[3003] 古書カタカムナのヘーゲル的学問性 |
- 愚按亭主 - 2019年03月14日 (木) 06時02分
私は、以前宮崎氏のメルマガへの投稿で、次のように述べておきました。 「じつは、人類の歴史上、その統一を見事に成し遂げた唯一の国が日本です。 日本は、「カタカムナ」の昔から、対自的な本質の世界と、即自的な現象の世界との、世界の二重構造を自覚していました。つまり日本人は、即自ばかりでなく対自的な認識も、早くから持っていたということです。 だから、共存共栄の精神が育まれたのです。」
ここで私は、日本の古代の書「カタカムナ」について言及しておりますが、この時はまだ直感レベルでしかなかったのですが、最近その直感・直観がまったく正しいものであったことを確認することができました。それは、具体的には、「カタカムナ」で説かれている内容が、ヘーゲルの学問の構造とぴったりと一致したからです。これは凄いことです。ヘーゲルがこれを知ったら驚嘆したことであろうと思います。
vそして、これによって、なぜ日本だけが、神話が現実の国家と直接的に結びついて、しかも、それが21世紀の今日に至るまで連綿とつながる国家として存在しえたのはなぜか?という謎を解くことができるようになったのです。さらに言えば、これまでの天皇という呼称が生まれた謎も正しく解けるようになると思います。では早速その「カタカムナ」の中の一節を見てみましょう。 カタカムナウタヒ第5首 「ヒフミヨイ マワリテメクル ムナヤコト アウノスヘシレ カタチサキ」
第6首 「ソラニモロケレ ユエヌオヲ ハエツヰネホン カタカムナ」
第7首 「マカマタノ アマノミナカヌシ タカミムスヒ カムミムスヒ ミスマルノタマ」
解説しましょう。これをヘーゲルの学問論と比較して見ますと、次のようになります。まず、第5首は有論・現象論に相当し、第6首は本質論、第7首は概念論に匹敵します。では何故そう云えるのか具体的に見ていきましょう。まず、第5首の内容は、「マワリテメクル ムナヤコト」すなわち万物は流転する「カタチサキ」の即自的な現象的世界を詠っています。 次に第6首は、「ソラ」すなわち対自的な天上から捉えた、「ハエツヰネホン」すなわち物事の発生・発展・消滅の根本論理、つまり本質の世界である「カタカムナ」を詠っています。
そして、極めつけは「タカミムスヒ」すなわち八百万の神々が住む「カタチサキ」の現象的世界と、「カムミムスヒ」すなわち八百万の神の大本となる神そのものの棲む「カタカムナ」の本質の世界、との統一によって、現象的世界にも本質的世界にも「ミスマ」って自由に行き来する魂となって躍動する、世界の「ミナカヌシ」すなわち絶対精神の概念論の世界を詠っているのです。
これは驚くべきことです。日本人は太古の昔から、ヘーゲル的な学問的精神を持っていたということです。だから、日本人は、世界の中で唯一、高等な対自即自の、弁証法的な言語を創り上げ、対自即自の共存共栄の精神を創り上げ、対自即自の国家の歴史を創り上げてきたのです。これまで、何故それが可能となったのかについて、いろいろ環境要因など偶然的な要素で説明されてきましたが、何よりも決定的な必然性としての、この主体的な要因にこそが、本質的な要因であったと思います。
ヘーゲルの学問は、人間が神になる道を説きましたが、古代の日本人も同じく人間が神になる道・方法を見出しておりました。だから、神話が現実の国家とつながるのです。また、なぜ天皇を名乗ったのかは、云われているように中国の皇帝に対抗して名乗ったのではなく、本当に人間が神になるものと捉えていたからこそ、天皇と名乗ったのです。さらに言えば、日本の古代の言霊の意味も、この観点からしますと全く違ったものとなります。それは、人間が絶対精神になる道として行われていたということです。そして、それは、現代においても有効な道なのですが、このことは、ヘーゲルの学問を否定してしまったマルクスによって汚染されてしまった、現代の多くの学者先生方には、到底理解の及ばない問題のようです。
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