カウンター ヘーゲルの直接・媒介・はエンゲルス・三浦さんがいうのと違う - 談論サロン天珠道
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[2956] ヘーゲルの直接・媒介・はエンゲルス・三浦さんがいうのと違う
愚按亭主 - 2018年11月08日 (木) 18時47分

 ヘーゲルの運動体の弁証法の論理学を真面目に学んでみて、これまで私自身も正しと思い込んでいた、エンゲルスと三浦さんが規定し、南郷学派もそのまま受け継いでいる、「直接」と「媒介」が、ヘーゲルのものとは全然違うことが分かりました。

 そして、ヘーゲルの「直接と同時に媒介を含くまないものは、天上界をはじめとしてどこにも存在しない」という言葉の意味を、マルクスやエンゲルスは、全く分かっていなかった、ということも分かってきました。天を捨てよ!などと上から目線で偉そうに宣っておきながら、肝心のメインテーマの中身を、全く分かっていなかったというのは、とんだお笑い種と言わざるを得ません。。

 このヘーゲルの言葉の真意は、以下の通りです。
〔時間・空間のカンバス上で展開される有と無、動と静、有限・無限の論理〕 
 <有―無―成>のヘラクレイトスの三項の論理を、ヘーゲルは次のように生成と消滅の論理へと発展させています。すなわち、直接性としての<無>の裏に媒介性としての<有>が存在している場合の<成>は生成運動となり、直接性としての<有>の裏に媒介性としての<無>が存在している場合の<成>は消滅運動となる。これが、次々に変転することによって、生成・消滅の運動が展開されることになります。

 同じように<動―静―成>も、直接性としての<動>の裏に媒介性としての<静>が存在する場合の成は、ゼノンの説いた一点に確かに存在する矢となり、直接性としての<静>の裏に媒介性としての<動>が存在する場合の成は、先へと移動する矢となり、この論理の目まぐるしい変転によって、矢が的へと到達することになります。

 また、有限と無限に関しても、直接性としての<有限>の裏に媒介性としての<無限>が存在して、その<成>は、極まったかと思ったらまた始まるというもので、直接性としての<無限>の裏に媒介性としての<有限>が存在する場合の<成>は、始まったかと思えばまた極まる、という具合です。じつは、これが真無限の論理構造なのです。しかし、<有限>と<無限>とを、それぞれ別々のまま単純にかけ合わせて統一してみても、有限の無限的連鎖となるだけで、どこまでいっても無限とはならない<悪無限>になってしまいます。そこで、弁証法的な三項の論理では、この<有限―無現ー成>の三項を、化学融合的に止揚・統一して、その<無限即有限ー有限即無限ー真無限>の三項のそれぞれが、その全体の構造を内に含む三項となって<真無限>が完成するのです。

 これらの運動体における直接・直接性と媒介・媒介性とは、どういう関係性を表わすものなのでしょうか?まず、直接あるいは直接性とは、どういうことかと云いますと、運動の出発点としての自己・主体そのもの、何らも加工されていない生の自分、直の自分、すなわち自分の即自ということです。

 これに対して、もう一つの媒介あるいは媒介性とは、直接的な即自の自己に対して、否定的に働きかける、つまり否定的に媒介して、動かすもう一人の自己すなわち対自のかかわりを云います。先に挙げた例を、見ていただければ一目瞭然ですが、即自の自分に対して否定する形で、対自の自分が未来の自分の像を描いて、即自の自分をその方向に動かすということで、理解して貰えれば分かり易いかと思います。

 この直接と媒介の理解は、マルクス・エンゲルスや、それを受け継ぐ南郷学派の説くものと、ずいぶん違いますが、ヘーゲルの弁証法を正しく理解できなかった者たちの肝心なところを排除した自分勝手な解釈よりも、こちらの方が正しいのです。実際、彼らの理解した直接と媒介では、何らの運動も生じえないし、そもそも、ヘーゲルが「直接と同時に媒介を含くまないものは、天上界をはじめとしてどこにも存在しない」と述べた意味が、彼らには分かっていないのです。それは、運動体の普遍性だと、ヘーゲルは言っているのです。
 
