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光明掲示板・伝統・第一

 

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釈尊の自覚 (17)
日時:2015年01月17日 (土) 04時51分
名前:伝統

《釈尊の自覚と同じ自覚を得よ》

           *「女は愛の太陽だ」(P96〜97)より

私たちが、”霊的存在”なる自覚に到達するのは、何も、この”肉体の死”をまつ
必要はないのである。自己が霊的生命であるとの自覚は、”肉体の死”と
何の関係もないことなのである。

ただ私たちは、物資的存在と見えているものの背後に、その実相として「霊的原型」が
必ず存在し、今五官の感覚によって見ているところの現象は、その「霊的原型」の
歪められたる影にすぎないのであることを覚ることによって、一切の生活面に於ける
”死”(硬化状態・不自由状態)を克服すればよいのである。

即ち釈迦世尊がひらかれた時に、
「有情非情同時成道・山川草木国土悉皆成仏」とお覚りになったと同じように、

「情(こころ)ある物も、情無き物(無機物)も、ひとしく仏の生命の現成であり、
山川国土の如き鉱物も、草木の如き植物も、悉く、仏の生命の現象化である」
と宣言されたのである。

このような一切存在が物質ではなく、吾らと同じく仏の《いのち》の現成(げんじょう)で
あると悟れたとき、物質は吾等の自由を束縛するところの堅い壁でなくなり、吾々の心に
同調して、自由に動いてくれる可動的な存在となり、そこに人間の自由を恢復することが
できることになるのである。

それゆえに、この悟りを得ることを”解脱”即ち一切の束縛から解け脱する状態だと、
仏教では謂われて来たのである。

・・・

<関連Web:光明掲示板・第三「成道会 〜 釈迦悟りの日 (2206)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=440 >


           <感謝合掌 平成27年1月17日 頓首再拝>

《独尊の自覚》 (128)
日時:2015年01月29日 (木) 04時52分
名前:伝統

         *「神と偕に生きる真理365章」(P24)より

新たに生まれるとは天地一切のものと共に
自己が天上天下唯我独尊の自覚を得ることである


新たに生まれるとは

「”原罪”その他の諸々(もろもろ)の罪を背負っているけがれたる
”罪の子”の自分であり”罪悪の凡夫”である」 との過去の妄想から目覚めて、

自分が ”神の子”であり、けがれたることなき聖なる存在であるという
新しき自覚に入ることなのである。

釈尊は悟りを開かれた時に、
「山川草木国土悉皆成仏」(山も川も草も木も国土も悉く皆仏如来<ぶつにょらい>の
いのちの現成である)との自覚に入られたのであった。

換言すれば、現象の山の形や川の形や草木国土の形やそれを構成する物質分子の形や成分を
釈尊は見られたのではない。

その現象形態や現象構成の奥にあるところの”仏(ぶつ)”観、”如来”を観、
すべての人と物との奥にある”仏如来”又は”神”を見られたのである。

そしてすべての物に、”天上天下唯我独尊なるもの”を見られたのである。
そして御自身がまた”天上天下唯我独尊”であることを観られたのである。

釈尊は、この独尊の自覚を自己の内に観られただけではなく
すべての人と物との内に見られたのであるから、それは高慢になる事なく、

天地すべてのものを礼拝する謙遜の心、柔和の心を得られると、
人間を含めて、すべての生物(有情)及び無生物(非情)までも
兄弟姉妹として相互に合掌敬礼する心を得られたのである。

         <感謝合掌 平成27年1月29日 頓首再拝>

《天上天下唯我独尊の自覚》 (301)
日時:2015年02月13日 (金) 04時39分
名前:伝統

正しい信仰 ― 天上天下唯我独尊の自覚

       * 『生長の家』誌(昭和44年12月号)より要約


(1)正しい信仰というものは、釈尊が悟りをひらかれた時の「天上天下唯我独尊」、
   キリストが「われ神の子」と宣言されたように、あなたも亦、
   「われ神の子、天上天下唯我独尊」 と悟ることなのである。

(2)「天上天下唯我独尊」の自覚とは、
   自己〈自個〉の内に“独尊”の絶対価値をみとめるとき、はじめて
   “他個”の中にある“独尊”の絶対価値を見ることができるのである。 

(3)「天上天下唯我独尊」の自覚は、「有情・非情同時成道」の悟りに連なるのである。 

  @“有情” 即ち “情(こころ)あるもの” も、
   “非情” 即ち “情なきもの”〈無機物〉 に至るまでも悉く、
   同時に “道” の現成であるということが 「有情・非情同時成道」である。 

  A“道(コトバ)”は天地に満つる“法(ほう)”であり、
   「太初に道あり」〈ヨハネ伝〉の “道(コトバ)” であり、
   “法身の如来” であり、天地の理法であり、 “神” なのである。

