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[2895] カントの時間・空間論の人類の学問史上の意義とは何か
愚按亭主 - 2018年08月20日 (月) 19時30分

 今なぜこの問題を俎上に挙げるのかと云うと、物質の本質の歴史つまり絶対精神史における、人類史における、学問史における、哲学史における、人類の論理的認識の発展史における、途方もない重大な意義が見つかったからです。

 南郷学派は、この時間と空間について、運動体としてのこの世界の静止の一般性が空間で、運動の一般性が時間だ、と規定して解いたつもりになっているようですが、これは、肝心な点が説かれていないという点で、何も説いていないに等しいものでしかありません。ありていに言えば、それがどうした?と云われかねない、何の役に立たない規定でしかないということです。

 カントは、この時間と空間について、「純粋理性の中身を取り去った最後に残るもので、取り去ることのできないもの」としています。この言葉はとても重要な意味があるのですが、おそらく、この意味するところを解けるものは、ヘーゲル以外誰もいないと思います。否、もう一人、私がいます。

 ではなぜ、ヘーゲルと私のみが解けて、他の頭脳明晰な諸氏に解けないのか?といえば、それは、学問的な立場に立てているかどうか、の違いなのです。現在の有識者・文化人のほとんどが、学問は唯物論の立場に立たなければならないと思い込んでいます。しかし、唯物論だけでは学問は出来上がらないことは、歴史的に証明された事実です。それを最終的に証明してくれたのが、他ならぬ南郷学派です。

 これに対して、ヘーゲルと私は、絶対観念論の立場で考えているから、解けるのです。逆からいえば、唯物論のみから考えると、どうしても解けなくなってしまうのか?と云えば、唯物論は、観念論を否定し、絶対的真理の存在を認めないから、観念の主体性を認めず、論理は事実の論理しかないと思い込んでいるから、解けないのです。同じ理由で、認識論の大家だと豪語している南郷先生ですらが、解けないでいるのです。というよりも、そもそもそういう問題するがあるという問題意識すらがない、のが現実だと思います。

 じつは、この問題は、本来、認識論の大家が、自分が打ち立てた生命史観を媒介としながら、解くべき、解かなければならない問題のはずです。しかしながら、その問題意識すらない現状では、私が、代わってやるしかなさそうです。まず、生命史観的にサルから人間への進化の過程を見てみますと、その過程で人類の認識は、即自的認識と対自的認識との二重構造化しました。この意味するところが、とても重要なのですが、観念論を排除しているせいか、この観点から全く説かれていない現実は本当に寂しいものがあります。

 カントは、史上初めて人間の認識を、悟性と理性とに分類しましたが、ヘーゲルは、これを以下のように整理しました。
即自的悟性:自分の現実的な立場から見える感性的な事実からその性質を悟る認識をいいます。対象を直接に認識する動物の認識と共通する認識。
対自的理性:現実的な自分から離れて自由に運動できる認識が世界全体の性質を体系的に理解する認識をいいます。媒介運動によって得られる動物にない認識

 そして、カントの純粋理性に関して、私は、別のところで次のように論じています。
「純粋理性とは何かと云いますと、世界全体を俯瞰的に眺める対自的立場から、経験的事実の積み重ねに寄らずして、いきなり直観的に全体的論理を導き出せる論理能力のことです。この場合は、あくまでも細かい事実に囚われないで、どちらかというと事実よりも観念力の方を主体とするものです、この場合の事実とは全体を全体として大雑把に捉えたものです。ですから事実はほとんどあってなきが如しなのです。だから、純粋理性なのであり、事実よりも純粋理性の方が主体だということです。これに対して、悟性の方は事実の方が主体となるのです。したがって、事実と合わない悟性は誤りとなるのです。

 これに対して、純粋理性の方は、事実よりも理性の方が主体ですので、事実と合わなくとも、その真理性は揺らがないのです。」(2886)

 この問題を本質的に解くためには、絶対精神史観から解くと、正しい答えが得られます。それはどういうものかと云いますと、絶対理念へと向かう絶対精神の運動は、部分的認識しかなかった動物の限界を超えて、人類の認識が、世界全体の本質を把えうる対自的認識が生まれる必然性があったのであり、この対自的認識によって世界全体の本質を追究する哲学が生まれ、その哲学によって創られる<学問の冠石>によって、世界全体を論理体系として構築できる学問が創られる可能性が生まれることになりました。これは、絶対精神が世界の本質としての自らに回帰することにもなり、絶対理念への道が切り拓かれることをも意味するものなのです。

