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光明掲示板・伝統・第一

 

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女子の武士道 (495)
日時:2015年02月28日 (土) 17時48分
名前:夕刻版

今どき、どうなのと思いながら、この書を開いてみましたが、
内容は、奥深い。

女性も男性も手にとって読む価値のある内容と感じましたので、
このスレッドでその要点等を紹介してまいります。


《書名》

武士の娘だった「祖母の言葉五十五」

『女子の武士道』  石川真理子・著


《出版社による紹介》

明治22年に生まれた著者の祖母は、厳格な武家の娘としての躾を受けました。

著者は明治大正昭和の時代をたくましく生きた祖母と12歳までともに暮らしましたが、
後年、祖母の生き方、その言葉を思い出すにつけ、戦後日本人の女性が忘れてしまった
「人としての心得」「女性としてのあり方」が散りばめられていることを知ります。

それこそが武家の女性の矜持そのもの、つまり "女子の武士道" だったと気づいたのでした。
本書は55の祖母の言葉を挙げながら、女性とは、妻とは、夫婦とはどうあるべきかを
語っていきます。

「女子の」とタイトルにありますが、
凛とした女性がいてこそ立派な男、家庭、そして社会があることを
納得していただけることでしょう。

さらに言えば、女性から見て男子はこうあるべきだと暗に諭される、
男子も必読の「武士道」の書です。


《はしがき》

日本は世界でも希に見る二千年以上の歴史を誇る国です。
私たちの祖先は幾多の困難を乗り越えて、
祖国を守り抜いてきました。

特に
幕末明治の大混乱や
大東亜戦争(第二次世界大戦)においては、
多大な犠牲を払いながらも、亡国の危機を乗り越えています。

雄々しく生き抜いた先人に対して、
畏敬の念を禁じ得ません。
なんと高尚で屈強な精神を持ち合わせていたのでしょう。

このような日本の美徳は、
歴史に名を残す偉人ばかりではなく、
名も無き人々にも浸透していました。

幕末明治に日本に滞在した外国人の手記には、
庶民の礼儀正しさと善良さ、教養の豊かさ、
そして誠と名誉を重んじる精神性が驚きをもって綴られています。

なぜなら、こうした教養や精神性は彼らの国では
貴族階級だけの矜持であったからです。


しかし、残念ながら日本人の美質は失われつつあることを認めざるを得ません。
日本が抱える問題の多くも、根はここにあるといっていいでしょう。

日本人特有の不屈の精神は、
我が国の歴史と伝統を重んじる心、
この国を愛する心があったからこそ成り立っていたのではないでしょうか。

現在、日本人の多くが強く生きるための芯を持てずに
いるのは、こうした規範を失ったためでしょう。

そして、本当の危機は、このことにこそあると考えます。
 
どれほど困難な時代、どんな境遇であろうとも、
運命を受け入れて強く生き抜く覚悟があれば、自ら幸せを
掴むことが可能であることは、先人が示してくれた通りです。

私たちは、
今こそ先人の生き方に学ぶべきではないでしょうか。

特に、
幕末明治から大正、昭和という近代を生きた人の経験は、
転換期を生きる私たちに大きなヒントと
勇気を与えてくれるはずです。

偉人はもとより市井の人がいかに生きたかを知ることは、
日本国民としてのあり方、個人としての生き方いずれをも
教えてくれるものと思います。

           <感謝合掌 平成27年2月28日 頓首再拝>

(祖母の言葉48)〜逆境は宝 (507)
日時:2015年03月01日 (日) 19時16分
名前:伝統

(祖母の言葉48)

「逆境こそがおのれに与えられた宝と心得るのです」


      *『女子の武士道』石川真理子(文筆家)・著(P231〜234)より

    
人生というのは思いがけない出来事に満ちているものです。

祖母は「なぜこんなときにこんなことが」と思わずにはいられない事態に見舞われても、
必ず「これこそが宝だと心得るように」と教えました。

もっとも、「あの苦労があったから今の自分がいるのだ」と思えるのはずっと先のことです。
苦しみの渦中にいるときは、とてもではありませんが「困難は宝もの」などと
思えるはずもありません。

すると祖母は

「それでは安楽なときにこれでもかと
 歯を食いしばって上を目指すことができるかどうか、
 苦労して乗り越えることができるかどうか考えてごらん」

と微笑むのでした。

「ぬくぬくと心地よい布団にくるまっているときに、
 さあ努力しておのれを磨きなされといわれてできますか?
 ちょうどいい湯加減の温泉に浸かって歯を食いしばることができますかのう」

言われてみればまさにその通りです。

すべて順調な時には努力の「ど」の字も思い出すことはありません。
もし賢くも努力の大切さを思ったとしても、逆境のさなかにいるときと
同じ程度のがんばりを発揮できるとは思えません。

考えれば考えるほど、満たされているときに努力することは、
逆境の中で歯を食いしばることよりも難しいのです。

人は逆境を与えられるからこそ、
よりよい自分になることができ、その精神を磨くことができるのです。

やはりつらくとも逆境は宝なのです。

昭和13年から15年にかけて、家族にさまざまなことが起きました。

大東亜戦争が始まると間もなく長男が徴兵され、騎兵隊として中国へ進軍しました。

幕末から昭和初期まで生きた祖母の母が、その長い生涯の幕を下ろしました。

なんといっても祖母を悲しませたのは、昭和15年に起きた、長女の夫の死でした。
当時、結核で亡くなる人が非常に多く、闘病の甲斐なく妻と数え三歳の息子を遺して
この世を去ったのです。

