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光明掲示板・伝統・第一

 

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ゆるしはすべてを変える (42)
日時:2015年01月20日 (火) 04時41分
名前:伝統

*光明掲示板・第三「ゆるし」からの継続です。
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=41

・・・

《赦しの祈りは人間を解放する》

          *『理想世界』誌(昭和五十七年四月号)より

              ・・・

「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱」において、”明鏡 さま”により謹写
されたものがあります。そこからの抜粋したものを紹介させていただきます。
全文については、「谷口雅春先生をお慕いする掲示板」にてご確認ください。

”明鏡 さま”のお許しをお願いいたします。

              ・・・


(1)【本当の赦しとは・・・】

   この中(真理の吟唱「智慧と愛と赦しのための祈り」)で注目すべきことは、
   「 罪は本来存在しない 」 ということであります。

   そして赦すということは如何なることであるか、ということが書かれているわけです。


   罪のナイところの彼の実相を観じて、それを解放して顕現させるのが、
   それが本当の赦しであるというのであります。

   多くの病気は、人を赦さないために現れているのであります。
   多くの病気は攻撃精神というのから起こります。
   攻撃精神、あるいは赦さない心というのが病気の原因になるのです。

   この頃、テレビの放送やラジオの放送を聞いていると、
   赦さないことがいっぱい出てきます。
   賠償の要求であるとか、相手を責めることばっかり一所懸命にやっています。

   これはまことに地獄相です。
   地獄の世界というところは責めることばっかりの鬼がおる世界なんです。

   それで人を責める代りに、
   もっと人を礼拝する、拝む心を起すようにしたら、
   もっとわれわれの住む世界が幸福な、極楽みたいな状態になると思うのであります。


   『法華経』には、こういうことが書いてあります。
   「常不軽菩薩品(じょうきょうぼさつほん)」というところに、
   常不軽菩薩の不軽というのは“軽んぜず”と書いてありますが、

   「われ人を軽んぜず」と言って、すべての人間を拝んだ菩薩の話が書いてあります。


(2)【 如来のいのちを拝む 】

   その常不軽菩薩は、相手がどんな罪人であろうと、どんなヤクザであろうと、
   その奥には如来のいのちが宿っているのであるということを拝んだというんですね。

   「 あなた様は如来のいのちが宿っておられます。
   当来必ず如来の実相が現われる素晴しい方でございます 」

   と言って拝んだっていうんですね。

   これが仏教の実践的神髄であります。


   生長の家もこの仏教の実践的神髄を実行するんです。

   (練成道場において)
   練成を受けて、四日、五日目位になると、すべての人間を拝み出して、
   そうして、その拝みが徹底した人は病気が治り出すんです。

   人を赦すっていうのは、罪あるのを我慢するんじゃなくて、
   罪はナイという実相を知って、
   その実相の如来のいのちが宿っている、その実相を拝み出すんだ。

   そうしたら、相手の実相も顕れるし、自分の実相も顕れるんですね。・・・


(3)【 祈り合い神想観の功徳 】

   またその練成会では、“ 祈り合い神想観 ” というものがあるんです。

   自分の悩みとか病気とかを治して貰いたい人達を一方に集めて、
   そして自分は悩みはないんだけれども、もっと自分の内に宿る如来のいのち、
   神の子のいのちをもっとハッキリ顕したいという修行のためにやって来た人と

   二組に分けまして、それで互いに合掌して相対して座らせるわけなんです。


   そして悩みのある人は、悩みのない方の人が自分の実相の完全な如来の姿を
   拝んでくれるのを素直に受けるような気持になって、じーっと合掌して

   “ かくの如くして神の子の完全ないのちが 如来の完全ないのちが
   いま顕われつつあるのである、有難うございます ” と念じながら、

   向こう側に念じてくれている人のその信念を素直に受ける気持になる。

   それで一方の方は、向かい合っている病人たちの病気とか悩みとかは
   観(み)ないで、

   “ あなた達はみんな神の子であり、完全なお姿である、如来である ”
   