 ところが、この生きた運動体の論理学のヘーゲルの論理を、観念論を排除する、死んだ形而上学的論理学のアタマのままでいた、マルクスとエンゲルスは理解できず、換骨奪胎してしまった運動性のない直接と媒介にしてしまったのです。これが、論理自体がスジを通そうとする論理のこわさ・恐ろしさなのです。好むと好まざるとにかかわらず、一旦その論理の立場を取ると、そうなってしまうのです。これを論理強制と云います。観念的自己疎外とも言えるでしょう。だから、如何なる論理の立場を取るかがとても大切なのです。
 
 私の場合、部分的真理の相対的真理を根本とするのではなく、全体的真理である絶対的真理の方を根本とする真理論に転換したことが、大きな転機となりました。その後は、その論理の命ずるままにとんとん拍子にここまでたどり着きました。これが論理の素晴らしさであり、凄さなのです。真理論を改めた当初は、ヘーゲルのへの字もなく、ヘーゲルに詳しい者からヘーゲルをやろうと云われた時も、雲の上の遠い存在でしかなかったヘーゲルなんてとても現実的考えられず、おんぶにだっこでついていくか程度の思いでした。そのヘーゲルをやろうといった当の本人がいなくなって、自分がやらざるを得なくなってしまって、途方にくれましたが、いざやってみると、ナント!ヘーゲルの云わんとするところがすんなり入ってくるではありませんか!これには本当に驚きました。これは、ヘーゲルの真理論と同じ立場に立ったおかげだと思います。

 ヘーゲルの倫理論と同じ立場に立とうとしなかった、南郷先生は、自力でヘーゲルに近いところまで解明しながら、とうとうヘーゲルは肝心なことを何も解けていなかった、と結論付けてしまいました。これは、ヘーゲルと違う真理論の立場に立っていたために、その偏向メガネの論理には、ヘーゲルの真理が映らなくなってしまうことが分からなかっただけで、原因は自分のとっている偏向メガネ(唯物論一辺倒)の立場の方にあることが分かっていないようです。

 このことは、認識論の構築にも大kな悪影響を及ぼしています。それはどういうことかと云いますと、まずアリストテレスの次の言葉にミニを傾けてください。アリストテレスは、「自然学」の中で、学的認識の発展過程について次のように述べています。

「・・・・それゆえわれわれは、この普遍的なものどもから特殊的なものどもへと進むべきである。というのは、全体の方がわれわれの感覚に対してより多く可知的であり、しかも普遍的なものは或る全体的なものだからである。けだし、普遍的なものは多くのものを、いわばその諸部分として、包摂しているもの{ゆえに全体的なもの}であるからである。」
(出・岩崎訳「アリストテレス全集3」所収、3〜4頁)

 このようにアリストテレスは、見事に全体性の論理の絶対的真理の方が、部分性の事実の論理の相対的真理よりも捉えやすいことを理解した上で、目的意識的に、まずはじめに絶対的真理の形而上学と、その論理学である形式論理学を創り上げたのです。このことが理解できないために、アリストテレスの論理能力は未熟だった、だから彼には形而上学は作れなかった、などと平気で宣えるのです。これは、人類の学問的認識の形成過程が、全く分かっていないことを自ら告白しているようなものだというのに・・・・・。


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Pass

[2984]
質問者 - 2018年12月22日 (土) 09時05分

天寿堂さんのように思い込みが強く「絶対的な学的英雄・ヘーゲル」だけを想定してると見えるものも見えなくなりかねず、ある種の危うさをも感じる次第ですが、最近発見した丹野義彦さんの「ブラック・ヘーゲル 哲学者の隠蔽された恋」は多くの示唆に富んだ論考ですので紹介したいと思います。

丹野さんは東大で臨床心理学を専攻されたそうで「モノは考え方次第」を実践する方のようですけど、この「ドイツ哲学最大のワル・ヘーゲル」という観点は私も腹を抱えて大笑いしてしまいましたよ。

丹野さんという人はきっと凄くユーモアあふれる人なのだと思いますね。

天寿堂さんも一読を奨めます(笑)

