カウンター 京都弁証法認識論研究会の「唯物論の立場からの哲学史の構築に向けて」を論ず - 談論サロン天珠道
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[2942] 京都弁証法認識論研究会の「唯物論の立場からの哲学史の構築に向けて」を論ず
愚按亭主 - 2018年10月15日 (月) 09時20分

 京都弁証法認識論研究会の{〔改訂版〕ヘーゲル『哲学史』を読む(13/13)}「(13)唯物論の立場からの哲学史の構築に向けて」を読みました。正直、そこまで分かっているのに何で❓感がぬぐえません。


「ヘーゲルの描く哲学史とは、人間が、この世界の絶対的本質たる精神として、この世界のあらゆる具体的な事物・事象について、自己自身の展開にほかならぬものなのだという把握を、2500年の苦闘を重ねながら成し遂げていく過程にほかならなかった。より具体的には、精神である人間が、思惟と存在、主観と客観、精神と自然との対立を宥和する(両者が対立したものであることを明確に把握した上で、なおかつ両者は同一のものであると認識する)ことが哲学の目指すところであったといえよう。絶対精神(思惟=存在)が自らを区別し具体的な規定を与えていくことで、自らの内からこの世界の全ての具体的なものを生み出していく過程、この過程こそがすなわちヘーゲルのいわゆる弁証法そのものにほかならない。自然から分離独立した精神として自己意識を把持するに至った人間は、この世界の全てにこうした絶対精神の自己運動としての弁証法が貫かれていること、だからこそ絶対精神そのものである人間(自己自身)は、この世界のあらゆる特殊的なもの、具体的なものについて、自己自身に直接つながってくるものとして体系的に筋を通して把握しきることが可能になるのだ――これが、観念論者ヘーゲルが哲学と哲学史を論じるにあたっての信念だったのである。」

 これは全くその通りです。、むしろ見事といえるほど、良くとらえていると思います。しかし結局言葉だけだったようです。そして、その次の

「観念論の立場であろうと唯物論の立場であろうと、共通して押さえておかなければならないポイントを確認しておく。観念論の立場から説く哲学史も、唯物論の立場から説く哲学史も、人間がこの世界全体を自分自身のこととして体系的に筋を通して把握しきるに至る過程であることは同じであるといえる。観念論の立場からすれば、人間はこの世界の本質たる絶対精神そのものなのだから、世界全体を自分自身のこととして分かるというのは、当然のことといえば当然のことである。しかしながら、唯物論の立場からしても、人間は、この世界(宇宙のいわゆる「始まり」から現在までの歴史全体)を背負った(自らの内に含んだ)存在にほかならない。ある1人の個人をとりあげてみるとしても、その個人は、いわゆる「ビッグ・バン」から太陽系の形成、地球と月の形成、生命現象から生命体への発展、生命体と地球との相互浸透を通じての単純な生命体から高度な生命体への発展という歴史性を背負った存在なのであり、こうした「いのちの歴史」(すなわち全世界の歴史性)を知ることなしには、1人の人間すらまともに理解することはできないのである。個々の人間が、こうした「いのちの歴史」に加えて、人類文化の歴史、いわゆる世界歴史や日本歴史の流れを背負った存在であることは、いうまでもない。つまり、我々人間は、この世界の全てとつながっているのであるから、自分自身を分かるためには、この世界の全てを分からなければならないのである。まさに、自分自身を知ることと世界全体を知ることとは同じことであり、世界全体を自分自身のこととして分かることこそが、唯物論の立場からしても、哲学の目指すところだということができるのである。」

 これもその通りです。これはそもそもヘーゲルの学問が、観念論と唯物論との統一において創られたものだからに他なりません。ですから、当然のことなのです。ただ、最後の処だけが、問題を含んでいると思います。それは、唯物論の立場から「哲学を目指す」の中身・意味をおそらくは取り違えているのではないか、と懸念される点です。

 どういうことかと云いますと、本来は、唯物論の立場から「哲学を目指す」とは、定有を対自有化して、哲学全体の中に正しく組み込まれる準備をする、という意味でなければならないところを、取り違えて、唯物論で、哲学全体の体系化をする、という意味で使われていると考えられるからです。これはありえないことで、それはすでに、南郷先生の失敗で証明されていることだからです。その自覚がないままに、次の行があることによって、せっかくの冒頭の絶妙な文章が台無しとなってしまいました。曰く。

「それでは、観念論の立場から説く哲学と唯物論の立場から説く哲学との差異は何であろうか。哲学というものは、世界全体(宇宙の生成から現代までの歴史性をも含む)に体系的に筋を通して把握したものであるから、その成立のためには、観念的な自己をいわば神の立場に立たせて、世界全体を(その歴史性をも含めて)眺め渡すという過程が絶対に必須となる。これはフィクションであると自覚しているのが唯物論の哲学で、実際にその通りなのだ、自分はもともと神と同じものなのだ(自己=絶対精神)と思い込んでしまうのが観念論の哲学だ、ということもできるであろう。」

 せっかくヘーゲルの「哲学史」を真面目に勉強してきていながら、滝村先生と同じ誤謬を犯してしまっています。「神」という言葉だけで、その中身を吟味せずに、フィクションと決めつけてしまって、せっかくの宝物を宝物と認識できずに、それがどれほどの恩恵をもたらす凄いものであるかが分からず、結果として、それを自分のものにしようとせず、似て非なるオンボロ哲学を作ろうとしているようです。

 ヘーゲルのいう神とは、世界の内的な本質が外化した学問を本能化した存在のことです。つまり、本物の学問体系を自分のものとして、絶対理念となれたものを神と呼んだのです。ヘーゲルは、宗教の、絶対的な神を外部に求めて崇め、その中身の絶対性を追究しなかった中途半端さを批判して、その絶対性を学問において達成したことを誇って、本物の神はこちらだと宣言したのです。こういうヘーゲルの真意が分からず、神という言葉を使ったことだけて、フィクションだ!とする唯物論者の何と浅はかなことよ!と同情を禁じ得ません。

「観念論の立場から説く哲学史では、精神はもともと神的なものとして存在していたのであり、自らの力で、本来の自己のあり方へと立ち返っていくのだ、ということになる。これに対して、唯物論の立場からすれば、精神なるものは人間の脳細胞が描く像としてしか存在しない。唯物論の立場から説く哲学史では、人間の頭脳において、客観的な世界の反映を原基形態として成立した精神が、人間の社会的労働を通じての客観的な世界(自然、社会)との主体的な関わりの過程(問題にぶつかり解決しようと苦闘を積み重ねていく過程)により、世界の現象、構造、本質についての体系的な像を形成していくことになるのである。」

