[3004] マルクス学派を根底から覆すヘーゲルの全体と部分の相関論 |
- 愚按亭主 - 2019年01月25日 (金) 09時59分
日本の国会の議論が、非生産的な理由は、野党の多くを占める左翼の思想には、国家が存在せず、したがって同じ土崩に立っての議論ができないからです。その左翼の思想の土台となっているマルクス主義の特徴は、哲学すなわち絶対的真理の否定、観念論の否定、相対的真理のみの真理論、差別されている者こそ解放者だと煽り立てて対立を作り出して、全体の統一を乱そうとする等々が挙げられます。そして何より極めつけは、絶対的真理を否定しておきながら、自ら相対的真理の絶対化を行っていることです。それがプロレタリア独裁であり、共産党独裁であり、いまや幻となりつつある習近平独裁です。この相対的真理の絶対化は、金融グローバリズムや宗教対立にも共通してみられる、人類に不幸をもたらすものでしかない理論的誤謬なのです。
その理論的な誤謬に対して、学問的に正しい答えを示してくれているのが、ヘーゲルです。そしてヘーゲルは、全体の否定的媒介を拒否する反省のない有は自己崩壊の運命にあることも述べています。それはどこに書いてあるのかと云いますと、「大論理学」の本質論の中で、全体と部分との本質的相関について、もう少し云いますと、即自的存在としての全体と、直接的存在としての部分との相関について、ヘーゲルは次のように述べています。
「全体は、それぞれの自立的存立をもつところの反省した統一である。けれども、このような統一の存立は、同様にまた、その統一によって反撥される。全体は、否定的統一としての自己自身への否定的関係である。そのために、この統一は自己を外化(疎外)する。即ち、その統一は自己の存立を、自己の対立者である多様な直接性、即ち部分の中にもつ。故に全体は部分から成立する。従って、全体は部分を欠いてはあり得ない。その意味で、全体は全体的な相関であり、自立的な全体性である。 しかし、またまさに同一の理由で全体は単に一個の相関者にすぎない。なぜなら、それを全体者たらしめるところのものは、むしろそれの他者、即ち部分だからである。つまり、全体は、その存立を自己自身の中にもたず、却ってこれをその他者の中にもつのである。
同様に、部分もまた全体的な相関である。部分は反省した自立性(全体)に対立するところの直接的な自立性であって、全体の中に成立するのではなくて、向自的に(単独に)存在する。しかし、それは更にまた、この全体を自己の契機としてもっている。即ち全体が部分の関係を形成する。全体がなければ部分は存在しない。けれども部分は自立者であるから、この関係は単に外面的な契機にすぎず、部分はそれに対して全然無関心である。しかし同時に、部分は多様な実存として自己自身の力で崩壊する。というのは、多様な実存は反省のない有だからである。 それで部分は、その自律性を、ただ反省した統一、即ちこの統一であると共にまた実存する多様性であるような統一の中にのみもつ。云いかえると、部分は全体の中でのみその自立性をもつのであるが、しかし、この全体はまた同時に部分とは異なる他の自立性なのである。」
私たちは単純に部分が集まったら全体ができると思いがちです。ウィルヒョウも、細胞が集まって生命体ができると考えましたが、かつての南郷学派は、それを批判しておりました。ところが、その南郷学派が、全体的真理である絶対的真理を否定したマルクスを踏襲して、相対的真理の科学が集まれば哲学ができて学問が完成するとしています。しかし、これは以前に自分たちが批判していたように誤りです。どうしてこういうことになってしまったのかと云いますと、以前に自分たちが批判したときに、しっかりとその論理をへーげるがやったように反省しておくべきだったのに、おそらくはしていなかったのだと思います。だから、自分が批判したその轍を、自らが踏んでいることに全く気付かないのです。まさにヘーゲルが指摘したように「部分は多様な実存として自己自身の力で崩壊する。というのは、多様な実存は反省のない有だからである。」つまり、南郷学派の直感的な批判は、反省・論理化されないで、「有」のままで放っておかれたために自壊して、消えうせてしまって、自分自身がその轍を踏んでしまったということです。
マルクス・エンゲルスは、自らをヘーゲルの弟子と任じてヘーゲルの学問を学びますが、この全体と部分との関係論を理解できませんでした。その理解を妨げたのが、当時台頭著しかった科学と唯物論に対する信奉でした。科学というのは学問全体の部分を研究するものです。唯物論も事実から出発しようとしますので部分的にならざるを得ず相対的真理論になります。その結果としてマルクス・エンゲルスは全体性を否定することになり、ヘーゲルの絶対的真理論を「熱病病みの妄想」だと否定し、「へーげるをもって哲学は終焉する」と宣告し、「国法論批判」の中でマルクスは、ヘーゲルを、対立物を媒介を通じて統一させようとするのは誤りだ。対立を激化させなければならない、と批判しました。その教えに従って、左翼は、日本の国家として正当に統一化が進行しているものを、その統一を破壊して対立を激化させようと「アイヌ法案」を提出し、北海道や沖縄に独立運動を巻き起こそうとしています。また、マイノリティーを不当に持ち上げて対立を煽り、国家の統一性を乱そうとしているのです。
ところで、ヘーゲルの云う、全体は即自、部分は直接性、とは何を意味するかと云いますと、全体がそのもの自体ということであり、部分は細かな現象として現われた直接事実としてとらえられることを云います。ですから、福島瑞穂氏が万種事変は日本が画策して引き起こした事件だから侵略だと騒いでいるのは、この部分から全体を規定しようとする誤りです。大東亜戦争全体そのものとしては、欧米の人種差別的植民地主義に対する、日本を中心とする差別されていた側の共存共栄勢力の植民地解放の戦いだっとと規定することができます。だから、その後の世界はアジアが解放され、人種差別がいけない音だという常識がまかり通るようになったのです。これは大東亜戦争がなければ起こり得なかった世界の進歩です。これに対して、部分的な事実でもって反論しようとする御仁は、上に挙げたヘーゲルの学問的規定を反芻すべきであり、おのれの学問的劣等さを自覚すべきです。
マルクスがヘーゲルを葬ってから、世界の学問的風土は劣化の一途をたどり、その行きついた先に「ポストトゥルース」なる言葉が出回る現実があります。これは、マルクスが行った絶対的真理を否定して相対的真理のみで真理論を構成しようとする欠点・弱点が露呈したものです。すなわち、部分的な相対的真理ははその範囲を逸脱すると誤謬に転化する真理ですから、絶対的真理の否定的媒介がないと「反省のない有」となって自己崩壊を起こして、お前の云う真理は、立場が異なる我々から見ると真理ではないとなって、真理の意味が薄れて「ポストトゥルース」になってしまうのです。それも、マルクスが本物のヘーゲルの学問を葬ってしまった結果なのです。それを喜んでいるのが、それを得意のお家芸とする韓国とチャイナでしょう。
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