[2942] 京都弁証法認識論研究会の「唯物論の立場からの哲学史の構築に向けて」を論ず |
- 愚按亭主 - 2018年10月15日 (月) 09時20分
京都弁証法認識論研究会の{〔改訂版〕ヘーゲル『哲学史』を読む(13/13)}「(13)唯物論の立場からの哲学史の構築に向けて」を読みました。正直、そこまで分かっているのに何で❓感がぬぐえません。
「ヘーゲルの描く哲学史とは、人間が、この世界の絶対的本質たる精神として、この世界のあらゆる具体的な事物・事象について、自己自身の展開にほかならぬものなのだという把握を、2500年の苦闘を重ねながら成し遂げていく過程にほかならなかった。より具体的には、精神である人間が、思惟と存在、主観と客観、精神と自然との対立を宥和する(両者が対立したものであることを明確に把握した上で、なおかつ両者は同一のものであると認識する)ことが哲学の目指すところであったといえよう。絶対精神(思惟=存在)が自らを区別し具体的な規定を与えていくことで、自らの内からこの世界の全ての具体的なものを生み出していく過程、この過程こそがすなわちヘーゲルのいわゆる弁証法そのものにほかならない。自然から分離独立した精神として自己意識を把持するに至った人間は、この世界の全てにこうした絶対精神の自己運動としての弁証法が貫かれていること、だからこそ絶対精神そのものである人間(自己自身)は、この世界のあらゆる特殊的なもの、具体的なものについて、自己自身に直接つながってくるものとして体系的に筋を通して把握しきることが可能になるのだ――これが、観念論者ヘーゲルが哲学と哲学史を論じるにあたっての信念だったのである。」
これは全くその通りです。、むしろ見事といえるほど、良くとらえていると思います。しかし結局言葉だけだったようです。そして、その次の
「観念論の立場であろうと唯物論の立場であろうと、共通して押さえておかなければならないポイントを確認しておく。観念論の立場から説く哲学史も、唯物論の立場から説く哲学史も、人間がこの世界全体を自分自身のこととして体系的に筋を通して把握しきるに至る過程であることは同じであるといえる。観念論の立場からすれば、人間はこの世界の本質たる絶対精神そのものなのだから、世界全体を自分自身のこととして分かるというのは、当然のことといえば当然のことである。しかしながら、唯物論の立場からしても、人間は、この世界(宇宙のいわゆる「始まり」から現在までの歴史全体)を背負った(自らの内に含んだ)存在にほかならない。ある1人の個人をとりあげてみるとしても、その個人は、いわゆる「ビッグ・バン」から太陽系の形成、地球と月の形成、生命現象から生命体への発展、生命体と地球との相互浸透を通じての単純な生命体から高度な生命体への発展という歴史性を背負った存在なのであり、こうした「いのちの歴史」(すなわち全世界の歴史性)を知ることなしには、1人の人間すらまともに理解することはできないのである。個々の人間が、こうした「いのちの歴史」に加えて、人類文化の歴史、いわゆる世界歴史や日本歴史の流れを背負った存在であることは、いうまでもない。つまり、我々人間は、この世界の全てとつながっているのであるから、自分自身を分かるためには、この世界の全てを分からなければならないのである。まさに、自分自身を知ることと世界全体を知ることとは同じことであり、世界全体を自分自身のこととして分かることこそが、唯物論の立場からしても、哲学の目指すところだということができるのである。」
これもその通りです。これはそもそもヘーゲルの学問が、観念論と唯物論との統一において創られたものだからに他なりません。ですから、当然のことなのです。ただ、最後の処だけが、問題を含んでいると思います。それは、唯物論の立場から「哲学を目指す」の中身・意味をおそらくは取り違えているのではないか、と懸念される点です。
どういうことかと云いますと、本来は、唯物論の立場から「哲学を目指す」とは、定有を対自有化して、哲学全体の中に正しく組み込まれる準備をする、という意味でなければならないところを、取り違えて、唯物論で、哲学全体の体系化をする、という意味で使われていると考えられるからです。これはありえないことで、それはすでに、南郷先生の失敗で証明されていることだからです。その自覚がないままに、次の行があることによって、せっかくの冒頭の絶妙な文章が台無しとなってしまいました。曰く。
「それでは、観念論の立場から説く哲学と唯物論の立場から説く哲学との差異は何であろうか。哲学というものは、世界全体(宇宙の生成から現代までの歴史性をも含む)に体系的に筋を通して把握したものであるから、その成立のためには、観念的な自己をいわば神の立場に立たせて、世界全体を(その歴史性をも含めて)眺め渡すという過程が絶対に必須となる。これはフィクションであると自覚しているのが唯物論の哲学で、実際にその通りなのだ、自分はもともと神と同じものなのだ(自己=絶対精神)と思い込んでしまうのが観念論の哲学だ、ということもできるであろう。」
せっかくヘーゲルの「哲学史」を真面目に勉強してきていながら、滝村先生と同じ誤謬を犯してしまっています。「神」という言葉だけで、その中身を吟味せずに、フィクションと決めつけてしまって、せっかくの宝物を宝物と認識できずに、それがどれほどの恩恵をもたらす凄いものであるかが分からず、結果として、それを自分のものにしようとせず、似て非なるオンボロ哲学を作ろうとしているようです。
ヘーゲルのいう神とは、世界の内的な本質が外化した学問を本能化した存在のことです。つまり、本物の学問体系を自分のものとして、絶対理念となれたものを神と呼んだのです。ヘーゲルは、宗教の、絶対的な神を外部に求めて崇め、その中身の絶対性を追究しなかった中途半端さを批判して、その絶対性を学問において達成したことを誇って、本物の神はこちらだと宣言したのです。こういうヘーゲルの真意が分からず、神という言葉を使ったことだけて、フィクションだ!とする唯物論者の何と浅はかなことよ!と同情を禁じ得ません。