 さらに言えば、この世界の本質・論理性を追究する認識すなわち思惟の運動は、論理を論理的に追究する運動であって、これによって、人類の論理的な認識の原型(基本技)が創られたという重大な事実があることに、まだ誰も気づいていない、ということに私が気づきました。

 まず、いわゆるゼノンの詭弁は、師匠のパルメニデスの「世界は一にして不動」という本質的な論理から出発して、その不動性を、空間の無限性・時間の無限性の論理を駆使して見事に証明して見せました。これこそが、思惟の運動の端緒です。しかし、この場合、ゼノンはまだ空間の無限性や、時間の無限性の時間や空間という認識はなく、ほとんど無意識的・無自覚的に使っていたと考えられます。

 この空間・時間を、目的恣意的・自覚的に駆使したのが、カントの「二律背反」です。この場合の時間・空間は、事実の論理ではなく、論理の論理ですから、空間の無限性や、時間の無限性が容易になりたつのです。このように、論理を事実という制約なしに自由に展開できることが、人類の論理的認識の技化に寄与したことは間違いのないことです。つまり、時間・空間は、思惟の論理展開の場を提供するものだ、ということです。

 これが、じつは、カントの時間と空間は、「純粋理性の中身を取り去った最後に残るもので、取り去ることのできないもの」の実相なのです。つまり、カントは、観念論的に誤った見解を説いていたのではなく、認識論的に実に見事に、人類の認識の実相・真理を説いていたのです。この学問に絶対不可欠な真理を、認識論者は簡単に誤りだと否定してしまうところに、底の浅さ、本物の学問ができない理由があるのです。何故なら、学問をする者は、すべからくこの過程が必須だからです。それを否定していて学問ができるわけがないからです。唯物論の認識論は、こういうこともおそらくは理解出kないであろうと思います。ということは、その唯物論の認識論は、学問としては本物になり得ない欠陥品だということです。


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[2902] プラトンやカントがなぜ現象的な経験由来の論理を真理の王宮から排除したか?
愚按亭主 - 2018年08月21日 (土) 15時02分

 <学問の冠石>という言葉は、プラトンが創った言葉ですが、これは、絶妙のネーミングです。なぜなら、<学問の冠石>とは、学問体系の冠、すなわち頭の部分を意味するからです。では、一体何が<学問の冠石>なのかと云いますと、プラトンの云うところのイデアすなわち、哲学が追究してやまない絶対的真理のことです。この絶対的真理とは、全体の不変・普遍の真理ということです。つまり、学問体系の頭としてふさわしい真理が、すなわち<学問の冠石>だということです。

 ところが、この絶対的(全体的)真理は、動物由来の、動物の延長線上の即自的な相対的真理、経験的な論理、すなわち、事実的論理では絶対に到達することのできない論理・真理なのです。逆からいえば、だからそれを求めて人類が誕生したともいえるほど、人類にとって大事な大事な宝物なのです。もっと言えば、人類は、それを自分のものにできるようになるために、即自の自分に縛られないで自由に運動できる、特別な対自的な認識を造り上げて、人類になったのです。したがって、観念論を駆使できるようになることが、そもそもの人類誕生の真の目的だったのであり、それゆえ、学問は真っ先に<学問の冠石>を求めて哲学を創り上げたのです。もしこれなかりせば、人類は、己が何者なのか、永遠に自覚することはできなかったことでしょう。

 さいわい、人類は、その必然性にしたがって哲学を創り、ヘーゲルという最高の学者を得て、はじめて己が何者なのかを自覚するに至ったのです。しかし、せっかく人類が、そのことに目覚めたというのに、マルクスによって、その目を塞がれて、人類は再び暗闇の中に突き落とされてしまったのです。

 本当にマルクスやエンゲルスの、絶対的真理に対する憎悪は異常を極めています。「熱病病みの観念論者の妄想」と、これでもか!これでもか!といたぶるその様は、恩義ある恩師に対する言葉とは、到底思えないドギツサです。まるで、天使を攻撃する悪魔のようです。実際、その通りに、人類は、この二人によって不幸のどん底に落とされ、今もなお、その後遺症に苛まれたままです。
 
