カウンター 吉田流 - 談論サロン天珠道
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談論サロン天寿道

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[2991] 吉田流
質問者 - 2019年02月05日 (火) 13時14分

吉田先生がお亡くなりになって天寿堂さんが大きく宣伝したせいで「健康腺療法」の名は随分と広まったように思われます。私見では吉田先生のお弟子さんで天寿堂さんの先輩筋の先生も以前は健康腺療法という名を前面に出していくことが無かったものを「私の師は吉田禎克で健康腺療法を学んだ」と唱えだしたのも天寿堂さんの活動で認知度が高まってからだと見ています。

ですが、私には野中豪策からの健康腺療法の流れを汲む野中→吉田→稲村という道筋は昭和堂で芸能人や関取などが集まってきた吉田先生の治療の本質ではないように近年とくに思うようになっています。

天寿堂さんは「手の健康腺療法」「鍼の健康腺療法」などと呼んでましたが、私にはこの「鍼と手技」という違いは決定的なものだと思われるようになってきましたし、天寿堂さんが一番弟子の先生と道を違えてから松山先生という野中豪策のお弟子さんというルートに行ったのにも考えさせられるところがあります。

ぶっちゃけてお聞きしますが天寿堂さんは吉田先生がご卒業された鍼の学校がどこだかご存知ですか?そして東京で主流だった経絡治療の方向に行かなかった理由をお聞きになったことがありますか?

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[2992] これは大事な問題を含んでいますので、丁寧に答えましょう!
愚按亭主 - 2019年02月07日 (木) 17時27分

 まず、結論から申しますと、野中先生の手の健康腺療法と、吉田先生の鍼の健康腺療法とは、別のものではなく同じ健康腺療法です。それはどうしてかと申しますと、手の健康腺療法を完全に自家薬籠中のものとした吉田先生が、創り上げた鍼の操法だからです。

 ですから、晩年吉田先生は、鍼専門の弟子たちに、手の健康腺療法から教えなかったことを悔いておられました。その反省に立って、後から入ってきた故山藤先輩や私には、手の健康腺療法の型を教えて下さっていたのです。

 吉田先生がどこで鍼の資格を取得されたのは分かりませんが、いずれにしろその頃の先生はまだ、健康腺療法とは巡り会っておらず、成田不動に「我に日本一の治療家に合わせたまえ!」と祈願して、己の治療法を探し求めていた最中でした。ただ、私には東洋鍼灸専門学校の受験を勧められました。それは、鍼作りの名人であった神戸氏の紹介によって親交のあった先生が診な登用新旧の出身者でしたからです。

 吉田先生は、その後、野口晴哉先生を通じて野中豪策先生にたどり着いて、健康腺療法を学びはじめたわけです。そして、免許皆伝の折には、野中先生から、鍼の資格を持っていることを強みとして頑張るように激励を受けたそうです。

 そして、実際に患者さんが六本木の治療室に大勢押しかけ、まだ日本人の体質が食生活の変化や薬の多用などによって大きく変わってきて、手だけでそれだけの人数をこなすことが大変となってきたために、野中先生のお言葉にしたがって、鍼の健康腺療法の模索が始まったわけです。

 その際に、経絡治療の脈診を、健康腺療法にどう取り入れたらよいか、いろいろ試行錯誤を繰り返した結果、経絡治療と健康腺療法との整合性を見いだせずに脈診を捨てて、腹診の方に健康腺療法との親和性を見出して、それを主要な診断法として鍼の健康腺療法を創っていったのです。

 念のために断っておきますが、このことは、健康腺療法と経絡とは合わない、ということを意味するものでは決してありません。脈診を主要な診断法とする既存の経絡治療の形式と合わなかっただけで、鍼の健康腺療法は、むしろ実態に即した経絡治療と云えるものです。

 どうしてそういうことがいえるのかとお申しますと、経絡の実体はスジのネットワークに他なりませんが、全ての経絡のスジのネットワークは必ず健康腺を横切りますので、一つでも経絡のスジのネットワークの異常がありますと、必ず健康腺のスジの異常として現われますので、経絡のスジのネットワークの異常が残っていることを察知することができるからです。