 唯物論の説く相対的真理は、部分的論理に過ぎません。だから必然的に、このような単視眼的・単細胞的な、形而上学的な、硬直した見方になってしまうのです。これでヘーゲルのダイナミックな運動体の弁証法の論理が分かるはずがありません。「精神」には、人間の認識という意味の他に、世界の本質という意味をもつという二重性・二重構造があるのです。ヘーゲルはそういう意味で使っているのです。だから、精神は人間の脳細胞の働き以外にはない、と批判すること自体が、全くの見当違いで、己の不明をさらすだけで、批判にもなっていないのです。

 さらに言えば、その世界の本質が発展していって、人類の段階に到達したときに、誕生した認識が、己自身の内部の構造を把握し、己自身がどういう存在なのかを自覚できたとき、その精神の二重構造は見事に融合一体化し、真の自分自身に回帰できたとする、ヘーゲルの弁証法の雄大さ!見事さ!を、唯物論者は永久に感じとることはできないことでしょう。

「唯物論の立場から描く哲学史においては、哲学というものは社会(複数の人間が協働によって自然に働きかけ、また相互に働きかけ合いながら、生活を生産していく集団)の中で、自然および社会と人間の認識との相互浸透を通じて、次第に形成されていくものだということになるのである。」

 これは、歴史的事実として明らかな誤認であり、何も言っていないに等しい定式的・抽象的言辞を弄しての、都合の悪い学問の歴史の意図的な無視に他なりません。学問は、まず哲学として誕生しました。これは厳然たる歴史的事実です。そして、その学問は、ヘーゲルが<生命ー認識ー学問>という形で説いたように、人類誕生の本質的契機です。つまり、人類は、動物の相対的真理の本能の限界を、絶対的真理の学問の冠石の統括の下に形成される学問体系をもって超えるために、誕生したといえるということです。だから、相対的真理を超える絶対的真理を追究する哲学は、本質的必然性なのであり、その本質的必然性にもとづいて目的意識的に創られたものです。決して!自然成長的に、次第に形成されたものではありません。これは唯物論者が、如何に人間性を否定しているかを物語るものです。だから、唯物論者のマルクスは、人類の宝物と言えるヘーゲル哲学を、ぶっ壊してしまったのです。これによって、人類は、恐ろしい程不幸のどん底に、突き落とされてしまうことになってしまったのです。

「人類はいま、諸々の難問をこじらせて滅亡への道を歩んでいくか、それとも諸々の難問を解決して新たな社会の発展を可能にしていくのか、という重大な歴史的岐路に立たされているのである。こうした諸々の難問の解決の方向性を指し示し、人類社会のさらなる発展を可能にしていくために、唯物論の立場からの哲学の構築が切実に求められているのである。」


 その混乱の元を作り出した、唯物論の作る似非哲学は、人類をさらに不幸にするばかりである、と断言できます。何故なら、先にも述べた通り、観念論を否定する唯物論は、人間性の否定する代物だからです。

 「南郷継正『哲学・論理学原論〔新世紀編〕』において、ヘーゲルが哲学の完成にあと1歩というところまで迫りながら結局果たせなかった理由として、哲学の三大柱のひとつである社会哲学を欠いていたことが指摘されていることを押さえておかなければならない。」

 現象論的な唯物論者の大いなる勘違いは、出来上がったものからしか本質的な論理は出てこないと思っていることです。ところが実際は、本質的論理は、その過程を通して貫かれているものです。だから、ギリシャ哲学が掴み取った、世界は一にして不動という本質的論理は、ヘーゲルの運動体の弁証法にまで発展することができたのです。そして、そのヘーゲルの運動体の弁証法は、その本質的論理の発展の上に立って、世界の発展に応じて、世界の<本質>即ち{概念}も、その「概念の労苦」を通じて統体的に発展していくものなのです。ところが、このことを理解できなかった形而上学を信奉する南郷先生は、本質的論理は、物事が完全に出来上がってからでないと分からないとして、まだ完全にできていなかった時代だからという外的要因だけで、ヘーゲルの哲学には欠陥があるとして、その中身を吟味せず、或いは唯物論の故に吟味すること能わず、ヘーゲルの弁証法の本質的論理性を否定してしまったのです。

 その結果どうなったか?は本当に無残です。アレキサンダー大王の学問的志の人類史的意義が分からずに、「侵略したいから侵略しただけ」、といかにも唯物論者らしい評価をしている始末です。加えて、世界の中で唯一、「和をもって尊しとなす」という普遍的人倫的理念を憲法として国創りを行った日本を、学問的国家論から正当に評価できないでいます。このような唯物論的似非哲学では、人類を救うことは到底かなわないことだ!と知るべきです。

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[2943] 加藤幸信「人権論の基盤に何を据えるか」を論ず
愚按亭主 - 2018年10月16日 (火) 11時36分

 今なぜ「人権」思想を問題にするかと云えば、人類が発展すればするほど、唯物論が通用しなくなって、観念的要素が歴史を決定する力が強くなっている現実があるからです。そのことをものの見事に示すものが、現在の人類を、大いに惑わし混乱させている元凶、ともいえる「人権」思想だからです。その人権思想を、南郷学派の論客であった故加藤幸信氏が、人類の普遍性として理論的基盤に据えようと、一生懸命無駄な努力をしていたことを知りました。
https://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20181006202532.pdf?id=ART0007913873

 そのことをどこで知ったかと云いますと、京都弁証法認識論研究会のブログで紹介されていた、故加藤幸信氏の論稿「人権論の基盤に何を据えるか」を読んだ時です。この論稿は、さすが南郷学派きっての論客にふさわしい内容で、とても読みごたえがありました。とりわけ珠玉だったのは、最後の方にあった次の一節です。

「本質 的 な面 を 説か な けれ ば ,部 分 で は 何 と で も言 える か らで あ る 。
 で は ,ど う継承 した か 。 カ ン トは こ の 世 界 の 本 質そ の もの は 理 解 で きな い と い う 「 不 可 知論」を 唱 え た が , ヘ ーゲ ル は 絶対 精神 の 運 動 と して 世界 を説 いた の で あ り,世 界 を歴 史的 に 見 る こ とに よ っ て カ ントの 説 き切 れ なか っ た 問題 を説 い た の で あ る 。」
 
 まさしくその通りです。カントは物自体という概念の形を作りましたが、その中身は認識できないとしました。それを受け継いだヘーゲルは、物自体の中身を、絶対精神(世界の絶対的本質)の自己運動として具体的に創り上げ完成させたのです。ここまで評価しながら、どうしてそれを本質として学問を創ろうとしないのか?こここそが肝心な点であるのに、それをしないがために、南郷学派な、「部 分 で は 何 と で も言 える 」ことを実際に実践している現実があります。