わずか4年にも満たない結婚生活のすえ、
妻とかわいい盛りの長男を残しての死は、本人にとってもどれほど無念だったことでしょう。

それを歯を食いしばって耐えようとする長女の姿もまたいたましく、
祖母は人知れず涙を流したのでした。

けれど長女の前ではみずからを励まして、
この逆境をともに受けとめて乗り越えてみせようという姿勢を見せたのです。

「娘の逆境は母の逆境でもあります。
 私はこの逆境を得がたい宝として受けとめようと思います。
 負けるものかと心を定めようではありませぬか。
 勇気を出して、なんの、という心意気で乗り越えるのです」
 

   彼ら(武士)は逆境にも屈することのない、
   高邁な精神の厳粛なる化身であり、
   あらゆる学問の目指すところの体現者であった。

   別言するなら鍛錬に次ぐ鍛錬によって完成された、
   克己に生きる模範であったのである。

   この克己心こそすべてのサムライに求められた
   武士の教育の根幹だったといえる。
                   (『武士道』PHP文庫より)


逆境こそがおのれを克服する力になる。

祖母はこの教えを子や孫に貫いたのです。

           <感謝合掌 平成27年3月1日 頓首再拝> 

空元気でも元気は元気 (532)
日時:2015年03月03日 (火) 18時30分
名前:伝統

         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2014-11-18)より


   維新後間もなく武家は廃刀令によって武士の命である刀を奪われ、
   「武士」という身分さえも失いました。

   しかも東北諸藩は幕府側についたために逆賊の立場です。

   その日の糧さえ得るのが難しい暮らし向きだというのに、
   そのうえもってこの扱いでは、
   どれほど誇りを傷つけられたか知れません。

   維新後のことを父親から聞いた祖母は、
   じじさまはいっそ自害するとは言い出さなかったのか、
   父はどうして耐えることができたのか、と訊ねたことがありました。


   「すると父は笑い飛ばすような勢いで陽気に言ったのですよ。
   そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう。
   誇りを傷つけられたなどと自害しては相手の思うつぼじゃ。

   陰で奥歯を噛(か)んでいたとても平気の平左で生きてやるのよ。
   お前のじじさまは誇りをもって帰農したのだ。
   自らの食い扶持を自らの手でつくるのだ、誇りをもたぬわけがない。

   ばばさまにしたって、お前も憶えておろう、
   得意のお縫いやお仕立てで一所懸命一家を支えたではないか。

   どんな目に遭おうとも、どっこいそれがどうしたと、知恵と心意気で相対してやるのだ。

   士族が無くなろうと西洋張りの日本国が生まれようと、
   武士の心意気が生きていることを見せてやるのよ。

   とまあ、想像もしなかったお返事だから、私は驚いての。
   けれど、これが天晴れということかと、私の気持ちまで晴れ晴れしたものです」


   苦境に追い込まれて陰々滅々としてしまっては、再起を図る力など湧いてはきません。

   落ち込んでしまう自分に打ち勝って、自ら陽気にしてみることは、
   乗り越える力を得る第一歩になるにちがいありません。

   (中略)

   明治の日本人の姿を活写した小泉八雲は『日本人の微笑』の中で、
   「日本人は心臓が張り裂けそうな時でさえも微笑んでみせる」と綴っています。

   東日本大震災の直後、多くを失ったにもかかわらず、
   微笑を浮かべながらインタビューに答える被災者が少なからずいました。

   私たち日本人は困難な時でも明るく立ち向かおうとする意識を
   潜在的に持って生まれてきているのかも知れません。

   私が沈んでいる時、
   「空元気(からげんき)でも元気は元気。そのうち本物の元気が湧いてくるよ」
   と祖母が声をかけてくれたことがありました。

   苦労の多い人生を歩むことになった祖母は、
   折々、曾祖父の力強い言葉と、その陽気さ元気さがいかに自分の心を
   どれほど晴れやかにしたかを思い出したのかもしれません。

   そしてその都度、「武士は食わねど高楊枝」とばかりに胸を張ったのでしょう。

   見栄を張るためではない、
   誇りを守るための「やせ我慢」とは、なんと恰好いいやせ我慢でしょう。


       <(祖母の言葉2)

        「空元気でも元気は元気。そのうちホントの元気が湧いてくる」

         『女子の武士道』石川真理子(文筆家)・著(P29〜31)より >

             ・・・

武士道とは主には、
「卑怯なことをしない」、「嘘をつかない」、「弱いものいじめはしない」、
「惻隠の情を持つ」、「恥を知る」、「私より公を重んじる」、
「理屈を言わす黙々と実践する」等々の生き方をいう。