 話を元に戻して、人類が、それまでの動物的相対的真理にはない絶対性を求めて誕生したという事情から云えることは、そうした人類にとって、宗教が宿命的な理由も、人類がそういう絶対的真理を求めて、人間になったからに他なりません。おそらく、プラトンやカントも、それが分かっていたから、現象的な世界における経験由来の論理と、イデアの世界・真理の王宮の住人である純粋理性とを峻別し、経験由来の事実の論理を排除して、イデアの世界・純粋理性を確定・確立するのに大きく貢献したのです。これによって、絶対的真理の系譜と相対的真理の系譜とが分け隔てられて、互いに影響し合いながらも、別々に発展していくことになったのです。

 したがって、このプラトンとカントという二大巨匠が、二千年近くという長い時を隔てていながらも、全く同じように、事実的論理を否定することによって本質的論理を明確化した、という事実が存在することは、ものすごい重大な意味をもつものに相違ありません。ところが、残念なことに、この事実の、学問形成上における画期的な意義について、私以外まだ誰も説いていないのです。

 それが、なぜそんなに大事なのか?と云えば、科学の扱う部分的な相対的真理の事実の論理と、哲学の扱う全体性の絶対的真理の純粋論理とは、同じように見えて、その質・中身が全く違うからです。しかし、人類の論理的認識は、じつは、その純粋論理によって創られ鍛えられることによって、発達したことは間違いありません。

 たとえば、ゼノンの詭弁と云われた論理の論理的証明は、その純粋論理だからできたことです。カントの二律背反の有限性と無限性の証明も、またしかりです。当然、世界の始元における有限性と無限性の統一も純粋論理によってなされたものです。

 そして、ニュートンの万有引力の法則の論理化は、アリストテレスの形而上学の具体化であり、マルクスの資本論の論理化は、ヘーゲルの弁証法の純粋論理の具体化だということです。この具体化は、否定的媒介なので、本人たちは自覚できないので、マルクスはヘーゲルを超えたと錯覚してしまったのです。南郷先生もしかりです。

 人類誕生の意義は、動物の本能の受動性から、人間の認識の主体性・能動性へと転化したことです。これは、はじめ即自有としての自然の論理性を自然成長的に応用しての文明の創造として現象しますが、学問がまず哲学として誕生し、自然の論理性を目的意識的に学問する論理学が生まれると、その応用として個別科学が次々に生まれて、自然の論理性の目的意識的な応用が盛んとなって、人類の文明を飛躍的に発展させます。

 この流れにおいて、特に重要なのは、哲学が論理学を創ったことであり、その必然性を問うことです。これは逆からいえば、哲学が生まれなかったならば論理学、つまり人類の論理的認識の発展はなかったということです。ここを南郷学派は分かっていないので、人類の論理的認識の発展過程の論理化は失敗に終わること必定です。つまり、認識学の完成はできないということです。その理由は、云うまでもなく唯物論への思い入れが強すぎて、最も人間的な観念論を否定してしまったことです。

 なぜなら、南郷学派が否定した観念論哲学が、論理学を創り、弁証法を創ったからです。逆からいえば、観念論哲学でなければ、論理学も、弁証法もできなかったからです。これだけ言っても納得できないでしょうから、ここのところをもう少し詳しく説明しましょう。哲学の追究する全体性の論理、すなわち絶対的真理は、全体を全体として見る、たとえば、森を森全体として見て、緑色だと直観して規定するとき、その中に黄色や赤色といった個別的事実が混じっていようが、関係なく、無視して、森は緑色が全体的真理と認識が主体的・能動的に規定します。これがカントのいう認識が物自体に性質を与えると云った時の、構造なのです。つまり、全体性の論理においては、認識の側に主導権・主体性があるのです。

 その認識の主体性を発揮する場が、カントの云う時間・空間なのです。この時間・空間は、森を森として見た時と同様に、個別的事実を一切無視する形で認識の側が対象に与えた概念ですので、それは純粋理性そのものに備わった思惟の場でもあるのです。では、この思惟の場で、どういうことが行われたのかと云いますと、まずは存在論、つまり有か無かの純粋思惟、つまり論理を論理として事実の媒介なし(事実をほとんど無視する形で)に論理のもつ必然性のみで展開していく、純粋論理の展開です。その当時、支配的となったのが、無を否定したパルメニデスの「世界は一にして不動」論です。これによって運動している即自有の運動が止められて、定有となって、世界が学問の対象として確定することになるのです。