(4)かくして有情・非情を“法身の如来”がそこに姿を顕されものであるとして
   見るとき、天上天下唯我独尊の自覚は、何処にも傲慢のかげもなく、
   その独尊の絶対価値を天地の万物一切に見出して拝むことができるのである。

(5)万物に内在する絶対価値を見出すには、浮雲(ふうん)のように去来する
   現象の不調和な姿に、心を引っかからせてはならないのである。 

   時には現象の表面に不完全な様相をあらわすような事があっても、それは唯、
   外見であって、内には完全円満な “如来” を蔵するものである。

   その内に埋没せる“如来”は、
   外面の不完全さのみを見ていては現れて来ないのである。 

   どんなに不完全に見えても、その外見に眼を閉じて、心の眼をひらいて、
   実相の完全さを見るとき、それをジッと見詰めて礼拝する毎日をつづけるとき、
   “内在の如来” の完全さがあらわれて来るである。

   実相は既に円満完全であるという真理を前提として立って、
   その円満完全さは観じて礼拝することによって現実となるのである。


        (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱
         → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=116 )

             <感謝合掌 平成27年2月13日 頓首再拝>

釈迦のお悟りになった縦の真理 (490)
日時:2015年02月28日 (土) 04時35分
名前:伝統

          *「生命の實相」第39巻仏教篇(P41〜42)より

神の生命が現われ、仏のいのちが現われているからこそ
すべてのものが互いに愛し合い生かし合っているのです。

今まで殺し合いだと思っていた世界は
神の、仏の、無限の生命、愛、智慧に満たされているところの立派な世界だったのです。

互いに憎み合い争い合っていると見えた生命も、その敵と見えたものは、自分にとっては
自分をみがく砥石であってわれわれの生命がだんだん砥石にかけられて、いっそう立派な霊性が
啓かれてゆくために仕組まれている仏の慈愛、神の愛の顕われだったのです。

天地間、ありとしあらゆるもの、生きとし生けるもの、
みんなこうして愛し合っている者はもちろん、
憎み合っているかのごとく見えている者同志さえも生かし合っている世界なのです。

みんな愛し合いの世界なのです。
みんな解けあいの世界なのです。

そういうことが釈迦に解ってきたのであります。

そうすると、形は同一であっても釈迦の前にある世界がすっかり変貌してしまったのであります。

そこで釈迦は、12月8日の曉(あけ)の明星を見ながら、
「有情非情同時成道、山川草木国土悉皆成仏」と悟られたのであります。

すなわち「有情」―生きとし生けるもの、「非情」―ありとしあらゆるもの、
悉く今仏になっている。

山も川も草も木も悉く仏の相(すがた)である。
みんな生かし合い、拝み合いの相である。

今まで地獄の相だと思っておったのはまちがいだったとお悟りになったのであります。

これが釈迦のお悟りになった縦の真理であります。

             <感謝合掌 平成27年2月28日 頓首再拝>

釈迦牟尼仏の人類救済の目的は、真の「解脱自由」を得せしめることにある (614)
日時:2015年03月10日 (火) 05時00分
名前:伝統

          *「生命の實相」第39巻仏教篇(P18〜20)より

さて、釈迦牟尼仏が悟りを開かれまして、その久遠の《今》、
《今》すでに永遠の生命(せいめい)を生きて本当の自由解脱を得た。

生命(せいめい)の自由を得たのであることがおわかりになった時に、
初めてそれは慈悲の光として発現してきたということになるのであります。

(中略)

(自分以外の者を)彼と見え、自分以外のものと見えますけれども、
決して自分以外のものではない、生きとし生けるものことごとく自分と一体のものである、
ということがわかるのであります。

この一体の実相が解ってそこに人に対する慈悲の働きというものができ、
人を救うための行ない、菩薩行というものが現われてくるのであります。

ですから真理をお悟りになった釈迦牟尼仏の悟り以後の働きというものは、
要するにその悟りを皆の人類に伝えるということであったのであります。

これが仏の役目である。
仏はある場合には物的な施しもし病者には薬を与えたというふうな記録もありますけれども、
釈迦が本当に人類に与えようとせられたものは何であったかというと、人類の一人ひとりに
本当の生命(いのち)の自由を得させたいということであったのであります。

生老病死の遷(うつ)り易(かわ)る相(すがた)に執(とら)われない「今」の一瞬の
刻々に久遠の生命(せいめい)を生き、「今」この一瞬一瞬の生活に、本来無限であり
自由であるところの本当の生命(せいめい)を悟らせたいというのが、

