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光明掲示板・伝統・第一

 

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実相を観ずる〜「神想観」 (35)
日時:2015年01月19日 (月) 05時00分
名前:伝統

*光明掲示板・第三「実相を観ずる〜「神想観」 (88)」からの継続です。
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=44

・・・

《實相上に坐して神想観》

          *『生長の家』誌(昭和13年6月号)より

或る人が毎日神想観を熱心にやっていた。

『何故君はそんなに神想観を熱心にやるのですか』 と先輩が訊いた。

すると其の人は

『神想観をして無限供給を受けようと思うのです』  と答えた。

先輩は斯う云った。

『神想観は‘既に’無限供給である自分の実相を観ることですよ。 
神想観をして‘から’無限供給が来るのではない。 
吾等の本体が既に無限供給である。 観中既に無限供給なのですよ。』


この先輩の言葉は面白い。

神想観をして病気を治そうと思っている人もあるが、‘病気がない’のが実相である。

実相上に坐して修するのが神想観である。

実相に到達せんとして修するのが神想観ではない。

      (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18852975.html

・・・

<関連Web:光明掲示板・第二「実相を観ずる〜「神想観」 (10714)」
  → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2061 >


           <感謝合掌 平成27年1月19日 頓首再拝>

神想観の注意 (135)
日時:2015年01月30日 (金) 04時46分
名前:伝統


          *『真理』第九巻「生活篇」(P287)より

神想観は先ず教えられた通りの基本的神想観のやり方から入って行かなければなりません。

心がそれによって神との一体感に慣れてきますと、危急の場合、神想観も祈りもする
余裕がなくて、唯一語「神様」といっただけで、神との一体感を得、そのために
自動車や汽車に、はね飛ばされたが身に微傷だも受けなかった実例がでて来ます。

毎日同じ言葉を念じていると退屈になり、却って雑念が浮かんで来て、
精神統一が失われて来るような場合には、如意宝珠観や、普賢菩薩観や、浄円月観を行うと
不思議に精神が統一するものである。

神想観を修するには、同一の言葉を念じても
常に新鮮な感情をこめて念ずるように心掛けなければならない。

言葉がただ形式や、何の意味も感じも起こらない呪文的繰り返しに陥らないように
溌剌たる意味をもって念ずることが大切です。

           <感謝合掌 平成27年1月30日 頓首再拝>

常に神想観を怠らぬこと (263)
日時:2015年02月10日 (火) 04時34分
名前:伝統

          *『真理』第九巻「生活篇」(P288〜289)より

神想観は毎朝毎晩必ず実修する習慣をつけるが宜しい。

朝は早く目が覚めず、すぐ仕事にかからなければならぬし、
夜は、眠くて身体(からだ)がだるくて合掌するにも疲れていて仕方がないような場合には、
夜、床に入って仰臥したまま、ただ

「神と我とは一体である。神は完全であるから我も完全である。
神と我とは一体である。神は霊であるから我も霊である。
霊は金剛不壊であるから我も金剛不壊である。
金剛不壊であるから如何なる病菌にも気候にも冒されない・・・」

(これは健康を欲する場合の思念の一例)

と云う風に、一念その思いに心を集中して念じながら何時の間にか眠ってしまうがよい。

もっと簡単な”思念の言葉”としては、

「神の生命(いのち)われに流れ入りてわが生命(いのち)となりたまう。
われは無限智慧、無限愛、無限生命(せいめい)、無限健康」

と繰り返しつつ眠るがよい。

罪の観念や悔恨の観念が起って不安な感じがとれないと云うような場合には、
自分の胸を自分の両手で抱きながら其の両手を「神の慈手(みて)」 であると想像しつつ

「神は我が罪をゆるしたまいてわれをその慈手(みて)に抱きたまう。
われは完全に赦されたり」 と念じながら眠るがよろしい。

           <感謝合掌 平成27年2月10日 頓首再拝>

神想観の神髄 (466)
日時:2015年02月26日 (木) 04時49分
名前:伝統

      *「神と偕に生きる真理365章」第2篇(P47〜P89)より要約
       (”S32年4月号の神誌”が初出)

