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光明掲示板・伝統・第一

 

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 (27)
日時:2015年01月18日 (日) 04時53分
名前:伝統

*光明掲示板・第三「縁 (108)」からの継続です。
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=49

・・・

《人間は二度死ぬ》


         *『本気で生きよう! なにかが変わる』(P43〜45)より
          
人生は出会いで決まる。運命は誰と出会ったかで決まる。
この言葉を繰り返してきましたが、どうしてそんなに出会いが大切なのでしょうか。

なぜなら人間は二度死ぬからです。

一度目の死は、この世を去るとき。
ほとんどの人はそれが死ぬときだと思っておられるのでしょう。

でも、それで終わりなのではありません。
もう一回、さよならするときがあるのです。

それは、自分がこの世に生きていたということを知っている人が
誰ひとりとしていなくなったとき。
これが二度目の死です。

この本をお読みの方の中にも、
身内の方や身近な人を亡くされた人がたくさんいることでしょう。
でも、その人はあなたの心の中に残っていますよね。
そう、今も生きているのです。

私もじっと目を閉じると、今は亡き父と母の姿がはっきりと浮かび上がってきます。
私だけではありません。
私の娘と息子の心にも、おじいちゃん、おばあちゃんの姿は確かに生きています。

ということは、私の父母はまだ生きているのです。私たちの心の中に…。
とはいえ、いずれ私もこの世から消え、娘と息子もこの世を去るときが
いつかは訪れます。

つまり父母が生きていたことを知っていた人が、
この地球上に一人もいなくなるときがやってきます。
そのときが父母にとっての二度目の死です。

最初にさよならをして、二度目にさよならをするまでに何十年。
その間はとても長いものです。たくさんの時間がかかります。

そして、その時間を埋めていくのが出会い。
さよならした人と私たちが紡ぎ合った心に残る出会いの数々なのです。

肉体はこの世から消えようと、出会いの灯し火は人の心に灯り続けます。
その灯し火がある限り、人はまだ死んでいないのです。

だからこそ、生きているときに
できるだけ素晴らしい出会いを残しておきたいじゃありませんか。
出会いを豊かなものにしたいじゃありませんか。

人の心に出会いを置かせていただく
―― 出会いの命は人の命よりも長いものなのです。

*著者名や本の概要については、次のWebにて確認できます。
 http://dokusume.com/modules/store/index.php?main_page=product_info&products_id=4569



<関連Web:光明掲示板・第二「縁 (7277)」
       → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1479 >

         <感謝合掌 平成27年1月18日 頓首再拝>

初対面の人には「やっと会えましたね」 (124)
日時:2015年01月29日 (木) 04時15分
名前:伝統

         *メルマガ「人の心に灯をともす(2015年01月12日) 」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   ある僧侶の話では、“縁”のある人とは必ずどこかの人生で一緒なのだそうで、

   「親子は今生だけのつきあい、夫婦は二世のつきあい、上司と部下は三世のつきあい。
   師匠と弟子のつきあいは七世に及ぶ」 のだとか。

   多くの“超能力者”が「この世は劇団のようなもの。生まれかわるたびに
   “舞台”がかわるだけで、演じている役者は同じ。同じ役者同志が、
   演目のたびに、役名を変えて演じているだけだ」 と言います。

   人間は生まれる前に、
   この世で会う人全てと約束をして出てきたらしいのです。

   だから、初対面の 「はじめまして」 は、本当は 「お久し振りでした」 が正しい。
   「やっと会えましたね」でもいい。


   20年来の友人も、今日会った人も、そういう約束のゆえ。

   この世で出会うのが早いか遅いかだけで
   自分にとっては全て等距離、全て大事な人です。

   家族も古い友人も新しく知りあう人も、皆同じ。

   明日はどんな人が待っているのか、明日はどんな人と会えるのか、
   明日はどんな約束をしていたのか、と考えると、ワクワクすることでしょう。


   会う人が全て約束の結果である、ということに気が付くと、
   「じゃあ、人生はほとんど決まっているのか」 ということになります。

   信じられないし、信じたくもないかもしれませんが、
   いつどこでどんな事件が起こるかも、だいたい決まっているようです。

   自分の頭に予定表が入っていて、そのとおりのことが起こる。


   では、そういう人生の設計図を描いたのは、誰か。

   答えは簡単。
   自分です。

   自分をいちばん大事に思っている自分が、設計図を描いたのです。

   生まれる前に自分で設計図を描き、その了承印を“神”から貰ったらしい。

   (自殺する人は、自分なりの設計図は描いたが、神の了承印は貰っていない。)

