カウンター そもそも人権という概念は非学問的概念 - 談論サロン天珠道
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[2870] そもそも人権という概念は非学問的概念
愚按亭主 - 2018年06月30日 (土) 10時32分

 以下は、宮崎氏のメルマガに投稿したものです。

私は、これまで、人類の再生のため、日本の再生のためには、ヘーゲルの復権が絶対的に必須だ、と訴えてきました。とりわけ、日本においては、未だに、国家という言葉自体にある種の憚りが根強く存在しているようです。そのために、当たり前のことが当たり前に議論できない雰囲気が、常に重くのしかかっている感が、どうしても拭えません。今回の二階発言も、これは教育の問題であり、現在の日本の教育が、まともな日本国民を育てる教育になっていないことが、一番の問題なのです。

 こういう状況を劇的に変えるためにも、ヘーゲルの復権がどうしても必要だと考えます。というのは、ヘーゲルの観ている景色と、一般の我々が見ている景色とが、全く違うものだからです。では、それがどう違うのかと云いますと、私たちが見ている景色は、私たちの立ち位置から見える景色か、せいぜいのところその付近の道路地図程度のものです。ところが、ヘーゲルの観ている景色は、始元からの物質の歩み全てを見通せる本当の意味での全体像の地図なのです。

 そういう観点から眺めてみますと、たとえば、日本の常識は世界の非常識、という日本を卑下するような自虐的な言葉も、じつは、学問的に見れば、日本の常識の方こそが、本来あるべき常識であるべきものだ、ということが分かります。そのことを端的に示す遺跡的というか、化石的な誤魔化し不可能な証拠として、日本語と他の外国語との文法構造の違いがあります。言語の文法構造は、それが創られた時代の、その民族の精神構造がそのまま反映されます。では、その言語の文法構造が何を物語っているかと云いますと、日本語のみが、相手に対する警戒心のない共存共栄の、まず何よりも早く相手に内容を伝えたいとなって、自分の考えは後回しの構造になっていることです。これに対して、他の外国の言語の方は、弱肉強食の中、自己防衛的・自己中心的に、相手が敵か味方かを判別するために、その意志をまず最初に確認したい言語の構造になっているということです。

 このことは、国家の生成発展に決定的な影響を及ぼすことになりました。
 そのことは日本の国家の歩みと、他の外国の国家の歩みとを、比較すれば一目瞭然となります。日本は、幸運なことに、ヘーゲルが生まれる前から、自然成長的にしっかりと学問的な人倫国家への道を歩んでいって、江戸期にそれを見事に完成させたのです。その土台は、すでに社会的認識として存在していた共存共栄の精神を、人倫国家の普遍性として明文化した17条憲法にあります。だから、江戸時代は犯罪が本当に少なかったのです。つまり、法による縛りが不要になるほど、本当の意味での憲法の精神・道徳が社会の隅々にまでいきわたった、本物の人倫国家だったといことです。
 これに対して、多くの外国の歩みはというと、弱肉強食の奴隷支配国家がほとんどでした。ほとんどだったということは、そうでない国も存在したことを意味します。いかにも!確かにそういう国家は存在しました。それは、アリストテレスの学問をもって世界を統一しようとした、アレキサンダー大王が創った国家です。これは、奴隷支配国家ではなく、共存共栄のヘレニズム文明を創った学問的な国家です。そして、これが日本以外の人類の歴史を形成した国家の歴史において、唯一の例外といえるものです。

 弱肉強食の奴隷支配国家には、本物の国としての理念の一体性は生まれにくいものです。ですから、そういう国で生まれた憲法は、本来の憲法からは程遠く、権力の力を制限するものが憲法だ、とする歪んだ憲法論を生み出すことになりました。その根底には、国家そのもの・社会そのものの中から導き出したものでは無い、自然権なる外部から持ってきた概念で作らざるをうなかったというおかしな国家論・国民主権論が、その根底にありました。
 ヘーゲルは、この学問的でない国家論・憲法論を、学問的に批判して、正しい国家論・憲法論を提示したのです。この時が、弱肉強食的な奴隷支配国家の道を歩んできた西洋諸国が、学問的に正しい人倫国家への道が拓かれようとした最大の機会でしたが、マルクスが、その機会をものの見事に潰してしまいました。これによって、マルクスは、人類を、不毛な敵対的な対立・地獄の世界へと、突き落としてしまったのです。