(1)《神は今此処にあり給う》

   全身心をもって神の実在を体感体得しなければならない。
   それをなすのが神想観である。

   神想観を必ず怠らず行ぜよ。

(2)《謙遜と自覚による高揚》

   神想観を怠らず行じているうちに「人間・神の子」の真理が、
   頭脳的な知識から、感情的な把握となり、更に進んで、
   全生命的な把握になって来るのである。

   自己の生命そのものとの自覚を得はじめたとき、
   私たちの生活は変貌しはじめるのである。  

(3)《神への聖なる憧れ》

   神への追求、神への探求
   既に神は自己の内にましますから神への聖なる求めが生まれて来るのである。

(4)《聖なる追及とその彷徨》

(5)《神を全身全霊をもって体感するには》

   正しく「神」を知り、本当の「神」に接するには神罰や仏罰を説かない、
   偏りのない「愛の神」を説く経典又は著述を読まなければならない。

   (しかし)万人が万人とも読書だけで、「内在の神」を全身全霊をもって
   体得する訳には行きかねる。

   其処で神想観の実修が必要になるのである。

(6)《既に迷いなく 既に完全である》

   未完成の現象は或る意味ではあるが、
   実相に於いては「既に完成せる世界」のみがあるのである。

   未完成は「認識の形式を通過する際の歪(ゆが)み」に過ぎない。

(7)《既にある完全の世界の扉を叩くこと》

   神想観中に観ぜられる実在の世界は、すべて一つの神の示現であり、
   従って「一切の生物処を得て争う者なき大調和の世界」である。

   ただ神の恩寵を感謝によって「叩けば」よい世界である。

(8)《「内なる無限」から求めよ》

   私たちは事物の「聖なる本源」そして「無限の本源」である神に、
   その供給を仰いで其処から「既に完全なるもの」の展開をこそ
   願うべきであるのである。

   先ず自己の内に「無限」があること、それを素直にみとめること、
   そして幼な児の心になって、それに呼びかけることである。

(9)《天国を受くる者は「幼な児」の心を持つ者である》

   「素直」と「幼な児の心」とが神の恩寵をそのまま受ける神秘的鍵である。
   この「幼な児の心」を恢復することが「新たに生まれる」と云うことである。

(10)《神想観は自力の行ではない》

   神想観を行ずるものは必ず「幼な児の心」になることが必要である。

(11)《内部的「生まれ更(かわ)り」》

   何よりも先ず、現象に先だって内部に「幼な児の心」が来なければならない。
   それが内部的「生まれ更(かわ)り」である。

   内部的「生まれ更(かわ)り」があってこそ、
   やがて現象的に外部的生まれ更りを生ずるのである。

(12)《神想観の本質は唯「神」を素直に受けるにある》

   神想観は「内部的生まれ更り」をするためにこそ行ずべきである。

   神を自己の内に素直に見出し、
   それを受けることが最初の出発であり、最後の決着でなければならない。

(13)《唯、神と神との触れ合いが本当の祈りである》

   神は霊であるから、霊に対しては霊をもって祈るべきである。
   物質を目的に祈ってはならないのである。

   本当の神想観は、肉体の脳髄が観ずるのではなく、
   「内なる神」が「神」を観ずるのである。

(14)《純粋の神想観について》

   純粋な神想観は、「わが内なる神」が「普遍なる神」に対して直接対面し、
   「わが”みおや”なる神よ、汝語りたまえ」と、素直に相対し、
   素直に神そのままの御言葉をきくことであり、実相そのままを受取ることである。

(15)《神は常に御業を成したまう》

   物質的欲望が層をなして、神の御業の表現を邪魔していたに過ぎないのである。
   この妄念の不透明なレンズ・フードを私達は打ちくだくことが必要である。
   その妄念を取り去る方法が「幼な児の心」になることである。

(16)《病気や貧乏をなくするには》

   「神に於いては病気がない」であり、「神に於いては貧乏がない」のである。

    私たちにとって必要なことは「病のない神」を、そして「貧乏のない神」を
    自己の内に目覚めしめるだけである。

(17)《自己の神性を自覚する近道》

   「汝、心をつくし、精神をつくし、魂をつくし、力をつくして汝の神を愛せよ」
   とキリストが言ったことは、自己の神性を自覚するための最も近道であるのである。

(18)《唯、神のみに心を振り向けよ》

   神想観に於いては、ただ心の扉を開いて、神の与えたまいし実相の完全な状態を、
   素直に受け、観じさせて頂くよりほかに何らの仔細もないのである。

   ただひたすら宇宙の本源に心を振り向けよ。

(19)《人間の本質は久遠不滅である》 

   「人間」は”神性”【そのもの】であって、それ以外の何ものでもあり得ないのである。   

   「肉体的な形」はくだけても、
   「人間そのもの」(神性)は永遠にくだけるものではないのである。

(20)《「内なる神性」の聖なる催し》

   私たちが「自己の神性」を自覚するのは、肉体人間の努力によるのではなく、
   「内在の神の催し」即ち他力によるのである。

(21)《肉体的傲慢の破壊について》

   本当は「霊的なもの」こそ本当に確固としたものであり、最も具体的なものである。
   「霊的なもの」のみが「本当に実在するもの」であり、
   物質的なものはただその”影”にすぎないのである。

