[3047] 「学城」18号批判ー相も変わらず地獄への道をひた走ろ南郷学派 |
- 愚按亭主 - 2019年07月26日 (金) 08時17分
久しぶりに「学城」18号が出ました。長らく間を置いただけ、渾身の内容であることはよく分かります。しあし、肝心のヘーゲルの誤解は相変わらずで、その必死の努力も、地獄への道は善意の敷石で敷き詰められている感は否めません。
まえがきを読むと、南郷先生は、ドイツ国立図書館から、以前私が批判しておいた書「哲学・論理学原論ー新世紀編」を、寄贈してほしいとの依頼があった、ということで非常に意を強くしておられるようです。私は、あんな誤ったヘーゲル論を寄贈して大丈夫かな、後世に恥を残すことにならないか?と心配になります。
南郷先生は、そうして意を強くした結果、ヘーゲルが批判的に克服したシェリングの、今まで読んでいなかった部分を読んで、自分と同じ考えであることにますます意を強くして、ヘーゲルによって学的に葬られた、シェリングこそ最高の観念論哲学者だと持ち上げて、遠回しにヘーゲルをこき下ろしていました。もはやつける薬は無いのか、と悲しくなりました。
1、南郷先生の、サルから人間への脳の発達の過程的構造論に欠けたるもの 南郷先生は、ドイツの図書館に評価されたことで意を強くしたのか、「原論」をこれまで書こうとしても書けずに欠番となっていた待望の全集第三巻に、格上げして「ヘーゲル哲学・論理学〔学の体系講義―新世紀編〕−哲学・論理学への招待」に改題するようです。本当にこれで良いのか?早まらない方が良い!と私は思います。
それで、この突然の変更によって、予告していたものへの影響のお詫びとして、余禄として、サルから人間への脳の発達の過程的構造論が熱く展開されました。
そのテーマに、とても興味を惹かれて読んだのですが、いつもながら思わせぶりばかりで、、丁寧に説いているつまりは分かりますが、それが反って冗長何時まで経っても聞きたい論理展開に到らずイライラさせられどおしで分かりにくく、靴下掻痒感が否めず、昔のようなワクワク感が乏しい感じがしました。そんな中で特に感じたのは、哺乳類から人間の生理構造で、人間の脳の発達に結びつく決定的な影響を及ぼしたはずの生理構造について、全く説かれていない点でした。
この生理構造は、南郷学派がかつて説いていたものですが、その後の発展が見当たらず、私のみが独自に発展させてきたものなのです。しかし、南国学派も密かに発展させているのではないかと思っていましたが、どうやら、全くそれができていないということが、この論文で改めて確認できました。
それとは何か?それは、交感神経論です。南郷学派は、交感神経と副交感神経とは生まれた時代も異なるので、ワンセットではないというところまでは、説いておりますが、それからの発展が全く無いようです。ところが、この交感神経の問題は、このテーマにとって、欠かすことのできない重要なファクターであるにもかかわらず、全く触れられておりません。
南郷先生は、哺乳類が陸上に進出したことが、どれほど脳に複雑な統括を強いることになったのか、を論文の中で強調しておりました。そして、それで一杯いっぱいになっていた脳が、サルが木に登ることによって、足的な使い方を手的な使い方に変えたことによる脳の発達と同時に、四足を二足に変えたことによる二足分の空いた領域が人間への脳の発達を可能にしたと説きそうな雰囲気を匂わせて、(続く)としていました。
しかし、これには無理があります。サルから人間への脳の巨大な進歩はそのような領域のみで賄えるものではありません。それを可能とするものがあったはずです。その答えは、私の交感神経論にあります。これは、南郷先生に倣って、今回は、匂わせるだけに止めておきます。
2、瀬江先生のひどいヘーゲルの誤解 南郷学派のヘーゲルの誤解の最大のものは、マルクス以来の伝統で、絶対的真理を否定し、ヘーゲルの云う絶対精神を「タワケタ」ものとして、否定してしまっていることです。これは滝村先生も同様でした。しかし、自分たちが創り上げた生命史観では、「本流」の発展の論理として説いているのですが、その「本流」こそが、すなわち「絶対精神」なのだということにどうして気づかないのか?本当に不思議です。
絶対精神が自然の事物に化体して人間にまで発展する、というのは即ちそういうことなのだ、同じ論理なのだ!とどうしてわからないのか?
それから、ヘーゲルの学問的立場が、唯物論と観念論とを統一した絶対観念論なのだ、ということがどうして分からないのか?それがヘーゲルの弁証法なのに、自分たちが観念論か唯物論かの形而上学のアタマのまま唯物論こそが学問的立場だと思い込み、ヘーゲルのが観念論なのにどうして唯物論的なのか?訳が分からないなどと、自分の反省もなく袋小路に迷い込んで、これでどうして学問の体系化ができるのか?ヘーゲルの学問体系が分かるのか?そんな頭でヘーゲルを批判することがどれほど滑稽なことなのかが全く分かっていないようです。
本当に嘆かわしいことです。また医療実践論でも、前回私が批判した通り、スジのネットワーク論がないために、全く実践的な議論にもなり得ていません。障害者教育論でも、栄養学の検討がないことは、致命的欠陥であることが分っていないようです。栄養不良による障害は、まず栄養を整えて障害をどこまで治すことができるのか、その上での教育論でなければならないと思います。
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