 既存の脈診の経絡治療は、経絡の氣血の流れを整える、という抽象的な考え方の下に体系が組み立てられているために、どうしても頭でっかちとなって、実態と合わない場合が起こりやすいのです。

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[2993]
質問者 - 2019年02月08日 (金) 05時05分

>晩年吉田先生は、鍼専門の弟子たちに、手の健康腺療法から教えなかったことを悔いておられました。その反省に立って、後から入ってきた故山藤先輩や私には、手の健康腺療法の型を教えて下さっていたのです。

良く理解できませんね。鍼治療するに手技の療術を学ばなかったことが欠陥として関わってきたというのが有り得ることだとは考えにくいです。そしてまた、もしも鍼治療に民間療術の技が必須であったならば「後から入ってきた者」ばかりでなく以前からいた者にも野中豪策から学んだ手技を教え授けるものではないかと考えますよ。

それがどうして天寿堂さんと山藤さんだけに?常識的に考えられないことですよ。私も予想外でしたが吉田先生は上京して野中豪策に学んだ後で鍼灸の資格を取ったのではなく鍼灸師になってから療術師であった野中豪策の弟子になったわけですか。不思議ですね、鍼師になってから鍼の技を極めようと鍼の先生について学ぶでなく民間療術師の手技療法を学ぶとは。

ですが、吉田先生のその歩みからしても鍼を学んだ後で手の健康腺療法とやらを学ぶでも構わないはずでしょうから、一番弟子だとか最後の弟子だとか関係なく野中豪策の手技は教えられるべきものでしょう。

それが一番弟子さんには野中豪策の手技を教えずに天寿堂さんや山藤さんだけに教えたということは鍼の実技に関与してくるのとは別の理由で健康腺療法を教えた可能性があるように思われますね。

例えば、その当時、鍼の資格を持っていない若人が吉田先生に弟子入り志願しており、たまたま天寿堂さんや山藤さんが顔見知りだったために鍼を使えないその若者のために手技療法を教えた、とか。あるいは鍼よりも手技療法が好きな天寿堂さんと山藤さんとの鎹とすべく同じように手技療法を教えた、とか。吉田先生のお弟子さんはみな同世代で同じように自身の治療院を開業していましたから「先輩、後輩」の縦型の序列よりも友人関係の仲間だということを吉田先生は重要視していたと聞いています。だから一人だけ年の離れた若者が弟子入り志願してきたときは「他の弟子たちと年が違いすぎる。上手くやっていけるか?」ということを懸念していたそうです。

ところが、天寿堂さんはご自分が野中豪策の手技を教わったのは一番弟子の先生などとは差別された「最高の上達過程に乗せてもらった」のだと解釈し、一番弟子の先生などとは違う特別待遇=優遇されたのだと理解した。

ですが、もしかしたなら吉田先生は一番弟子の先生を立てることなく「自分が一番」の雰囲気を醸し出す天寿堂さんに「やはり昨日入ったばかりの白帯が何十年もやっている高段者と同じことを学ぶのは適当ではない」と考え「お前はこれでもやってなさい」と野中豪策の手技を教えた可能性も否定できませんね。

吉田先生が天寿堂さんに東洋鍼灸を勧めたというのも驚きです。天寿堂さんは鍼灸の資格を取って自分の治療院で鍼治療していたから患者さんに「名人を紹介したい」と誘われたのではなかったんですか?鍼の資格を持っていない手技療法の治療家を鍼灸師の先生に引き合わせて「それではこれから何処の学校を受験するか?」という話だったんですか?
しかも天寿堂さんはこれから入門しようという師匠から東洋鍼灸を勧められたにも関わらずそちらを蹴って花田に入った。東洋鍼灸は蹴っておきながらタイ人の嫁を用意して吉田先生に仲人を依頼し昭和堂の中に摂関政治を実現していった。