   ですから、出会う人、出会う人、全てが、自分の意志によって配置されていた人。

   自分が嫌だと思う人でさえ、自分の意志で 「居ていただいた」 のです。

   嫌がらせをしたり、邪魔をしたり、ひどい言葉を投げかけたりする人も
   自分の意志で配置したのか、と質問されることが少なくありません。

   応えはイエス。

   なぜか、を、お話しましょう。

   仮に、人生で出会う全ての人100%が
   「あなたはえらい。好きなようにやりなさい」 とか 「あなたは全て正しい」
   と言ったとしたら、

   どんな人もいい気になり、うぬぼれて傲慢になり、自分を見失い、
   ダメな人間になるでしょう。


   逆に、出会う人全て100%が 「あんたは駄目だ」 「それじゃあいけない」
   「間違っている」 「何とかしろ」 と言い続けたとしましょう。

   言われたほうは委縮し、自信を失い、やる気も失って、
   やはり駄目になることでしょう。


   では、最も確実に人を成長、向上させるのは…。

   そうです。

   温かい言葉や環境50%、冷たい言葉や環境50%、
   それが最も人間を向上させる。

   ですから、人生は常に、温かい側の人50%、冷たい側の人50%です。

   そのように自分で設計し、それぞれの人にお願いし、居てもらったのです。

   若いとき(幼いとき)、成績が良いなどで親や先生にかわいがられ、
   挫折感に耐えるという体験的訓練が少なかった人は、
   長じて多くの挫折感を味わい、我慢することになります。

   大人になってから人一倍“不幸”が襲ってきているわけではないのです。

   ただ、普通の人には何でもないことが、自分にだけは辛いということが少なくない。

   若いころ成績が良くなかった人は、自分の上に優秀な人が居ることが当たり前。
   だから社会人になって、自分より早く出世する人が居ても、傷つかない。

   青春時代しょっちゅう(女性に)振られていた人は、
   大人になって振られても「まあ、こんなもんだ」と耐えられる。

   ところが、振られることがなかった、挫折することが少なかった、
   傷つくことが少なかった人は、普通の人には当たり前のことでも、
   我々が想像できないほど傷つきます。

