったのです。



自分を見失っている若者たち、己れの安穏と幸せだけを追い求める大人たち、
そういう日本を再生させるには、「国体人倫にあり」という『講孟箚記』の精神に
いま一度立ち戻らなくてはいけません。

いまリーダーたちが心掛けるべき一念もまた、そこに尽きるように思います。

・・・

この記事は、明朝、スレッド「『講孟箚記』〜吉田松陰 (104)」にも、掲載する予定です。

            <感謝合掌 平成27年2月25日 頓首再拝>

指導者の条件2(言うべきを言う) (483)
日時:2015年02月27日 (金) 19時26分
名前:伝統

            *「指導者の条件」松下幸之助・著より


指導者は言うべきことを言う厳しさを持たなくてはならない。

明治維新の彰義隊の戦いの時、官軍の指揮を執ったのは、長州の大村益次郎であった。

もともとこの戦いは、官軍の兵力が少なく、
そのため、官軍首脳部にも慎重論が多かったのだが、
彼は、十分勝算有りとして、武力討伐の方針を決めたのである。

さて戦いが始まると、最初は彰義隊の勢いもなかなか厳しく、
官軍も苦戦をしいられ、特に薩摩藩が攻めた黒門口では最も激戦になった。

そこで薩摩の一隊長が来て、増兵を頼んだが彼は許さなかった。
その隊長は憤然として「あなたは、薩摩軍に全員死ねとおっしゃるのですか」と
言ったところ、彼は「もちろん、その通りだ」と答えた。

それを伝え聞いた薩摩勢は「よしそれならば」ということで全員決死の覚悟で獅子奮迅し、
ついに黒門口を占領したという。


彼はまた、これに先立つ第二次長州征伐の際にも、川を前にして進軍を躊躇している味方を、
「全員溺れろ」と叱咤激励して奮起させ、大勝利を収めたとも言われている。

まことに厳しいと言えば厳しい話である。

しかし、勝つか負けるかという厳しい戦争の中で、
「死ねとおっしゃるのですか」と言われて、「いや、別にそういうわけではない。
気を悪くしないでくれ」などと相手の機嫌を取っていたのでは、
士気を奮い立たせ、勝ちを制することはとても出来るものではない。


大村益次郎は優れた軍略家であり、彰義隊との戦いも、
全体としては彼の巧みな戦術によって、見事な勝利を得たといわれるが、
個々の局面では、こうした厳しさが、官軍を奮い立たせ、大きな戦果を上げたといえよう。

これは戦争という特殊な状況下のことであるが、
やはりどんな場合でも指導者は言うべき事を厳しく言うことが必要だと思う。

言うべき事を言わず、いたずらに迎合していたのでは、
一時的に人気を博することはあっても、それは人心を弛緩させ、
結局は大局を誤ることになってしまう。


かつてアメリカのケネディ大統領はその就任演説で
「アメリカ国民諸君、いまは国家が自分に何をしてくれるかを問うべき時ではない。
自分が国家に対して何をなすべきかを問わねばならない時である」と国民に訴えた。