 さて、その加藤氏の論稿の内容についてですが、自然法や人権思想を生み出したロックやルソーなどの理論は、当時の社会情勢においては一定の有効性があったものの、それを支える理論的基盤としては難があり、しっかりとした理論的基盤を整えなければならない、としてヘーゲルに目をつけ、一生懸命ヘーゲルの理論との整合性を見つけ出そうと悪戦苦闘しつつも、結果として、いつもの南郷学派の定石通り、思わせぶりのみで曖昧なまま終わってしまっています。

 では具体的に見ていきましょう。加藤氏は、ヘーゲルの人権思想に対する批判の文章を次のように紹介しています。

「 自然 状態 は , い っ た ん フ ィ ク シ ョ ン として 立 て られ た後 で ,そ れ に 付 随 して い る 諸 悪のた め に 放棄 され る 。 と い うこ とは ほ か で も な い ,到 達 目標 が 前 提 され て い る と い うこ と ,つ ま り混沌 た る抗 争状 態 を脱 した 調 和 が 善 で あ る とい うこと,言い 換 え る とそ れ こ そ が 目指 さ れ る べ き もので あ る と い うこ とが 前提 さ れ て い る とい うこ とを意 味す る 。
  ( 中 略 )  
自然 状 態 とか …,また 諸 主 体 が か の 最 高 権 力 のも と に 絶対 服従 せ し め ら れ る 関係 とい っ た ものは ,有 機 的 人 倫 を な す は ず の 諸 契機 が ば らば らに 分裂 して そ の 一つ ひ と つ が そ れ ぞ れ 特別 の 本 質的 な もの と して 固定 され ,ま さ に その た め に ,理念 と 同様 に 見 当 ちが い の つ か まれ 方 を した場合 に と る 形 式 な の で あ る 。 …
  こ れ に 対 して 人 倫の 絶 対的理 念 は , 自然状 態 と 法的状態 の 尊厳 と を端 的 に 同一の もの と して 含 んで い る 。」
 
 このヘーゲルの文章を引用した後、加藤氏は、ロックやルソーの思想は、誤りを含んでいるものの、時代の思想としては見事だったと評価し、これを否定してしまうことは「自然法学が自然状態を否定してしまうのと論理的には同じ誤りを繰り返すことになってしまう」とし、その一方で、人権思想を裏付ける理論を、国家を神聖視した国家主義者のヘーゲルに求めるのはおかしいではないか、との反論を予想して、「では国家抜きで人間が実存できるのか、人類はここまで発展できたのか、完璧というにはまだほど遠いとはいえ人間の権利をここまで守れるようになったのかと言えば、答えは否である」と、その弁明に努めていますが、残念ながら、それは、必ずしもヘーゲルの意に沿ったもの、とは云えないと思います。

 それは何故かと云いますと、人権を、何とかヘーゲルの理論で合理化しよう、との意図のもとに展開されているからです。結果として、ヘーゲルの批判の意味や、ヘーゲルの理論の肝の部分がスルーされて全く触れられないということになってしまうのです。その反対に強調されたのが。国家の発展によって「人間の権利をここまで守れるようになった」つまり、人権が守られるようになってきている、ということです。

 しかし、ヘーゲルは、その人権を、「有機的人倫をなすはずの諸契機がばらばらに分裂してその一つひとつがそれぞれ特別の本質的なものとして固定され、まさにそのために、理念と同様に見当違いのつかまれ方した場合にとる形式なのである。」と批判しています。つまり。国家をバラバラに分断して、それらを本質的なものとして固定化してしまう誤りを批判しているのですが、加藤氏は、国家における人権を否定することは「自然法が自然状態を否定する」のと論理的に同じ誤りだ、として人権を擁護しているのです。そして、そのヘーゲルと違う論理の上に立って、国家の発展によって、ようやく人権が守られるようになってきている、と国家の発展が人権の発展であるかのように説いています。これは、明らかにヘーゲルの論理とは違うものですが、加藤氏は同じだと思っているようです。しかし、ヘーゲルは、人権思想は国家を分断・バラバラにするものだ、と批判しているのに対して。加藤氏は、国家の発展が人権の発展をもたらした、と一体のものとして論じています。たしかに、ヘーゲルは、人倫国家においては自然状態(即自)と法的状態(対自)とを同一だとは言っていますが、両者は、似て非なるものです。中身が全然違うのです。

 その違いを端的かつ典型的に示す良い例があります。それは、加藤氏の例は、自己中心的奴隷主義の西洋の憲法の発展の歴史であり、ヘーゲルの例は、日本の17条憲法による国創りの歴史です。このように国家の発展のあり方が根本的に違うものが存在するのに。それを一緒くたにしてというより、日本を無視して西洋一辺倒で、加藤氏は国家の発展と人権の発展とを論じているという誤りを犯しているのです。だから、ヘーゲルの国家論を、大方の人間は、現実離れした神聖な理想主義としているのに対して、加藤氏は、現実には醜い面がありながらも人類全体として発展してきているのだ、と誤魔化しているのです。ということは、南郷学派には、日本がヘーゲルの理想的国家論を見事に実現していたという事実が、全く見えていないということです。

 ヘーゲルは、その理想的国家論を次のように説きました。

「国家は客観的精神であるがゆえに、個人自身は、ただ国家の一員であるときにのみ、客観性・真理・人倫をもつ。諸個人の統合そのものが国家の真なる内容および目的であって、個人の規定は、普遍的生活を営むことである。個人のその他の特殊的満足、活動、ふるまい方は、この実体的なもの、普遍妥当するものをその出発点とするとともに成果とする。――理性的であることは、これを抽象的に見れば、一般に普遍性と個別性との浸透し合う統一のうちにあり、これを具体的に見れば、内容の点では、客観的自由すなわち普遍的実体的意志と、個人的知識としてのまた特殊的目的を求める個人意志としての主観的自由との統一のうちにあり、――したがって、形式の点では、思惟された、すなわち、普遍的な法的に永遠にして必然的な存在である。」(「法の哲学」より)

 そして、そのヘーゲルの国家論を、日本は見事に現実のものとしました。 その当時の真実の日本の姿を見事に捉えていた外国人がいたことを、河添恵子さんが紹介しています。それは日露戦争当時母国の再建を志して日本に支援を求めて来日したという、ポーランドのドモフスク氏の著書「光は東方から」の中の一節にある次の言葉です。