そして、せんじつめれば、それは「やせ我慢」の精神でもあるとも言われる。


昨今、「やせ我慢」という言葉が死語のようになって久しい。

「やせ我慢」とは、損と得の道があれば、莞爾(かんじ)として笑って損の道を行くこと。

そこには他者への配慮を含めた、強烈な自己抑制が必要となる。



「どんなに苦境に追い込まれても、へこたれてしまっては面白くない」

『空元気でも元気は元気』

陽気に「やせ我慢」ができる人は恰好いい。

           <感謝合掌 平成27年3月3日 頓首再拝> 

武家の娘の心得 〜祖母に学んだ武士道〜 (543)
日時:2015年03月04日 (水) 18時16分
名前:伝統

        *「致知」2014年9月号特集「万事入精」より
          〜石川真里子さんの言葉


年の離れた末っ子だった私は、お祖母ちゃん子で、
いつも祖母の部屋を訪ねては一緒に中庭に咲く花を眺めたり、
祖母の昔語りに耳を傾けたり、祖母が楽しみにしていたテレビの時代劇を見たりしていました。

そうした二人の時間に、
祖母は人間として、女性としてどう生きるかということを、
さりげなく私に説いてくれました。
 

誠実であること。
弱音など決して吐かず、常に明るく前向きであること。
失敗を糧とすること。
 
いつ、どんな時でも礼儀礼節を弁えること。
信念に背くようなことについては、決然と相対すること。
 

あいにく当時はどの教えも当たり前に感じられ、その価値に気づけませんでした。

しかし小泉八雲など、幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人の手記を読むと、
それが決して当たり前ではなく、世界に誇るべき崇高な精神であることに気づかされました。

そしてそうした日本人の崇高な精神が、
祖母を通して自分の中にも脈々と流れていることを
強く意識するようになったのです。

祖母の教えで私が最も大きな影響を受けたのは、死生観についての教えでした。

これは戦後、日本の教育や躾から失われたものの一つといわれていますが、
私は祖母から人は必ず死ぬということを、日々の生活の中で
折に触れて示唆されていました。
 
例えば、朝起きて挨拶に行くと、

祖母は、

「きょうも命がありましたね。ありがたいですね」
 
と言うことがありました。
 
きょうも命があったということは、明日は生きているかどうか分からない。
 
子供心にとても怖い思いをしたことを鮮明に覚えています。
祖母の言葉によって、どこか遠くに漠然と思い描いていた死というものが、
自分のすぐそばにやってきたのです。
 
そうした原点があったために、
何事も明日死んでも構わないような心掛けで、
精いっぱい取り組むことが、私の信条となったのです。
 
たとえにっちもさっちもいかない状況にあっても、
明日死ぬかもしれないのであれば、
ここでもう一踏ん張りしようと思うでしょう。

いい人生だと思いながら最期を迎えたいし、
後悔しながら死にたくないと思えば先延ばしもしなくなります。

人は必ず死ぬことを自覚しているか否かで、
人生は大きく異なってくると思います。


もう一つ大きな影響を受けたのは、表情についてでした。

私が少しでも憂鬱そうな顔、不機嫌そうな顔をしていると、
祖母からすぐに

「鏡を見ていらっしゃい」

と注意され、表情を曇らせることはよくないことだと諭されました。
 

後年、小泉八雲の『日本人の微笑』を読んだ時、
夫の遺骨を抱えながらも微笑む日本の女性の話が紹介されており、
大きな衝撃を受けました。

八雲はその態度を決して不人情からくるものではなく、
極めて崇高な心から出ていることを丁寧に説明しており、
祖母の教えの真意を初めて理解できた思いでした。
 
日本の女子教育のパイオニアであり、 
実践女子学園の創設にも関わった下田歌子も、
厳しい宮仕えに際し自分の祖母の

「どんな時も微笑んでいなさい」

という教えが大きな支えになったこと、
微笑み一つで物事が大きく好転することを述懐しています。
 
私自身、祖母の教えに従っていつも微笑みを忘れないよう心懸けてきたところ、
不思議なことに、どんなに暑い日でも顔に汗をかかず、
涼しげにしていられるようになりました。