   ”影”を得る手段として「霊的なもの」を追求するならば
   結局その人は”影”そのものをも得ることは出来ないであろう。

(22)《現象的なものに頼ってはならない》

   私たちは自分の生涯の希望と目的とをもっと永遠なるもの、
   壊(くだ)けないものに結びつけなければならないのである。

   ”神”のみが永遠に壊けないところの真実なるものである。

   私たちは私たちの希望を永遠なる”神”に結びつけなければならない。
   肉体的な物質的な欲望を、神に結びつけて欲望満足を得ようとしてはならない。

(23)《自我を完全に打ち摧(くだ)くこと》

   自我がくだけ、自我が空無となったとき、
   はじめて神があなたの生活を全領するのである。

(24)《神想観と欠乏観とを間違えてはならない》

   神想観は「我を置き換え」させるのが目的であって、病気を去って健康にし、
   不景気を去って富裕を来たらしめるというような現象の”影”を追う抹消的なものではない。

   もっと根本的なものが神想観である。
   常に自己の存在の中心であり本質である実相(神性・仏性)にのみ観を集中するのである。
   もっと根本的なもの、「全自我」を入れ換えるのである。

(25)《霊の網をひろげること》

   霊の世界の良き物はまだ肉眼には見えないが霊の世界に網をひろげてこそ、
   やがて肉眼に見える多くの魚(現象的な良きもの)を獲ることができるのである。

   霊の世界に網をひろげるには、現象的にさわいではならないのである。
   静かなる心こそ、「霊の網」である。

(26) 《今、此処、久遠の自覚》

   今此処に無限があり、久遠があり、悠久があるのである。
   一滴の水にも永遠の神が宿る、有限の中に無限を観るのが霊的直観である。

   神想観は「今即久遠」「永遠即今」「有限即無限」の霊的直観による自覚修行である。

(27)《自己の内なる「神の国」をひらくこと》

   わが存在の本質のうちに、わが存在の実相のうちに、
   神の持ちたまえる一切の善きものがすべて実在するのである。

   自己に宿る神を自覚し、それが展開(ひら)かれるとき
   環境全体が妙なる光景を呈するのである。

(28)《悟りは自力で得られるものではない、神の恩寵による》

   神を自己の内に観じ得るにしても、その程度は各人によって、又、同一人でも
   その時期によって夫々異なるのであって、それぞれ異なるのは自分の力量に
   よるのではなく神がその人の因縁の熟不熟に応じて与え給うギフト(恵み)に
   よるのである。

   如何なる悟りも、「神から」「神の恩寵によって」のみ得られるのであり、
   ただ自分がそれに波長を合わし得ただけのことである。

(29)《内在の神を目覚めしめるには》

   わが存在の深奥なるところに、現象の自分の想念が波立てども、
   決して波立たずに深く一切を湛えて不動にしてそのまま一切をあらわす
   ところの根源的な存在があるのである。

   すべての善きものは悉く、この深く堪える根源より発するのである。

   波立ちさわぐ表面の自我を抛棄(ほうき)したとき内面の深く湛(たた)える
   奥底の自我(天の父)が表面活動に入り大いなる業を成就するのである。


(30)《神想観の本質について》

   神想観というのは、神様の造り給うたすべてのものが善であるという
   実の相(すがた)の世界に、心を振り向ける修法であります。

   神想観というのは、神さまの放送に完全に波長を合すための行事であります。

・・・

全文については、
谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐「神想観の神髄」
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=55
にてご確認ください。

           <感謝合掌 平成27年2月26日 頓首再拝>

地天泰(ちてんたい) (595)
日時:2015年03月08日 (日) 03時57分
名前:伝統

以前、光明掲示板・第三において、”一寸法師 さま”が『地天泰』を取り上げて
おりました。ようやく、谷口雅春先生の言葉を見つけることができましたので、
ここに紹介しておきます。


          *「青年の書」第九章(P83)より

心の平静を養うには正坐の習慣をつけることが必要である。

1日1回は神想観をして臍下丹田に息を収め、精神をそこに集中して、
「吸気と共に神の生命(いのち)流れいる」と念じ、その息を丹田に集中して
「吾神なり」と念ずるのである。

常に興奮しやすく頭に血がのぼせているようでは駄目なのである。

白隠禅師は、呼吸する時踵を以て息をするつもりになれと教えたくらいである。
身体の下部に精神が集中するとき頭は熱せず冷静になるのである。
環境によって自分の心が左右されて心乱れるものは弱者である。