 ここから、アリストテレスの形而上学・形式論理学が生まれ、個別科学の不動の真理としての法則の発見がなされていくようになっていったのです。これは、ちょうど純粋論理としての数学の発展が、物理学に応用されていったのと同じ構造です。ただ、数学の場合は、あくまでも部分的論理に過ぎないのですが、哲学の場合は、全体的論理ですので、論理の次元が違うので、部分的論理で純粋論理ができるのであれば、相対的真理だけを集めて学問を完成することは可能ではないか、との疑問ができそうです。しかし、これには、はっきりと、否、と答えておきます。

 この哲学の論理学の発展が、人類の論理的認識の発展に大きく貢献した、という事実の構造をもう少し詳しく分析しましょう。それには大きく二つあります。まず、プラトンやカントが行ったような、部分的な事実的要素のそぎ落とし、つまり捨象という論理的認識の基礎的な働きの良い訓練となったこと、第二に、純粋論理に純化したことによって、煩わしい事実の媒介という手順を踏まずに、論理同士をつなげやすくなって。論理のつながりに対する人類の認識が向上したことが挙げられます。

 このように、観念論や哲学は、人類の学問の発展に偉大な功績を残しているにもかかわらず、しかも、この功績は、決して過去のものなどではなく、今現在でも、人類は、その過程を踏んで真の人間になっていかなければならない、と云えるほどの必須的過程であり、学問の完成に欠くべからざる貴重な過程であるにもかかわらず、現在の実態は、その宝物が、まるで喪失したかに見える現状なだけに、その価値はますます高まっているといえます。

 

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[2908] ヘーゲルの説く精神の王国とは?
愚按亭主 - 2018年08月28日 (水) 15時15分

 ヘーゲルが、「精神の王国」について論及していることは、ヘーゲルを勉強する者にとって常識といえますが、その意味するものは何かということについて、分かっているものは皆無のようです。南郷先生ですら、この「精神の王国」をわざわざ「影の王国」と唯物論的に云いかえて、それが実体でないことを強調しているくらいですから・・・。

 しかしながら、この「精神の王国」は、精神の主体性・能動性をもつものですから、「影の王国」とすることは、ヘーゲルの真意をまたく分かっていないと云わざるを得ません。これはどういうことかと云いますと、「精神の王国」とは学問体系に他なりませんが、精神という場合に、動物の本能が、否定的媒介されて、学問体系的に創造され、新たにバージョンアップされた人間の本能としての「精神の王国」でもあるということです。

 つまり、人間が学校で学問を学ぶ目的は、学問を、自分の本能とすることによって、自分自身がまともな人間になるためなのです。ところが、現在学校で学ぶ学問の実態は、断片的で、知識偏重で、体系性がなく、本物の学問としての実質を持っておらず、したがって、それを本能化しようにも本能たりえない状態です。その原因・責任は、学問体系の要である<学問の冠石>としての哲学を否定し、その<学問の冠石>の完成者であるヘーゲルを否定してしまうというとんでもない愚挙を行った、マルクスにあります。つまり、人類が「精神の王国」を自らの本能とする道を歩けなくしてしまったのは、マルクスのせいだということです。

 人類が、「精神の王国」を自らのアタマの中に築き上げるためには、数学が数の論理の訓練を積むように、全体性の論理を駆使する思惟の訓練を通して自ら純粋理性とならなければなりません。これは、唯物論的の立場に立って、科学的な事実の論理をいくら積み重ねても、絶対にその境地に到達することはできません。それは、唯物論を否定し、事実の論理を排除して、観念論の立場にたって世界を丸ごと掌に載せたつもりになって、はじめて純粋理性の時間・空間の場での純粋論理を展開が可能となるからです。

 そして、そこにおいて静止体の弁証法(形而上学)の論理の論理的な訓練を経て、運動体の弁証法の論理の論理的な訓練の過程を経て、はじめて<学問の冠石>が、アタマの中に構築されていくのです。そして、これなしには学問の体系も完成しようがなく、したがって「精神の王国」もまともな形で出来上がらないのです。

