[2886] 期待外れに終わった京都の「歴史観の歴史を問う」試み |
- 愚按亭主 - 2018年08月11日 (土) 21時33分
南郷学派には期待できそうもないので、哲学の歴史を真面目に勉強している京都の人たちに期待していたのですが、今回の「歴史観の歴史を問う」は、大きく期待外れでした。
批判1) 理由は単純です。未だに、エンゲルの呪い「絶対的真理など熱病病みの観念論者の妄想だ!」に囚われて、学問は唯物論の立場でなければならない、との先入見を、せっかくの哲学の歴史の学びから反省・検証しようともしないで、頭から正しいと決めつけて、金科玉条の如く扱うという非学問的態度でいるからです。
たとえば、「歴史観の歴史を問う」の内容に沿って見てみるならば、中世的なキリスト教的歴史観の世界は神によって造られたという観念論的歴史観と、ニュートンの万有引力の発見などによって形成された世界は無限性をもっているとする唯物論的歴史観との、先行する二つの歴史観に対して、カントがなしたことは一体何かということが、まず問題にされなければなりません。
それはどういうことかと云いますと、カントの為した二律背反の定立は、ゼノンの論理の復権を意味すると云うことばかりが、クローズアップされていますが、じつは、もっと大事な点が存在するのです。そのヒントは、カントが、「純粋理性批判」の序文で、キリスト教的な専制的形而上学と、ロックの唯物論的な形而上学を批判して、本物の学問的な形而上学を自分が創ると宣言していることです。
そして、その結果として生まれたのが、件の「二律背反」なのです。では、この中で、カントは、何を為したのでしょうか?カントが為したことは、ズバリ観念論的な有限性の論理的証明と、唯物論的な無限性の論理的証明です。つまり、観念論も、唯物論も、どちらも正しいということを、論理的に証明してみせたのです。しかし、カントは、そのことをバラバラに証明しただけで、その統一まではできませんでした。
それを統一したのが、ヘーゲルであり、その結果として出来上がったのが、唯物論と観念論とを構造としてもつ絶対観念論です。これが、本物の学問的立場です。だから、ヘーゲルはその立場から、この世界の始元・学の始元を説いたのです。もし、唯物論こそが本当の学問的立場だとしたいのであれば、このヘーゲルの始元論の誤りを指摘して、唯物論のみが正しいということを証明しなければならないはずです。
ところが、それが行われた形跡がありません。だから、それをしないで唯物論が正しいというだけでは、単なる先入見の当てはめに過ぎないというべきものです。つまり、唯物論を標榜しておきながら、忌み嫌ている観念論のやり方を貫いている事実に気づいていないということです。まさか、これこそが唯物論と観念論との統一だ、とでもいうのでしょうか?こういう統一は、羊頭狗肉的・詐欺的統一であって、本物の学問的弁証法的統一ではありません。
批判2) 京都の人たちは、ヘーゲルの絶対精神を観念論の空想に過ぎない、と切り捨ててしまっています。まさに言葉尻だけで、誤謬だと勝手に決めつけている観念論だと、先入見から決めつけて、それが何を意味するかを真面目に考えようとしない、その姿勢は、果たして学問的と云えるのでしょうか?
ヘーゲルは、絶対精神のことを絶対的本質(世界全体の本質)だと明確に述べています。これは、南郷先生が引用した文鳥の中でも述べられています。言語辞典にも、精神を物事の本質という意味もあることが記載されています。そして、京都の人たちも 「哲学的レベル(全世界に本質論レベルから一本の筋をとおしてまとめあげるレベル)から世界歴史の構造に大きく踏み込んでいったところにこそ、カントの歴史観における啓蒙主義的歴史観からの大きな前進が示されているといってよいであろう。」
と哲学の意義を正しく評価しているのです。そして、南郷学派の生命の本流の歴史の論理化も、事実の論理化の唯物論的手法のみならず、本質論から論理化する観念論的手法との統一の結果として、創り上げられたものであることを、正しく評価すべきです。
京都の人たちは、おそらく、カントの「純粋理性」も、同様に観念論的空想だと思い込んでいるであろうと、想像します。しかし、しかし、このカントの云う「純粋理性」とは一体何かを真面目に検討すべきです。
まずカントの云う悟性とは、即自的立場から部分的事実に直接接する中で、その事実から事実に沿った論理を導き出す論理能力のことです。
では、純粋理性とは何かと云いますと、世界全体を俯瞰的に眺める対自的立場から、経験的事実の積み重ねに寄らずして、いきなり直観的に全体的論理を導き出せる論理能力のことです。この場合は、あくまでも細かい事実に囚われないで、どちらかというと事実よりも観念力の方を主体とするものです、この場合の事実とは全体を全体として大雑把に捉えたものです。ですから事実はほとんどあってなきが如しなのです。だから、純粋理性なのであり、事実よりも純粋理性の方が主体だということです。これに対して、悟性の方は事実の方が主体となるのです。したがって、事実と合わない悟性は誤りとなるのです。
これに対して、純粋理性の方は、事実よりも理性の方が主体ですので、事実と合わなくとも、その真理性は揺らがないのです。
京都の人たちは、「ヘーゲルのように、精神が最初から存在してそれ自身として発展していくのだと考えてしまえば、社会的認識が社会的労働による外界との相互浸透によってこそ生成発展していくという世界歴史のもっとも重要な過程的構造を説けなくなってしまう」と述べていますが、これは大いなる誤解です。
ヘーゲルの云う絶対的本質・概念は、対象そのものの独自の発展を阻害するものでなく、その発展を見守りながらその成熟した成果を自らに取り込みながら、自らも発展していくものです。だから、南郷先生の体系の形而上学とは全く異なる学問体系なのです。だから、形而上学の南郷先生には理解できなかったので、ヘーゲルには学問体系がない、となってしまったのです。 つづく
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