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光明掲示板・伝統・第一

 

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放てば、自由 (33)
日時:2015年01月19日 (月) 04時53分
名前:伝統

*光明掲示板・第三「無執無縛 (1208)」からの継続です。
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=250

・・・


《縛られていてさえ、自由自在》

        *『生命の實相』第3巻(P36〜37)より

「生命(せいめい)」の実相(ほんとのすがた)というものはそんなものであるかたいうと
何物にも縛られない自由自在なものである。こういうとその束縛を破ってしまわなければ
自由自在になれないかというとそうではない。

《何々しなければ》自由自在になれないというのでは、
その自由自在さは条件付きの自由自在さである。

「縛られていても自由自在」ということが「智慧の言葉」に書いてありますが、
縛られていても自由自在なのが生命(せいめい)の実相(ほんとのすがた)なのであります。

生命(せいめい)を縛るという物質的条件の縛りは真に実在するものではないので
ありますから、実在しないものに縛られていても、なんらわれわれの《本当の生命》は
束縛せられるものではないのであります。

それが解らないと、自分は境遇に縛られているから自由自在になれないなどと
月並みなことを考えるようになるのであります。

人間は本来神の子であるから救われている、すなわち本来自由自在である。

束縛を脱して後(のち)はじめて自由になれるというようなものではない。
本来神の子なる人間は縛られていても縛られていないでも、
どちらでも自由自在なのであります。


<関連Web:光明掲示板・第一「無執着 (9518)」
  → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1806 )

            <感謝合掌 平成27年1月19日 頓首再拝>

過去と持越苦労と他(ひと)の罪を捨てよ (126)
日時:2015年01月29日 (木) 04時42分
名前:伝統

          *『 生長の家 』(昭和26年1月19日の法語)より

「生命」が進歩するためには、「過去」を放すことが必要である。

「過去」にしがみついている者は、永遠に進歩することは 出来ないのである。

「過去」を放すことの中には、「持越苦労」をしないことが含まれている。
それと共に「他の罪を赦す」ことが含まれている。

過去を放ち、持越苦労を放ち、他の罪を赦したときには、
実は自分自身の「生命」が解放されるのであり、
それによって 自分自身が進歩する新しい内在の力が 解放されるのである。

前進しようと思う者は、
過去にしがみついたり、過去のことをくよくよ思ったり、
自他の罪を いつまでも心にとめている暇はないのである。

      (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51 )

            <感謝合掌 平成27年1月29日 頓首再拝>

やすらかな気持ちでいる (246)
日時:2015年02月09日 (月) 04時36分
名前:伝統


        *「こころがやすらぐ本」ルイーズ・L・ヘイ(著)(P148〜149)より

リラックスして、人生を楽しもう。
知る必要のあることは何であれ、いちばんいい時機に
あなたの前に自然にあらわれる。

          ・・・

今日という日を、わたしは新しい気持ちで生きる。
リラックスして、重圧感をすべて解放する。

どんな人も、どんな場所も、どんな出来事も、
わたしを苛だたせたり、苦しませることはできない。
わたしはこころからやすらいでいる。

わたしが自由に人間として生きているこの世界は、
わたしの愛と理解をうつし出した世界だ。
わたしは何にも逆らわない。

わたしが支持するものはすべて、人生の質を向上させるものだ。
自分の言葉や思いを道具として使い、将来をかたちつくる。

そして折にふれ感謝の言葉を口に出し、また感謝できることはないかと探している。

わたしはリラックスしていて、穏やかな人生を生きている。

            <感謝合掌 平成27年2月9日 頓首再拝>

《善・悪・愛・憎を放つ》 (387)
日時:2015年02月20日 (金) 04時59分
名前:伝統

            *「光明道中記」(P320〜323)より

《善悪愛憎に心が捉われるから地獄が現出する》

   善し悪しやにくや可愛いと思わねば世界がまるでわがもの

誰の歌か知らぬがなかなか好い歌である。
生長の家の教は「天地一切のものと和解せよ」との教えである。
さてその和解はどうしたら出来るのか、答えて曰く、総感謝であると。