Pass

[2985] 丹野氏の労作の学問的価値はゼロ
愚按亭主 - 2018年12月27日 (木) 18時53分

 学問の評価は、創り上げられた論理体系が、真理の体系として人類が本来進むべき道を照らし出すものとして、人類の共有財産たりうるものか否かで、判定されるべきで、人格で評価されるべきではないと考えます。しかも、その人格の評価が最終的に出来上がったものではなしに、途上における行状を持って評価するというのは、ナンセンスです。というのは、初めから完璧な人格は存在しないからです。最終的にどう云う学問を創り上げたか?そして、どういう人格を創り上げたか?こそが重要で、しかも、それらは、相対的独立に、別個に評価されるべきです。

 丹野氏の問題点は、人類の学問の歴史、学問とは何かの認識が、学問のレベルではなく、通俗のレベルでしかなく、矮小化がはなはだしいことです。
 二番目の問題点は、臨床心理学を専門としているとしながら、論及が、道徳レベルにとどまっていて、自分の専門である心理学的追究が全く見られないことです。これまで、多くのヘーゲル研究者が隠そうとしていたヘーゲルの非道徳的行状を、真正面から問題としてヘーゲルはワルだった!と規定したことでもって、何か誰もできなかった凄いことを成し遂げたかのように錯覚して、自己満足に終わってしまい、本来すべき自分の専門の追究をしようという意志も、気概も感じないようです。

 この二つの問題点は、相互にマイナスの形で規定し合っているようです。たとえば、ヘーゲルの非道徳的行状を知ったために、ヘーゲルの学問そのものまで、自分と何ら変わらないレベルだと錯覚して、ヘーゲルの学問を軽く見てしまうと云うようにです。これは、偉大な学者の周りの人間が、あまりにも近すぎて、人間的側面を知りすぎた余りに、自分のレベルに引き下ろして見てしまうことが往々にあることと同じことです。
 また、反対に、そのようにヘーゲルの学問を自分のレベルに引き下げることによって、偉大な学問を創造する人間がどうして?とならないで、そのギャップも大きくならないために、その矛盾を解き明かそうとする心理学的な追究をしようとならなくなってしまっているようです。

 しかし、どうもそれ以前に、そもそも丹野氏の学問そのものや学問の歴史に対する認識自体に、大きな問題がありそうです。その部分の丹野氏に文章を引用してみましょう。

「カントは、1781年に『純粋理性批判』を発表して、形而上学を批判した。つまり『神は存在するか』とい った神学などの形而上学は、答えの出ない問題であり、学問としては成立しないことを明らかにした。 カントはこうした神学批判を学問として厳密に考えたのだが、こんなことは当たり前のことである。『神は存在するか』 とか『神とはどのようなものか』といった問いは、ちょうどSFとかファンタジー小説のようなものであり、その人の胸三 寸で恣意的にどうとでも結論がつけられる。どちらが正しいか論争に決着がつくわけではない。人によって考え方も違うし、 ああでもないここでもないという決着のつかない言葉遊び(スペキュレーション)をずっと続けることになる。神学者にと っては飯のタネなのかもしれないが、それ以外の人にとっては、実生活が変わるわけではない。このような結論に達するの に、哲学は何千年もかかったことになる。」
 
 ここで丹野氏は、自分が学問とは何か?哲学とは何か?が分かっていないこと、学問の歴史、もっといえば学問と宗教の歴史が全く分かっていないことを露呈しています、というより告白しているに等しい文章です。これは、まるで居酒屋で、一知半解の知ったkぶりが、自分勝手な自説を自信たっぷりに滔々と振りまいているのと何ら変わりません。

 しかし、本当は、その哲学が、人類の論理的認識を著しく高め、個別科学の法則性の発見に大きく貢献したという学問の歴史を、丹野氏は全く分かっていないのです。もっとも、これは南郷学派とて同列ですので、常識人である丹野氏を責めるのは酷というものでしょう。そこで、丹野氏にも分かるように、どこがどう学問の歴史を分かっていないのか、具体的に指摘しておきましょう。

 まず、丹野氏はカントの真意が全く分かっていません。カントはその真意を『純粋理性批判』の序文で明確に述べています。カントは、その序文で、真に学問的な形而上学を自分が創る!と宣言しているのです。ですから「神は存在するか」などということが主題ではなく、その『純粋理性批判』の中で展開されているような二律背反の論理化こそが、主目的だったのです。これは、実はギリシャ哲学の再現・復活を意味するものでした。ですから、丹野氏が云うような「このような結論に達するの に、哲学は何千年もかかったことになる。」などと言うような事実は全くないのです。これが、丹野氏が如何に学問の歴史・哲学の歴史を分かっていない・無知なのかを示す、決定的な証拠なのです。