   “ 光明燦然と輝いてどこにも悩みも病気もない あなた様でいらっしゃいます”

   という念(おもい)をじーっと相手に対して、
   レンズで焦点を焦(こ)がすように集中する。

   “ あなた様は如来様である、神の子である、完全である”という念(おもい)を。

   そうすると、不思議にその悩みが消えたり病気が消えたりするんです。


(4)【 いのちを解放する道 】

   悪いものを観ないで、悪く見えている表面の奥に、
   如来の完全な いのちが宿っていらっしゃるというのを拝むんですね。

   これが本当の赦しだというんです。

   自分の心が赦さないでいると、自分自身が、自分のいのちが縛られることになって、
   その結果 いのちが完全に動かないで、それで病気が起るのであります。

   そしてリューマチなどで関節が痛んでいる人が、人を赦すように教えられて、
   “私は赦しました 赦しました・・・あなたは完全な神の子でいらっしゃいます。”

   と一心に祈る行持(ぎょうじ)をつづけていると、

   その関節の痛みが消えてしまって
   病気が消えるというような実例が出てくるんですね。

   まことに人の罪を観(み)ず、
   それを赦してその実相(完全な如来の姿)を拝むということは、
   凡ゆる方面に功徳があるのであります。



   (「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱」「赦しの祈りは人間を解放する」
      → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=137  )


・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「ゆるす(釈・赦・許) (6522)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1234 

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「ゆるし (10842)」
       → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2078


             <感謝合掌 平成27年1月20日 頓首再拝>

ゆるすことは、最高の癒し (140)
日時:2015年01月31日 (土) 04時40分
名前:伝統

      *「すべてがうまくいく”やすらぎ”の言葉」ルイーズ・ヘイ(著)(P84)より

過去をへの執着を手放したとき、今この瞬間を楽しむこころの力をすべて自由に発揮して、
すばらしい未来をと作ることができる。

過去を手放したら、次はゆるすことだ。
自分を許し、人を許すことは、過去からわたしたちを解放する。

ゆるしはほとんどすべてのことに対する答えである。

行き詰まってしまったというのは、たいてい何かしら許すべきものがあるということなのだ。

現在の人生を自由に生きていない、ということは、過去に執着しているということだ。

愛とは、すべて癒しに共通する「答え」になるものだ。
愛へ至る道は許しである。

許しは恨みを解き放つ。

あなたのこころには、この星全部を癒すほどの大きな愛がある。
でも今だけは此の愛を、自分を癒すためだけに使おう。

             <感謝合掌 平成27年1月31日 頓首再拝>

人を赦した時に神に赦される (272)
日時:2015年02月11日 (水) 04時04分
名前:伝統

          *「人類無罪宣言」(P107〜108)より

供え物を祭壇に捧げる時に、兄弟に怨(うら)まるることがあるという事を思い出したならば、
供え物を祭壇の前に遺(のこ)しておいて、まず兄弟と仲良しになってから神様を拝め
ということがありますのは、「生命の實相」の巻頭にある、あの「和解の神示」と同じことであります。

神様というものは霊媒に招(よ)んで憑(かか)ってきたりするようなものでなければ、
あるいは憂い悲しんで神殿に平身低頭しておったら神様にかんのうするというふうなものではない。

神はすべてのすべてであって、すべて一つであるのでありますから、
我と他、彼と我とが一つに繋(つな)がる和解のうち、愛のうちに神というものはある
ということがあの神示に書いてある。

―-それと同じ真理をイエスはここで教えていられるのであります。 

イエスの教えも、生長の家の教えも、形式的に祭壇の前でお辞儀するだけが
神様と一体になることではないのであります。神様と一体になりたければ神様の心になる。
神様の心になるとはどういう心かと云うと一切のものはみんな神様の造り給うたものである。