 これに対して、共存共栄の人倫国家への道を歩んできたわが日本は、好んで戦争をしませんでしたが、いざ戦いとなると、無類の強さを発揮しました。それは何故かと云いますと、一人一人が、国家と自分とが一体のものであることが当たり前の、即自対自の精神を持っておりましたので、わが身可愛さに逃げ出すものなどいなかったからです。だから、強力な武器を持つ欧米諸国も、日本を植民地化することができませんでした。そればかりか、必死に欧米諸国に対抗しうる実力をつけるべく、国家・国民が一丸となって努力し、ついにとうとう欧米の人種差別的植民地奴隷主義に対抗して、人倫的共存共栄の大東亜共栄圏の理念のもとに戦いを挑んで、敗れはしたものの、欧米の植民地支配体制を崩壊させる、という人類史を大きく書きかえる歴史的偉業を成し遂げたのです。

 したがって、いわゆる第二次世界大戦は、その歴史的意義という観点から見る場合、植民地奴隷主義国家同士の争いという面はあまり大した意義はなく、欧米の人種差別的植民地奴隷主義と、日本の共存共栄の人倫的国家との戦いであった大東亜戦争こそが、主要な歴史的意義を持つものだったと云えると思います。さらにいえば、歴史的には、当時狂い咲きしていた徒花に過ぎない、人類が本来歩むべき道から外れた共産主義グローバリズムが、それぞれの国家の内部に深く浸透して事態をより複雑にし、結果として漁夫の利を得る形になってしまったことが、人類の大いなる不幸であったといえます。
 こういう日本国の歩んできた正しい歴史を、日本人が、日本国民だることに誇りを抱き、まともな日本国民となるために、学校で教えなければなりません。そうすれば、個人としての自分の感情のままに、新幹線の中で突然隣の女性に斬りかかったり、警官を襲って銃を奪って人を撃ったり、いたいけないかわいい子を餓死させる非常な親になったり子供を造らない方が幸せだというような、勝手な日本人は少なくなるはずです。これは、今の日本の教育が、まともな日本国民を創る教育になっていないからです。

 ヘーゲルの云うように、全世界の絶対的本質の本流としての人類は、国家として存在するものであり、したがって、人類史は国家の興亡の歴史に他なりません。したがって、個々の人類である人間は、あくまでも本質的に社会的・国家的存在であって、単なる個人では決してありません。如何なる個人にも必ず国籍が存在するのは、そういう意味であって、便宜的・便利的なものと云う事ではありません。
だから、個人は、まともな国民になるために、人類の歴史・国家の歴史を受け継いで日本国民としての遺伝子を後天的に獲得するために、教育を受けなければならないのですし、国家は、自らの存続・発展のためにそれを行う責任があるのです。ところが、そういう当たり前のことすら、憚りがある現実は本当に異常です。

 この人間は本質的に社会的・国家的存在であるということを、国家を否定するマルクスは、「類的存在」などと曖昧にしてぼかし。国家の解体を企図する金融グローバリストの意を受けた誤用思想家が、自然権に基づく基本的人権、などという非学問的な屁理屈にすぎない概念を、人類と関係のない外部から持ち込んで、あたかも国家と関係のないところに、人権なるものが存在するかのようにしてしまったのです。ここから、その人権に守られて、勝手をするのが自由となって、国家がガタガタになっていくのです。これが、現在の日本の現実であり、それに対するいら立ちが、二階発言を引き出したのです。  
  

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[2871]
質問者 - 2018年07月05日 (木) 11時42分

人権という概念が非学問的な概念だと思っているのは愚按亭主だけなのでは?

長々と愚按亭主が一体なにを主張したいのか皆目わからないのですが?

人権は国家とは無関係だなんて誰が言っているんです?誰もそんなことを言っていないのに、さも誰かが言っているかの如く述べて、自分の「国家第一主義」なる主張を飾り立てているのが愚按亭主のコメントでは?

人権というのは国家から切り離された個人的なものでないことは、人権が何よりも憲法で謳われていることから明らかでは?ヘーゲルが精神現象学で「承認」と書いたように集団から切り離された個人が自分一人で「これは俺の人権だ」と思っていても当人以外の他者がそれを承認していなければ侵害されてしまいかねないわけですし。

ですから人権、特に基本的人権というのは憲法に明示されて他人の人権を侵害しないよう相互に理解するようになってますよね。そうした人権は個々人がそれぞれ独立に考えているものではなく、国の立法機関で定められて公布され、侵害されたなら賠償金だとか慰謝料だとか国家的に救済・補償されなければならないものではありませんか?