 では正しい学問の歴史は、どういうものでしょうか?まず前提として押さえておかなければならないことは、哲学はこの世界全体の絶対的真理を追究するものですが、じつは宗教も同じくその絶対的真理を追い求めるものという面で、両者は共通性があります。但し、哲学はそれを理性的・論理的に行い、宗教は感性的・心情的に行うという相違点がありました。この共通点があったために、哲学と宗教とは、初期の段階では相互規定・相互浸透的に発展していきました。たとえば、ギリシャ神話がギリシャ哲学の直接の生みの親となったという事実や、ギリシャ哲学が創り上げた形而上学が、キリスト教に移植されて神学的形而上学となって、宗教の理性化・理論化に寄与したという事実があります。

 しかし、この両者は先に見たような相違点がありますので、その発展は、とりわけ学問の発展は、その相違からくる対立を生み出す必然性があったようです。学問の中の個別科学の発展は、宗教の教義の事実的な誤りを証明することになり、それに対して宗教の側は、絶対的な神に誤りがあってはならない、と教義の方を守るために、事実の側を隠蔽しようと個別科学を弾圧する挙にでました。ここに学問と宗教との違いが決定的に表面化することになりました。そこから、個別科学と宗教との戦いがし烈に展開されていくことになります。

 一方、学問の中の哲学においても、学問との違いを露わにして形而上学を汚し、専横な形而上学に堕してしまった神学的形而上学を批判すると直接に、真に学問的な形而上学を創り上げようと、志したカントが『純粋理性批判』を著して、ギリシャ哲学の学問的な形而上学の再興・復権をはたすと、それを土台にしてヘーゲルが、運動体の弁証法を創り上げて、真の学問体系と呼ぶにふさわしいものを創り上げたのでした。これが本当の学問の歴史と呼べるものです。ですから、ヘーゲルは、カントが批判した神学を復権させたというのは、丹野氏のとんでもない言いがかりなのです。そこの行を見てみましょう。


「ヘーゲルはカントを乗り越えて、『歴史の法則性』に行き着く。こ れは、歴史には人間の力でどうすることもできない法則があるという考え方である。だから、啓蒙主義のよ うに、やみくもに理想の実現に走ってもムダである。歴史の法則にのっとった動きでないと実現しない。ド イツの場合、国家が安定しないと、自由は実現しない。 現代からみると、歴史の法則とは、都合のよすぎる奇妙な考えであり、単なる思い込みであることが多い。そのことが正 しいかどうかを確かめるすべがない。自分の考えこそ正しいという我田引水となりやすい。しかし、当時の神学的世界観で は当然のことであり、ヘーゲルのこうした考えが後のマルクス主義に影響を与えた(後述)。 歴史というブラックボックスの中に、『神の意図』を想定するのは、『陰謀史観』と同じようなもので、パラノイア性を 感じる。それはフロイトの無意識理論も同じである。『無意識』というものは、本来カオスである。ところが、その『無意識』というブラックボックスの中に、何か『人格』というものを感じて、『無意識の意図』を想定するのは、パラノイア的 である。ヘーゲルもフロイトも同じような『陰謀論」の思考パタンなのである。 さらに、ヘーゲルは、『歴史の目的論的解釈』へと進んでいく。これは、歴史とは『神』という絶対者が その本質をしだいに実現する過程であるとするものである。こうした考え方こそがヘーゲルの根本思想であ り、これがフランクフルト時代に確立されていたのである。 『神は遍在する』という汎神論であるが、歴史が神に支配されており、人間の力ではどうしようもないと いうのは、人間は操り人形にすぎないということである。せっかくカントが神学(形而上学)を哲学から排 除したのに、ヘーゲルはまた神学(形而上学)に逆戻りしてしまった。現代からみると、とうていついてい けない。」

