[2948] ヘーゲルの説く自由論とはー宮崎正弘氏のメルマガへの投稿 |
- 愚按亭主 - 2018年10月26日 (金) 09時28分
西尾幹二氏の著書「あなたは自由か」に対する宮崎先生の書評に触発されて、いろいろな形で問題とされる「自由」について、ヘーゲル哲学の視点から考えてみたいと思います。
ヘーゲルの学問的な運動体の弁証法の論理において、「自由」は、「有」と「無」とが同一であり一体であるように、「自由」と「不自由」とは同一であり一体です。これを、もう少し詳しく云いますと、「無」が直接性で「有」がその裏に媒介性として存在している場合は、生成へと向かう運動の一体性の論理となり、反対に「有」の方が直接性で「無」がその裏に媒介性として存在している場合は、消滅へと向かう運動の一体性の論理となります。これと同じように「自由」と「不自由」との一体性の論理も、たとえば、「神の手(必然性)」が分からないまま即自的な自由を発揮しますと、「神の手」によるしぺ返しを喰らうという不自由を味わうことになります。しかしながら、この失敗の体験・試行錯誤によって、人類は少しずつ「神の手」を学んで賢くなっていって、やがては、その「神の手」に従うという不自由を、むしろ意図的に、目的意識的に実践することによって、達成すべき本来の目的を達成する、という真の「自由」を得るようになっていきます。
人類の歴史的な発展過程は、前者の即自的な自由から後者の対自・即自の自由へと向かうものであると、ヘーゲルの運動体の弁証法の論理は説いています。別言しますと、前者の即自>対自の自由的不自由から、後者の対象の構造に合わせた対自>即自の不自由的自由へと発展していくと説いているのです。、動物時代の生命は、その環境にピッタリ合うようにプログラミングされた本能に従う不自由によってその環境でその動物として生きていけるという自由を実現しておりました。ただ、その動物的な不自由的自由には、大きな欠点がありました。それは、部分的な限られた範囲内でしか、その不自由的自由の合理的な運動は成立しないという欠点であり、さらに一旦出来上がったプログラムは、書き換え不能で、固定的で、かつ発展性もない、という大きな欠点が存在していたということです。
人類は、この欠点を克服するために、もっと大局的な観点から云うならば、本来の自分に戻ることのできる時機がやっと到来した、という内的必然性に導かれるように、動物的な本能的プログラミングをあえて消去して、自分の力で主体的に書き込む「(先に述べたような運動的・過程的な)自由」を得たのです。つまり、人類が、この「自由」を得る必然性は一体何かと云いますと、本来の自分の本性を知るためであり、自分の本性に立ち戻るためだったのです。つまり、わがまま放題・勝手放題をするための自由ではなかった、ということです。だから、「自由」は、自由的不自由から不自由的自由へと発展させていかなければならないものなのです。この不自由的自由というのが、自由即必然性の「自由とは必然性の洞察である」というヘーゲルの有名な言葉なのです。これがすなわち、人類が学問を本能化して絶対理念となった時の、「自由」のあり方なのです。したがって、初めは、一見自由でいながら「神の見えざる手」によって翻弄されながら律せられていたものが、次第に「神の見えざる手」(必然性)が、見えるようになって、人間がその「神」となって、その「神の手」すなわち必然性を自由に操れるようになって、真に合理的な世界創造をするようになっていく、というのがヘーゲルの描く人類の歩むべき未来への地図であり、築くべき未来の設計図なのです。
と同時に、これは実は、個人の認識の発展の過程でもあるのです。人間は、誰でもはじめは、即自しかありません。しかし、まともな人間となるためには、先人の労苦の成果として掴み取り継承されてきた自分の生まれた社会・国家の普遍性・歴史性を、さらに言えば人間としての普遍性を対自として教育され学びとって自分のものとして、即自対自の社会人から対自即自の国民へと発展していかなければ、一人前の人間となることはできません。個性や多様性は放っておいても勝手に育つものですが、人間になるためのまともな対自は、目的意識的に教育されなければ育ちません。だから学校なのです。ところがその学校で、対自は放っておいて個性・多様性ばかりがもてはやされるのは本末転倒です。