愚按亭主が述べてることがデタラメなのは、NHKの高校講座だとかを見ていても理解できるものですから、普通の人は恥ずかしくて愚按亭主のような発言は出来ないわけなんです。

そんな、愚按亭主のように、高校でて職業訓練校にいった人間が一人頭脳明晰で解明できたことを周りは皆、馬鹿ばかりみたいな現実があるとは誰も思わないからなんです。

ただ、愚按亭主のように一見したところ立派な?大人が歴史や法律についてデタラメな理解をしているということは、南郷さんの「義務教育の教科書の再学習」という掛け声にも意味はあるのだと再認識しましたけどね。

京都弁証法認識論研究会のブログでも、このところ「国家」を中心に現象をみていく構成をしていますから、おそらく愚按亭主も南郷さんが「国家が大事」だと近著で書いていたから「他の人間は国家を重視していないのだ、それを南郷派が定説を覆す形でヘーゲルを復権させるのだ」と妄想したのだと思われますね。

正直、小中学生にも笑われるような内容だと思いますよ。


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[2873] 学問とは
愚按亭主 - 2018年07月07日 (土) 21時01分

 誰かが言い出して、それを多くの人が賛成して使いだし、法や憲法にまでその言葉が使われるようになったとしても、それが学問的に正しいとは限りません。たとえば、日本国憲法の第九条は、学問的な国家論から見て、何のための国家なのか国家の本質をないがしろにする、全くナンセンスな条文です。そもそもこの憲法が創られた目的が、日本が国家として二度と自立できないようにするためのもの、という邪な企図の下に作られたものだったからに他なりません。

 つまり、憲法に書かれているからと言って、それが学問的に正しいとは言えないということです。そもそも学問とは何かと云いますと、対象の構造を論理的に体系化することです。ということは、その対象の論理を、対象以外の外部から持ち込んだのでは、それは学問にはならないということです。宗教は、絶対性をこの世界の外部に求めたものですので、学問とはいえないのです。いわゆる「王権神授説」も、王権の正当性を外部の神に求めたものですが、「人権」も、同様にその根拠づけに、神の代わりに「自然権」などという訳の分からない外来の概念を持ってきたのであって、学的な営みの結果として導き出されたものではありません。

 だから、人間は生まれながらに天から与えられた自然権があって自由で平等な人権を持っているという、考え方は、フランス革命など高揚した状態においては盛り上がったものの、それが覚めて現実に戻ると、説得力を失ってあまり使われなくなって、人権のみが独り歩きはじめて、主に実用的な法的用語として使われるようになっていきます。おそらく、天賦の自然権というのは、自分たちが自称している唯物論の立場と相反するからでしょう。しかし、観念論的に外部から持ってきたこの「人権」は、元々よそ者であるだけに矛盾がいっぱいで、問題山積であっても、国家権力を悪と見る者たちにとっては、とても都合の良い武器となりますので、その誤用研究者たちは、何とか現実との整合性をつけるような理屈や条件を研究させられたのであろうと思います。その努力が実って、この人権が世界中にはびこってしまって、国連の主導する国際関係においても、大きな影響力を及ぼしているのが、現状です。

 たとえ、このように世界全体に大きな影響力を及ぼすようになったからと言って、否、それだからこそ余計に、明らかに学問的でない概念を、基本的な概念として採用することは、人類の正統な歩みに反することであり、許されないことだと思います。具体的に云いますと、「人間は生まれながらに自由であり平等である」という規定は、全く現実に即したものでないことは、誰が見ても一目瞭然です。この一事だけから見ても、事実からかけ離れた非学問的なものであることは明白です。しかし、より学問的に云うならば、その体系性として、国家を基本的単位として見るか、個人を基本的単位として見るか、その場合の個人をどのように見ているかが、問題となさなければなりません。

 そういう観点から見た場合、この「人権」概念は、明らかに個人を単位として見ており、しかもその個人は、国家との関係は無視されて、自由・平等が論じられています。だから、逆に国家に対しては、遠慮なく強い力をもって無条件的に自由を主張できるようになっているのです。これが、国家を失って放浪の民となったユダヤの一部が各国内部に潜り込み、人の嫌がる仕事もいとわずにやって財力を蓄えて、上流階級にも潜り込んで金融資本勢力となって、その出自と金融資本としての性質上、邪魔になる国家を否定し、国家の力を弱めようという意図をもって、その代弁者に、その意図を実現する思想を作らせて、世界中にばらまかせた結果が、グローバリズムや「人権」思想の世界的蔓延なのです。

 その場合の、自由というのが、特に問題です。というのは、その自由は、主に国家を否定し、権力を否定する自由を、意味するものだからです。何故そうなるのかは、先に見た「人権」概念の成立の背景を見れば明らかなように、そもそも、その「人権」概念は、国家を敵対的存在として規定する観方を前提として、それに対抗するために非学問的・恣意的に作りだされたものだからです。その「人権」の主張する自由も、同様に、国家と関係ない、というより、国家に侵されるべきではないとする、国家に敵対的な、個人の自由にすぎないのが偽らざる実態です。