大聖釈迦牟尼仏の念願であって、すべての説教はそこに発しているのであります。

それで釈迦牟尼仏は哀れな者に必ずしも物を恵むのみが、彼を救う所以(ゆえん)で
あるとはせられなかった。

飢饉の年には貧乏な農家へ行ってかえってそこへ托鉢して、
そこから恵みを受けさせるようにせよとまで言われた。

窮乏と不作と飢饉に困っている農家へ行って一杯の食事を恵んでくださいと
言うことはこれは困っている貧乏人からまだまだ奪うことである、けれども釈迦牟尼仏が
願われたところの自由というものはそういう物質的自由ではなかったのであります。

そういう場合に托鉢されたその相手の人が、自分は貧しくともこの人に一杯の御飯を
分けてやりたいと思う、そこに愛の心が起こる、その愛の心が仏性である、慈悲の心が
仏の性(たね)であって、その仏の性(たね)を引き出してやりたいという気持から、

飢饉の時に貧しい農家に托鉢するほうが、かえって本当の慈悲になる、というふうな
ことを言われたのであります。

むろん、待機説法でありまして、いろいろの場合にいろいろの説き方をしておられます。

(中略)

要するに、釈迦牟尼仏の願われたところは、現実の病気治しや、世俗的な金儲け等に
あったのでなかった。それらをもう一つ超越したところの「解脱自由」というものを
得せしめること、これが釈迦牟尼仏の人類救済の目的であったのであります。

             <感謝合掌 平成27年3月10日 頓首再拝>

心が変われば世界が変わる (706)
日時:2015年03月20日 (金) 04時55分
名前:伝統

          *「生命の實相」第三十九巻仏教篇(P42〜47)より

人生観が変わればいっさいが変わるのです。誰も殺されるものはない。
みんな生かし合いの“いのち”であります。

もっとも草でも一時刈ったり、牛にでも食われたりいたしますと、
表面は一時なくなるけれども、それが適当に行なわれることによって
次にその草はいっそう大きく生(の)びてくるのであります。

人に食べられない野菜はだんだん貧弱になって雑草と区別できない
貧弱なものになってゆきますが、人に食べられる野菜はその種族が保護されて
毎年いっそう立派なものになる。

稲でも毎年刈る人があるので稲の品種改良ができ、
あたりまえならもっと貧弱なものしかできないのが、
お蔭で立派な稲にまで進化することができるのです。

樹木でも毎年剪定といって枝葉を適当に切らなければ
よいぐあいに元気よく育つことはできない。

樹木はこれを切ってくれる人があるのでいっそう大きく元気に育ってゆくことができるのです。
みんな生かし合いの世界なのです。


ですから人間が住宅のために樹木を切るとか、食事のために野菜を切るとかいうことを、
やはり生き物を殺すのはかわいそうだ、殺し合いの世界だなどと理屈を言う人があります
けれども、それは釈迦がまだ悟らなかった時代の考え方なのであります。

具体的に言えば、個体は“なく”、民族があり、国家がある―これは近頃ドイツで
称えられる哲学ですが、これは生長の家の「本来肉体なし」の哲学によって
初めてよくわかるのであります。

個体というものが本来ないということがわかれば、一個の野菜も個体としては存在しないから、
その個体が殺されて食べられるということもない。

野菜は理念的存在であって、永遠不滅の野菜の理念が、常に殺されず滅せず、
かえって生かされて明年はいっそう大きな優秀な顕われ方をする―すなわち
いっそう大きく生かされることになるのであります。

それと同じく樹木は伐られることによって生長する。
それはむろんむちゃくちゃに伐ったらいけませんけれども、

神の智慧、仏の智慧が顕われてきて、行なうところ矩(のり)を超えないようになり、
ちょうど植木屋さんが適当に剪定してくれるようなことになれば
樹木はかえって生育するのであります。


樹木を害する害虫と称せられるものがありますが、あれも害虫ではないのであります。
たとえば毛虫は害虫だと称せられています。しかし毛虫が野菜や樹木についていましても、
それは決して害虫ではないのであります。

毛虫は蝶の幼虫であります。蝶なるものはいったい何をしてくれるかというと、
花粉の交配を助けてくれるものであります。

花を訪れてその花粉を伝播して草木の結婚の媒介をして、
草木を繁殖させてくれる働きをするのであります。

そうすると毛虫なるものはそう毛虫のごとく嫌うべきものではないのであります。
実に愛すべきものであって、草木にとってはまことに恩人であります。
毛虫がなければ種族が絶滅してしまう草木もたくさんあります。

そうすると、毛虫は草木を害する害虫どころか、それを繁殖させてくださる益虫であります。

たとえばここに互いに何十町も距たってたった一本ずつの菜種の花があるとしますと、
それは菜種の花だけの力ではとうてい花粉の媒介はできないのであります。
その交配を可能ならしめてくれるものは蝶であります。