そんなに和解していたら戦争は出来ぬではありませぬかと質問されたこともあった。
和解した時本当に不死身の力が出て来る。

こんな話がある。

戦争のときに敵の間諜を捕えたが、軍の掟で斬らねばならぬ。
そう云う時にその間諜が平然として微笑したり、平然として合掌していたりすると
どうしても斬ることが出来ぬ。

そこで何か侮辱を与えて間諜を怒らせる ―― 憤ると云うことは「斬る心」を起すことである。
間諜が憤って「斬る心」を起して憎らしそうな顔をした時に思い切ってバッサリ斬れる。
斬られるのは、「斬る心」を起したからである。

無心の小児は斬ることが出来ぬ。
愛憎を超え、善し悪しを超えたところに不死身を得るのである。

キリストも「此の幼児(おさなご)の如きものならずば神の国に入ること能わず」と言ったし、
白隠禅師も「是非憎愛総に拈抛(ねんほう)すれば、汝に許す生身(いきみ)の観自在」と
言ったが、愛憎に心が捉われるから地獄が現出するのである。


《地獄とは自在を失った状態》

地獄とは自在を失った状態である。
自在を失うから苦しいのである。

では自在とは何であるか。
何ものにも囚(とら)えられないことである。

愛憎は人間の心を最もよく囚えて自由自在を失わしめる。
愛憎のないところに自由自在を得るのである。

死ぬのが恐ろしいと云うのも、生を愛し死を憎むからである。
生を愛し死を憎むことがなかったら生死に囚えられぬ。
生死に囚えられなかったら生死に於て自由自在である。

沢庵禅師が柳生但馬守と立会ったが、剣聖但馬が斬り込もうと思っても
斬り込む隙がなかったと云う話がある。

日本へ来て北条時宗の悟の師となった祖元禅師は元の兵来たって彼を斬ろうとした時
平然として「人空(にんくう)また法空(ほうくう)、電光影裡、春風を斬る」と一喝を
諷して首をさし伸べたが斬ることが出来なかった。

禅宗六祖の慧能も神秀の弟子行昌(ぎょうしょう)が来って斬ろうとしたとき
平然として首をさし伸べたが三たび剣を揮えども斬ることが出来なかった。

「善し悪しやにくいや可愛い」があるからこそ、通力を失って斬られるものを。
通力を失うのは囚われるからである。
囚われなければ吾々は白隠禅師の言ったように生身の観自在菩薩であるのだ。

病気などに罹(かか)るのも愛憎に捉われて通力を失うからである。


《善悪愛憎を放つ》

「善を思わず、悪を思わず、正与麼(しょうよも)のとき、那箇(いかん)かこれ
明上座(みょうじょうざ)が本来の面目(めんぽく)」
これは慧明に六祖慧能大師が与えられた一喝であった。

善悪愛憎に因えられ、これが可(い)かん、あれが可かんと言っている間は通力を
失った状態であるから本当の大善は出て来ないのである。

「心の狭い善人」は生長の家ではいたく排撃せられるのである。
これが善い、これが悪いと云う人が多く肺病にかかって血を喀(は)いたりするのである。

善いも悪いもない、其処へ出てきたものをその儘受け流す、
次に出てきたものも、そのまま受け流す。


「ああ血がこんなに出たから、もう駄目だ」などと考えたら、
もう血に心が因えられたから通力を失って一層健康が悪くなるのである。

「血が出た。オーライ」「熱が出た。オーライ」「痰が出た。オーライ」
別にいつまでもそれに心を引掛けていないで、出たのは出たとして、それ以上何も嘆かぬ。
出るものが出たら、あとはサッパリするものである。