 したがって、そういう自由論からするならば、国家の教育への介入は、教育の自由への侵害ということになります。じつは、これこそが、この「人権」概念が、如何に非学問的で正しくないかを示す、有力な証拠となるものです。何故ならば、この自由論には、人類が、何故に動物にあるような本能的な生き方を捨てたのか?その結果、人類はどういう存在になったのかの学問的な成果が、いささかも踏まえられていない、ということがいえるからです。具体的に云いますと、人類が、動物的なその環境にピッタリ合うようにプログラミングされた本能をあえて捨てた理由は、遺伝子のように体験を論理化し、そこから発展的な形態を生み出せるように、結果的な本能を捨てて、新たな認識という、過程的で発展性を持つ、後天的なシステムを創り上げるためだったからに他なりません。

 その本能に代わる認識という後天的なシステムは、人類レベルでの、国家単位での、文化・文明の歩みを教育・学習しなければならない必然性をもつものです。その教育を一体誰が行うのか?それは当然、社会が行うべきものであり、国家が出現した後は、国家が責任もって行うべきものです。そうでなければ、人間は人間になれず、動物に育てられれば人間の姿に似た動物になってしまうからです。その意味で、「人間は生まれながらに自由であり平等である」が如何に嘘であり、非学問的であるかが分かろうというものです。つまり、人間は、生まれながら人間としてある存在ではなく、人間として育って初めて人間となる存在であって、生まれながらある人間を前提として、また、人間を個人としてのみ見て「人権」なる概念を作り上げること自体が、いかにナンセンスであったことかが分かろうというものです。

 ヘーゲルは、その過程を<生命ー認識ー学問>という三項の論理で規定しました。だから、教育の中心は学問なのです。ヘーゲルを知らなくとも、現実がそうなっているのは、そこにしっかりと、必然性が存在しているからに他なりません。そして、ヘーゲルの説く、学問的な自由とは、国家権力からの圧迫に抵抗し跳ね返すことなどではなく、「必然性の洞察」に基づいて自ら主体的に為すべき目的を正しく実現することこそが、本物の自由なのだとしているのです。

 また、その自由論の応用として、国民としての自由についても、ヘーゲルは、次のように述べています。
「国家は客観的精神であるがゆえに、個人自身は、ただ国家の一員であるときにのみ、客観性・真理・人倫をもつ。諸個人の統合そのものが国家の真なる内容および目的であって、個人の規定は、普遍的生活を営むことである。個人のその他の特殊的満足、活動、ふるまい方は、この実体的なもの、普遍妥当するものをその出発点とするとともに成果とする。――理性的であることは、これを抽象的に見れば、一般に普遍性と個別性との浸透し合う統一のうちにあり、これを具体的に見れば、内容の点では、客観的自由すなわち普遍的実体的意志と、個人的知識としてのまた特殊的目的を求める個人意志としての主観的自由との統一のうちにあり、――したがって、形式の点では、思惟された、すなわち、普遍的な法的に永遠にして必然的な存在である。」(「法の哲学」より)

 これはどういうことかと云いますと、国家を、人類の本流としての任をになう主体と見て、その国家の理念を出発点として、国民は自らの人生の目的を、それとの統一において自ら主体的に設定して、その国家の理念の精神を自らの精神として頑張って、その成果を国家の理念の現実態として国家に献上するとともに、個人的にもその目的の達成の満足感と、国家の発展に寄与できたことへの充足感に浸る、というのがあらまほしき国民の自由のあり方です。その 格好の事例が、サッカーワールドカップ・ロシア大会での、日本代表の戦いぶりです。

、このように説くと、必ず、やれ全体主義だ!やれファシズムだ!との批判が、跳ね返ってくると思います。その批判が如何に見当違いであるかは、上に挙げたヘーゲルの自由論が、全く分かっていないことからも云えることです。つまり、全体主義と民主主義を、あれかこれかの相容れない敵対的な対立としてしか見ていないために、その弁証法的統一を説いているヘーゲルの自由論が、分からないのです。すなわち、国家の自由が、国民の自由であり、国民の自由が国家の自由でもあるということが、ありうるということが分かっていないのです。

 その意味の重要さが、今回の集中豪雨の激甚被害発生においても云えることです。青山繁晴議員は、地震と違って毎年繰り返しやってくるこうした災害に対して、学問力をもってどうして対処できないのか?と怒っていましたが(氏の強い言葉はそう聞こえます)国家も国民もそれを見事に防ぐことこそが、本当の意味での国家の自由であり国民の自由でもあります。