人様に不快な印象を与えてはならないという意識によって、
発汗まで抑えられているのかもしれません。

           <感謝合掌 平成27年3月4日 頓首再拝> 

(祖母の言葉7)「夫を穢すことは、おのれを穢すことなのですよ」 (556)
日時:2015年03月05日 (木) 20時22分
名前:伝統

        *『女子の武士道』石川真理子(文筆家) (P67〜70)より


緊張と並々ならぬ覚悟で嫁いだ祖母は、
自分の夫となった男性に対して少なからぬ衝撃を受けました。

家業を継いだにもかかわらず、ぶらぶらと遊び歩いてばかりの放蕩息子。

帰宅しないこともしばしばで、
謹直な父親を見て育った祖母にとっては 「こんなあるじが世の中に存在するのか」と
別世界の人間を見ているような気分だったのです。

「最初は驚いてばかりだったけれど、だんだんと腹が立ってきましてね。
 いったい私はなんという人間に嫁いでしまったのだろうかと
 目の前が真っ暗になりました」

結婚してみないと分からないことは、たくさんあるものです。

考えてみれば結婚前は外で会うわけですから、
どちらも「よそゆきの姿」、格好のいいところを見せ合っているのです。

けれど、結婚後は家でくつろぐだらしない姿ばかりを目にするようになります。

いやなところが目について、文句の一つも言いたくなります。


また、同じ行動でも結婚することによって受け止め方も変わってきてしまいます。

金銭感覚一つとっても、
結婚前は「気前のいい人」になるかもしれませんが、
結婚後は「無駄遣いの多い浪費家」となるでしょう。

恋人時代には「遊び上手な人」だったのが、
夫となれば「無責任な遊び人」になってしまうかもしれません。

結婚することによって相手に対する信頼が揺らいでしまうようなことは、
案外、いくらでもあるのでしょう。

それにしても、祖母の結婚相手、つまり祖父は、お坊ちゃん育ちの明治男、
まさに「放蕩息子」だったようです。

「信頼してかかろう」という祖母の決意も、 にわかに揺らぎだしました。

しかし、あんなに喜んでいた父母を悲しませるわけにはいきません。

祖母は一人悩みました。
やがてふと気づいたのです。

「ああ、そうか、と思いましての。
 私はいつの間にか悪いところばかりを
 見るようになっていたことに気がついたんですよ。

 夫はふらふらしていますが、
 ともに過ごすときにはよくいろんなことを
 私に語って聞かせました。

 夢のようなことだ、バカバカしいと思えばそれまでです。

 でも、この人はなにやらおもしろいことをやって
 生きていきたいと切望しているのだ、
 それは悪いことではない、むしろ楽しいことではないか、とも思えるのです。

 ならばこれが夫の素晴らしいところ。 
 私はそれを支えるべきだと思いました。

 すると心が少しすっきりしての。
 夫を穢(けが)すようなことばかり思ううち、心が澱(よど)んでいたのでしょう。

 結局、夫を穢すことは自分を穢すことでもあったのです」


「人は鏡」 といいます。
人を穢すことは、ほかでもない、自分自身を穢すことにもなります。

まして夫婦という、一対の関係であれば、なおのことでしょう。


「君子は人の美を成す
 人の悪を成さず
 小人は是れに反す」

(立派な人は他人の美点を表しすすめて成し遂げさせ、
 他人の悪い点は成り立たぬようにするが、
 小人はその反対だ) (『論語』岩波文庫)


相手の良いところを見ようと努力することは、やはり大切なことでしょう。

つい悪いところを見てしまいがちな夫婦であれば、
意識して良いところを見て、良いように解釈するのが
円満のコツであるにちがいありません。

それは結果的に自分のためになるように思います。

・・・

(この記事は、明朝、「いい夫婦」にも掲載いたします)
 
            <感謝合掌 平成27年3月5日 頓首再拝>

(祖母の言葉1)「おなごがでたらめになると世の中がでたらめになる」 (572)
日時:2015年03月06日 (金) 18時01分
名前:伝統

        *『女子の武士道』石川真理子(文筆家) (P22〜27)より


《女は良質な大地となれ》


「おなごは大地のようなもの」
物心つくかつかないかのうちから、祖母は幾度となく父親からこの言葉を聞かされました


「父上は少年時代に御一新を経験しましたからの。あの動乱にあって、
父の母上であり私にとってのばばさまが、どれほどしゃんとして覚悟の程も立派であったか、
よほど心に残ったとみえて語りぐさだったのですよ。
ばばさまがゆるぎない大地のようであったと」


北上する新政府軍を迎え撃つために、
あたかも戦国の世が戻ってきたかのような戦支度で出かけていく男たち。
幼少だった曾祖父は母親と共に父と二人の兄を見送ったのです。

その時の状況を語る曾祖父の様子を、祖母は声真似を交えて再現してみせるのでした


「その際の、母じゃのみごとなことよ。どっしりと構えて、笑顔さえ浮かべておった。
そんなことがあってから、わしはおなごというのは、大地のようなものだと思うようになった。
大黒柱というが、しっかりした良い大地であらねば立っていられるわけがあるまい。

一家の大黒柱を受けとめて、その大黒柱を堂々たらしめんのは、おなごにかかっておる。
それをよう憶えておくのであるぞ。大地とならんために学び、おのれを鍛錬するのだ。」


このようなことを娘時代に聞かされたりすれば、
重圧に負けてしまいそうになるのではないかと思ってしまいます。

しかし、娘時代の祖母は、重責よりもむしろ喜びを抱いたのでした。

「そんな立派なばばさまを私はお手本にせねばならぬのかと、恐ろしい気持ちもありましたよ。
けれど一方で、おなごはか弱きものとされているのに実はそうではなかったのだと、
楽しいような気がしたものです。

なんだか、手を打って喜びたいような気分でしたねぇ。

父を手伝って畑仕事もしましたから、いかに大地の質が大切かというのは、
そんなことからもわかりましたし、父もことあるごと、上等な作物を作るためには
なんといっても土だと言っておりましたからの」

封建時代の日本は男尊女卑とされていましたが、必ずしもそうとはいえなかったようです。

男性が表、つまり外での仕事に携わる一方、女性は奥、つまり家を取りまとめて運営することを
任されていました。どちらが欠けても、家の運営はスムーズにいきません。
そうした意味では、むしろ男尊女尊であり、日本は昔から男女共同参画だったのです。