心が引掛らねば、生命は「生きる力」なのだから必ず生きる。

血が出た、痰が出た、熱が出た ―― に是非、善悪を引っ掛けて、
心がいつまでも思煩(おもいわずら)うところに病気も長引く。

すべて有り難く受け流して行けば病気は消える。

           <感謝合掌 平成27年2月20日 頓首再拝>  

「欲しい」「〜たい」を捨てる (525)
日時:2015年03月03日 (火) 04時46分
名前:伝統

              *「光明道中記」(P324)より


善悪愛憎に捉われると云うことは、「斯くあり《たい》」「斯うし《たい》」「逢い《たい》」
「見《たい》」「食べ《たい》」などの「《たい》」に囚われることである。

この「《たい》」が心にある間は、その人はどうしても「《たい》国」の囚人で、
本当の自由も極楽もその人にはあり得ないのである。

天理教では此の「《たい》」を「惜しい」「欲しい」などの八つに別けて、八つの埃と言っている。
「たい」が心の病気であり、心の病気が肉体に投影して肉体の病気となるのである。

時々私に病気の相談を持ち掛けてくる人がある。
そんな人に私が「あなたは心に不平ばかり持っているから、そう云う不平を捨てなさい」
と言うことがある。

すると益々相手は不平らしい顔附をして、
「私は別に不平の心を有(も)っていませぬ」と言う。

「併しあなたは、もう少し斯うし《たい》、斯うして《欲しい》と思うことがあるでしょう」と
言いますと、「それはあります」と言われる。

その斯うして《欲しい》、斯うあり《たい》が、あなたの気が附かない不平であって、
それが心が善悪愛憎に囚われているので、生命力が自由を得ないで病気に罹っている。

その「こうして《欲しい》、こうあり《たい》」の《欲しい》と《たい》を捨てれば
不思議に病気が治ることがあるものである。

           <感謝合掌 平成27年3月3日 頓首再拝>  

むすんでひらいて (629)
日時:2015年03月12日 (木) 04時38分
名前:伝統

     *中山靖雄・著「すべては今のためにあったこと」(P128〜131)より


   つかんだものは放しましょう。
   それがいいものであっても、
   結んだ手を開くことで
   次の縁をつかめます。


みたまどおり生きるコツは「頭からっぽ、心なし」です。
その時、その場、その名のとおりの人になるということです。

生きている間は、なかなか「頭からっぽ」や「心なし」にするのは難しいのですが、
「何も考えていない時」は、自然の流れに添いやすいのです。
逆に考えている時は、心で何かをつかもうとして、自然の流れを止めてしまいます。

やっと自然の流れに乗ったと思ったら、またまた「頭」で考え、「心」はもっともっとと、
求めてしまったりと、人はだんだん良い方向へいきたくなってしまうものです。
こうしてまた、流れを止めてしまうので、自然に生きるには「頭からっぽ、心なし」で
い続けるのが大切なのです。

しかし、このような上昇志向があるからこそ、人類は発展してきたというのも事実です。
大切なのは、「こんなふうに思ってはいけない」とも、思わないことです。
それも頭で考えていることだからです。

難しいことですが、「『頭からっぽ、心なし』にしないと、ダメだ」とも
思わないということなのです。
ダメだと思うことも心がいっぱいの状態なのですね。


「むすんでひらいて」という童謡があります。
この歌のように「むすんでひらいて」が大切です。


   むすんで ひらいて
   手をうって むすんで
   またひらいて 手をうって
   その手を 上に


これは、「結んだら開きなさい」ということを教えてくれていると思うのです。
つまり、つかんだら、放しなさい。これが「頭からっぽ、心なし」です。

「むすんで ひらいて」でつかんものを放したら、
「手をうって」で、手を叩いて、喜ぶということです。

しかし、「手をうって むすんで」というように、喜んでも、またすぐつかんでしまう。
「またひらいて 手をうって」と繰り返したら、最後は「その手を 上に」で、
すべてを手放して、万歳をします。

これは、手放せばすべて天が教えてくれるよ、天に万歳! ということなのです。

これが「むすんでひらいて」の教えです。


いいものがあると、つかんでしまう。
でも、それを結んだら開きなさい。
開いたら違うものが結べるよ、違う縁に出会えるよ、ということです。

つかんだままだと、次の縁をつかまないで終わってしまいます。

このように、結んで、開いて、めくるめく縁を味わって、
最後は万歳で嬉しい一生だったということになる。

心から無邪気に自由にしておけば、天本来のものに出会えるということですね。

           <感謝合掌 平成27年3月12日 頓首再拝>

「無」をも放つ (734)
日時:2015年03月23日 (月) 04時46分
名前:伝統

     *『生命の實相 幸福篇上 第三十七巻』(P178)より

一度放してもまた知らぬ間に握っていることがある。
そしてその時は握ったと気がつかないで放したつもりでいるのだから始末が悪い。

放つということはよほどむつかしい。
物を放したら、いつの間にかまた「無」を握っている。

なんにも無いということは「一切がある」ということを知ることである。
「”一つだけ”がすでにある」ように思ったり、
「ある特定のものだけ」があるように思ってことさらに執しているのが執着である。