 そういう即自・対自の自由の統一性を理解できないのは、無理もない側面もあります。弱肉強食・奴隷主義の延長線上から脱皮できない国家にとって、それは、経験したことのないことだからです。そして、そういう欧米流の考え方に染まってしまった日本人も大勢いるという残念な現実も存在します。ところが、じつは、その即自対自の自由を見事に実現したことのある国は、世界の中で、唯一日本だけだなのです。日本の物創り・組織力が世界一な理由は、じつはここにあるのです。その意味で、ヘーゲルは、西洋においては、理解されなかったとも言えますが、同時に、日本は、ヘーゲルを正しく理解できる素質を持った世界で唯一の国ともいえます。だからこそ、日本は、ヘーゲルの学問の復権をはたし、ヘーゲルの学問力をもって、世界を導き、人類を救済する使命・責務があるのです。そのために、先ず何よりも、日本の国家の自立を阻む日本国憲法を破棄して、真っ当な国家理念としての日本国憲法を、早急に制定しなければなりません。

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[2874] 武装市民と人権
tada - 2018年07月15日 (日) 19時26分

確かに社会契約論からみた人権概念は 非科学的方法から導きだされた概念ですが 滝村国家論から導きだされた 人権論は正当な学問的概念です。人権とは権力をもつものにおいて その権力が保証する自由と平等の概念です。近代以前 古代ギリシャ・ローマ市民 中世ヨーロッパ 各封建勢力 そして 日本においての武士をイメージしてください。支配者や支配階級において 自ら武装することにより 自らの権利を守り 主体的活動を行えた。彼らには人権があったのです。反対の立場にある被支配者たちには人権はなく 奴隷として有無を言わさずに支配されたのです。
しかし近代黎明期において 英国清教徒革命 米国独立戦争 フランス革命を念頭に 被支配者たちが経済的・文化的上昇することにより 自らを武装化し 支配者に対抗する政治力・軍事力すなわち権力を持ったのです。そこから支配勢力に対する武装闘争で勝ち取った権利=「人権」を思想的に普遍化して法的規範化したのです。この法的規範化が近代国家としての<市民―国家>主義を確立します。つまり 国家が 代理代行として国民・市民の権利を保護し保証するが いざ鎌倉の時には 国民市民は国家のために命をかけて忠誠をつくすということです。逆に国家の暴走・行き過ぎへの対抗は「人権思想」の具体的制度化です。つまり議会制民主政と三権分立です。

残念なことに太平の世が進むなかで 戦い勝ち取った輝かしい人権思想は 自然に授与された空気のように 国家に対する義務なしの自由平等観念の一方的肥大化を促進したのです。特に日本国憲法第9条の 国家本質論否定は日本国民を<市民―国家>主義者ではなく 政治的音痴と単なる個人主義者、会社・組織主義者に思想的に堕落させているとみていいでしょう。戦後の日本国憲法と日米安保の相互補完性にみられる外交的戦略と 自衛隊・米軍の軍事戦略について 私は非常に高く評価していますが 一部政治家・官僚のポリシーを高めているだけで 日本国民全体のポリシーの向上にはつながっていないのです。

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[2875]
質問者 - 2018年07月16日 (月) 12時53分

この掲示板では、この「tada」さんという人は大変な実力者であるかに評価されていたようですが…。

どうも私には、そうは思えないようですね。近代市民社会だとか近代国家だとか綴ってはいても、tada氏の頭にあるのは「いざ鎌倉」でも解るように中世の御恩と奉公の武家社会なんだと思いますよ。

おそらく、それは氏が南郷・玄和内部の人間だからなのでしょうし、滝村を持ち上げるのも南郷さんゆかりの人物だからだというあたりじゃないかと想像します。

ちなみに、社会契約説から見た人権概念とは異なる滝村の科学的方法から導かれた人権概念というのが、その後に綴られたtada氏の記載なんですかね?

国家に対する義務って納税だとか教育だとか勤労だとか法で定められているわけで、現代の一般ピーポーが中世の官吏であった武士のように戦地に赴く義務なんかないんじゃないでしょうか?

「税金払ってるか?」という義務を「武装して戦場に行ってるか?」という義務にすり替えようとするあたりが、南郷さんが玄和内部で指導している衒学的論理なのだろうと推察されますね。

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[2876] そもそも人権とは一体何なのか?
愚按亭主 - 2018年07月17日 (火) 04時11分

>人権とは権力をもつものにおいて その権力が保証する自由と平等の概念です。近代以前 古代ギリシャ・ローマ市民 中世ヨーロッパ 各封建勢力 そして 日本においての武士をイメージしてください。支配者や支配階級において 自ら武装することにより 自らの権利を守り 主体的活動を行えた。彼らには人権があったのです。反対の立場にある被支配者たちには人権はなく 奴隷として有無を言わさずに支配されたのです。

 そうでしょうか?私には、ギリシャ市民の市民権や、封建領主権や、日本の武士が創り上げた国家を守るために命を投げ出す生き方=武士道や、フランス革命などによって勝ち取った国民としての権利等々が、どうして人権という空虚な概念で括られるのか理解できません。滝村先生には、その必然性が見えていたのでしょうか?それらを、非学問的な人権という空虚な概念で無理やり解釈するのは、到底学問として認められません。その自由や平等にしても、それをそのまま適用しようとすると、国家を壊す自由になり、競争をなくす悪平等になる現実性のない空虚なスローガンに過ぎません。逆立ちしてもそこに学問性など感じられません。