「日本は偉大でなければならず、未来永劫生き永らえねばならない。それをその全ての息子が望み、そのためなら全てを投げうつ覚悟がある。この熱意、全てを捧げるという心構え、それこそがまさしく日本の財産であり、強さの源なのであり、勝利の秘訣なのだ! 二十世紀もの長きにわたり、国家として存続してきたというその連続性の力は、この民族を統合し団結させた。その結果、日本人においては集団的本能が個人的本能をしのぐことになった。日本人は個人である以上に社会の成員なのであり、自らの行動においては個人的利益より全体の利益を優先する。」

 これがヘーゲルの云う自然状態(即自)と法的状態(対自)との同一の中身です。加藤氏は、これを説かなければならなかったのですが、人権思想を擁護したいという思いがあり、ヘーゲルの中の都合の良いところを使って理論構成したいという意図のために、まさに自分の説いた「本質 的 な面 を 説か な けれ ば ,部 分 で は 何 と で も言 える」を自ら実践で証明してしまったのです。

 今回私は、加藤氏のこの論稿のおかげで、このヘーゲルの文章を初めて読むことができましたが、以前に「そもそも人権という概念は非学問的概念」のスレッドの中の〔2873〕の記事で次のように書いておきましたが、やはりヘーゲルも私と同じように考えていたことを確認出来て、我が意を得たりの思いです。その私の主張は、次の通りです。

「『王権神授説』も、王権の正当性を外部の神に求めたものですが、『人権』も、同様にその根拠づけに、神の代わりに『自然権』などという訳の分からない外来の概念を持ってきたのであって、学的な営みの結果として導き出されたものではありません。」

さらに続けて、私は次のように述べています。

「だから、人間は生まれながらに天から与えられた自然権があって自由で平等な人権を持っているという、考え方は、フランス革命など高揚した状態においては盛り上がったものの、それが覚めて現実に戻ると、説得力を失ってあまり使われなくなって、人権のみが独り歩きはじめて、主に実用的な法的用語として使われるようになっていきます。おそらく、天賦の自然権というのは、自分たちが自称している唯物論の立場と相反するからでしょう。しかし、観念論的に外部から持ってきたこの『人権』は、元々よそ者であるだけに矛盾がいっぱいで、問題山積であっても、国家権力を悪と見る者たちにとっては、とても都合の良い武器となりますので、その誤用研究者たちは、何とか現実との整合性をつけるような理屈や条件を研究させられたのであろうと思います。その努力が実って、この人権が世界中にはびこってしまって、国連の主導する国際関係においても、大きな影響力を及ぼしているのが、現状です。

 たとえ、このように世界全体に大きな影響力を及ぼすようになったからと言って、否、それだからこそ余計に、明らかに学問的でない概念を、基本的な概念として採用することは、人類の正統な歩みに反することであり、許されないことだと思います。具体的に云いますと、『人間は生まれながらに自由であり平等である』という規定は、全く現実に即したものでないことは、誰が見ても一目瞭然です。この一事だけから見ても、事実からかけ離れた非学問的なものであることは明白です。しかし、より学問的に云うならば、その体系性として、国家を基本的単位として見るか、個人を基本的単位として見るか、その場合の個人をどのように見ているかが、問題となさなければなりません。

 そういう観点から見た場合、この『人権』概念は、明らかに個人を単位として見ており、しかもその個人は、国家との関係は無視されて、自由・平等が論じられています。だから、逆に国家に対しては、遠慮なく強い力をもって無条件的に自由を主張できるようになっているのです。」

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[2944] 加藤幸信「人権論の基盤に何を据えるか」を論ず-その2
愚按亭主 - 2018年10月17日 (水) 06時10分

 加藤氏は、論稿の中の「6、歴史哲学は何を説いているか」の中で、ヘーゲルの文章を引用して次のように説いています。

  「…,精神 は 自分 自身 を知 る もの だ か ら で ある 。 す な わ ち ,精神 は 自分 自身の 本 性 の 評価 で あ り, した が っ て 同時 に 自分 自身 に 返 る 活 動 性 で あ り,そ の意 味で 自分 を 産 み 出 し,自分 を 本 来 の 自分 とす る と こ ろ の 活動 性 だ か らで あ る 。そ こ で , こ の よ うな 抽 象 的規定 か ら して ,世 界 史 に つ い て 云 うこ とが で き る 。 世 界史 と は ,精神 が 本 来 持 っ て い る もの の 知識を精神 自身で 獲 得 して い く過 程 の 叙 述 で あ る ,と ,,
丁 度,植 物 の 萌芽 が そ の 中 に 樹 の 全 性 質 ,果 実 の 味や 形 を含 ん で い る の と同 様 に ,精神 の 最 初の 足 跡 もまた す で に 全 歴 史 を潜在 的 に 含 ん で い る の で あ る 、,
 東 洋人 は ま だ 精 神 が , また は 人 間 そ の もの が 本 来 自由で あ る と い うこ とは 知 ら な い 。彼 ら は こ れ を 知 らな い が 故に 自由で は な い の で あ る 。 彼らは 僅 か に一人 の 者 が 自 由 で あ る こ と を 知 っ て い る に す ぎ ない 。 」 s〕

 ヘーゲ ル は 観 念論 の 立場 に 立 っ て お り,こ こ で いう精神 と は絶 対精 神 の こ と で あ る u した が っ て , この ま ま で は わ か りに くい の で ,唯 物 論 の 立 場 か ら意訳 して 説 き直す と,お お よ そ 以 下 の よ うな こ と を説い て い る と言 え よ う。
 
「人 間 ( の 歴 史 ) は ,人 間 とは 何 か を知 る もの であ る 。す な わ ち ,人 間 ( の 歴史 )は 労働 に よ り文 化的 発 展 を とげ る こ と に よ っ て 人 間 の 本 質 とは何 か を理 解 し,本 来持 っ て い る 人 間 の 本 質に ふ さ わ しい 文化 的生 活 を実 現 す る 活動 の 過 程 で あ る 。 こ の 意味で ,本 来 の 自分 を 産み だ し,本 来の 自分 を実現 す る 活 動の 過 程 で あ る 。我 々 は ,こ の よ うな 過 程 を世 界史 にお い て 具体 的 に 見 る こ とが で きる 。 世 界史 と は , 入間が 労働 に よ る 文 化 的 発 展 を 通 し て 人間 の 本質 を理解 し,そ の 本 質に ふ さ わ し い 文 化的 生 活 を 実現 して い く過 程 の 叙 述 で あ る , と 。
 丁 度 植物 の 萌芽 が そ の中 に 樹 の 全 性 質 , 果 実 の 形 や 味 の 原基 形 態 を含 ん でい る よ うに , 人 類 の 最初 の 足 跡 も ま た 原基 形態 と し て そ の 発 展 の 可 能 性 を含 ん で い る の で ある 。 …。」