「観念論の立場から説く哲学史では、精神はもともと神的なものとして存在していたのであり、自らの力で、本来の自己のあり方へと立ち返っていくのだ、ということになる。これに対して、唯物論の立場からすれば、精神なるものは人間の脳細胞が描く像としてしか存在しない。唯物論の立場から説く哲学史では、人間の頭脳において、客観的な世界の反映を原基形態として成立した精神が、人間の社会的労働を通じての客観的な世界(自然、社会)との主体的な関わりの過程(問題にぶつかり解決しようと苦闘を積み重ねていく過程)により、世界の現象、構造、本質についての体系的な像を形成していくことになるのである。」
唯物論の説く相対的真理は、部分的論理に過ぎません。だから必然的に、このような単視眼的・単細胞的な、形而上学的な、硬直した見方になってしまうのです。これでヘーゲルのダイナミックな運動体の弁証法の論理が分かるはずがありません。「精神」には、人間の認識という意味の他に、世界の本質という意味をもつという二重性・二重構造があるのです。ヘーゲルはそういう意味で使っているのです。だから、精神は人間の脳細胞の働き以外にはない、と批判すること自体が、全くの見当違いで、己の不明をさらすだけで、批判にもなっていないのです。
さらに言えば、その世界の本質が発展していって、人類の段階に到達したときに、誕生した認識が、己自身の内部の構造を把握し、己自身がどういう存在なのかを自覚できたとき、その精神の二重構造は見事に融合一体化し、真の自分自身に回帰できたとする、ヘーゲルの弁証法の雄大さ!見事さ!を、唯物論者は永久に感じとることはできないことでしょう。
「唯物論の立場から描く哲学史においては、哲学というものは社会(複数の人間が協働によって自然に働きかけ、また相互に働きかけ合いながら、生活を生産していく集団)の中で、自然および社会と人間の認識との相互浸透を通じて、次第に形成されていくものだということになるのである。」
これは、歴史的事実として明らかな誤認であり、何も言っていないに等しい定式的・抽象的言辞を弄しての、都合の悪い学問の歴史の意図的な無視に他なりません。学問は、まず哲学として誕生しました。これは厳然たる歴史的事実です。そして、その学問は、ヘーゲルが<生命ー認識ー学問>という形で説いたように、人類誕生の本質的契機です。つまり、人類は、動物の相対的真理の本能の限界を、絶対的真理の学問の冠石の統括の下に形成される学問体系をもって超えるために、誕生したといえるということです。だから、相対的真理を超える絶対的真理を追究する哲学は、本質的必然性なのであり、その本質的必然性にもとづいて目的意識的に創られたものです。決して!自然成長的に、次第に形成されたものではありません。これは唯物論者が、如何に人間性を否定しているかを物語るものです。だから、唯物論者のマルクスは、人類の宝物と言えるヘーゲル哲学を、ぶっ壊してしまったのです。これによって、人類は、恐ろしい程不幸のどん底に、突き落とされてしまうことになってしまったのです。
「人類はいま、諸々の難問をこじらせて滅亡への道を歩んでいくか、それとも諸々の難問を解決して新たな社会の発展を可能にしていくのか、という重大な歴史的岐路に立たされているのである。こうした諸々の難問の解決の方向性を指し示し、人類社会のさらなる発展を可能にしていくために、唯物論の立場からの哲学の構築が切実に求められているのである。」
その混乱の元を作り出した、唯物論の作る似非哲学は、人類をさらに不幸にするばかりである、と断言できます。何故なら、先にも述べた通り、観念論を否定する唯物論は、人間性の否定する代物だからです。
「南郷継正『哲学・論理学原論〔新世紀編〕』において、ヘーゲルが哲学の完成にあと1歩というところまで迫りながら結局果たせなかった理由として、哲学の三大柱のひとつである社会哲学を欠いていたことが指摘されていることを押さえておかなければならない。」
現象論的な唯物論者の大いなる勘違いは、出来上がったものからしか本質的な論理は出てこないと思っていることです。ところが実際は、本質的論理は、その過程を通して貫かれているものです。だから、ギリシャ哲学が掴み取った、世界は一にして不動という本質的論理は、ヘーゲルの運動体の弁証法にまで発展することができたのです。そして、そのヘーゲルの運動体の弁証法は、その本質的論理の発展の上に立って、世界の発展に応じて、世界の<本質>即ち{概念}も、その「概念の労苦」を通じて統体的に発展していくものなのです。ところが、このことを理解できなかった形而上学を信奉する南郷先生は、本質的論理は、物事が完全に出来上がってからでないと分からないとして、まだ完全にできていなかった時代だからという外的要因だけで、ヘーゲルの哲学には欠陥があるとして、その中身を吟味せず、或いは唯物論の故に吟味すること能わず、ヘーゲルの弁証法の本質的論理性を否定してしまったのです。
その結果どうなったか?は本当に無残です。アレキサンダー大王の学問的志の人類史的意義が分からずに、「侵略したいから侵略しただけ」、といかにも唯物論者らしい評価をしている始末です。加えて、世界の中で唯一、「和をもって尊しとなす」という普遍的人倫的理念を憲法として国創りを行った日本を、学問的国家論から正当に評価できないでいます。このような唯物論的似非哲学では、人類を救うことは到底かなわないことだ!と知るべきです。
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