 さらに言えば、チャイナの共産党が、チベットやウィグルおよびモンゴル等々の民族抹殺を単なる人権侵害で括るのは、おかしいというのと同じことです。自国の国民の自由を奪い独裁的に云う事を活かせようとすることを人権侵害とすることと、他国の他民族の国民を抹殺しようとすることとは、全く質が異なり同じ人権侵害で括るべきではないと思います。ところが実際は、」みな人権侵害で片付けられてしまっている現実があります。チベットやウィグルで行われている実態の本質は、侵略した他国・他民族の抹殺・消去であって、スペイン・ポルトガルが中南米大陸で行ったものと同じものだ、という認識が不可欠です。人権侵害などと言う生易しいものでは無いのです。

 その人権思想やマルクス主義から生まれたジェンダーフリーも、その実態は、人権を守ると称して、社会・国家を抹殺するというのが、まぎれもないその本質なのです。というのも、人権思想もマルクス主義も、国家に恨みを抱くユダヤによって創られたものだからです。だからマルクスは、恩師ヘーゲルの、国家を絶対精神の本流と見て国家を第一とする観方を否定して、階級闘争史観を作り上げて、国境を否定して万国の労働者団結せよ!と呼びかけたのです。これは言ってみれば、車本体を否定して、いろいろな車の部品だけ寄せ集めればより良い車ができると錯覚してしまったのと同じことです、

 滝村先生は、こうしたマルクスの欠陥を見抜くことができず、階級闘争史観をそのまま受け継いでしまったために、日本国と外国との根本的な違いを見て取ることができないままに終わってしまったのです。国家の発展段階には、三つの段階が存在します。それは、「人治国家」ー「法治国家」ー「人倫国家」という三段階です。「人治国家」は、対自すなわち法の上に即自つまり王がいる国家です。こういう国家は、即自が対自へと昇華することはなく、国王の即自が無法な国民の即自をその暴力装置の力によって従わせている状態です。
 次の「法治国家」は、刑罰を持った法すなわち対自(客観性)が力をもって、国王も含めて即自(主観性)を従わせている段階です。最後の「人倫国家」は、対自性(学問性・道徳性)と即自とが融合一体化して、法による縛りがほとんど必要ないレベルにまで到達した段階を指します。そういう人倫国家を世界で唯一実現したのが、江戸時代の日本でした。したがって、それ以前の日本もその人倫国家への道を歩運できたのであって、ここが欧米諸国の歩みと根本的に違う点なのですが、国家論の大家であるにもかかわらず、ヘーゲルを一生懸命研究したにもかかわらず、滝村先生は、そのことが全く分からなかったようです。

 だから、人権の非学問性に問題を感ずることなく、安易に使用して、自らの学問の学問的価値を落としてしまったのです。したがって、「 国家が 代理代行として国民・市民の権利を保護し保証するが いざ鎌倉の時には 国民市民は国家のために命をかけて忠誠をつくすということです。逆に国家の暴走・行き過ぎへの対抗は「人権思想」の具体的制度化です。つまり議会制民主政と三権分立です。」という滝村先生の国家論も、たんなる「社会契約論」の延長線上のものに過ぎず、ヘーゲルの批判していた国家論でしかありません。国家の暴走・行き過ぎに対しては、正当な国家論をもって為すべきが常道であり、人権思想を防波堤にする発想では、何の根本的な解決にはなり得ません。なぜなら、人権思想からは、国家はどうあるべきかは出てこないからです。出てくるのはせいぜいのところ、ポピュリズムや大衆迎合主義にしかならないということです。ではなぜ、これらが批判的に使われるのでしょうか?それに対する答えも、人権思想からは決して出てきません。だから、何となくおかしいで終わってしまっていて、何故おかしいのかを明確に規定できないであるのが現実です。それはまともな国家論がないからです。

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[2877]
質問者 - 2018年07月19日 (木) 10時07分

ここ暫くは「人権」などというキーワードを考えようとも思わなかったのですが、愚按亭主が提起したことで改めて「人権」を考えてみようと資料を集め始めました。

愚按亭主の場合は「国家」と「人権」を対立させた「国家か?人権か?」の「二者択一の思考」から人権を否定して国家を採るというイワユル「形而上学的な思考」「絶対的な思考」をしているようですが、いずれにしても「人権」は考察するに価する国家の政策上も必須の項目だろうと判断しました。

この「人権」について如何なる思考過程から如何なる解答を導くかは、当人の認識方法にも関わっていると思うのですが、愚按亭主の場合は「人権一般」として「人権とは何か?」という一義的な概念を規定することで回答を出そうとする思考のようなんですね。