  さ て , こ こ で 人 間 の 本質 とは ,誤解 を恐 れ ず に簡 略 的 に云 え ば ,主 体性 を持つ とい うこ と で あ る 。 っま り, 本 能 に よ っ て 生 きて い く諸動物 と異 な り,人間 だ け が 自分 の 判 断で 生 きて い く,自分 が 主 人 公 とし て 生 活 して い くとい うこ とで あ る 。
  た だ ,そ の た め に は 自分 自身 と 外 界 を理 解 しな けれ ば な らな い 。 古 代 オ リエ ン トで い え ば ,洪 水 の 時期 が わ か ら な け れ ば 自分の 判 断 で 生 活 して い くど ころ で は な い の で ある 。
  した が っ て ,まだ 人 類 の 文 明 の 初 期 段 階 で あ る 古 代 オ リエ ン トで は ,国 家が 一. 一 丸 と な っ て そ こ に すべて を集 中す る こ と に よ っ て , 生 活 して い くた め に 必 要 な 実 用的知 識 ・技 術 をは じめ て 獲 得 し え た の で あ り,国家 と して 自由を確 保 で きた に す ぎな い ,、した が っ て , 国 家 の 意 志 を決定で きる , 一入 (に 収 斂 され る )国家 権力 の 担掌者 だけ が 自由だ っ たの で あ る 、 、 こ れ は ,裏返 せ ば ,ご く少 数 の 人 間の 主 体性 の み で国家が 成 り立 ち うる 低い 段 階だ っ た と も言 え る 、 .
  こ こ か ら始 ま っ て ,人間が 人 間 と して 自由 ,つ まりすべ て の 人間 が 自由 ,平等 で あ る こ とを 謳 う人 権宣 言が 宣 明 さ れ る フ ラ ン ス 革命 まで の 人 類 の 発 展 を 説 い た もの が ヘ ーゲ ル の 「 歴 史哲 学』 だ とい え る 。 (もちろ ん ,こ れ で す べ て の 人 間が 自由 に な っ た わけ で は な い 。 人 間 は , 認識 が 未来 を 先取 りし,そ れを 目標 と して 進 む の で あ り, 人 権 宣 言 は 目標 と し ての 性 質 を も有 して い る 。 )

 この加藤氏の人権論は、tadaさんの人権論と非常によく似ています。従ってその欠点も同じと言えます。そして何よりも、前振りのところで、自分自身が問題提起した、人権に関する現実が抱えている問題点に対して、何の解決になっていないことが、一番の問題です。たとえば、加藤氏が論稿の中dいろいろな形で挙げていた、人権を尊重すればするほどそれを支える国家の基盤が危うくなるという矛盾、現在の世界が抱えている問題で云えば、西欧諸国を揺るがせている移民・難民問題や、国内で云えば生活保護を不正に受給しようとする外国人が増えて日本国の国庫を侵食している問題や、杉田議員が問題提起した、人権の名の下に国家の行く末よりも己の感情の方を優先せる生き方を選択した者たちが堂々と国家に法的認知と優遇措置を要求するLGBT問題などなどです。

 その他に、自分の権利と他人の権利との矛盾に関して、人権思想は解決する術を持たないという問題も、提起されていました。その他に、加藤氏は、アメリカの独立宣言・人権宣言を例に挙げて、これは事実ではなく道徳的真理だとする説に対して、氏は、なぜ事実を根拠としないのかについて、事実はその正反対であるてんをあげ、さらにそういう道徳宣言をしてから長い年月が経っているのにもかかわらず、一向に人種差別がなくならない現実を挙げて、これは将来的に達成すべき目標だとして、人権をあくまでも擁護しようとする姿勢を示していました。これだけ問題山積の人権であるにもかかわらず、なぜそこに疑問を抱かずあくまでも擁護しようとするのかと云いますと、事実よりもまず人権ありきの観念論だからです。しかし、これは観念論の使い方を間違っています。

 観念論は本質から説くものですから、まずその本質が本物かどうかが問題になります。氏も一応これが本質だというものを出してはいます。それが、人間の本質は主体性だというものです。これは冒頭に挙げたヘーゲルの歴史哲学の中の文章をヒントに導き出したもののようですが、唯物論的に解釈してしまっているので、本物の本質がすっぽりと抜け落ちてしまって、部分的な断面を本質だとしてしまっているので、役に立たないのです。まさに自分が言っていた通り、群盲像を撫ずのごとく、部分では何とでもいえるということです。
 
 では私ならば、ヘーゲルのこの文章をどう分かり易く云いかえるかと云いますと、まず、加藤氏はヘーゲルの文章の中の「精神」を、絶対精神のことだとしていますが、それは間違いではないにしても、加藤氏がその精神を人間とは切り離した別個のものとしてしまって、それを云いかえる際に今度は、絶対精神と切り離した人間として説いています。だから、ヘーゲルの云わんとすることと違ってきて、本質の理解も非常にスケールの小さなものに矮小化されてしまったのです。

 ヘーゲルが精神と言う時、それは絶対精神と人間の精神とを一体のものとしてとらえている、ということが分かっていないのです。ですから、本質として「主体性」を説く時は、単なる人間としての「主体性」ではなく、絶対精神すなわち絶対的本質としての人間の「主体性」を説かなければならなかったのです。そうでなければ、学問をもって世界創造する主体性も、LGBTの主体性も一緒くたになって、LGBTの主体性が人間の本質だということにもなりかねなくなります。もう一つ肝心なことがあります。それは、今述べた二つの主体性には、じつは大きな違いがあるということです。具体的に云いますと、前者の学問をもって世界創造をする主体性は、客観精神としての国家レベルでの主体性を説いているのに対して、後者のLGBTの主体性は、個人レベルの主体性を説いているという大きな違いがあることです。

 この違いは自由の理解にもいえることです。ヘーゲルの云う自由は、学問的な必然性の洞察としての自由であり、国家と国民との統一としての即自対自の自由なのですが、マルクスや加藤氏のいう自由は、ヘーゲルの説く、自由とは違って即自の感情を絶対化した自由でしかありません。これが、対自的な観念論を否定して、即自的な唯物論を絶対化した者の辿る道、すなわち論理的必然性なのです。これで、先に挙げた問題の答が正しく導き出せるはずがありません。その通りに加藤氏の論稿からは、何らの解決の道が示されませんでした。