指導者たる者はいかなる時にあっても、このケネディのように、
言うべきを言い、訴えるべきを訴える厳しさを一面に持たなくてはならないと思う。

            <感謝合掌 平成27年2月27日 頓首再拝>

「上に立つ者の道」32ヶ条 (544)
日時:2015年03月04日 (水) 18時19分
名前:伝統

         *「現代の帝王学」伊藤 肇・著(岩澤正二氏のことば)より

(1)むかうところを明瞭に示せ。

(2)信を他の腹中に置け。

(3)虚心坦懐、光風霽月、是を是とし、非を非とせよ。

(4)褒める時褒め、叱る時叱る。忘れたり、遠慮したりするな。

(5)権謀は無策に劣る。巧詐は拙誠にしかず。

(6)功を部下に推し、責を身に引け。

(7)金銭に恬淡たるべし。

(8)自然に導くを得ば、上の上なり。

(9)己に薄く、人にあつく、己に厳に人に寛たれ。

(10)長所を見て人を使え。人は誰し長所を有す。

(11)愚痴と立腹と厭味とは人の上に立つ者の大禁物、
   言いたきことあるも堪え得る雅量あるべし。

(12)為すべきことを為すために、
   いかなる情実も、いかなる困苦もこれを排し、断乎としてなすべし。

(13)みだりに難きを責むるな。但し、泣いて責むべき場合あり。

(14)自分がまず研究して、確信を得よ。

(15)広く意見を徴すべし。部下の話は熱心に聞け。

(16)部下の人事に熱心なれ。人の世話はよくしてやれ。

(17)その労するところを知り、よく、これをねぎらえ。

(18)寡黙重厚、従容自若、眼眸厳正、挙措端正。

(19)よく休ませ得る者は、よく働かせ得るものなり。

(20)人のことをわがこと程に思え。

(21)努めて失意逆境にある人を引き立てよ。

(22)自他の職域を守り、これを尊重せよ。

(23)知らざることは、あくまで知らずとなせ。

(24)少なく言い、多く行え。

(25)絶えず研究して一歩先んぜよ。

(26)少疵(小さい失敗)をもって大功を没すべからず。

(27)部下に威張るな、部下の機嫌をとるな。至誠一貫、正々堂々。

(28)外柔内剛、柔らかくとも一節あれ。

(29)事をなすには、腹をきめてかかれ。

(30)上に立つ者は、部下をして己の最大の保護者たることを感ぜしめよ。

(31)自分一人にて事をするな。任せて人を使え。
   ただし、監督を怠らば、仕事をする人に張り合いがなくなる。

(32)象徴を高く掲げ衆心一致、精神の統一をはかれ。
   中心の引力はあらゆる手段をつくして強固ならしむべし。

      (参考Web → http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/32-2004-12.htm

            <感謝合掌 平成27年3月4日 頓首再拝>

指導者の条件3(怒りを持つ) (569)
日時:2015年03月06日 (金) 17時55分
名前:伝統

            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は指導者としての公の怒りを持たなくてはならない

西ドイツの首相であったアデナウアーが、
アメリカのアイゼンハウアー大統領に会った時、こんなことを言ったという。

第一は、

「人生というものは70歳にして初めてわかるものである。
だから70歳にならないうちは、本当は人生について語る資格が無い」ということ、

第二には、

「いくら年をとって老人になっても、死ぬまで何か仕事を持つ事が大事だ」ということである。

この二つはよく言われることでもあり、またわかりやすい。

けれども三番目に言ったことはちょっと違う。

「怒りを持たなくてはいけない」というのである。

これはいささか奇異な感じがする。

怒りを持つ、腹を立てるということは、普通はむしろ好ましくないとされている。
できるだけ腹を立てずに、円満に人と接し、いわば談笑のうちに事を運ぶ、
それが一番望ましいと誰も考えるだろう。

ところが、アデナウアーは”怒りを持て”と言う。

いったいどういうことだろうか。

これは、単なる個人的な感情、いわゆる私憤ではないと思う。
そうでなく、もっと高い立場に立った怒り、つまり公憤を言っているのであろう。

指導者たる者、いたずらに私の感情で腹を立てるということは、もちろん好ましくない。
しかし指導者としての公の立場に置いて、何が正しいかを考えた上で、
これは許せないということに対しては大いなる怒りを持たなくてはいけないと言っているのであろう。


第二次大戦でどこよりも徹底的に破壊し尽くされた西ドイツを、
世界一と言っても良い堅実な繁栄国家にまで復興再建させたアデナウアーである。

その西ドイツの首相として、これは国家国民のためにならないということに対しては、
強い怒りを持ってそれにあたったのであろう。

占領下にあって西ドイツが、憲法の制定も教育の改革も受け入れないという
確固たる自主独立の方針を貫いた根底には、首相であるアデナウアーのそうした公憤が
あったのではないかと思う。