   「耐える」 「我慢する」 ことに小さいころから慣れてきた人間は“強い”のです。

   大人になっても傷つきにくい。

   逆に、小さいころ 「訓練」 が少なかった人は、大人になって傷つきやすい。

   どちらの場合も、人生のなかで 「傷つく」 総量は変わりません。

   「傷つきやすい」 のが早いか遅いかの違いだけ。

           <『22世紀への伝言』弘園社>

           ・・・

輪廻や前世の考え方では、今生の自分の人生のシナリオ(脚本)は、
自分が生まれる前に決めてきた、という。

すると多くの人は、
「決まっているなら努力などいらないではないか」 と反論する。

「努力などいらない」 と思うなら、それも自分が決めたシナリオ。


ただし、決まっているのは、
「温かい言葉や環境50%、冷たい言葉や環境50%」。

若い頃から美人で、まわりからもてはやされてきた、
外見的な 「美」 の基準だけで年を取ってしまった人は、老いてからの人生は厳しい。

なぜなら、内面的な美しさを伴わない 「美」 は必ず衰えるからだ。


嫌な人も、嫌な環境も、状況も、自分が生まれる前から決めてきたシナリオ。

「この世は劇団のようなもの。生まれかわるたびに
“舞台”がかわるだけで、演じている役者は同じ」

初対面の人には、「やっと会えましたね」。


嫌な人もいい人も、自分が頼んで居てもらった人。

全てのご縁に感謝し、自らの魂を向上させたい。

         <感謝合掌 平成27年1月29日 頓首再拝>

おなかでご縁があった子はすべて立派なわが子 (309)
日時:2015年02月14日 (土) 03時56分
名前:伝統

         *『あの世を味方につける生き方』美鈴・著(P58〜62)より

お母さんのおなかの中で寿命を迎えるショートステイの子どもたちは、
この世に生まれ降りることができなくても、立派なわが子です。

この世で親子として暮らす経験はできなくても親子の絆があるのです。

実は私も、あの世に子どもがいます。
なぜか、おなかで赤ちゃんが育ちにくく、流産してしまう体質なのです。
そのたびに堪え難くつらく悲しい気持ちで心が苦しくなりますが、
それもその子の寿命ですから、現実を受け止めなくてはと思うのです。

つい最近も、一人あの世に送りました。
出血して病院に運ばれて、処置室のベッドに横になっていると、
私の肩を小さいお手々が、ギューッとつかむのです。

横を見ると、まるで私の小さいときにそっくりの2歳くらいの女の子が
にっこり笑って立っていました。

そして「お母さん、ありがとう。大丈夫!大丈夫だからね!」と言い残して、
バイバイしながら消えていきました。

その瞬間「あっ・・・ダメだったんだ・・・あの世へ帰っちゃった・・・」と、
ワッと涙があふれてきました。

短い期間であったけれども、その子たちのおかげで、母親になる気持ちを学ぶことができ、
勇気づけられ、また少し強くなることができたことに心から感謝しています。

流産や死産であの世に子どもを送ったご経験のある方は、いつまでも悲しみに暮れるのではなく、
「少しの間だったけど、ここにきてくれてありがとう!」
という感謝の気持ちとともに、いつまでも忘れないでいてあげてほしいと思います。


《私たちの想いはあの世のわが子にすべて届く》

私を母に選んでおなかの中に入ってくれた子どもたちは、最初の子が女の子だと確信しています。
先日、ひな壇が飾ってある売り場を通りかかったとき、「あの子がいたら、ひな壇を家に飾って
みせてあげたかったなぁ〜」と思った瞬間、

ひな壇の横から子供がパッと顔を出してニコッと笑ってくれました。
6歳くらいの女の子で、「ああ私の子だ! 」と直感で思いました。

ほかにも、友達の子供のプレゼントを買いに、デパートの子どもの服売り場に行ったとき、
「この洋服、あの子に着せてあげたかったなぁ〜」と思ったら、その洋服を着て、
目の前に現れてくれたのです!


あの世この世で離れていても、確かな絆があるのです。


この世で生きられなかった子どもたちは、あの世で、私たちの姿や想いを受けながら立派に
成長しています。私たちの想いはすべて届きますから、寂しい思いをしないように、
愛を届けてあげることが必要です。

「こうしてあげたい」の念は、子どもたちには最高の愛です。


《おなかの子は「産んでほしい!」と訴えている》

おなかの中でご縁に恵まれたものの、私たちの都合でこの世に産んであげることが
叶わなかった方もたくさんいらっしゃることでしょう。

私は自殺以外はすべて寿命とお話しさせていただきましたが、中絶は寿命ではありません。
霊界の人たちもその行為を肯定する人は一人もいません。中絶のカルマは殺人となります。

中絶された子どもたちは、もしかしたら産んでもらえないかもしれないことをわかって
親を選んできたことは確かなのですが、おなかの子は、お母さんが迷っているとき、
「それでも大丈夫だから、産んで!私はそこで生まれてちゃんとやっていける宿命を
持っているから安心して!」と必死に訴えかけているのです。