ついでながら「奥方」や「奥様」という言葉は、
こうした武家のしきたりがもとになって生まれたものといわれています。

このような女性が重要な役割を担っているわけですから、建前はともかく、
男性が敬意を払うのも当然であったことでしょう。

それは、曾祖父の言葉にも表れています。


「大地がでたらめだと農作物はけっして育たん。
育ったとしても、なよなよしたでたらめなものができるぞぇ。
それと同じで、おなごがでたらめになると、きっと世の中がでたらめになるだろうよ。

新政府の新しき日本国がでたらめにならぬためには、
おなごがおなごとしての義を守らねば、どうにもなるまいよ」

                     ・・・

《道理に従ってためらわずに決断する》

新渡戸稲造(にとべいなぞう)は武士道の基本精神の柱として「義」を掲げ、
「義は自分の身の施し方を道理に従ってためらわずに決断する力である」と述べました。

「義」とは、簡潔にいえば、不正や卑劣な行動をみずから禁じ、
死をも恐れない正義を遂行する精神である。

すなわち「義」とは打算や損得のない人間としての正しい道、「正義」のことである。
「道義」「節義」もこれにあたる(『武士道』PHP文庫)


「義」は人として守るべき道徳律の基本を成すもの、
人間の体でいえば背骨にあたるものとされます。

では、「女性」の立場を踏まえた、「おなごとしての義」とはなんでしょうか。
簡潔にいえば、男性と一致協力して繁栄をもたらしていくことでしょう。

家を治め守り抜くのはもちろん社会で働くにしても、男性と対立するのではなく、
互いに補い合い発展させることです。
女性だからこそ果たすことのできる役割があるのです。

 
家にあっては大黒柱である夫をしっかり支え、
栄養たっぷりの良質な農作物のようにいきいきとした子どもを育てていく。

そのためには、女性ならではのしなやかな強さ、大らかな愛情が必要であることは、
今も昔も変わらないのではないでしょうか。

 
仕事においても女性特有の細やかさや柔軟さ、
いざという時は男性以上に覚悟を持って事に当たる強さこそが生かされていくはずです。

「おなごがでたらめになると世の中がでたらめになるぞえ」という曽祖父の言葉は、
私にとっては耳が痛くてたまりません。それゆえに、今一度、日本の婦道、
強く大らかでやさしい女性らしい心というものを考え直してみたいと思うのです。

            <感謝合掌 平成27年3月6日 頓首再拝>

常に心は平静に保つ (584)
日時:2015年03月07日 (土) 17時38分
名前:伝統

      *『女子の武士道』石川真理子(文筆家)・著(P36〜38)より

少女時代の祖母の日常は大忙しでした。
四書や日本史、書、お裁縫などの手習い、加えて農作業をはじめとする家の手伝い、
そきには家計をわずかでも助けるために他家で子守の手伝いもしていました。

少女時代の祖母は活発な性格だったため。忙しいくらいの方が、かえってお転婆を
することがなくなってよいと両親は考えていました。そして、これくらいのたしなみが
あれば、いつ嫁ぐことになっても困らないだろうと安堵していたのです。

ところがその安堵も、祖母が11歳になる年にあえなく消し飛んでしまいました。

それは農繁期のことです。
大人たちがこぞって農作業に出てしまうため、祖母は子守を頼まれました。

ふたつになるかならないかの女の子を背負って庭に出た祖母は、
請われるまま飛び石を飛んで女の子を喜ばせていました。
その時、ふとした拍子にバランスを崩してしまったのです。

とっさに「怪我をさせてはいけない」という思いがめぐったのか、
祖母は女の子をかばうように自分の背中にしっかりと押しつけ、
前に手を突くことができないまま勢いよく倒れてしまったのです。

悪いことに倒れ込んだ場所には植え込みがあり、そのひと枝が祖母の左目を突いたのでした。

普通なら反射的に目を閉じて瞼を傷つけるだけで済みそうなことです。
それが、なぜ瞳を突き刺してしまったのでしょうか。

自分の倒れ行く先が女の子を確かに守れる場所であるかどうか、
間際まで目を見開いていたのでしょうか。
もしそうであるとするならば、祖母は自分を犠牲にして女の子を守ったことになります。

「女の子が顔を傷つけては一大事」ということが、今以上にいわれていた時代。
祖母はそれをじぶんよりも幼い少女に当てはめて、万が一のことがあってはならないと
咄嗟の行動を取ったのかもしれません。

女の子は怪我ひとつせず、びっくりした顔で祖母の背中から降りました。
異変に気づいた大人たちが駆けつけると祖母は自由になった左手で片目を押さえました。
その手指の間からは血が流れ出ています。


けれど祖母は痛がるようすもなく立ち上がり、女の子を危ない目に合わせてしまったこと、
繁忙期だというのに農作業を中断させてしまったことを詫びたのです。


すべての鍛錬は「危難や惨禍に対して、常に心を平静に保つ」ためにあると「武士道」にあります。
そのうえ祖母は、自分のことよりも「自分を信頼して子守の仕事を頼んでくれたというのに
このようなことになって申し訳ない」という相手への礼を先んじたのです。