これって愚按亭主の古巣である南郷さんが『武道の理論』だとか『武道とは何か』ひいては『空手道綱要』なんかで披露した思考の仕方と一緒なんです。

それに対して、tada氏が揚げた「科学的」というのは、こうした一般概念で括るということは致しませんね。

それが何故かということにも理由はありますが、人権を一般的に否定しようとする愚按亭主の思考では現実に果たされてきた社会の発展を説明することが出来ませんし、寧ろ意図的に人権侵害をしようと企んでいるように思われますよ。

何よりも、愚按亭主の場合は古巣の南郷さんの本に説かれている少なからずの事柄が「人権」というキーワードで再考し得るということを認識してみては如何でしょうか?

「弱者のための」と謳って「初めから体力や運動神経に秀でて強靭な精神力を備えている一握りの運動強者ばかりが特権的に学ぶことが許される」という思考を廃して、練習方法から再構築しようとの発想の根底には「人権思想」があるように思われるわけですよ。

tada氏は権力と権利とを無分別に説いているようですが、英語でもpowerとright は異なる概念ですし、そうした混同した発想からは「勝った者が正義なのだ」との思想に辿り着くばかりで「力のない正義は無力なり、正義なき力は暴力なり」との発想も出てきはしないでしょう。

その解答の導き方が「絶対性を廃して条件付きで例外を認める相対性」に行く行かないにしろ、人権を重視した学派の全的否定という思考は、青雲さんの交感神経を活性化し癌での死期を早めたのと同一人物のものに違いありませんよ。

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[2878] 人権概念には人間性のかけらもない
愚按亭主 - 2018年07月19日 (木) 16時30分

>愚按亭主の場合は「国家」と「人権」を対立させた「国家か?人権か?」の「二者択一の思考」から人権を否定して国家を採るというイワユル「形而上学的な思考」「絶対的な思考」をしている

「『人権』概念の成立の背景を見れば明らかなように、そもそも、その『人権』概念は、国家を敵対的存在として規定する観方を前提として、それに対抗するために非学問的・恣意的に作りだされたものだからです。その『人権の主張する自由も、同様に、国家と関係ない、というより、国家に侵されるべきではないとする、国家に敵対的な、個人の自由にすぎないのが偽らざる実態です。」

 この私の分析は、現在一般に流布している形而上学的な人権思想のルーツに対する分析であって、あるべき国家と国民の関係に関する私の意見ではありません。私の意見は、以下のヘーゲルの主張に賛同するものです。

「その国家の理念を出発点として、国民は自らの人生の目的を、それとの統一において自ら主体的に設定して、その国家の理念の精神を自らの精神として頑張って、その成果を国家の理念の現実態として国家に献上するとともに、個人的にもその目的の達成の満足感と、国家の発展に寄与できたことへの充足感に浸る、というのがあらまほしき国民の自由のあり方です。」これが、国家と国民についての正しい見方だと思います。

>愚按亭主の場合は「人権一般」として「人権とは何か?」という一義的な概念を規定することで回答を出そうとする思考のようなんですね。
 それに対して、tada氏が揚げた「科学的」というのは、こうした一般概念で括るということは致しませんね。それが何故かということにも理由はありますが、人権を一般的に否定しようとする愚按亭主の思考では現実に果たされてきた社会の発展を説明することが出来ませんし、寧ろ意図的に人権侵害をしようと企んでいるように思われますよ。

 そうでしょうか?本当かどうかもう一度tada氏の文章を見てみましょう。
「人権とは権力をもつものにおいて その権力が保証する自由と平等の概念です。近代以前 古代ギリシャ・ローマ市民 中世ヨーロッパ 各封建勢力 そして 日本においての武士をイメージしてください。支配者や支配階級において 自ら武装することにより 自らの権利を守り 主体的活動を行えた。彼らには人権があったのです。反対の立場にある被支配者たちには人権はなく 奴隷として有無を言わさずに支配されたのです。」

 支配者・支配階級が、財力・武力をもって自分のやりたいことを行えた、これを人権と呼ぶと云っていますが、おかしいと思いませんか?これは、支配者としての権力の行使であって、それを何ゆえに人権と言い換えなければならないのか?つまり、支配者がその権力にものを云わせて、農民や奴隷を殺すのは自然権に基づく人権の行使なのでしょうか?だとしたら、そういう支配者の横暴に対して人権侵害だと非難するのは、支配者の人権を否定しているのではありませんか?これが、科学的な論理付けと言えますか?