そうするとわれわれは、また草木はその蝶に、
またその蝶の幼虫であるところの毛虫に感謝しなければなりません。

それにわれわれは毛虫に感謝したことがありましょうか。
毛虫を見つけると、「この毛虫の野郎がこんなところに喰いついてけしからぬ」
と思うのですけれども、毛虫が大事なところを食べてしまうのは感謝の心がわれわれにない、
われわれが毛虫のような利己主義な心をもっている、それが反映しているのです。


世の中に毛虫が一匹もいなくなったら、蝶が一匹もいなくなったと同じであり、
蝶が一匹もなくなったら植物は今のように栄えることができないのです。

ただわれわれが困るのは食べられてはならないところに毛虫が食いついて、
せっかくこれから花を開こうとする蕾を食ったり伸びようとする新芽を食ったり、
そこに不調和が起こってくるからです。

そうすると毛虫がわるいのではない、また毛虫が食べるのが悪いのではない―したがって
本来害虫ではない、ただ不調和な現象が現われたのが悪いのであります。

毛虫が草木の葉を食べてくれるのも、植木屋がちょうど剪定してくれるような部分を
食べてくれて、そうして蝶になって花粉を運搬してくれるという世界なら
本当の調和している世界であります。

そういう調和した世界が本当にあるか。実際にはその本当に調和している世界があるのですけれども、それが争いの心、憎みの心、怒りの心で、表面に現われず、肉眼には見えないのであります。


草木と毛虫とが互いに争っているように見えるのは、
生物の心が迷っていて、その「迷いの心」のレンズの屈折の具合によって、
争っていないものが争っているがごとく、互いに蚕食していないものが、
写真の二重写しのごとく互いに相手を打ち消して見えるのであります。

右の目と左の目とにプリズムのレンズでも作ってそれを眼鏡にかけ皆さんの顔を見ますと、
皆さんの頭が互いに衝突しているように見えることもあります。

しかし本当の皆さんの頭は互いに衝突しておりませぬ。
それと同じくわれわれが妄念のレンズをかけますと、、
その屈折によって争っているかのごとく顕われて見えるのであります。
それは心が迷っているからそういうふうに見えるのであります。


人の心が迷わないで本当に調和した状態になれば、
害虫というものは一匹もいなくなるのです。

毛虫はいるかもしれないけれども、それは不要な枯葉や剪定しなければならぬ
枯葉や間引かねばならぬ一部の新芽や不良苗を食ってくれるように顕われてくるのであります。

黴菌なんかを恐れる人がありますけれども、黴菌の中にはずいぶん有用な黴菌もあるのです。
お味噌とか、糠味噌とか、カルピスとか、お酒とかはみんな
黴菌の作用によって作られるのであります。

われわれの腸の中にはずいぶんたくさんの黴菌が棲息しているのですが、
その中には非常に有用な黴菌があって、われわれの腸内の発酵を助け、
腸の蠕動を助けてくれるのです。



われわれを害する悪い黴菌は腸内には自然に入らないようになっているのが
あたりまえなのであって、もし害する黴菌が体内にいるとすれば、
それは自分の「憎み」の念の具消化なのであります。

いかに黴菌であろうとも、その生命は、一つの大生命から生み出されたものですから、
一人の時計師から作られた各歯車が互いに生かし合っていて噛み合っているように
見えながら、実は助け合って時計の生命を完(まっと)うしているというようなのが
生命の実相なのであります。


             <感謝合掌 平成27年3月20日 頓首再拝>

山川草木ことごとく仏の生命(いのち) (807)
日時:2015年03月30日 (月) 04時54分
名前:伝統


           *「希望を叶える365章」(P189)より

釈迦がお悟りになったとき、「山川草木国土悉皆成仏」とお知りになったのです。
今まで物質だと見えていた山も川も、草も木も、悉く皆物質ではないのであって、
現成(げんじょう)せる仏のいのちだと悟られたのであります。

また「有情非常同時成道」ともその悟りを表現しておられます。
情(こころ)あるものも、情(こころ)非ざるものも悉く今ここに現成せる「道」である。
「道」とは「大生命」である。

大生命が一切であって、大生命のほかに何物もないということをさとられたのです。

同時(どうじ)と言うのは「無時(むじ)の時(じ)」である。
「今、此処、同時(どうじ)」である。

時間なきところ、時間のよって生ずる本源の「無」、
その「本源の無」に於いては一切の事物が「同時存在」である。

釈迦は、この「無時の時」「本源の無」に於ける「同時」に於いて
一切のものを観ぜられたとき、生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものが
皆大生命の現成だと悟られたのである。

               (谷口雅春著『無門關解釈』参照)

             <感謝合掌 平成27年3月30日 頓首再拝>



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