いっさいは神様である。
いっさいを一つに結び合わせていっさいを結び合わし包容しみんな仲良しにして
手を繋(つな)ぎ合ったところにそこに神様というものが出て来るのです。

だから、兄弟と争っているような気持ちがあった場合にはその気持ちを捨ててしまった時に、
初めてそこに神様がある。そういう心で神様に祈ったら必ず祈りが叶えられるということになるのです。

そうでなしにむやみに祭壇の前に行って神様にばかりオベッカついてお辞儀をして、
一方では兄弟と心で争っているというのべは本当にこれは神様と一つになれないのであります。
(第30巻)   


             <感謝合掌 平成27年2月11日 頓首再拝>

ゆるさない心が病気を起す (349)
日時:2015年02月17日 (火) 04時48分
名前:伝統


【 「 罪 」 の観念は 「 健康 」 の反対観念である 】

        *「生長の家」誌(昭和 昭和26年2月17日の法語)より

健康の観念を心の中に植付けることによって
肉体は健康となるが、健康の観念が確立するためには、
その反対の観念が掃除せられなければならないのである。

健康の反対の観念は、ただ、 「 病気 」 の観念ばかりではないのである。
「 罪 」 の観念も 「 健康 」 の反対観念である。

だから、イエスは 「 汝(なんじ)の罪ゆるされたり 」 と云って、
「 罪 」 の観念を除去するだけで病者を癒しているのである。

「 罪 」 の観念を除けば病気が癒(なお)ると云うことによっても、
「 罪 」 の観念が健康の観念と反対観念であることが判(わか)るのである。

他の罪をゆるさない心が病気を起すのも、
「 罪 」 (健康の反対観念)の観念を心につかむからである。

  (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=60

             <感謝合掌 平成27年2月17日 頓首再拝>

過去の経験をすべてゆるす (462)
日時:2015年02月26日 (木) 04時35分
名前:伝統

        *「こころがやすらぐ本」ルイーズ・L・ヘイ(著)(P76〜77)より

ゆるす方法について知る必要はない。
わたしたちはゆるそうと思うだけでいい。
あとは神様が引き受けてくれる。

        ・・・

ゆるすという言葉を聞くと、誰のことを思いうかぶだろう。
あなたが絶対に忘れられず、今もゆるせないのは、どういう人物で、どういう経験だろう。

あなたを過去にしばりつけているものは何だろう。
ゆるすまいと思っていると、過去にしばりつけられ、今を生きることができなくなる。

今を生きる人だけが、未来をつくっていけるのです。

ゆるすことはあなたへの贈りもの。
あなたを過去から、過去の経験や人間関係から解放するものなのです。
そして初めて、今を生きれるようになる。

自分や他人をゆるすとき、あなたはほんとうの意味で自由になる。
そのとき昔の苦い思い出やつらい経験を自分の肩からおろせるし、
こころの扉が広くあけ放たれるのかがわかるだろう。

こころの中の愛の空間を出発点にすれば、あなたはいつも安全でいられる。

すべての人をゆるすこと。
あなた自身をゆるすこと。
過去のすべての経験をゆるすこと。

そうすれば、あなたは自由になる。

             <感謝合掌 平成27年2月26日 頓首再拝>

神に赦される (607)
日時:2015年03月09日 (月) 04時19分
名前:伝統

          *「光明法語」(P148〜149)より

《生命の本源は神》

吾らの生命の本源は神は神である。
神は無限の活力の源泉であり給う。
神より無限の活力が生まれる。

先ず自分が神から悦ばれていると云う自覚を呼び起す事が治病の根本になる。
神に憎まれていると思う者は自己処罰の潜在意識よりして自己を苦しめる。
その一面の現れが病気なのである。

されば神に憎まれていると思う者は神と和解する事が必要である。
神と和解するには、先ず祈りのうちに懺悔し神に徹底的にあやまり切るのである。
そして、赦されたと云う実感を獲(う)るのである。