犠牲をも厭わない責任感が、年端も行かない少女の心に植え付けられていたことを思うと、
ただただ驚くばかりです。

            <感謝合掌 平成27年3月7日 頓首再拝>

(祖母の言葉34)「人に認められることよりも、自分で納得できるかが問題」 (599)
日時:2015年03月08日 (日) 19時12分
名前:伝統

        *『女子の武士道』石川真理子(文筆家) (P175〜177)より

《まずは自分を納得させること》

人は誰でも「認められたい」と思うものです。

なぜ仕事で成功したいのか、その理由を突き詰めていけば、
「認められたい」という思いに行きつくことでしょう。

それは悪いことではありません。
しかし、常に基準が他者に置かれてばかりいると、
人から認められなかった場合に、さまざまな不満が生じてきてしまいます。

祖母は自分を基準にすることの大切さを説きました。
自分が納得できる仕事ぶりをしているかどうかということの方が、よほど重要だというのです。


「人から認めてもらいたいという思いをバネにして、良い仕事を行う者ももちろんおります。
けれど、いつでも誰かが認めてくれるとは限りませんからの、
いつかは心が満たされぬようになるものだえ。

その点、誰が認めてくれようとも自分が納得できないのであれば評価せぬ、
という姿勢は留まるところを知りませぬ。そのような思いで仕事に向かっている者は、
どこまでも上達していくものですよ」

 
祖母は認めてもらおうという思いから丁寧な仕事をしているわけではありませんでした。
プロである以上、出来具合はお客様よりもわかるものです。

たいして良い出来ではないのがわかっているのに素知らぬ顔をしているなどということは、
祖母にしてみれば許せないことだったのでしょう。

それは自分に嘘をつくことになるからです。

「上出来ではないものをわかっていて、きちんと仕上げましたなどという顔をしてしまうのは、
お客様にはもちろん自分をもごまかしていることになる。

逆に、もしお客様が仕事の丁寧さに気づかなかったとしても、
自分で胸を張っておれるような出来具合であれば、
そのほうがずっと真実だし誇らしいというもの。

それに、ちゃんとしたものというのは長く着ていても崩れないから、
使っているうちに必ずできの良さがわかってくるものですよ」


君子(くんし)は能なきことを病(うれ)う。人の己れを知らざることを病(うれ)えず。
/君子(くんし)は(自分に)才能のないことを気にして、
人が自分を知ってくれないことなど気にかけない。    (『論語』岩波文庫)


自分を納得させるということは、案外難しいものです。
しかし、そうした努力が才能を開花させていくことになるのでしょう。

            <感謝合掌 平成27年3月8日 頓首再拝>

日本女性の矜持 〜『女子の武士道』から (721)
日時:2015年03月21日 (土) 17時25分
名前:伝統

           *Web:JOG(H26.10.05)より

(1)「おなごは大地のようなもの」

   「おなごは大地のようなもの」。
   明治22(1889)年生まれのセツは父親からそう聞かされて育った。

   幕末の会津戦争の際、セツの父親はまだ幼児で、そのまた父と二人の兄は
   北上してくる新政府軍を迎え撃つために出立した。


      その際の、母じゃの見事なことよ。どっしり構えて笑顔さえ浮かべておった。
      そんなことがあってから、わしはおなごというのは大地のようなものだと
      思うようになった。

      大黒柱というが、しっかりした良い大地であらねば立っていられるわけが
      あるまい。一家の大黒柱を受けとめて、その大黒柱を堂々たらしめんのは、
      おなごにかかっておる。それをよう憶えておくのであるぞ。
      大地とならんために学び、おのれを鍛錬するのだ。

              (石川真理子・著『女子の武士道』[p23])


   そう父から聞いたセツは、喜びを抱いた。


      そんな立派なばばさまを私はお手本にせねばならぬのかと、
      恐ろしいような気持ちもありましたよ。

      けれど一方で、おなごはか弱きものとされているのに実はそうでは
      なかったのだと、楽しいような気がしたものです。
      なんだか手を打って喜びたいような気分でしたねえ。

      父を手伝って畑仕事もしましたから、いかに大地の質が大切かというのは、
      そんなことからもわかりましたし、父もことあるごと、上質な作物を作る
      ためにはなんといっても土だと言っておりましたからの。

                  (石川真理子・著『女子の武士道』[p24])


   封建時代は「男尊女卑」だったと一般に信じられているが、それは誤った先入観だ。

   セツからこういう話を聞かされて育てられた孫娘、石川真理子さんは、
   その著書『女子の武士道』で

   「むしろ男尊女尊であり、日本は昔から男女共同参画だったのです」と語る。[p24]

(つづく)

            <感謝合掌 平成27年3月21日 頓首再拝>

日本女性の矜持 〜その2 (740)
日時:2015年03月23日 (月) 18時55分
名前:伝統

(2)「そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう」

   「武士道」というと、いかにも生真面目な、堅苦しい生き方と考えるのも、
   誤った先入観のようだ。会津藩士は会津戦争に敗北した後、青森県の下北半島
   斗南(となみ、現在のむつ市)に押し込められて、厳しい寒さの中、
   食べ物さえもろくにないような境遇におかれた。

   その頃の苦しい生活をどうして耐えることができたのか、セツが聞くと、


      すると父は笑い飛ばすような勢いで陽気に言ったのですよ。
      そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう。
      誇りを傷つけられたなどと自害しては相手の思うつぼじゃ。
      陰で奥歯を噛んでいたとても平気の平左で生きてやるのよ。