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[2995] 補足
愚按亭主 - 2019年02月08日 (金) 09時36分


 確かに誤解を与えるような記述をしてしまったかもしれませんので、若干補足しておきます。吉田先生は、諸先輩を無視し差別したわけでゃなく、反省に基づいて、弟子を集めて、松山先生と一緒に手の健康腺療法の講習会を開いています。その時は、まだ私は弟子入りしていなかったので、それを国設体験したわけではありませんが、ビデオに残っています。

 ですから、先輩諸氏はそれを自分のものにしようと思えばできる条件はありました。私と山藤先輩は、手技出身で、定期的に週一回先生について治療を見学しお手伝いをしながら、治療が終わった後に直接主義を教わる機会に恵まれていたということで、先輩諸氏よりは、先生から主義の技を学ぶ機会が多かったということです。

 ただ、問題は、形はそれなりに学ぶことがdきましたが、吉田先生が健康腺療法の手技で治療をする場面を一度も見ることができなかったというのが、その後の磁力での手の健康腺療法の再現に大きな壁として立ちはだかったという面がありました。

 次に、話題に挙げられたその若者は、私に吉田先生の弟子入り志願のちゅかいを頼んできたので、吉田先生に話してみたところ、吉田先生から「お前が面倒を診なさい」と云われたので、そのつもりでいたところ、その若者は私を嫌って、山藤先輩の床尾rに勝手に行って指導を仰ぐ、という挙に出たので、世芦田先生もあきれていました。いずれにしろ吉田先生のお言葉よりも、自分の感情の方を優先しているようでは、人から学ぶということは難しかったと思います。

 私自身も著しくプライドを傷つけられましたが、仲介の労を取ってもら多感謝の念もなく、一応吉田先生から弟子入りを認められたという喜びもなく、吉田先生の直接の弟子になりたいという自分の感情を一致しなかったことが気に入らず、自分勝手な行動をとる身勝手な人格に、憐憫の情を禁じ得ませんでした。


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[2996]
質問者 - 2019年02月08日 (金) 11時36分

吉田先生が健康腺療法の講習会を……それも予想外の驚きです。吉田先生は天寿堂さんのように一般の受講生を募って講習会を開くような方ではないと思っておりましたから直に教えを受けたのは正式に師弟関係を結んだお弟子さんだけだと思っておりました。

そして、吉田一門というのは何々会のような組織化されたものではなく天寿堂さんのような一国一城の主である先生方が何人か集まった謂わば「梁山泊」のようなものだと認識しておりましたから門下に入れるか否かは単に意中の先生が弟子入りを認めるか否かであって吉田一門の承認といった手続きなど無いと認識しておりました。

ですから吉田先生に弟子入り志願して断られたとしたならば吉田先生が指定する別の先生の指導下に属国するなどというルールはなく別の先生に弟子入りをお願いするということだったはずですよ。

天寿堂さんが言っているその若者も天寿堂さんに吉田一門一般への入門を天寿堂さんに依頼してなどいないと述べておりましたし、山藤先生からは「◯◯ちゃん、天寿堂さんも話せば解る人だから…」と言われていたそうです。その山藤先生の言葉が何を意味しているのか俄には理解できなかったらしいですが要するに「私が弟子入りしたいのは山藤先生であって天寿堂さんじゃありません」とハッキリ言ってないから伝わっていないので、ハッキリ伝えれば理解してくれるだけの度量はある人だよ、ということだったみたいですよ。

それで彼は山藤先生から「何曜日は吉田先生と私しかいないから何曜日に来なよ」と言ってもらい時々あそびに行ったり、世田谷のY先生がいるときに「Y先生、教えて下さい」とお願いすれば「おう、いつから来るんだ?」と快く受け入れてもらえたそうですよ。