《懺悔によって赦されよ》

「赦された」と云う実感は、神と自分とを隔てていた堤を取り去る事になり、
其処からして神の癒力が流れ入るのである。

キリストの「汝の罪はゆるされたり」の言葉が、
よく難治の病者をいやしたのも此の理によるのである。

悪は悪と気がついたとき、その罪は消えたのである。
何故なら、悪が悪と気がつくとき、
もう自分は上の境涯に立って過去の自分を見ているからである。

かかるとき、キリストは言った。

「汝の罪ゆるされたり、去って再び罪を犯す勿れ」。

            <感謝合掌 平成27年3月9日 頓首再拝>

【 憎み怨(うら)みなき心境になるには 】 (693)
日時:2015年03月19日 (木) 04時04分
名前:伝統

        *「生長の家」誌(昭和 昭和26年2月18日の法語)より

誰(だれ)かが あなたに害を加えたと思って その罪を憎む観念がもし貴方にあるならば、
即刻(いますぐ) 「 その罪をゆるしました 」 と心にとなえよ。

憎むとか怨むとか云うことは 感情であるから、憎むまい、怨むまいと思っても、
憎み、怨まずにおれないのが凡夫の心のあさましさである。

そのあさましさから逃れる道は、 「 憎むまい、怨むまい 」 と
一所懸命に心に 「 憎み 」 と「 怨み 」 の観念が連想される言葉を念じても、
憎み怨みは去らないのである。

そこで 「 私は貴方をゆるしました。私は貴方を愛しています 」 と
「 罪 」 や 「 憎み 」 と全然反対の語(ことば)を度々(たびたび)念ずるようにしていると、
自然に自分の心が浄化されて来て 憎み怨みなき心境になれるのである。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=60

             <感謝合掌 平成27年3月19日 頓首再拝>

神にゆるされるとは (787)
日時:2015年03月28日 (土) 04時23分
名前:伝統

         *『生命の實相』第四巻・生命篇下(P5〜9)より


『ルカ伝』第七章にこんな話があります。
ある日イエスがシモンという清教徒(パリサイびと)のところへ招かれていった。

この町に一人の堕落した婦人があった。名はマグダレーナ。
おそらく娼婦かなんかで、この町で皆が指騨している女でありましたでしょうが、

この女がイエスがパリサイ人の家に饗宴に招かれて来ていられることを知って、
香(にお)いの高い白檀油のはいっている石膏製(せっこう)の壷をもって来て、

繊悔(ざんげ)の心に泣き濡れながら、イエスの足下に来ってひれ伏し、
涙でイエスのみ足をうるおし、頭の髪でみ足を拭き、
接吻してその香油をみ足に注いだのであります。


清教徒のシモンはこれを見て

「汚れたる娼婦よ、なにをするか、神はそのような汚れた女の献(ささ)ぐるものを
受け給うものではない。また、イエスも真に神から遣わされた人ならば、
足に触った女がどんな素性の婦人であるかぐらいは霊感でわかりそうなものだのに、
そんな汚れた女に甘い態度を示すとはなんであるか」

と心の中で思ったのであります。

そこでイエスはシモンの心中を見抜いて、

「シモンよ、お前に尋ねてみたいことがある。返事をせよ。
ある貸主に借金をした2人の人があって、一人は五十円を借りている。
一人は五百円を借りている。

この2人の借金をゆるしてやるとしたならば、
どちらの借主の方が貸主をよけいにありがたく思うだろうか」

と反問せられた。

そこでシモンは答えて

「それはたくさんの借金をしている者の方が
貸主の慈悲深い心をありがたく思うにちがいありません」

と答えた。

「そうだ、よけい借金をしている者の方が、それをゆるされたことをありがたく思って
貸主を愛するが、自分の借金は少ないと思っている者の方は、ゆるされたことを
あまりありがたく思わず貸主を愛しないのだ。