 また、こうした純粋理性の時間・空間の場において展開される純粋論理の思惟体験によって培われた論理的実力をもって、事実との真剣勝負をすると、悟性的論理が直接に対自的な理性的論理として洗練されて、、そのまま「精神の王国」の一部へと組み込まれていくようになって、実践すればするほど自らの「精神の王国」そのものがより豊かなものへと発展していくようになるのです。



 

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[2909]
質問者 - 2018年08月29日 (水) 12時39分

南郷さんがヘーゲルの「精神の王国」?を学問体系のことだとバイアスをかけたのは自分の流派に所属する大学生や大学院生へ大学教官への道を指し示してのものだったと容易に推測できると思います。

このヘーゲルの言葉はキリスト教の教義にある「神の王国」からきていることは明らかで、理解しやすいように対義語を挙げるならば「悪魔の王国」となるのでしょう。

端的には「神の王国」とは「善の倫理に包まれた現実の国家」ということで、対比的に述べるならば「悪の王国」とは年老いて生産力を失った高齢者を姥棄て山に捨てて殺すとか身体障害者を生産性が無いとしてバリアフリー化することなく排除するような「書物の上だけの議論でなく現実化された国家」ということなんでしょう。

大学生や大学院生を多く弟子にかかえた南郷さんがキリスト教からヘーゲルに至る「神の王国」→「精神の王国」を「論文を書くことが生業」の大学教官に合わせて学問体系だと述べることが正当だとしても、大学に行くことなく高卒で現場のコメディカル医療に携わっている愚按亭主が交感神経の活性化による青雲さんのガンの促進という「悪の王国ならぬ悪の共和制」を実行しながら、マルクスの批判するのも的外れでは?

マルクスの「解釈するのでなく現実を変えるのだ!」との思想はヘーゲルの「精神の王国」の思想を受け継いだものなんでしょうから。




Pass

[2915]
質問者 - 2018年09月05日 (水) 13時07分

カントの『純粋理性批判』は私も本腰を入れて検討していませんが、『純粋理性批判』における二律背反をもってカントはゼノン以上のレベルではないと退けてパルメニデスのほうに行く思考には疑問を呈さずにはいられませんね。

カントは「ゼノンのように考えなさい、それが正しい論理的な思考だから」なんて筋道で二律背反を語ったのではない気がします。

寧ろ、ヒュームの経験論に衝撃を受けたカントは「独断論の微睡み」から抜け出て理性の限定的な位置を示したのだと思います。だから全く何の経験もない子供が想像することと、十分なる経験知を備えた大人が推理することの違いを問題とし、「純粋理性批判」となったのだと考えますね。それが、『純粋理性批判』の冒頭にフランシス・ベイコンの大革新の引用がなされている所以だと考えます。

それで、カントの『純粋理性批判』の大テーマが、既述のことだとして、ではカントが持ち出した「空間と時間」って何だ?ということになるわけです。カントは何を語りたかったのか?

本文を読んでみないと確かなことは言えませんが、カントの言う「空間と時間」というのはニュートン力学の空間と時間なんだと思います。だから、南郷学派が説くような一元論哲学の形而上学的一者として空間と時間を説いたのではなく、何かを説くための一つの事例としてニュートン力学を取り上げたんじゃないかと思いますね。

だから、カントは愛だとか怒りだとか憎しみだとかの観念を空間と時間なんてところに捨象してはいないと思います。

ニュートン力学という力学的・物理学的な思考であっても、人間の思考には観念主導の面があり、また理性というのは経験知を補佐する小さな位置しか占めないのだということを説いたのではないかと思います。

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[2917] ヘーゲルの云う<精神の王国>とは、人間の普遍的本能である、
愚按亭主 - 2018年09月11日 (火) 19時58分

 滝村先生も、ヘーゲル哲学の原型を、キリスト教の「三位一体」に求めています。そういう面が全然ないとは言いませんが、しかし、全く次元の異なるものに進化していて、中身がまるで違うことが分かっていないとも言えます。

 ヘーゲルは、宗教と学問の関係について、同じ絶対性を追究するものとして、初めは相互規定的・一体的に発展していきますが、宗教はその絶対性を外部に求め、学問は、宗教の神に触発されながらその絶対性を内部に求めて絶対的真理を追究していくことになります。そして、その学問の成果である形而上学を、今度は宗教の方が取り入れて、神学的形而上学を作り上げます。