 先に丹野氏は、学問とは何か?哲学とは何か?が全く分かっていないということを述べましたが、それがものの見事に露呈したのが、この文章です。人類は、絶対的真理を追究する偉大な哲学の歴史的過程において、ついに絶対的真理に到達できたことが、丹野氏は分かっていないのです。これは何も、丹野氏に限ったことではなく、目下の人類の現状は誰も分かっていないと云っても過言ではない状況があります。それは、マルクスやエンゲルスが、「絶対的真理など熱病病みの観念論者の妄想だ」と否定してしまうという目晦ましにあったためなのです。そして、そのマルクス主義が人類に混乱と不幸をもたらすものでしかなかったことが、はっきりした後も、このマルクスが否定したヘーゲルが絶対的真理に到達したということが、もしかしたら本当なのではないかという反省が、沸き起こってきても不思議ではないはずなのに、全くそういう動きは出てきていないようです。その結果が、この丹野氏のでたらめな文章なのです。

 丹野氏は、「せっかくカントが神学(形而上学)を哲学から排 除したのに、ヘーゲルはまた神学(形而上学)に逆戻りしてしまった。」などと述べています。これは、ヘーゲルの学問全体を見ようとしていないから、こういうデタラメを平気で云えるのです。ヘーゲルは、形而上学を「死んだ論理学」と批判しているのを知らないのか?また、ヘーゲルは、学問と宗教との違いを、とりわけ宗教の限界をしっかりと規定した上で、学問は、宗教を自らの体系の中に包括できるものだとしているのを知らないのか?また、ヘーゲルは、人間を操り人形だなどと言っていない。それどころか、人間の精神こそが、絶対精神の担い手であり、絶対精神が自らに回帰する拠り所となりうる本流的存在であり、必然性の洞察によって学問を体系化できた人類は、理想的な世界創造をし得る、自由を持った<絶対理念>となる、すなわち本物の<神>となるという、人類の未来図を描いて見せたのです。

 これは真理です。現在人類は大きく横道にそれてしまっているとはいえ、人類が学問を応用して次々に新しいものを創り出していて、真の学問の体系が隠されて迷走している現実があるだけで、全体としてその方向に歩んでいることは、誰も否定しようもないことです。それをヘーゲルは、二百年も前に予言しているのです。人類はそういう存在なのだということです。それを否定するということは、自ら自らの歴史的使命を、自らの手で閉ざすことに外なりません。これでは、人類は何のために生まれたのか分かりません。自分の感情を充たすためだkに人類は生まれたのでしょうか?人類が動物から発展した意味は一体何なのか?人類の本質は、目的意識的存在であるのに、目的論を否定することは、人類の本質を否定することに外なりません。

Pass

[2986] ビックリしました!
質問者 - 2018年12月28日 (金) 13時09分

私が投稿してから5日間音沙汰が無かったのは私が提案した丹野さんの論功を真面目に読んでいただいていたのですね…。まさか本当に読んでいただけるとは思っていませんでしたから、忘れた頃に言いだされたようにビックリしました。

ですが、天寿堂さんの「丹野氏の労作の学問的価値はゼロ」という感想には更にビックリしましたね。確か天寿堂さんは私が提案した廣松渉さんの論功も学問的価値はゼロだてあ述べていましたから、私と天寿堂さんとで学問的価値というものに対する考えは随分と違っていることになります。

確かに人それぞれの読み方・解釈の仕方がありますから、私は天寿堂さんに「こう読め!」などと何ら強要するつもりもないわけですが、仮にも東京大学の教授に対して高卒の天寿堂さんがよりによって相手の専門である「学問」というものに関して「無価値」と発言する絶対的な自信には驚きを隠せません。

虚心に考えても人それぞれにその社会的なポストにいるだけの理由があり過程があると思うんですね。東大に入学するというだけでも大変で望み虚しく入学を諦める者も数多いるわけじゃないですか。そこから大学院に進んで博士号をとることも容易なことではなく、大学院には行ったけど博士号は諦めたなんて人もまた少なくないわけです。そして博士号をとったからといって必ずしも大学に職を得られるわけでなく、採用されたにしても万年助手の人もいれば講師に昇格できる者もいる。そんな実力と運との両方を得られた僅かな人のトップに立つのが「教授」という地位だと思うんですね。

ですから、教授という地位に至るまでに周囲から認められる学的実績=論文を積み重ねているわけで、高卒の天寿堂さんが自分に自信を持つことも大事だとは思いますが、あまりに他人を低きに見すぎではなかろうか?とアドバイスしますよ。