お前はわしがお前の家へはいって来たとき、足に漑(そそ)ぐ水をくれなかったけれども、
この女はわしの足を涙で洗い、髪毛で拭いてくれた。

お前はわしの足に接吻をしてくれなかったけれどもこの女はわしの足に接吻してくれた。

お前はわしの頭に香油を漑いでくれなかったけれども、
この女はわしの足に香油を漑いで赦されんことを願ったのだ。

このように罪の多いと自覚するものほど感謝の念も深く、神を愛することも深いのだ」


こういって女の方を振り向き

「なんじの罪は赦された」

と厳かにいわれたのであります。


この話について知るべきことは、

清教徒のシモンは救世主に対してぜいたくなご馳走を提供して、
自分は本来そんなに罪深いものではない、これだけ救世主を饗応すれば、

その価として自分の小さな罪ぐらいは当然赦さるべきものであるというような、
安価な、多寡(たか)を括(くく)った、神の赦しを見くびったような、
虫のよい傲慢な気持があることであります。

真宗でいえば雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅう)といって嫌っているところの
小善に誇る心があるのであります。

この傲慢な気持がある間は赦されない ―― 赦されないといいましても、
神ご自身の方から人間の態度が悪いから赦すとか赦さないとかいうような、
ケチな考えをもっていられるわけではないのでありまして、

人間自身の方から罪の正体を見きわめず、自分の「神の子」なる生命の実相を見きわめず、
よい加減に、小善に誇って自分の実相はこんなものだ、小善ぐらいのことで実相の全体が
開顕(あらわ)れたというふうに考えて、自己のうちにある立派な神性の全体を認め顕わそうと
しない。

だから餓悔の心のないものは、本当の「神性」という無限の尺度を自分の中に握っていない、
換言すれば自分のうちにある、立派な本然の神性(かみのすがた)があらわれていない、
この、本然の神性が顕われることが「赦された」という状態であります。


まことに「赦された」と申すことは罪の消えた状態を言うのでありまして、
たんに「勘弁してあげる」と口先でいってもらっただけで、本然の神性が顕われておらず、
したがって罪が消えてはおらないで、再び罪を犯したくなるような状態を指すのではないので
あります。

自己本然の神性があらわれた状態こそ罪が赦され消去された状態でありまして、
たんに口先で「あんたの罪を勘弁してあげる」といってもらうことを、
罪が赦されたなどと考えては大まちがいであります。

本当に罪が赦され消去したならば、罪の顕われである病は消えてしまう。

それで神癒治療者は罪を消す人ともいえれば、相手の神性を開顕する人ともいえるのでありまして、
施念者ばかりがいくら力んでみましても、相手に餓悔の心をもって真理を受け入れてくれる心が
なければ効果が少ないのであります。


遊女マリア・マグダレーナは自分の罪を悔いた。
悔いたというのは、自分の「神性」という尺度で計ってみて、
今までの行ないはその尺度に足りないものである、

今までは本当の尺よりは短いニセ尺ではかって「これでふつうの人間の寸法だけあります」
といって世間に売り出していたけれどもそれは自他を欺瞞(ぎまん)していた、
本当の「自分の神性」という尺度で測ってみれば実に、足りない足りない自分であった、
どうもニセ尺で測って足らぬ寸法のものを世間に売り出してすまなかったとわかる

―― この「すまなかった」とわかるときには、自分の心のうちにチャンと
「本当の神性の尺度」が握られている ――言い換えると自己の本当の神性が開顕している ――

これすなわち罪が消えた状態、罪が赦された状態でありまして、一たび本当に今までの自分が
悪かったとわかった以上は、もう罪は消えたのでありますから、心を過去の罪にとらえしめず、
神らしい自覚で神らしい行ないにズンズン突進してゆけばよいのであります。

これ餓悔した遊女マグダレーナがキリストから
「なんじの罪は赦された」といわれたゆえんであります。

        <感謝合掌 平成27年3月28日 頓首再拝>



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