 これが「神学大全」です。これは、この世界の外部にある絶対者たる神が、この世界を造ったとして、その外部にある神の絶対性そのものは、深く追究されることはなく、したがって、絶対性の認識の深化がないままに、その絶対性が現象させられることになった結果として、相対的真理レベルの認識が絶対的な神の表現として扱われることになって、相対的真理の絶対化が進行して、神学的形而上学は、専制的・独断的形而上学となって、信仰する者を規定し、それが救いとなる一方で、理不尽に苦しめることにもなっていきます。

 その宗教の専制的・独断的形而上学は、科学的な認識の発展によって、その絶対的な誤りのないはずの神学的な規定・教条の、事実的な誤りが暴かれていって、宗教と科学との対立・闘争が、勃発することになります。そして、この戦いは、初めはヨーロッパ世界を精神的に支配していた宗教の側が優位でしたが、科学がもたらす物質的生活の発展が顕著になるにつれて、次第に科学の側の構成が強くなっていくことになります。

 そンな中目立たないところで、もう一つの宗教と学問との闘いが繰り広げられておりました。じつは、カントもその宗教的な専制的・独断的形而上学にたいして、本物の学問的な形而上学を、自分が創り上げると宣言していたのです。カントはその宣言通り、二律背反論を作り上げて、ギリシャ哲学の復権、とりわけゼノンの無限的思惟の論理を復活させて、学問のさらなる発展の土台を築いていたのです。ここのところを私は、以下のように述べておきました。

「いわゆるゼノンの詭弁は、師匠のパルメニデスの『世界は一にして不動』という本質的な論理から出発して、その不動性を、空間の無限性・時間の無限性の論理を駆使して見事に証明して見せました。これこそが、思惟の運動の端緒です。しかし、この場合、ゼノンは、まだ空間の無限性や、時間の無限性の時間や空間という認識はなく、ほとんど無意識的・無自覚的に使っていたと考えられます。

 この空間・時間を、目的恣意的・自覚的に駆使したのが、カントの「二律背反」です。この場合の時間・空間は、事実の論理ではなく、論理の論理ですから、空間の無限性や、時間の無限性が容易になりたつのです。このように、論理を事実という制約なしに自由に展開できることが、人類の論理的認識の技化に寄与したことは間違いのないことです。つまり、時間・空間は、思惟の論理展開の場を提供するものだ、ということです。

 これが、じつは、カントの時間と空間は、「純粋理性の中身を取り去った最後に残るもので、取り去ることのできないもの」の実相なのです。つまり、カントは、観念論的に誤った見解を説いていたのではなく、認識論的に実に見事に、人類の認識の実相・真理を説いていたのです。この学問に絶対不可欠な真理を、観念論を否定する唯物音の認識論は簡単に誤りだと否定してしまうところに、底の浅さ、本物の学問ができない理由があるのです。」

 つまり、カントは、神学的に歪められてしまった形而上学を、ゼノンの時間・空間の無限性の論理を、より学的形式化した「二律背反」という形で、復活させて、一旦ギリシャ哲学時代の形而上学に戻して、静止体の弁証法から運動体の弁証法への飛躍の足掛かりをつくったのです。

 そして、ヘーゲルは、カントが創ったこの足掛かりを基に、かつまた、ギリシャ哲学のヘラクレイトスの矛盾論を直接的なヒントとして、ダイナミンクな運動体の弁証法を創り上げたのです。

 それは、より具体的に言えば、形而上学的な三段論法のキリスト教的な三位一体論を、全く異次元の、絶対精神(父神)→物理的・化学的・認識的現象過程(子神)→絶対理念(聖霊)という、ダイナミックな否定の否定的な弁証法の過程として、<精神の王国>の基本構造として創り上げたのです。

 この発展過程の最先端部分を捉えて、ヘーゲルは<生命ー認識ー学問>と規定したのです。これは、どういうことかと云いますと、生命すなわち動物を動かしているものは、本能です。そして、その生命・動物から発展した人間を動かしているものは、認識です。そして、その認識が、世界全体を丸ごと論理体系的に捉えることに成功するまでの発展したものが、学問です。そして、その学問が、人間を動かす新たな人間の本能になった時、、絶対的本質である、絶対精神は、本当の意味で自分自身に回帰した、ということが云えるのです。

 これが、ヘーゲルの云う<精神の王国>の意味なのです。

 

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