そうした師弟関係で伝えられる術技を講習会といった形で伝えるものなのか、天寿堂さんには申し訳ありませんが私は半信半疑です。

ですので天寿堂さんの言っている「手の健康腺療法」の話も、本当なのかも知れませんけど、私は天寿堂さんが若い自分に習い覚えた例の「作って使う」という戦う練習の前に騎馬立ち正拳やるとか書道のために鍼灸の練習するとかの発想から**(確認後掲載)したのではないか?との疑いをもっているんですが……。

ですから鍼灸師も鍼灸とは別の必要性があって整体だとかカイロだとか学ぶんだと思うんですが、師が過去に学んだものを文化遺産的に学ぶという以外の意味で野中豪策の手技を学ぶ意味というのは思いつかないんですね。


Pass

[2997] 日本精神とは?
愚按亭主 - 2019年02月10日 (日) 04時18分

 日本は、世界の中で唯一!、対自即自の国家第一主義で建国し、その精神を、敗戦後の自虐史観の蔓延によって揺るがされるまで、見事に貫き通してきた結果、極道と云われるアウトサイダーにいたるまで対自即自の精神が深く浸透して、国家と国民がまさに本当の意味で一体であった国でした。だから、外国人の多くが日本の文化を尊敬しているのです。それはまさに国家が本来あるべき姿であり、学問的に理にかなっている普遍性そのものだったからです。

 ところが、そうした日本も、戦後の自虐史観教育の執拗な攻勢に、その見事であった日本精神も次第に崩されてきて、対自のない即自オンリーの自己中心主義が横行するようになってしまいました。その成れの果てが、自分の子供を虐待する親の増加です。

 件の若者も、その戦後教育の申し子のような存在で、自分の都合しか考えない人物でした。だから、吉田先生の弟子になりたいという自分の思いを持ちながら、吉田先生からの、稲村に手ほどきしてもらいなさい、という指示を無視して、稲村の指示には一度も従おうとせず、その指示をあからさまに無視して、他の弟子のところに習いに行った、という不思議な精神構造を持っていました。

 ほかの諸先輩たちは、吉田先生から一応の許可を得たと思っていたので、快く迎えてくれたのでしょうが、吉田先生の指示を無視して、勝手な行動をしていると知ったならば、お説教を垂れていたはずです。実際、最終的には皆に知られて、問題となりました。

 吉田先生に直接習いたい、という自分の思い、吉田先生の直接の弟子として認められたいという自分の思いがまだ可能性があるうちは、嫌いな稲村にしぶしぶ頭を下げて仲介を依頼したようですが、それかなえられないと分かると、ましてや嫌いな稲村の指導を仰ぐなどと最もしたくない指示には、たとえ吉田先生の指示であっても自分の感情が許さないと、吉田先生の指示を無視して、自分の感情にしたがって稲村以外の弟子のところに行くという手前勝手なふるまいを走ったわけです。

 一方、その時の私の感情はどうだったのか?と云いますと、同じく嫌っていたその若者から頭を下げてお願いされて、気が進まなかったのですが、自分の感情を押し殺して、吉田先生にお願いしたところ、吉田先生はすべて見抜かれていたのか、私に面倒を診なさいと指示されました。この時、私はえらいことになってしまった、と思いましたが、吉田先生の指示とあれば致し方ない、と覚悟を決めてどう指導すべきかいろいろ頭を悩ませました。そしてその旨を、手段を忘れましたが伝えて返事や反応を待っていましたが、全く音沙汰がなく、後で分かったことは、山藤先輩のところに行っているということでした。この時は正直、プライドを傷つけられたことより、ホッとしたという法が大きかったように思います。

 もし対自即自の分かっている者ならば、自分の感情はいったん棚上げして、まず対自の最たる吉田先生の指示に従って、稲村から形を習い、それを吉田先生に認めら貰うように努力したはずです。そして、どうしてもほかの諸先輩の技も知りたいという気持ちが生まれたのならば、まずは否mらに相談して、その領界の元に習いに行くという行動をとったはずです。それが人間と云ものであり、日本人のあるべき態度です。