 少々寄り道し過ぎましたが、では私ならヘーゲルの文章をどう分かり易く云いかえるか挑戦してみます。

「・・・、絶対精神が概念化して誕生した人間の精神は、自分自身について知ろうとし、知りうるものだからである。すなわち、精神は自分自身の本性の評価であり、したがって同時に自分自身を知ってその自分自身に還ろうとする活動性をもったものであり、その意味で本来の自分自身を目的意識的に産み出して本来の自分に戻ろうとする活動性だからである。そこでこのような抽象的な規定からして、世界史について云うことができる。世界史とは、世界の本流たる精神が、自分自身が本来持っている本質性・体系的な学問性を、精神自身で獲得していく過程の叙述である」

 ここから導き出される人間の本質は、学問を創り上げることによって己自身について知り、己自身の本流としての歴史的使命を自覚して、学問を用いて主体的・目的意志的に世界創造を行っていく存在である、ということです。かかる本質を踏まえて初めて、人類の歴史を正しく解き明かすことができるのですが、残念ながら、唯物論の南郷学派には到底出来そうもなさそうです。そもそも国家を分断することによって作られた人権を正当化しようとすること自体がナンセンスなのです。

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[2945] 唯物論と観念論についての質問
南郷ファン - 2018年10月17日 (水) 22時25分

ここに書かれている論文は極めて専門的かつ難解であり、私ごとき浅学な者では理解できないものが多いのですが、特に疑問に思ったことがあるので質問させて下さい。

愚按亭主さんは唯物論の立場に立つ南郷学派を、唯物論では学問的解明は不可能であると批判されているみたいなのですが、その点が不思議に思うのです。

私の理解では、世界の根本は物であるという世界観が唯物論であり、そこからすべてのものを論理的に把握しようとしているのが南郷学派だと思っています。
私は唯物論が正しいと考えていますので、根本が物以外から派生するもので物事を説明するのは科学的ではないと思います。

愚按亭主さんの考えておられる観念論とはどのようなものなのでしょうか。

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[2946] お答えします
愚按亭主 - 2018年10月24日 (水) 08時36分

 念のためお断りしておきますが、私は学問を創り上げるのに唯物論は必要ないといったことはありません。むしろ、必須だとしています。私が主張していることは、唯物論だけでは学問は完成しないということであり、学問の体系化の完成のためには、観念論との統一が必須だとしていることです。

 ですから、観念論を否定してしまっている南郷学派の姿勢を批判しているだけなのです。そもそも学問は、哲学の形成から始まりましたが、その哲学は観念論が創ったのです。哲学は世界全体の真理の追究ですから、部分的な現実的立場の唯物論ではできないことであり、観念論が哲学を創ったのは必然性なのです。

 しかし、マルクスは、唯物論的な科学が現実の生活を大きく変えていった事実を目の当たりにして、学問は唯物論でないとだめだと思い込んで、さらに言えば、当時の科学はキリスト教と熾烈な戦いを繰り広げておりましたので、宗教と同じ観念論の哲学も学問にふさわしくないと考えて、「哲学はヘーゲルとともに終焉する」と宣言して引導を渡してしまったのです。以来、哲学は過去の遺物とされてしまい、観念論も否定されて、唯物論だけで学問を創ろうとすることが常識・伝統となってしまいました。

 ところが、個別科学の体系化もある程度なって、いよいよ学問全体の体系化が射程に置かれるようになったところで、南郷学派は、大きな壁にぶつかってしまいました。観念論を否定し、哲学の歴史を否定してしまっているために、それが足枷となって学問の歴史、弁証法の歴史がまともに説けない、という壁にぶつかってしまったのです。そこで一生懸命唯物論の立場から弁証法の歴史を作り上げようとしていますが、学問の歴史の事実からその論理を導き出したものとはならずに、認識論的な形で強引に観念論的に事実をそれらしく解釈ざるを得なくなって、いささかも弁証法的な歴史的事実とは似ても似つかない、弁証法性の一切感じられないものになってしまっています。

 哲学の全体性の絶対的真理の追究は、観念論でなければできませんので、学問の哲学の歴史を素直に認めた上で、構造的な科学の部分性の事実の論理すなわち相対的真理との統合を、全体性の絶対的真理すなわち<学問の冠石>主導のもとにはかることが、真の学問の体系化の道である、と主張しているのです。

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[2953] 観念論を利用するだけ?
南郷ファン - 2018年11月01日 (日) 13時21分

質問にお答え頂きありがとうございました。

歴史的には、哲学は観念論者が作ったものなので、哲学を完成させるためには観念論を使わないといけないということでしょうか。
観念論と唯物論は万物の根源に対する世界観だと思っているのですが、観念論的な考えは一部利用できるところがあるから使ってみるということなのでしょうか。
観念論と唯物論は対立するものだと思うのですが、両者を折衷しても観念論にしかならないのではないですか。
愚按亭主さんは観念論者なのでしょうか?

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[2955]
愚按亭主 - 2018年11月04日 (日) 17時50分

>歴史的には、哲学は観念論者が作ったものなので、哲学を完成させるためには観念論を使わないといけないということでしょうか。

 歴史的事実として、観念論が哲学を創ったということは、そうなる必然性があってそうなったという、論理を見ることが大切です。つまり、世界を丸ごと俯瞰手的に見て、そこから全体性の論理を導き出すということは、観念論でなければできないことです。唯物論では、部分的な事実から論理を導き出して、それを総合し一般化するという過程を経なければなりません。しかし、問題は、部分をいくら集めても、全体にはならないという厳然たる真理があり、それは、南郷学派が、かつてその真理を使って、ウィルヒョウの細胞が集合して生命体が造られる論を批判していたものです。つまり、南郷学派は、かつて自分たちが批判した誤りを、自分たち自身が犯そうとしているのです。ところが、問題は、そのことに気づいていないことなのです。その誤りとは、唯物論的な、部分的な相対的真理のみで、哲学ができると思っていることです。だから、それは間違いだと指摘しているのです。

>観念論と唯物論は万物の根源に対する世界観だと思っているのですが、観念論的な考えは一部利用できるところがあるから使ってみるということなのでしょうか。

 世界の起源(始元)に関して、唯物論(世界は無限)か、観念論(世界は有限)かの形而上学的な問いかけは、ヘーゲルの真無限(無限即有限)論による学的始元論によって、とうに克服されていたのです。ところが、世界を力強く変えている科学(部分学)の唯物論の立場こそが学問的立場だと思い込んで、唯物論に固執した結果、弁証法を唱えながら、その実質は形而上学のままだった、マルクス、エンゲルスは、それが理解できず、古い形而上学的問いかけをそのまま用いて、ヘーゲルの本物の学問的立場をゴミ箱に捨ててしまった結果として、その過ちが、現在に至るも、学問の世界を、学問的に発展できないように縛りつけているのです。これは、哲学とは何かを措定した南郷学派とて例外ではなく、現在の南郷学派の迷走の根本的な原因となっているのです。

 本当の学問的立場は、絶対的本質(世界の本質)が、<学問の冠石>として、学問体系全体を統括する絶対観念論、すなわち唯物論(事実を起点とする)と観念論(本質を基点とする)とを自らの構造として持つ、が、真の学問の立場なのです。つまり、観念論が主体性を持つ必要があるということです。ですから、ヘーゲルの説く「概念の労苦」とは、絶対観念である「概念」が、唯物論的な成果と観念論的な成果とを融合一体化・統体止揚して、自らの体系に構造化していく「労苦」のことなのです。

>観念論と唯物論は対立するものだと思うのですが、両者を折衷しても観念論にしかならないのではないですか。
愚按亭主さんは観念論者なのでしょうか?

