[2895] カントの時間・空間論の人類の学問史上の意義とは何か |
- 愚按亭主 - 2018年08月20日 (月) 19時30分
今なぜこの問題を俎上に挙げるのかと云うと、物質の本質の歴史つまり絶対精神史における、人類史における、学問史における、哲学史における、人類の論理的認識の発展史における、途方もない重大な意義が見つかったからです。
南郷学派は、この時間と空間について、運動体としてのこの世界の静止の一般性が空間で、運動の一般性が時間だ、と規定して解いたつもりになっているようですが、これは、肝心な点が説かれていないという点で、何も説いていないに等しいものでしかありません。ありていに言えば、それがどうした?と云われかねない、何の役に立たない規定でしかないということです。
カントは、この時間と空間について、「純粋理性の中身を取り去った最後に残るもので、取り去ることのできないもの」としています。この言葉はとても重要な意味があるのですが、おそらく、この意味するところを解けるものは、ヘーゲル以外誰もいないと思います。否、もう一人、私がいます。
ではなぜ、ヘーゲルと私のみが解けて、他の頭脳明晰な諸氏に解けないのか?といえば、それは、学問的な立場に立てているかどうか、の違いなのです。現在の有識者・文化人のほとんどが、学問は唯物論の立場に立たなければならないと思い込んでいます。しかし、唯物論だけでは学問は出来上がらないことは、歴史的に証明された事実です。それを最終的に証明してくれたのが、他ならぬ南郷学派です。
これに対して、ヘーゲルと私は、絶対観念論の立場で考えているから、解けるのです。逆からいえば、唯物論のみから考えると、どうしても解けなくなってしまうのか?と云えば、唯物論は、観念論を否定し、絶対的真理の存在を認めないから、観念の主体性を認めず、論理は事実の論理しかないと思い込んでいるから、解けないのです。同じ理由で、認識論の大家だと豪語している南郷先生ですらが、解けないでいるのです。というよりも、そもそもそういう問題するがあるという問題意識すらがない、のが現実だと思います。
じつは、この問題は、本来、認識論の大家が、自分が打ち立てた生命史観を媒介としながら、解くべき、解かなければならない問題のはずです。しかしながら、その問題意識すらない現状では、私が、代わってやるしかなさそうです。まず、生命史観的にサルから人間への進化の過程を見てみますと、その過程で人類の認識は、即自的認識と対自的認識との二重構造化しました。この意味するところが、とても重要なのですが、観念論を排除しているせいか、この観点から全く説かれていない現実は本当に寂しいものがあります。
カントは、史上初めて人間の認識を、悟性と理性とに分類しましたが、ヘーゲルは、これを以下のように整理しました。 即自的悟性:自分の現実的な立場から見える感性的な事実からその性質を悟る認識をいいます。対象を直接に認識する動物の認識と共通する認識。 対自的理性:現実的な自分から離れて自由に運動できる認識が世界全体の性質を体系的に理解する認識をいいます。媒介運動によって得られる動物にない認識
そして、カントの純粋理性に関して、私は、別のところで次のように論じています。 「純粋理性とは何かと云いますと、世界全体を俯瞰的に眺める対自的立場から、経験的事実の積み重ねに寄らずして、いきなり直観的に全体的論理を導き出せる論理能力のことです。この場合は、あくまでも細かい事実に囚われないで、どちらかというと事実よりも観念力の方を主体とするものです、この場合の事実とは全体を全体として大雑把に捉えたものです。ですから事実はほとんどあってなきが如しなのです。だから、純粋理性なのであり、事実よりも純粋理性の方が主体だということです。これに対して、悟性の方は事実の方が主体となるのです。したがって、事実と合わない悟性は誤りとなるのです。
これに対して、純粋理性の方は、事実よりも理性の方が主体ですので、事実と合わなくとも、その真理性は揺らがないのです。」(2886)
この問題を本質的に解くためには、絶対精神史観から解くと、正しい答えが得られます。それはどういうものかと云いますと、絶対理念へと向かう絶対精神の運動は、部分的認識しかなかった動物の限界を超えて、人類の認識が、世界全体の本質を把えうる対自的認識が生まれる必然性があったのであり、この対自的認識によって世界全体の本質を追究する哲学が生まれ、その哲学によって創られる<学問の冠石>によって、世界全体を論理体系として構築できる学問が創られる可能性が生まれることになりました。これは、絶対精神が世界の本質としての自らに回帰することにもなり、絶対理念への道が切り拓かれることをも意味するものなのです。
さらに言えば、この世界の本質・論理性を追究する認識すなわち思惟の運動は、論理を論理的に追究する運動であって、これによって、人類の論理的な認識の原型(基本技)が創られたという重大な事実があることに、まだ誰も気づいていない、ということに私が気づきました。
まず、いわゆるゼノンの詭弁は、師匠のパルメニデスの「世界は一にして不動」という本質的な論理から出発して、その不動性を、空間の無限性・時間の無限性の論理を駆使して見事に証明して見せました。これこそが、思惟の運動の端緒です。しかし、この場合、ゼノンはまだ空間の無限性や、時間の無限性の時間や空間という認識はなく、ほとんど無意識的・無自覚的に使っていたと考えられます。
この空間・時間を、目的恣意的・自覚的に駆使したのが、カントの「二律背反」です。この場合の時間・空間は、事実の論理ではなく、論理の論理ですから、空間の無限性や、時間の無限性が容易になりたつのです。このように、論理を事実という制約なしに自由に展開できることが、人類の論理的認識の技化に寄与したことは間違いのないことです。つまり、時間・空間は、思惟の論理展開の場を提供するものだ、ということです。
これが、じつは、カントの時間と空間は、「純粋理性の中身を取り去った最後に残るもので、取り去ることのできないもの」の実相なのです。つまり、カントは、観念論的に誤った見解を説いていたのではなく、認識論的に実に見事に、人類の認識の実相・真理を説いていたのです。この学問に絶対不可欠な真理を、認識論者は簡単に誤りだと否定してしまうところに、底の浅さ、本物の学問ができない理由があるのです。何故なら、学問をする者は、すべからくこの過程が必須だからです。それを否定していて学問ができるわけがないからです。唯物論の認識論は、こういうこともおそらくは理解出kないであろうと思います。ということは、その唯物論の認識論は、学問としては本物になり得ない欠陥品だということです。
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