だから、一国の首相は首相としての怒りを持たなくてはならないし、
会社の社長は社長としての怒りを持たなくては、本当に力強い経営は出来ないと言ってもいい。

まして昨今のように、日本といわず世界といわず、難局に直面し、
難しい問題が山積している折りには、指導者はすべからく私情に駆られず、
公のための怒りを持って事に当たることが肝要であろう。

            <感謝合掌 平成27年3月6日 頓首再拝>

指導者の条件4(一視同仁) (690)
日時:2015年03月18日 (水) 17時51分
名前:伝統

            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

一視同仁〜指導者は敵をも愛する豊かな心を持ちたい



上杉謙信と武田信玄と言えば、有名な川中島の合戦を始め、
何度も激しい戦いを繰り返した宿敵同士である。

ところが、ある時、それまで信玄の領地へ塩を供給してくれていた今川氏と北条氏が
信玄との紛争が元で、塩を送るのをストップしてしまった。
信玄の領国である甲州や信州は海から離れた山国だから、自分の所では塩は取れない。
それで領民は非常に困る結果になった。

その時に、それを伝え聞いた謙信は、信玄に
「今川、北条があなたのところへ塩を送るのを止めたと言うが、
これは武将としては卑怯なやり方だ。

戦場で勝敗を決することこそ私の望むところで、
塩については私の方から必要なだけ差し上げましょう」と書を送り、
その通り実行したので、信玄始め領民も非常に感謝したということである。

謙信という人は、数ある戦国の武将の中でも極めて勇猛果敢、その戦いぶりには
いわゆる鬼神もこれを避けるというほどのものがあったようだが
、一方で非常に義にあつく、またこの話にも見られるように慈悲の心にも富んだ人だった
と言われている。

いわば、花も実もある立派な武将だったわけで、それだけ後の人にも慕われていると言えよう。

普通であれば、自分の敵が困っていると知れば、手を打って喜びたくなるのが人情である。
むしろ、このチャンスにやっつけてやろうと考えてもおかしくはない。
けれども謙信はそうは考えなかった。

自分は義によって信玄と戦っているが、それは天下万民を苦しめるためではない、
だから敵国とはいえ、武田領の人が塩が無くて苦しんでいるのであれば、
まずこれを救うのが自分としてのつとめである。

しかる後に、戦の場に置いて堂々と雌雄を決しようというのが
謙信の心だったのではないかと思う。

今日でも、国家相互間、あるいは一国内においても政党同士、団体同士、
企業同士の競争や対立というものは至る所にある。

そしてその場合往々にして、感情的な対立から相手に対する憎しみ
といったものにエスカレートし、それが争いをより深刻、悲惨なものにしている姿も
少なからず見受けられる。

こうしたことでは、お互いの不幸を増すばかりである。

競争も必要である。
対立することもあっていい。

しかし、指導者たる者は常にこの謙信のような、
一視同仁、敵をも愛するというような豊かな心を持ちたいものである。

            <感謝合掌 平成27年3月18日 頓首再拝>

土光敏夫《無私の心》 (762)
日時:2015年03月25日 (水) 17時38分
名前:伝統

          *佐々木常夫のリーダー論より

土光敏夫は石川島播磨重工業や東芝の社長のあと経団連会長や第2臨調会長と
次々難しい仕事を引き受け実績を残す一方、その質素な生活ぶりで「メザシの土光さん」
としてつとに知られており、経済界のみならず政界からも戦後最も尊敬された
リーダーの一人といってもいい人物である。

作家の城山三郎は土光を「一瞬、一瞬にすべてを賭けるという生き方の迫力、
それが80年も積もり積もると、極上の特別天然記念物でも見る思いがする」と評している。

ソニーの創業者井深大も
「今の日本で最も尊敬できる人は誰かと聞かれれば、無条件に土光さん」と絶賛している。
(「清貧と復興」出町譲 文芸春秋)


土光敏夫の凄さは3つある。


まずなんといってもだれも真似ができない凄さは、その「無私」の思想にある。

何事にも「私」がない。すべての発想や行動の原点は「己」ではなく
「公のため」即ち「世のため人のため」にある。

土光の住んでいた家は日本が太平洋戦争に突入する寸前に建てられたもので
わずか3部屋しかない平家建て。この小さな家に石川島播磨重工業社長、東芝社長、
そして経団連会長になっても50年近く住み続けた。