一つを放しても、どの特定が逃げ出しても、
「すでに無限のものが与えられている」と知るのが智慧である。

           <感謝合掌 平成27年3月23日 頓首再拝>

放てば生きる! (817)
日時:2015年03月31日 (火) 03時53分
名前:伝統

       *『神ひとに語り給う』<大調和の神示講義>(P28〜33)より

『生命の實相』の中にも書いてある話でありますけれども、或る二人の坊さんが話しながら
東海道を旅して大井川までやって来たということです。
そうしたら大井川は出水で渡れなくなっていた。

すると其処へ美しいお譲さんがどこかへ早く行かんならんというので、
多分親が危篤だったかもしれない、

「これは川止めになってしまったら困る、是非渡らんならん」と思っている時に、

その二人の坊さんのうちの一人の禅宗の坊さんが
「お譲さん、私が負んぶして渡してあげるから、
どうぞ、私の肩に負んぶしなさい」と言って、

自分が尻をまくって、河の中へ飛び込んで、
お嬢さんを背中に負んぶして、大井川をトットと渡って行ったというのです。

そしたらこれを見ていたもう一人の真宗の坊さんが
「あいつ、うまい事しやがった。尻をまくって、その上に若い女をのせて歩いた。

あいつは精進堅固な禅宗の坊さんかと思うとったら、
あいつは生臭坊主だ。正体を現したぞ。
一つあっちへ行ったら、トッチメてやろう」と思いまして、自分も河を渡って行った。

そして対岸へつくと、先に負んぶして行ったお坊さんはそのお譲さんを降ろして、
お礼を言うのも聞かんふりで、トットトットと向こうへ行ってしまった。

連れのお坊さんは追っかけて行って、

「おいおい、貴様は禅宗の坊主のくせにけしからんぞ。
あんな若い女を、喜んで背中にのせて、尻をまくって川を渡るやつがあるか。
お前は精進堅固な坊主だと思っていたら、よっぽど生臭坊主だ」と言った。

そしたらそのお坊さんが

「お前はまだあの女を負んぶしているのか。わしはもうとうに降ろしたよ」

と答えた。

という意味は、心の世界にいつまでも過去を負んぶしている様な事ではいかんということです。

宗教というものは、心の世界のことですから、
心にいつまでもその女のことが気にかかるようではいかんのです。
先に渡った坊さまは、何も色情を起こして女を負んぶしたわけではないのです。

これは仏の慈悲の心が現れて、今渡らなかったら困るお嬢さんだから、
渡してあげたいというので、それで負んぶして渡ったのです。

そこには色情のシの字もないんです。
本当に仏の相(すがた)が現れていたんだけれども、
肉眼で見たら、尻まくって女を負んぶしているというように見えるという訳です。

所がそれを見ていた後の坊主は、それを色情に連関して見て、
「ああ、羨ましいなあ、わしもああ出来たらよかったのに、あいつに先を越されてしまった」
という風に妄想を起こしのです。

キリストも言われた。「女を見て色情を起こしたものは既に姦淫せるなり」という訳で、
女を見て、そして性欲の感じを起したら、それは「既に姦淫せるなり」で、
心の世界ではすでに姦淫したも同じ事なんだ。

実際に女に触れないでも、女に性的な感じで触れたいと思ったりすると駄目だ。

それも溺れるものを助けてやりたいというので触れるのなら好いけれども、

そうではなくて、「あの女に触れたらいい気持ちやろうなあ」なんて、
いう風な考えをおこして、「それで触れたいなあ」と思ったとして、

しかし、人が見ているから、そういう訳にもいかんし、という訳で、
外見は行ない済まして居りましても、これはやっぱり「姦淫せるなり」という事になる。

心の世界では、こうして"つかむ"ということが罪なのであります。

ともかく、つかむという事は、病気でも、不幸でも、災難でも、何でもつかむといかん。

「放つものは生きる」というのは生長の家の教えであります。放てば生きる!