 そのことを何十年経っても未だに反省できないまま、そのままの感情を引きづって進歩していないということは、あきれてものが言えません・・・・。


 最後に、私自身の反省としては、なぜ最初に、吉田先生への仲介の依頼をきっぱりと断れなかったか、ということです。この人物は吉田先生の弟子としてふさわしくないと自分の責任で判断をくだせなかった不明を恥じるばかりです。

Pass

[2998]
質問者 - 2019年02月10日 (日) 06時52分

天寿堂さんにも面子があるのでしょうから偽りを述べてでもご自分を正当化しようとなさるのも理解は出来るのです。

そして、そのことは天寿堂さんの場合は此処でのご自分の営業活動や主宰されてる講座での面子・プライドに関わるのでしょうが私の場合は真実を明らかにしたところで何の損得もありません。

ですから天寿堂さんの営業妨害をするつもりも無いわけですけれど、実際には天寿堂さんの言っている若者は自分自身の体に疾患を持っていたわけです。それで先ずもっては弟子入りよりも自分を治療してもらいたくて吉田先生のところに行ったわけです。

その「名人」だと称されている吉田先生の治療所が何処にあるのか分からないので天寿堂さんに尋ねたはずですよね?内心では「天寿堂さんの治療に効果が感じられないからもっと腕の立つ先生を」みたいな感じで悪い気がしたところがあったらしいんですが、「一回一万円だけど、そこは関係者の紹介がなければ診てくれないから天寿堂に紹介されたと言いなさい」と言ったのを覚えてませんか?

実際には彼が知らなかっただけで普通に広告も出して宣伝・営業している治療所でしたし、山藤先生も「いや、紹介なんかなくたって診るよ」と(まあ、当たり前なんですが、)いうのを聞いて「治療所の患者を増やすこと、収益に天寿堂が貢献してる」とのアピールしたい天寿堂さんの気持ちも察して「私がいたからこそ君は吉田先生の治療を受けれたのだ!感謝したまえ!」という天寿堂さんの心情も受け入れてはいたようなんですよ。

ですが何処かで求人広告が出てるのを見て応募するのと違って自分の体に明確な改善の体感が無ければ治療家としての弟子となるということには繋がらなかったんですね、彼の場合には。だから彼は吉田先生には弟子入りを申し入れたけど天寿堂さんには弟子入りを申し入れなかったわけです。

というよりも天寿堂さんと彼とは互いに余り詳しく知り合っていなかったんですね。

ですが、彼は山藤先生とは同じ職場で働いていましたからお互いに人となりは知っていたんですよ。気心を知り合ってたんですね。あんないつもは真面目くさって手技をやっている山藤先生が職場の慰安旅行での夜の宴会では腹に墨で顔を描いて腹芸やるような人だったとか一緒に生活してないと分からないわけですよ。

それで彼、働いている職場の若い女の子から求愛されたんですよね、山藤先生を介して。彼ってほとんど喋らずに仕事するタイプでしたけど真面目な感じが気に入られたのか?

そんな気心の知れた仲だったから「私がいる時に来なよ」と昭和堂に誘ってくれたんだと思いますよ。

それで彼は吉田先生からは「天寿堂さんの指示に従え」なんてことを言われたことが無かったそうです。第一に「君は天寿堂さんとどういう関係?」と聞かれたことも無かったらしいです。自分が体の何処がどう悪いか、それに対し吉田先生の治療が劇的な効果を出してくれたことを述べて弟子入りしたいという気持ちを伝えただけで。「稲村の指示に従え」なんて言われたこと無いそうですよ、天寿堂さんが一人で言ってるだけで。

そもそもが彼、天寿堂さんに「吉田一門に入る手助けをして欲しい」なんて頼んでもいないのに「天寿堂が世話する」みたいなことを同行した鍼祭りの宴席で天寿堂さんの口から発表されてビックリしたそうです。「私の知らない裏でどんな話をしてるのか?」と。

だから吉田一門の中では彼は「吉田先生の治療を受けて感動して弟子入り志願してきた整体師」という認識であって「天寿堂さんの配下の人間」という認識ではなかったはずです。天寿堂さんが裏で何を吹聴していたのか解りませんけれど。