生活は極めて質素で長い間月3万円で暮らし、
経団連会長のころはさすがに10万円程度だったようだがまさに「清貧」の日々であった。

東芝の社長になったときはトイレ・バス付の社長室を撤廃し、
役員の個室を4人部屋に変え、出張での付き人は無し、社用車は止め電車通勤を通した。

こうした土光の考え方は、母親の性格や躾によるところが大きく
母親のいう「個人は質素に、社会は豊かに」を生涯通した。

最近、原発問題の起こった東京電力の会長人事が難航しやっと
原子力損害支援機構の下河辺和彦氏に決まった。

大手企業の元社長など有力候補は問題の重大さと見返りの少なさを考え、
ことごとく政府の要請を断ったという。私はもし土光敏夫であれば
東電の会長を引き受けたのではないかと思う。

なぜなら彼の行動の原点は「無私」にあり
いつも「世のため人のために生きる」ことで事態の困難さや見返りの軽重などは
この人の頭には存在しないからだ。


土光敏夫の2つ目の凄さはとことん「努力の人」だということだ。

土光自身は特別な秀才ではない。
それどころか岡山中学、東京高等工業の間に4度受験に失敗している。
またそのことを隠さないところがこの人の真骨頂、面目躍如たるところである。

「失敗は終わりではない。それを追及していくことによって、初めて失敗に価値が出てくる」
「ぼくは学歴なんか問題にしない。そもそも学校というのは社会に出るための
ウォーミングアップの場所に過ぎない」と言っている。

土光は朝は4時半に起き読経を30分唱え7時には出社する生活。夜の付き合いを避け、
なるべく早く帰り、本を読むのが日課で、自らを鍛えることを終生忘れなかった。

座右の銘は「日に新たに 日々に新たなり」で昨日も明日もなく
新たに今日という清浄無垢の日を迎える。今日という日に全力を傾けるという
日々努力の人である。

「艱難汝を珠にす。そして艱難を自ら課し続ける人間のみが、不断の人間的成長を遂げる。
我に百難を与えたまえ」といったというから言葉が出ない。

私は「人は仕事で自分が成長すること」と「世のため人のために貢献すること」が
働く究極の目的だと考えているが彼はその二つの大事なことを具現化した。


土光の凄さの3つ目の理由は、部下など周囲の人たちに溢れる愛情があったことだ。

彼の組織の周辺に対する深い愛情は、社長になるずっと前、
若かりし一技術者時代から不変のものであった。

彼は、優秀かつモーレツなエンジニアだった。

石川島造船に入社後、手がけたのは船舶用タービンの開発であった。
同社がスイス製の最新式タービンの輸入を開始したのを受け、ならば、
それをもとに研究を重ね、純国産品を生み出してやろうと志したのだ。

ドイツの科学雑誌をやまほど取り寄せ、それを読みこなしながら、日夜、試作に取り組んだ。
睡眠時間は5時間。それ以外の時間は、すべてタービン開発に捧げる毎日だったという。

ところが、そんな多忙の合間を縫って、土光が続けていたことがある。「夜間学校」である。
仕事が終わると、やる気のある少年工を集めて、初歩の機械工学や電気工学を教えたのだ。
自腹でうどんを振る舞っていたそうで、土光の優しさが偲ばれる。

ただし、それは決して少年工への愛情に発するものというだけではなかった。
土光は、その動機を「彼らの能力をアップさせなければ、造船所の技術力も一流にならない」
と考えていたのだ。

私が土光に強く共感することのひとつは周囲の一人ひとりの成長に気を配ったことである。
なぜなら、これは私自身大切にしてきたことだからだ。

私の長男は、自閉症をもって生まれ、幼年期は私は幾度も学校に行かざるを得ず、
大変苦労したが、そのことはある意味私にとって恵みでもあった。

というのは、組織を任されると、まずはじめに”最も遅れている人”に意識がいくからだ。
そして、なんとか彼らを育てたいという願望がわき上がってくる。
これは、障害のある長男を授かって以来、私の習い性のようなものだ。

