[2817] 国家論から見る民主主義と天皇の関係 |
- 愚按亭主 - 2018年04月23日 (月) 21時52分
日本の自立という問題を真剣に討論する場で、民主主義と天皇の関係についての意見が分かれて平行線となっているのを拝見しました。一方は、形式的には相容れないという立場で、もう一方は、そもそも日本の歴史的な国体において両者は両立していたというものでした。しかし、時間がなかったため平行線のまま終わってしまいました。ただ、時間があったとしても、それ以上の進展は望めなかったのではないかと思いました。
その理由として、国家とは何か、の学問的な国家論の共有がないことが挙げられます。この学問的な国家論の本質は、すでにヘーゲルによって概念化されているのですが、その学問的な価値が理解されていないのが現状ですので、これは致し方のないことではあると思います。しかし、そういう現状を肯定していたのでは、いつまでも日本の真の自立はおぼつかないと思いますので、それを理解できた者として、その立場から、この問題について検討してみたいと思います。
西洋の民主主義は、王権に対してその王権を制限する形での憲法を媒介として、国民が権利を徐々に獲得していって、最終的に国民主権を樹立する形で生まれました。したがって、王権は、国民に現実的な権力の座を奪取されて滅亡したか、あるいは妥協的に譲る形で、棚上げされ、神棚に飾られて国家の統合の象徴の地位に就くという形で残ったわけです。つまり、対立関係は正しく解決されて解消されたわけではないということです。その意味で、、王権と国民主権とは、権力関係としてはあれかこれかの関係のままで、相いれないものだという主張は、西洋の民主主義に限って言えば、その通りだと言えます。
だから、西洋においては、民主主義と全体主義とは、あれかこれかの対立した関係と受け止められています。これには、ナチズムやファシズムが民主主義を否定する形で生まれた、という歴史的事実がありますので、なおさらのこと強固に信じられているという事情があります。
また、日本においても、前川元文科省事務次官が、道徳教育について、個人の利益よりも国家の利益の方が優先される恐れがある、と批判していたそうですが、このように国家と国民を対立させてとらえるのは、西洋民主主義だけでなく、前川元次官の信奉するマルクス主義においてもそうであり、そのマルクス主義のペキンテルンのプロバガンダ、すなわち軍国主義と日本国民とを分断し、軍国主義のみを否定するという形で国家と国民を対立させる構図が、いろいろな形で教育されてきました。青山繁晴氏によると、昔、共同通信では、国益という言葉は禁句だったそうです。
ところが、日本の軍国主義の実際は、国民と一体であったのであり、国民がその自由意志で主体的に国家のために自分の人生を捧げていたのです。じつはこれが、学問的な国家論としては、全く正当であり、まともな在り方なのです。
日本の自立のための討論の中で、聖徳太子の時代から日本は民主主義であったとの指摘があったように、日本はそもそもの国の成り立ちのはじめから「和を以て貴しとなす」話し合いで物事が決せられる民主主義の伝統が培われていったのです。そして、国民は「大御宝(オオミタカラ)」と呼ばれてとても大事にされ、形式的にも内容的にも民主主義が徹底されていたのです。人倫的理念の化身である天皇と大御宝とがまさに一体の国体を創り上げてきたのが、日本国なのです。
だから、鎌倉時代の御成敗式目には、自由とは道理のことである、ということが書かれてあるそうです。じつは、これとまったく同じことが、人類最高の学者であるヘーゲルの「法の哲学」の中に書いてあるのです。曰く「自由とは必然性の洞察である」つまり、日本の人倫国家が説く自由と、ヘーゲルの学問的な人倫国家論の説く自由とは、全く同一だということです。この自由の学問的構造は、即自の自由と対自の学問との統一ということであり、即且対自の自由ということです。
これに対して、西洋的民主主義の自由とは、国民の即自の欲求の自由だけでしかありません。つまり、対自(国家)がないのです。だから、国家と国民とは常に対立・抗争することになってしまうのです。ただ、西洋の民主主義は、人倫国家日本との戦いに勝利して、自分たちの人種差別的悪行の濡れ衣を日本に被せた手前上、自分たちは人倫国家然としなければならなくなったので、露骨な即自は表面上は控えるようになりました。とはいえ、中身は全く変わったわけではありません。つまり、本当の意味での、人倫国家を実現できた国は、西洋諸国の中にはまだ存在しないということです。 一方、本物の人倫国家であった日本は、西洋から民主主義を輸入しましたが、もともと本物の民主主義の内実を持っておりましたから、何らの不都合もなく取り入れることができました。しかも、その日本が創り上げた民主主義こそが、本物の対自即自の民主主義だったわけです。だから、大日本帝国は強かったのであり、敗戦後も自発的にアジア諸国の独立戦争に身を投じていくものが多かったのです。
ところが、敗戦後は、その本物の人倫国家解体キャンペーンが、自虐史観教育の徹底と憲法九条の押し付けという形で強力に押し進められた結果、日本の麗しき誇り高き対自がかき消され、即自だけの日本人が大量に作られることになって、日本の民主主義も、西洋レベル以下に矮小化されることになってしまいました。その70年間の積み重ねの結果が、現在の日本の、国家の大事をそっちのけで、即自の感情のみで森そば・かけそばに熱中して国会を占拠する低レベルの民主主義のありさまなのです。
また、現在の日本で吹き荒れているme tooなどのセクハラ・パワハラ撲滅・ジェンダーフリーキャンペーンの本質は、人倫国家の最小単位である家族を、女性を奴隷状態にする家内奴隷制と見立てるマルクス主義の、家族を解体して、人倫国家を解体することによって、社会そのものをガタガタにしようとするマルクス主義の策謀の一環に他なりません。これによって社会が良くなることは、絶対にありません。それどころか、社会は、これによって活力を失い、滅亡への道をひた走るばかりとなってしまいます。
では、これらの問題の根本的解決はどうすべきでしょうか?それは、女性が土俵の上に登れるようにすることでもありませんし、そういう言語を知ってそれを使わないようにすることでもありません。かつての日本がそうだったように、人倫的理念の誇り高き対自を、即自的な国民一人一人が自分のものとして、対自即自の立派な日本国民となることであり、それによって互に尊敬し合い、ともに立派な日本国家・社会を創る同志として、男性も女性も協力し合うようにすることこそが、本当の意味での解決になることだと思います。
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