吾々がこの世に生まれて、苦しい悲しい悩ましい思いを起し、
いろいろの悩みの種になるのは何かというと、「掴む」ことです。

何を掴むかというと、「現象」を掴むんです。
「現象」を掴んで、どこそこで、誰が、何時、何をした、何を言ったと掴む。

それは悉(ことごと)く過ぎ去ってしまった時の事なのに、何時までもそれを掴んで、
それでああだ、こうだ、ああだこうだ、こう言っているんですね。

そのために自分も苦しいし、それによって人も攻撃するから、人も苦しい。
そして修羅場を演じている ―― という事になっている。

だから過去は過ぎ去るものであって無いのだ。
過去は無いんだ。「今」しか無いのだ。

「今」《しか》"と言ったっても、今見えている「現在の悪」があると云うのではない。

その「今」は、過去・現在・未来に非ざる処の、時間空間を超えたところの、
もう一つ奥にある「今」なんです。

「如意宝殊観」という神想観をするときに「吾れ今此処竜宮城に坐して、塩椎の大神より
如意宝珠を得たり」と唱える ―― あの吾れ「今」此処の「今」ですね。

「今」その一切の現象的な時間空間を超えて、吾れ今五官の世界を去って実相の世界に在る。
今此処が実相の世界である。現象に、どんな相が現れておっても、
その悪い相は「影」であって、本来無いんだ ――

という訳で、一遍その悪い相に目をつむって、そして、新たなる眼を開くんです。

これが新たに生まれ更るでありますね。

「汝の目のおおいをとれ」と神様は仰せられているのでありまして、
目のおおいをとってみると、すると今まで嘆き悲しみの充ち満ちていた世界が、
親天新地となって現れて見えるのです。

病気は消え、貧しさは消え、ここが実に豊かな天国浄土になっている相が現れるのです。

それにはどうしても「現象の抹殺」という事が必要なんです。

「現象の抹殺」といっても、
原子爆弾でみんな吹き飛ばしてしまうというのではないのであって、

心の世界で、どんな悪しき相があらわれていても、
そんなものは実は「幻」であって本当は無いんだ。
「無」だと悟るんですね。

「無」を知ることが大切なんです。
「無」の関所を一遍越えなくては、実相の世界、完全な世界に入る事が出来ないのです。

「無」は何も無いんじゃないのであって、その「無」の関所を越えたときに、
無尽蔵のよきものの充つる世界が出て来る。
それにはやはり一切の現象を一応「無い」と断ち切らんといかん。

それをキリストは「十字架を負いて我に従え」と言っている。
「十字架」というのは抹殺のしるしだ、帳消しですね。
「十字架を負って我に従え」だ。

その時に「復活」がある。

十字架にかかって、「肉体無し」と一応肉体を抹殺した時、真の生命が復活する。
一遍「肉体の存在」を槍で衝いて殺して了(しま)うのですよ。

なるほど宗教というものは ―― といって他の教団は知らんけれども、
生長の家の宗教は一つの峻厳なるものだ。

病気治しどころのことではない。
そんな甘いもんじゃないのだ。

一遍「自分」を殺さないといかん。
十字架に自分をつけるのだ。
「肉体なし、物質なし、現象なし」だ。

これを「十字架を負う」という。

肉体を十字架につけて「肉体本来なし」と悟ったときに、
そこに新たに「霊なる自分」「神なる自分」というものを発見することが
できる事になるのであります。

これが「新たに生まれる」ということです。
人新たに生まれずば神の国を得る事能(あた)わず」と
キリストはニコデモに教えているのであります。

肉体を放ち捨て、肉体の利益を放ち棄てたときでないと、
神の国を見出すことはできないのであります。

           <感謝合掌 平成27年3月31日 頓首再拝>



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