世間では「2―6―2の法則」とよく言われる。
職場で優秀なのは2割の人で、6割は普通の人、残りの2割は”落ちこぼれ”というわけだ。
これは、一面の真実である。

そこで、”落ちこぼれ”の2割をできるだけ早く異動させて、
優秀な人材を獲得しようと勘違いする管理職が出てくる。

しかし、そんなことをしても強い職場をつくりあげることはできず、
新たな「2―6―2」が形成されるだけのことだ。

そもそも、人間の能力にはそれほど大きな差があるわけではない。
いわば、100mを14秒で走るか16秒で走るか程度の差でしかないのではないだろうか。

にもかかわらず、ほんの小さな差をことさらに取り上げて、
「あいつはできる、こいつはできない」と評価をつけるほうがどうかしている。
「こいつはできない」と評価された人がやる気をなくすだけだ。

そして、“落ちこぼれ”の2割を育てようとするリーダーのいる職場は、
おしなべて士気が高い。

なぜか?「このリーダーは、何があっても自分たちを見捨てない」という
信頼感をメンバー全員が共有するからだ。

土光は幾度もの経営危機に直面したがそのたびに
「社員は決してクビにしない」という方針で臨んだ。

経営幹部には厳しいが従業員やパートに至るまで自分の家族のような目で接していた。

人間関係の基本は「思いやり」というのが土光の信条であり
すべての人を活かすことを徹底したが、これこそ、リーダーの基本なのだ。

私は組織というものは「その人の強いところを引き出し、弱いところを隠す」
ことが強みだと考えている。

            <感謝合掌 平成27年3月25日 頓首再拝>

指導者の条件5(命をかける) (810)
日時:2015年03月30日 (月) 18時12分
名前:伝統

            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

命をかける → 指導者には命をかけて事に当たるほどの心境が必要である


日露戦争のポーツマス講和会議の全権大使となった小村寿太郎が、
政務局長時代、朝鮮との間にいわゆるビンキ事件が起こり、
その事後処理に派遣されることになった。

何分にも国際的な大事件だけに思案に余った彼は、勝海舟を訪ねて教えを乞うた。

すると海舟は次のように教えたという。

「自分も江戸開城などの大きな交渉で苦労してきたが、
結局言えるのは、死生を意にとめたら仕事は出来ないということだ。
身命を投げ打ち、真心を込めてやるという腹さえ決まっていれば、
あとはその場合その場合で考えたらいい」

それを聞いて小村寿太郎も大いに勇気づけられ、
当を得た方策を持って難局を解決し得たという。

命をかける、ということはよく言われることであるが、
明治維新のいくつかの極めて大事な局面を鮮やかに打開してきた勝海舟の言葉として聞く時、
まことに強い実感を持って我々の胸に迫ってくるものがあるように思う。

結局、大事をなす者の一番根本の心がけはこのことではないだろうか。

命をかけるというほどの思いがあって、
初めていかなる困難にも対処していく力が湧いてくるのだと思う。

といっても、実際はなかなか命をかけるというような心境にはなりにくいのが、
人情というものであろう。

しかしものは考えようである。

今日の我々の生活なり、仕事というものは、
見方によっては常に死と隣り合わせになっているのである。

たとえば、年々多くの人命が交通事故で失われている。
それは自分の用心、注意で防げる面もあるが、一面運命のようなものだとも言える。

だから、我々が外に出て道路を歩いたり、車に乗ったりすること自体、
本当は命がけなのであって、ただそのことをほとんど意識していないだけである。

そう考えれば、お互いが一つの使命感を持ち、
興味を感じつつやっている仕事というものに対して、
命をかけて当たるということは必ずしも難しくないとも言えるのではないだろうか。

少なくとも、指導者と言われる人々は、
多少なりともそういう心境を持たなくてはならないと思う。

            <感謝合掌 平成27年3月30日 頓首再拝>



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