それでも、お母さんが中絶という道を選んだ場合、
お母さんのその気持ちをくんでしぶしぶ納得し、仕方なく手術を受けるのです。

ですから、この場合は子どもの寿命ではないのです。
子どもが決めてきた寿命を絶ってしまったお母さん、お父さんには
大きなマイナスのカルマが返ってきます。

ただし、中絶の場合でも、その動機によってカルマはかなり違います。

たとえば、「どうしてもこの子をあきらめなければお母さんの命がなくなってしまう...」
と言われて、悩んだ末に堕ろすことになったり、経済的にどうしても産むことができず
泣く泣く堕ろしたり、という場合は、ある意味、子どもの寿命なのかもしれません。

でも、結婚する気のない人との間に妊娠してしまった、
学生でまだまだやりたいことがあるのに妊娠してしまったという理由で手術を受けた場合は、
おなかの子どもは「産んでほしい!」と訴えかけていたことを忘れてはいけないと思うのです。

 
子どもはどんな境遇に生まれてきたかをわかってこの世に降りてくるのですから、
たとえ育てるのに苦労したとしても、成長したときに親孝行してくれるような
立派な子に育つケースが多いのです。

もちろん、人それぞれにさまざまな事情があるかと思いますが、
私は子どもが親を選んで生まれてくる以上、どんな状況であっても、
“妊娠したら産んであげることが正しい選択”だと思うのです。


                <感謝合掌 平成27年2月14日 頓首再拝>

【勝縁を結ぶ】  (589)
日時:2015年03月08日 (日) 03時39分
名前:伝統

         *『安岡正篤 一日一言』(致知出版社刊)より

平生からおよそ善い物・善い人・真理・善い教・善い書物、
何でも善いもの・勝れているもの・尊いものには、
できるだけ縁を結んでおくことです。

これを勝縁といい、善縁といいます。

とにかく、折角善い人に会い、善い書を見、善い話の席につらなりながら、
キョトンとしたり、欠伸をしたり、そっぽを向いたりしている人間はだめであります。
うつけ者です。

大体そういう人間なら、諸君は決して事を共にしてはいけない。
そういう人間を友にしてはいけない。


むしろ何でもないようなことでも、
耳を傾けたり、眼を光らせる人であったら、
何か見どころのある人間なのです。

もちろん形骸は眠っておるようでも
魂が輝いておる人もおりまして、
凡眼ではなかなか見わけがつきません。

                <感謝合掌 平成27年3月8日 頓首再拝> 

花の縁 (814)
日時:2015年03月31日 (火) 03時42分
名前:伝統

          *メルマガ「夢の言の葉(2015年3月30日)」より


。∵・。∴・。∵・。∴・。∵・。∴・。∵・。∴・。∵・。∴・。


☆桜の季節、到来ですね。


。∵・。∴・。∵・。∴・。∵・。∴・。∵・。∴・。∵・。∴・。


            『花の縁』(はなのえん)



 ☆---------------------よい機会、良縁--------------------
 
 
 
 「花」という言葉は、はなやかなこと、すばらしいこと、
 最もよいことをさす時にも、使われてきました。
 
 
 
 『花の縁』という場合も、そう。
 
 ですから、よいご縁という意味になります。
 
 
 また、楽しい結婚生活という意味でも用いられたようです。
 
 
 
 ところが、『花の縁』には、別の意味もありました。
 
 
 その場合の「花」は、桜をさします。
 
 
 咲いてもすぐに散ってしまう桜……。 
 
 それは縁起が悪いと考えられ、ご縁も長続きしないとされました。
 
 
 「三月は花の縁」「三月の桜褪(さくらざ)め」などといって、
 旧暦三月頃の縁談は避けるようにともいわれたそうです。
 
 
 
 ほどんど反対の意味になりますが、どちらも、
 室町時代末期ごろの用例として出てきます。
 
 
 もしかしたら、人によって、とらえ方が違ったのかもしれません。
 
 
 
 現代、人生のスタートは、桜の時期に集中します。
 
 
 餞(はなむけ)のように咲き誇る桜に見守られて、
 新たな第一歩を踏み出す私たち。
 
 何かいいことが待っているような予感がしてくるものですね。
 
 
 それに、花が散るのは、実を結ぶため。
 
 きっと、よいご縁を導いてくれることでしょう。
 
 
                <感謝合掌 平成27年3月31日 頓首再拝> 



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