だから天寿堂さんが吉田先生亡きあと昭和堂から世田谷のY先生を追い出して、事実上、営業停止にまで導いたのは吉田先生やY先生に任されて引き継いだのではなく強引に奪ったことを知っていた患者さんたちが去っていったのですから無理もありませんが、天寿堂さんが喧嘩別れしたY先生と彼は今でも交流があるのですから「山藤先生の仲間」と認識されているのでしょう。

これが先輩を追い出して治療所の中で日本刀を振り回している写真を掲載して威嚇した天寿堂さんの配下の人間だと理解されていたとしたならば、彼はY先生から受け入れてもらえなかったに違いありませんから。


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[2999] 事実だけ記しておきます
愚按亭主 - 2019年02月10日 (日) 08時27分

 水掛け論の様相を呈してきたので、これ以上議論する気は全くありませんので、事実だけを書いておきます。

 まず一点、その若者が吉田先生の治療を受けたのは、弟子入り志願のずっと前だったと思います。

 第二に、その弟子入りの志願の話を吉田先生にして指示を仰いだ時、たしかその場には山藤さんは居なかったと思います。そして、その若者はそこに同席していて、吉田先生の指示を聞いたはずです。忘れてしまいましたか?山藤さんは、月曜日が担当の日で、私は金曜日の担当でした。ですから、山藤さんがいるはずgふぁないのです。つまり、山藤さんは直接吉田先生のお言葉を聞いていないはずです。

 第三に、山藤さんと同じところに働いていたことは知っていますが、それは吉田先生の指示があった後に山藤さんと同じところに就職したのだったと思います。

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[3000]
質問者 - 2019年02月10日 (日) 09時06分

私も事実だけ述べておきます。

彼は天寿堂さんから吉田先生から指導するよう依頼されたなどと言われたことが無かったそうです。指導するとも言われてませんから、当然に週何回こいとか月に何回こいとか、何曜日にこいとか何時に来いとか指示などされていません。

ですから、彼は自分の時間が開いてるときに天寿堂さんのところに手技を受けに行ったと思います。それも30分とかの短い時間だけ。それだけ経済的に切迫していたようですが、その自分が施した手技に対して如何なる目的で何を何処にしたのかということを天寿堂さんが相手に説明したことは無かったはずです。お金だけシッカリと取りながら。

それでも彼は自分が人の体を触ってる人間でしたし、解剖の知識がありましたから自分なりに相続することはあったようですが。でも、そういうことは治療をやってる人間が繁盛してる店で手技を受けにいき自分の参考にするような良くある話でしかありませんし、それを「吉田先生の指示のもとでの指導」と呼べるんですか?天寿堂さんは。

そんなことより寛容なのは吉田先生亡きあと、天寿堂さんが一番弟子のY先生を昭和堂から追い出したことでしょう。

当時の天寿堂さんはY先生が吉田先生亡きあと昭和堂を乗っとるとか口にしたから飛んでもないとか理由をつけて。ですが、普通に考えても最も長く吉田先生について治療の指導を受けてきたのは一番弟子のY先生ですし、「長子相続」の原則からいっても跡を継ぐのは順番的にいってY先生でしょう。

患者さんの立場から考えても吉田先生の治療に一番近いのはY先生のはずですし、当時の天寿堂さんも50歳を超えていたはずですから挑発的なこと言われただけで盲信して激昂するはずありません。武道で鍛えた心身ですし。

だから、初めから何か理由がつくならば大義名分のもとに兄弟子を追い出して昭和堂を乗っ取ろうと画策していたに違いありません。私も今や確信しています。

挑発に乗ったふりをして故意に兄弟子を追い出したのだと思っています。兄弟子からも見抜かれていたのでしょうね。

天寿堂さんのやったことは秋篠宮が皇太子を失脚させて次期天皇とならんと画策したごときことで、吉田一門の序列、順番を己の私欲で蔑ろにしたものですから、何が日本精神だ、天寿堂さんの口から語られては「日本精神」が穢れるわ(笑)