環境を自分の意のままに支配する力あるものこそ強者であるのである。

人間は須(すべか)らく強者とならざるべからず。
強者となるには丹田にて呼吸せざるべからず。
踵にて呼吸せざるべからず。

常に頭は軽く腹部に力こもりて「地天泰」の姿勢を保たなければならないのである。
地天泰の姿勢は、崩れざること泰山の如く、富岳(ふがく)の如く、氷山の如きである。

見よ、北極に浮かぶところの偉大なる氷山を。
彼はピラミッドの如く先は細く下部は広く豊かに海底に浮かびて
その八分の七は水中にあるのである。

重みのバランスが下部にあるが故に、いかなる波濤も暴風雨も、
寸毫もこれを動揺せしめることはできないのである。

偉大なるかな下部の力。
臍下丹田の力。
腰の力。
踵の力。


更に偉大なるかな、目に見えざる潜在意識の底にある「吾神の子」の自覚の力よ。

           <感謝合掌 平成27年3月8日 頓首再拝>

本当の自由は、神想観によって得られる (679)
日時:2015年03月17日 (火) 03時36分
名前:伝統

         *「生活の智慧365章』(P111〜112)より

吾々は“無限”を求める存在であると同時に、“自由”を求める存在である。

何故なら人間は神の自己顕現であり、本来“無限の自由”を内に蔵するからである。

「自由」を、何か自分を縛る物を破壊することだ、と考える人があるが、
本当の自由は、そのような対立的観念、相対的な物の考え方では得られるものでは
ないのである。

本当の自由は「絶対者」となることによってのみ得られる。

自分が神の自顕現であり、
「絶対者」の自己実現であるとの悟りによってのみ得られるのである。

それ故に本当の自由は、神想観によってのみ得られる。

何故なら吾々は神想観によって自己が神と一体であり、
絶対者と一体であり、環境とか外物とか見えるものも「他物」ではなく
自己の心の顕現であると悟ることができるからである。

それだから神想観は真に最高の尊き神人合一の行事であると共に、
何人も“本当の自由”を求むる限り修しなければならない修業であって、
生ま易しいものではないのである。


           <感謝合掌 平成27年3月17日 頓首再拝>

『真の神我一体の聖境』 (778)
日時:2015年03月27日 (金) 04時49分
名前:伝統

           *『生長の家』誌昭和6年5月号巻頭言より

  釈迦が嘗て菩提樹下に精神統一して、
  今まさに成道(さとり)に近ずかんとせられたとき、
  悪魔波旬は釈迦の成道を妨げんがために多数の眷属をひきつれて
  百方手段をつくして誘惑を試みたのである。

  イエスも四十日四十夜荒野に断食静座して精神統一を行じて、
  『神の子』としての自覚に今将に入ろうとせられたとき、
  悪魔来たりて、またイエスを誘惑したのである。

  悪魔の誘惑とは何であるか。

  それは暗闇が光に照らし出されて将に消えんとする前の
  甲斐なきもがきが客観化したものである。

  それは消極的な力ではない。
  神想観中に起る『身体の霊動現象』もこの雑念の叢起と等しく
  迷いの自壊せんとするための最後のもがきにほかならない。

  されば神想観中に起る肉体の自動現象は、
  在来(これまで)の『心の迷い』が凝って肉体的障害となっていた部分の障りを
  自壊する方向に起るのである。

  自壊は自壊にまかせておけば好いので強いて止めるには及ばないのであるが、
  『迷い』の自壊したのちは、この自動現象は自然に止むべきものである。

  霊動必ずしも『神懸り』に非れば、霊動中は『神懸り』などと喜ばず、
  静かに『迷い』が自壊しつつあると観じてこの霊動状態を超克しなければならない。

  霊動を自慢にするのは外道である。

  最後に天眼通、天耳通等諸種の霊覚起るも、
  これらは殆ど悉く『迷い』であり、成道前の魔境である。

  魔境と云うのは『實相』以外の霊的波動、低級霊の宣託を感受するのであるからである。

  それは釈迦が悪魔を見た状態であり、
  悪魔が『若しひれ伏して我を拝せば、世の諸々の国と栄華とを与えん』と云って
  イエスを誘惑した状態である。

  霊覚を利用して栄達を望み成功を望む者は
  悪魔を拝して世の諸々の国と栄華を得んとする者である。

  釈迦もイエスもかかる場合は
  『悪魔よ、退け、主なる汝の神を拝し、ただ之にのみ事うべし』
  と云うであろう。

  真の『神我一体』の聖境とは、
  ある異常の刹那に起る霊的現象に非ず、
  行住坐臥、常に絶え間なく、 神と共にありて、
  日常生活が自由自在に、
  流るる水のように、青空の雲のように、
  何のこだわりもなく行動し得る聖境である。
   
   (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/17877178.html

           <感謝合掌 平成27年3月27日 頓首再拝>



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