以上を踏まえて、宮崎先生の「日本人が変わってしまった」感の構造を考えてみたいと思います。ヘーゲル流の人倫国家を見事に実現していた時代の日本人は、武士道精神に象徴されるように、国家第一主義の対自即自の「真の自由」である不自由的自由を主体的に生きていました。これに対して戦後の日本人は、まずそれまでの「対自」が否定され、徹底的に破壊される工作にさらされました。そういう意図的な工作以前に、日本人を、精神的に侵略して、大流行したのが、ヘーゲルを捻じ曲げた亜流に過ぎないマルクス主義でした。その大流行したマルクス主義が、「対自」である国家・体制を悪と決めつけるものでしたので、GHQの自虐史観工作と相まって、道徳的であることが体制に順応するかっこ悪いことで、背徳的であることが自由で前衛的でカッコいい、という風潮が支配的となって、時代の空気を作っていました。
そのマルクス主義は、現在では誰も口にする者がいなくなり、現象としては廃れたかのように見えますが、まだ根っこの部分では、依然として大きな影響力を保持しているように見えます。その要因として考えられるのは、対極と思われていた民主主義の人権論が、マルクス主義と同じ土壌で作られたもので<対自的国家>を悪と見る点で共通しており、しかも、その人権論は、「人間は生まれながらに自由にして平等」というフィクションに基づく、現実離れした機械的平等論とワンセットの自由論であったために、自分たちの都合の良いところ勝手に切り取って利用しやすかったために、それを隠れ蓑として巧妙に生き延びることができたからです。さらにもう一つの要因としては、マルクス主義に代わって時代をリードしうる強力な思想・哲学が出てきていないからです。それは、ヘーゲル哲学の変種であるマルクス主義を凌駕することは、大本のヘーゲル哲学が偉大なだけに、並大抵の思想では不可能だったからに他なりません。それだけに、だからこそ、そのマルクス主義の根っこの部分の欺瞞性を暴き出して根底から破壊しつくせるものは、本家本元のヘーゲル哲学の復権しかないのです。
マルクスは、論稿「国法論批判」において、国家の統合、国家の大事性を説くヘーゲルに対して、虐げられし者の現状を見ないで、対立を媒介して統合しようとして対立をボカすのはナンセンスだと批判し、対立を敵対的に激化させて、徹底的に非妥協的に戦うことが、大事だと強調しています。、だから、今の野党は、国家の危急に際しても、国家のことなどお構いなしに、モリカケ問題のように、政府と敵対することのみに専念するのです。
また、人間の解放についても、ヘーゲルは、自分自身の本性を明らかにする学問を、対自的理性として、その主導のもとに即自の自分を創っていくことによって、その対自と即自とを統体止揚することが、すなわち、自分の本性を本性とする自分自身を、目的意識的に創り上げていくことであり、自らが「神」となり、「神の手」を操る主体となることであって、これがすなわち「真の人間の解放」であると説いたのです。
これに対して、マルクスは、人間になるために必須な対自を否定し、虐げられし労働者・農民こそが真の人間解放の担い手であるとして、あるがままの即自の労働者・農民をそのまま肯定して絶対視したために、それをうのみにした中共やポルポト派は、農民から学べとばかりに下放運動を推し進め、大学の教授を追放して農民を大学の校長に据えたり、ポルポト派のように教師や知識人を皆殺しにするという暴挙・愚挙を行って、アンコールワットの栄華を誇ったカンボジアを、無知蒙昧の未開の社会に引き戻してしまった結果、カンボジアは、そのマルクス流の人間解放の後遺症に、今なお苦しんでいるのです。
現在の日本で、やれ人権が、多様性・自由が、即自的感情の開放が大事だと叫んでいる連中は、即自偏重で対自無視であるために、自分の感情ばかりを大事にして他人の感情は平気で踏みにじる、まさにこのポルポト派と何ら変わらないのです。つまり、その思想の根っこにあるのが、マルクスの誤った人間解放論であり、その解放の担い手である正義の自分たちの、即自的感情の自由の不躾な認知強要という厚かましさであって、杉田議員に対する理不尽な攻撃に見られた通り、自分たちの人権だけを肯定させようとして、他人の感情は平気で踏みにじるという暴挙を、これこそが進んだ文化だ思い込んで、未開社会へと日本を後退させようとしているのです。
いわゆる「神の見えざる手」がいつまでも見えてこない理由は、ヘーゲルの本物の学問が、マルクスによって、幽閉されてしまったからであり、人類が本来進むべき道から遠く離れてしまったからに他なりません。そして何よりも一番深刻なのは、世界の中で最も見事な対自即自の自由を創り上げた日本が、その対自を失って即自オンリー全盛の、最早人倫国家の見る影もない、「神の見えざる手」どころでない無様な国家の姿に成り下がってしまっていることです。 (稲村生)
|
|