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[3001]
質問者 - 2019年02月10日 (月) 14時15分

一時期、天寿堂さんが親しくお付き合いしていた神戸の老婆のブログで健康腺療法を取り上げていますね、今日。

天寿堂さんは絶縁したのかも知れませんし、私も余り関わり合いたいとは思っていない老婆ですが、健康腺療法について鋭い指摘をしていると感じます。

それは浪越徳治療の「押せば命の泉わく」を出して「健康腺療法」はそれ以前は「生命腺療法」と呼ばれたという事実です。

ここで私もハタと思い付いて調べてみると宗教思想に「生命の泉」という発想があるのですね。キリスト教の中でオリエントのほうからもたらされたとされているらしいですが。

それは野中豪策の「アソカ療法」の「アソカ」という仏教思想とも相俟って野中豪策の宗教観、ひいては野口晴哉などを輩出した日本の宗教界、霊術界の動向などにも結びついてきました。

健康腺療法の「腺」というのは「腺(Grand)」ではなく「泉(Spring)」だったのだ!と。

野中豪策が元々の「生命腺」を「健康腺」に変えたのは当時すでに指圧を学校法人化していた浪越徳治郎からの圧力だったのか、それとも野中のほうが忖度したのか、いずれにしても政治的な理由である可能性がありますね。

そして、その後の吉田先生のお弟子さんたちが余り「健康腺療法」という言葉を使わなかったのも背景にある宗教思想を知っていたからかも知れません。私は天寿堂さん以外の吉田門下の先生から「健康腺療法」という言葉を聞いたことがありませんから。

「生命の泉」「健康の泉」というのは医学的、生理学的な言葉ではなく宗教上の伝説の言葉だったからなんですね。


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[3002]
質問者 - 2019年02月11日 (月) 11時11分

英語のスペルを間違えて折角の謎解きの魅力が半減してしまいましたけれど、改めて野中豪策の「健康腺療法」もともとは「生命腺療法」の「腺」とは「Gland」ではなく「Spring」だったのだという気づきは私にとっては大きなものです。

そこから旧約聖書に説かれたユダヤ教の「生命の泉」という宗教観念が私を中近東の古代バビロニアにまで引き戻してくれましたが、さらに今度は野中豪策の「アソカ療法」というのは何か?というのが新たな課題として浮上しました。

ネットで「アソカ」を検索すると「釈迦がその木の下で生まれたとされる木の別称」と出てきますが、それでは野中豪策の治療と繋がって行きません。

それで改めて「アソカ」の漢訳である「阿輸迦」で検索すると「アショーカ王」がヒットし、そこから全てが繋がって行きました。金田一少年の「謎はすべて解けた!」とね(笑)。

野中豪策の「アソカ療法」というのは「アショーカ王の治療法(アソカ大王の治療法)」ということだったのだ!それはつまり、古代インドのアショーカ王の時代から始まったとされる「福徳医薬舎」による民衆救済をイメージしていたに違いない。

そこから、野中豪策の教養の高さというものが窺われるように思われました。

天寿堂さんが述べるのとは裏腹に「例の彼」は結局のところ吉田門下には入れなかったのだと思います。天寿堂さんは彼が山藤先生に新たな技術を教えてもらいに行ったなどと勘繰り嫉妬したようですが、彼は山藤先生に吉田一門の技術について何も尋ねたことはありませんでしたし、単なる職場の先輩であり、年の離れた友人でもあると仲良く一緒に仕事をしていただけでした。

ですから、山藤先生が亡くなったと聞いたとき、彼は心底悲しみ、二度と会うことの叶わぬことを嘆いたのでした。術技や一門(組織)といった話ではありません。そこが彼と天寿堂さんとでズレがあるんでしょうね。

まあ、治療も吉田流ばかりではありませんから、彼も何処かで別の出会いがあり、新たな道を歩いていることだと思いますよ(笑)。

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