 私は、ヘーゲルと同じく、精神の主体性を重んじる絶対観念論者です。まず確認しておきたいのは、先にも述べたように世界の起源としての唯物論と観念論は、学問的には過去の遺物として屑籠に入れるべきものです。本当の意味での、学問的な唯物論とは、事実を起点として論理を展開していくもので、他方の観念論は、本質を基点として論理を展開していくものだということです。したがって、その両者は互いに他方を否定的媒介し合いながら、相互浸透し合って本物の真理を創り上げていく、というのが本来あるべき学問の方法論なのです。

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[3009] 原因論、存在論、唯物論
鹿山徹 - 2019年04月04日 (木) 21時32分

全ては、始まり方に因らないであろう。何時何処から始め様とも、存在は存在でしかないであろう。つかまぬ全ての一つ切り自体から直接存在する他無い、直接つかまずとも存在する一つ切り自体の自明で無に出来様が無い全てで一切が、全てを始まる位置・構造・因果律・連続律で差別・絶対全他(多)元物下するのは、全く持っておかしいであろう。初めから全有産する事など絶対出来無いし、予め全因果律、全支配律が全有産されてしまっている。と言うのは、全非順序の全ての全単一物の全てで一切の詭弁であって、錯覚であろう。実践的思い込みでしかないであろう。

例え何処から何時から出発しようとも、存在は存在でなければおかしいしょう。例え何処へ向かうとも向かうまいとも、やはり存在は存在の一つ切りでしか無いでしょう。具体的に全ての中につかまぬ全ての存在自体から直接存在する一つ切りの全てを身る全てで一切でしょう。唯物論か否かの差別に意味があるのでは無くて、全非部分自体から直接存在する真実の一つ切り自体の全てで一切を時空間の全構造を問わず、全位置を問わぬ自明の存在自体=つかまぬ全存在自体の全てで一切でしょう。それこそが真実の唯物論であり弁証法でもあるのでしょう。唯物論は同時に弁証法自体でもなければ、絶対全他(多)元論であっておかしいでしょう。絶対全無論と成ってしまうでしょう。

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[3010] 全ての認識原因についての一見解です。
鹿山徹 - 2019年04月04日 (木) 22時03分

全ては、存在と認識と実践と言う風には存在しないでしょう。
そんな境界など何処にも無いからです。全てはつかまぬ全ての直接存在自体からこそが全無境界の原因であって、その他に原因出来様が無い、自明の真実の無力の不動の一つ切り自体の全てで一切であって、他に無いからこその「心」から存在する全てで一切でしょう。それこそが唯物論の真実の意味で一切でしょう。全連続・全因果のつかむ全ての全単一物なのでは無くて、全不連続・全無因果のつかまぬ全ての全単一物自体の全てで一切でしょう。原子論やモナド論の意味も、その無知の知自体の直接原因自体の全てでなければおかしい。と言えましょう。

何がしかの全ての全和が真実の真理なのでは無いでしょう。全和以前から直接全和に依らずとも存在する、全和以後も確かに全無産で全無力で全非所有で全無因果の全非順序の全無境界で存在する、直接つかまぬ全和自体=つかまぬ全て自体=全左(0差)自体からこそが、全穴(0)自体からこそが真実の存在する全てで一切でしょうから。
なぜ無力が全てなのかというと、力に依って存在の不動=つかまぬ全存在自体の不動なのでは無くて、無力の不動でなければおかしいのであります。もし力に依って不動なら、力を失えば勝手に無に運動してしまう力を持っている事になって自己矛盾しているからです。なぜ全0重類なのかも、そこにこそ存在の自明の0自体から無に出来無い本質があるからでしょう。必然的に何かを動かせる全てなど持たない、自明で全無境界の、手放しても手放し様が無い、つかまぬ全てからさへも直接つかまぬ全て自体の存在する、つかんでも変わらずつかまぬ全てで一切と言えましょうか。これが直接つかんでもつかまぬ全ての真実で一切でしょうから。

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[3013] 存在の真実について
鹿山徹 - 2019年04月04日 (金) 22時56分

厳密にいえば、全てに観念論など無いでしょう。単なる思い込みであり、錯覚・誇張でしょう。だからこそ直接つかまぬ全ての中に唯物論を、直接存在の真実を身る事で出来るのでしょう。誰も嘘を付こうと思って真理を論じる者などいないでしょう。そしてそこには決して優劣が有るのでは無くて、つかむ全存在中に閉ざされたつかまぬ全存在自体からの必然的解放(全非部分自体)が大切なのでありましょう。分からぬ真実を引き出す一種の変分原理といえましょうか。全差(左)から始まる理由でしょう。探し方は守り方でもありましょう。真理への道は同時に真理自体でもなければおかしいのであります。存在する全てへの道が存在自体の全ての道でもなければおかしい様にです。空想も科学なのです。

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[3014] 学問の歴史を学びましょう
愚按亭主 - 2019年04月05日 (金) 10時58分

 鹿山氏の投稿をきっかけに、かつての私の論稿を読み返しましたが、訂正するところ修正するところは一つもなく、かつての自分に感心いたしました。

 さて、鹿山氏の投稿ですが、どうやら唯物論を一生懸命擁護しているようですが、その擁護の論陣が、自分が否定している観念論ばかりで、いささかも唯物論的でないところが、ブラックジョークのように思えました。特に、その論陣の中で度々強調されている直接性が、その論の中に全く見られないことも、なかなかのジョークの腕前だと感じました。