私としては天寿堂さんとは裏腹に丹野さんのこの論功は心理学者としての専門中の専門の「病跡学=パソグラフィー」なんじゃないかな?と思いました。言ってみれば「ヘーゲル=天才論」ですよ。それは南郷さんなんかの「天才シェリングの陰に隠れた努力の凡人ヘーゲル」像とは大きく異なる「聖人君子にあらぬアンバランスな大天才ヘーゲル」という病跡学を志向した論じゃないかと感じましたね。

それは丹野さんが挙げている参考文献にクレッチマーの『天才の心理学』やジャン=クレ・マルタンの『哲学の犯罪計画』があるところから、先ずは感じました。
そして、連想したのがシェリングの『人間的自由の本質』の「神の存在の根拠は、神の内にあって、しかもいまだ神それ自身になっていないもの、神に先立ち神を産み出さんとする、いわば暗い自然、光を生み出さんとする闇である。」「悪とは諸原理の積極的な転倒もしくは逆転に基づくものである。」ですよね。

私にはヘーゲルやシェリングを専門にしている哲学者の友人もいれば心理学を専攻してる友人もいますから、そうした二人が「天才論」という観点からヘーゲルについて対話する機会があれば良いなと思いましたが、別に持ってる知識や教養は人それぞれに違いますから天寿堂さんが自信満々に凄い論(正直、私には天寿堂さんが何を説いているのか良く分かりませんが(笑))を開陳しても自由だとは感じました。

幸せというから、なんと言うか…それも南郷さんの指導の賜物でしょうかね?(笑)

Pass

[2988] なぜ東大は学問の府でないのか?
愚按亭主 - 2018年12月30日 (月) 21時56分

 丹野氏の、「神がいるかいないか」という答えの出ない問題に哲学は二千年費やした、というようなおそまつな学問論?が堂々とまかり通るということは、東大には学問がなど存在しない!ことを雄弁に物語っていると思います。つまり、東大は学問の府!などという話は、とんでもない誤解だということです。どうしてそうなってしまったかは、次のような事情がかかわっているようです。

 大東亜戦争において、米国は、すぐにカタがつくと思って戦いを仕掛けた(日本が戦わざるを得ないように仕向けた)ところが、すぐにカタがつくどころかはじめうちは、むしろ劣勢を強いられるほど攻め込まれ、何とか勝ったとはいえ、欧米の利己的な人種差別的植民地体制が崩壊してしまうという大事になってしまった苦い教訓から、日本の強さを身に染みて思い知らされ、二度と歯向うことができないようにと、占領軍指令本部であるGHQに、日本精神解体工作をさせました。その一環として行われたのが、東大からまともな学者を追い出すことでした。その間隙をついて巧みに入り込んだのがマルクス主義者でした。これには、GHQの中にも、大勢のマルクス主義者が入り込んでいたことが関わっていると思います。その結果、日本の学問界の頂点である東大がマルクス主義者で占められ、それにならうように全国の大学でも、一時期マルクス主義者が幅を利かすようになっていきました。

 マルクスは、ヘーゲルの本物の学問を破壊した張本人ですから、これでまともな学問が育つはずがありません。哲学を否定し、絶対的真理を否定し、「国法論批判」にて、ヘーゲルの説く弁証法的な統一のための媒介運動を真っ向から否定して、昂然と敵対的対立を煽るべきだと云い放ちました。そして、まさにその通りに、マルクス主義は全世界にあえて敵対的対立を造りだし、対立抗争を蔓延させて、全世界を混乱の渦に引きずり込んだだけでなく、現在もなお隠然と混乱を助長し続けています。

 このことは、思想界においても同様でした。絶対的真理を否定して、皆相対的真理ばかりだとした、その行きつく先は、そもそも真理など存在しないとなって、すべてはそれぞれの立場で、それぞれの正義を主張して、永遠に交わることができない、となって、全世界が利己的に自分の立場をそれぞれ勝手に主張するようになっていkきました。LGBTが大きな顔をして自己主張をするようになったのも、そのせいです。マルクスの誤りが出発点なのです。

 そのマルクス主義の中で、学問の体系化を志した南郷学派は、まさに異例であり、異質な存在でしたが、このマルクスの誤りを反省できず、マルクス主義から脱皮できないでいるために、折角志した学問の体系化ができないまま、迷走しているのが現実です。

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