      お前のじじさまは誇りをもって帰農したのだ。自らの食い扶持を自らの手で
      つくるのだ、誇りをもたぬわけがない。ばばさまにしたって、お前も
      憶えておろう、得意のお縫いやお仕立てで一所懸命一家を支えたではないか。

      どんな目に遭おうとも、どっこいそれがどうしたと、智恵と心意気で
      相対してやるのだ。士族が無くなろうと西洋張りの日本国が生まれようと、
      武士の心意気が生きていることを見せてやるのよ。

      とまあ、想像もしなかったご返事だから、私は驚いての。
      けれど、これが天晴れということかと、私の気持ちまで晴れ晴れしたものです。

                     (石川真理子・著『女子の武士道』[p30])


   著者・石川真理子さんは、ここで小泉八雲が『日本人の微笑』の中で
   「日本人は心臓が張り裂けそうな時でさえも微笑んでみせる」と書いているのを引用し、
   東日本大震災の時にも多くの被災者が微笑を浮かべながらインタビューに答えていた
   事実を指摘する。

   困難にも明るく立ち向かうのが日本人の心根であり、
   武士道はこの国民性に根ざしている。

   「武士は食わねど高楊枝」とは、見栄ではなく誇りを守るための「やせ我慢」なのである。

(つづく)

            <感謝合掌 平成27年3月23日 頓首再拝>

日本女性の矜持 〜その3 (749)
日時:2015年03月24日 (火) 18時39分
名前:伝統

(3)片目を失ったセツ

   セツが11歳のときに、農繁期で大人たちがこぞって農作業に出てしまうので、
   二つになるかならないかの女の子の子守を頼まれた。
   女の子を背負って庭に出たセツは、飛び石を飛んで女の子を喜ばせていた。

   その時、ふとした拍子にバランスを崩して、前に倒れこんだ。
   とっさに女の子に怪我をさせてはいけない、と思ったのか、両手で背中の女の子を
   しっかりと自分の背に押し付けたまま、前に手を突けない姿勢で倒れこんだ。

   悪いことにそこには植え込みがあり、そのひと枝で左目を突いてしまった。

   女の子は怪我ひとつせずに、びっくりした顔でセツの背中から降りた。
   異変に気がついた大人たちが駆けつけると、セツは自由になった左手で片目を押さえ、
   その手指の間から血が流れていた。

   セツは痛がる様子もなく、女の子を危ない目に遭わせたしまったことと、
   農作業を中断させてしまったことを詫びた。

   セツは左目を失明し、その目は白く濁って、見た目にも恐ろしげになってしまった。
   これでは嫁にも行けない。目の痛みは軽くなっても、心の方は沈んでいった。


(4)「清く正しい心が見える」

   セツは自分の顔を見るのがつらくて、鏡を見なくなった。
   それに気がついた母親は、ある日、静かにこう諭した。


      鏡に向かってごらんなさい。おなごは毎日よく鏡を見て、
      おのれの心に陰が射していないか注意しなければならぬのです。

      その左目が醜いと思うのであれば、なぜ醜いのか考えながら見つめて
      ごらんなされ。

      それはほかならぬ、お前の心が醜いと決めつけているからでないのかえ。

      私には醜くは見えませぬ。おのれより先に幼い子どもを守ったという、
      おまえの清く正しい心がそこに見えるから、醜くは見えぬのです。

                     (石川真理子・著『女子の武士道』[p43])


   「清く正しい心が見える」という母の言葉は、あまりにありがたく思えた。
   そして、自分がまだまだ自分の運命を受け入れていなかったのだ、と分かった。

   武士道は自らの運命を穏やかに受け入れ、静かに従う心を求むる。

   「なぜ自分がこのような目に遭わなければならないのか」と運命を恨んでいるうちは、
   自分の本当の人生は始まらない。

   目を失ったという自分の運命を静かに受け入れた所から、
   「そのようなことにへこたれてしまっては面白くないからのう」という
   困難にも明るく立ち向かう生き方が始まる。

(つづく)

            <感謝合掌 平成27年3月24日 頓首再拝>

日本女性の矜持 〜その4 (782)
日時:2015年03月27日 (金) 18時37分
名前:伝統

(5)「生涯の友を見つけなされ」

   日露戦争後は「自由主義」「自然主義」の風潮が起こり、
   封建時代の道徳などこれからの時代には通用しないという考え方が広まった。
   セツの女学校でも、級友たちはそういう風潮に染まっていた。


      私も友人たちのように、いっぱしに自由という言葉を使ってみたくてね。
      だけどその実、何が自由だかわかっていなかったものですよ。
      せいぜい厳しい父の教えから逃れるのが自由と思ったぐらい。

      それでも女学校に通っていた友人をまじえて自由とは何か、
      なんてことをしゃべりあっていると、不思議な高揚感と解放感があっての。

      それがますます父親への反発心に火をつけて、
      反抗したい気持ちになったのですよ。

      そうしたら父にひどく怒鳴られまして、それは恐ろしかったものですよ。

                     (石川真理子・著『女子の武士道』[p49])