 観念論を否定する鹿山氏に提案したいことは、人類の学問の歴史に学ぶことです。とりわけ、イギリス経験論・唯物論に対して、唯物論だけでは真理に到達できないのではないか?真理には観念論的な部分が不可欠ではないか?と疑問を投げかけたヒュームの「懐疑論」。これをヒントにして、観念論による哲学を復活させたカントにいたる、学問の流れを見ていただくことを推奨いたします。

 もっとも、この過渡期の分かりにくいニュー無に関して、百科辞書などの解釈は全く見当違いで、そういうものを当てにしてはいけませんが・・・・・解説者も唯物論信奉者のようで観念論的な思い込みで偏光した眼鏡で見ているようなので、おかしなことになるのだと思います。

 そうした過程を経て学問の冠石としての観念論を完成したのがヘーゲルです。鹿山氏が提起した問題は、すべてヘーゲルが学問的に見事に解いていますので、是非ともヘーゲルを読んでほしいものです。

 その一端を紹介しましょう。ヘーゲルは「大論理学」の本質論の中で、全体と部分との本質的相関について、もう少し云いますと、即自的存在としての全体と、直接的存在としての部分との相関について、ヘーゲルは次のように述べています。

「全体は、それぞれの自立的存立をもつところの反省した統一である。けれども、このような統一の存立は、同様にまた、その統一によって反撥される。全体は、否定的統一としての自己自身への否定的関係である。そのために、この統一は自己を外化(疎外)する。即ち、その統一は自己の存立を、自己の対立者である多様な直接性、即ち部分の中にもつ。故に全体は部分から成立する。従って、全体は部分を欠いてはあり得ない。その意味で、全体は全体的な相関であり、自立的な全体性である。しかし、またまさに同一の理由で全体は単に一個の相関者にすぎない。なぜなら、それを全体者たらしめるところのものは、むしろそれの他者、即ち部分だからである。つまり、全体は、その存立を自己自身の中にもたず、却ってこれをその他者の中にもつのである。

 同様に、部分もまた全体的な相関である。部分は反省した自立性(全体)に対立するところの直接的な自立性であって、全体の中に成立するのではなくて、向自的に(単独に)存在する。しかし、それは更にまた、この全体を自己の契機としてもっている。即ち全体が部分の関係を形成する。全体がなければ部分は存在しない。けれども部分は自立者であるから、この関係は単に外面的な契機にすぎず、部分はそれに対して全然無関心である。しかし同時に、部分は多様な実存として自己自身の力で崩壊する。というのは、多様な実存は反省のない有だからである。
 それで部分は、その自律性を、ただ反省した統一、即ちこの統一であると共にまた実存する多様性であるような統一の中にのみもつ。云いかえると、部分は全体の中でのみその自立性をもつのであるが、しかし、この全体はまた同時に部分とは異なる他の自立性なのである。」

 この中に鹿山氏が直感的に感じとったものの構造が見事に説かれております。この即自的な全体を説くものが観念論で、部分的な直接性を説くものが唯物論なのです。学問はその両者の統一でなければならないのです。それが絶対的本質(全体的本質)から説く絶対観念論の概念の弁証法なのです。

 マルクス・エンゲルスは、この全体と部分との関係論を全く理解できませんでした。その理解を妨げたのが、当時台頭著しかった科学と唯物論に対する強烈な信奉でした。科学というのは学問全体の部分を研究するものです。
唯物論も直接的な事実から出発しようとしますので部分的にならざるを得ず相対的真理論になります。
その結果としてマルクス・エンゲルスは全体性を否定することになり、ヘーゲルの絶対的真理論を「熱病病みの妄想」だと否定し、「へーげるをもって哲学は終焉する」と宣告し、「国法論批判」の中でマルクスは、ヘーゲルを、対立物を媒介を通じて統一させようとするのは誤りだ。対立をもっと激化させなければならない、と批判しました。


 

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[3015] 唯物論は必然的に形而上学になる
愚按亭主 - 2019年04月05日 (金) 15時26分

書き漏らしたことがありますので、続けます。

>初めから全有産する事など絶対出来無いし、予め全因果律、全支配律が全有産されてしまっている。と言うのは、全非順序の全ての全単一物の全てで一切の詭弁であって、錯覚であろう。実践的思い込みでしかないであろう。

 これは、唯物論的なマルクスの階級闘争史観に対する、強烈な見事なる批判です。これに対して、アリストテレスの観念論的な形而上学は、あくまでも絶対的真理に到る途上の一過程であるに過ぎないのに対して、マルクスや南郷先生などの弁証法を売りにした羊頭狗肉の、唯物論の形而上学は結果的帰結ですので、それ以上の発展性の見込めないものになります。

 ですから、唯物論を擁護しようとする鹿山氏が、このように唯物論に引導をわたすということは、地獄への道は善意の敷石で敷き詰められているという実例とも言えます。意図しなかったとはいえ、それなりに学問の発展に貢献するものと云えそうです。

 ではなぜ、アリストテレスの観念論的形而上学を批判する弁証法的唯物論が、皮肉にも自ら形而上学に陥ってしまうのでしょうか?それは、対立物の統一が弁証法であると宣っておきながら、観念論と唯物論との対立を、統一しようとせずに観念論の方だけを一方的に否定して唯物論だけにしてしまったからです。つまり、弁証法を標榜しながら、自ら弁証法を破壊したことによる必然的帰結・酬いなのです。正直言って、あの南郷先生までもが「形而上学」を言い出すに及んでは、私も、はじめは信じられませんでしたが、いまでは論理というものの恐ろしさをしみじみ実感しております。

 そして、実際に社会主義は失敗して現実から否定され、今のチャイナの現実は、鹿山氏が言う通り、それが詭弁に過ぎないことを如実に実証する事実となり果てています。

 では、この世界を絶対的本質の運動・展開する世界と見る、絶対観念論では、この世界はどうなるか?と云いますと、非連続の「カタチサキ」の現象的世界と、連続性の「カタカムナ」の本質的世界を、その両者を統合する絶対精神すなわち「アメノミナカヌシ」の御魂が、その二つの世界に自由に「ミスマッテ」それらが有機的に絡み合って世界が発展していくと観ます。これが概念の弁証法です。ですから、初めからすべてが完成された形で存在するのではなく、あくまでも萌芽的な要素として、すべてが含まれているというだけで、それがどのような形で発展していくかの連続性は、論理的・一般的に言えるのみで、実際は非連続の偶然的要素との絡み合いで、いかようにも変化していくことになりますが、

 それも大きく捉えれば、連続性の一般的な道を歩んで発展していくことになります。ただ、現在の世界は、かなり道を外して大きな道草を食っている現実があることは、正直、認めなければならないとは思います。その原因も、偏狭な唯物論的形而上学の暴走の結果なのですが・・・・・。

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