   セツが「自由主義」という言葉を使った瞬間、父親は烈火のごとく怒って、
   「自由と身勝手をはき違えおって、そんなくだらん輩(やから)に迎合するぐらいなら、
   いっそおまえは孤独を選べ!」と怒鳴られたのだった。

   セツはじっと唇を噛み、かたちだけ頭を下げて「わかりました」と謝った。
   その様子を見ていた母親は、しばらくしてから娘を呼んで、こう言い聞かせた。


      ほんとうは親身になって話せる友が欲しいのではないですか。
      おまえが友に話したいことは、自由主義のことではなかろう。
      安心しなされ、おまえがまごころを失わずにいれば、
      かならず本物の友人ができます。

      ほんとうの自分を隠して人とつきおうても、そんなのは偽物です。
      一時の気を紛らわす相手ではなく、生涯の友を見つけなされ。

                     (石川真理子・著『女子の武士道』[p49])


(6)「人の情けに触れたときに流す涙はうつくしいものですよ」

   セツは女学校で級友たちから「セツさんはお堅いわ。まるで古武士のようね」と
   敬遠された。そのように受け取られるだろうとは分かっていても、
   やはり悔しい思いは捨て切れなかった。

   そんな時、千代と知り合った。千代も会津藩士の娘で、没落寸前となった一家を
   なんとか支えようと、わずかばかりの収入でも、とセツの家を訪ねてきた。
   気の毒に思った父親は、働き口の世話をした。千代はうれしさのあまり涙を流した。

   「武家の娘は泣いてはいけない」と教えられて育てられたセツは、
   いけないものを見たように、はっとして目をそらした。


      すると母が、人の情けに触れたときに流す涙はうつくしいものですよ。
      ごらんなさい。胸があつくなるようです。
      こんなに喜んでいただけて幸せだこと・・・ と言うての。

      おそるおそる見れば、確かに心が動かされるようにきれいだった。
      ありがたいと流す涙は礼を失したりはしないということが、
      ようわかりましたよ。

                     (石川真理子・著『女子の武士道』[p54])


    それからセツと千代は心を許しあい、忙しく働く合間にも行き来して、
    おしゃべりをするのが何よりの楽しみになった。

    そんなある日、千代はこう言った。

    「セツさんは古武士のようと言っていた人がいたけれど、
    それはまったく素敵なことね。私は自慢したい思いだったのよ」

    千代の思いがけない言葉に、気がつけばセツの頬に涙が伝わっていた。


       少し恥ずかしかったけれど、ずいぶんうれしい気持ちでしたよ。
       友とはなんと良いものだろうと思いました。そしてそれからはいっそう、
       涙はうれしいときしか流すまい、と思うようになったのです。

                     (石川真理子・著『女子の武士道』[p54])

(つづく)

            <感謝合掌 平成27年3月27日 頓首再拝>

日本女性の矜持 〜その5 (801)
日時:2015年03月29日 (日) 18時42分
名前:伝統


(7)「自分の苦しみや悲しみを外面に表さないという礼」

   表情に注意するのは、武士道の特徴である。
   それはいつも能面のような無表情を勧めているわけでない。
   セツの母の言うように、人の情けに触れたときの美しい涙は流しても良いのである。

   新渡戸稲造は著書『武士道』の中で次のように言っている。


      武士道は一方において不平不満を言わない忍耐と不屈の精神を養い、
      他方においては他者の楽しみや平穏を損なわないために、
      自分の苦しみや悲しみを外面に表さないという礼を重んじた。


   大震災で家を失うような大きな損害を受けても、微笑を浮かべてインタビューに
   応じた人々は、「忍耐と不屈の精神」の持ち主であり、また他者の平穏を損なわない
   ための「礼」を実行しているのである。

   近隣諸国の中には、不幸に会うと人前で大袈裟に泣き喚くことを慣習としている国も
   あるが、武士道から見れば、それは運命を受け入れられずにあがいている姿であり、
   また他者への思いやりのかけらもない姿である。

   そこには困難と戦い、他者を思いやる人間精神の自由はない。


(8)国家の元気、気風は母の感化による

   ここで紹介したセツの母親の言動から、
   「おなごは大地のようなもの」という事は十分に感じとれよう。

   こうして育てられたセツは、やがて自ら「大地」となって、大恐慌、関東大震災、
   そして大東亜戦争と次から次へと襲ってくる苦難に負けずに夫を支え、3男3女を
   育てていくのだが、その波瀾万丈の物語は原著で味わっていただきたい。

   明治期の女性教育の代表者・下田歌子の次のように語っている。


      その国民の元気、気風のいかんは、またおのおのその母の感化によるもの
      とすれば、母としての婦人は、実に国家の元気、気風を自分の双肩に担って
      立つものと申さねばなるまいと思います。

                     (石川真理子・著『女子の武士道』[p114])

   明治日本は、極東の島国からわずか半世紀ほどの間に世界五大国の一つにまで
   成長したのだが、その国家の元気、気風は、全国津々浦々でセツの母親のような
   女性が「大地」となって生み出したものだろう。


(以上で、「日本女性の矜持」の紹介は終了です)

            <感謝合掌 平成27年3月29日 頓首再拝>



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