 人権という非学問的な概念と整合性をつけようと、外から強引に当てはめて解釈しようとするから、こういうおかしなことになるのです。この手法は、科学的・唯物論的な手法とは程遠い、非学問的な低レベルの観念論的な先入見の強引な当てはめに過ぎないと思います。人類の歴史を科学的に論理化していった結果として、導き出されるものは、絶対に人権などと言う概念にはならないと思います。なぜなら、人権概念には、人間性の中身がないからです。人間は人間として教育され人間として育って初めて人間にある存在であることを否定する人権論には、人間性のかけらもないのです。

Pass

[2879]
質問者 - 2018年07月20日 (金) 15時15分

最後の段落を読んでナチスの優生学的な政策を連想しましたよ。その愚按亭主の思想は師匠でる南郷さんから受け継いだものでしょうけれど、「誰しもが生まれながらにして持っている」とされる「人権」と何らかの努力の果てに手にすることが出来る謂わば「特権」としての権利・権限との区別が出来ないわけなんですね。

確かに内閣総理大臣として行政や立法に関して命令する権限は愚按亭主の言う「人間性の発露」とやらの努力の末に手にできるものでしょうけれど、他者に邪魔立てされずに生きる権利というものは生まれたばかりの目も見えない、ものも考えられない赤子だってもってるわけです。

だから「もう おねがい ゆるして ゆるしてください」とノートに綴って亡くなった五歳の船戸結愛ちゃんは生きる権利を侵害された人権侵害なんですよ。その子が何の努力を怠ったから、人間性を発揮できなかったから殺されるべき必然性があったというんですか?

ナチスがユダヤ人を迫害したのも同じでしょう。他者から何らの迫害を加えられることなく生きていく権利=人権を彼らは持っていたのですから。

そうした何人もが何らの努力なしに持っている権利と、何らかの努力の果てに手にできる権利との両方あるのだと謂わば「あれも、これも」で対立物の統一として理解するのが弁証法的なのであり、「努力によって手にできる権利」という一つの観点で全てを解消してしまう南郷=愚按は弁証法の初心者そのものでしょうに。

愚按亭主の言っている「人権は非学問的」とは如何なることを述べてるのですか?ルソーやモンテスキュー、ロックといった近代の思想家・学者が思索し、連面と法学者や社会学者らが論じてきたことの何が一体全体に「非学門的」なんですか?

古巣の南郷さんらが「学問、学問」といってるから「南郷学派と違うよ」という意味で田舎くさい連帯感を感じて満足してるレベルなんでしょうが、そもそもが「学問」といったら孔子や孟子なんかの書物を指す言葉だったわけですから、現実からの反映性だとか内容の系統性だとかは問わない概念だったと思うんですよね。


Pass

[2881] 宮崎正弘氏のメルマガへの投稿文
愚按亭主 - 2018年07月23日 (月) 16時25分

 私が、そもそも人権という概念は学問的でないから廃棄すべきだ!と主張すると、必ず、すでに一般に定着してしまったものだから、そんな硬いこと言わなくても良いではないか!と仲裁に入ろうとする、奇特な御仁が出てきそうです。しかしながら、それを許すことは、現在日本に向けて仕掛けられている、嘘で塗り固められた歴史認識の強要に対して、最も有効な反撃手段を放棄するに等しいのです。日本が目指すべきは、学問立国です。なぜなら、それが、人類の本来歩むべき道だからです。

 ヘーゲルは、物質の歩み、生命の歩み、人類の歩みを、絶対的本質である絶対精神の自己運動として、壮大なスケールで描いた後、それを総括して、<生命ー認識ー学問>の三項の論理としてまとめました。

 これは一体どういうことかと云いますと、<生命>とは、その環境にピッタリ合った生き方の完成された本能システムを意味します。では、その次の<認識>とは、その完成された本能システムを一旦否定し、消去して、自力でシステムを構築することができるようになったことを意味します。そして、その苦労の結果として、<認識>がこの世界を丸ごと体系化した<学問>を創り上げ、その<学問>を、人類の新たなバージョンアップされた完成された本能システムとする(第二の否定ー回帰)ということです。

 この<生命ー認識ー学問>の否定の否定の歩みについて、もう少し解説しますと、<生命>の本能システムは、あくまでもある特定の環境とぴったり合った合理性であり、したがって、相対的真理の合理性だということが云えると思います。この合理性の限界は、一定の範囲内にのみ適合する部分的合理性だという点にあります。この部分的合理性の限界を根本的に克服するためには、全体的な絶対的真理の合理性との統一が必須となります。それがすなわち<学問>なのです。<生命>はその目的を達成するために、あえてそれまでの完成された部分的合理性の本能システムを捨てて、あらたな認識による、苦難に満ちた媒介運動の道を選択したのです。

 しかし、その認識の媒介運動も、それまでのような即自的な認識の運動だけでは、目的の実現は不可能でしたが、人類が誕生する過程で、もう一つの、即自の立場に縛られないで自由に運動することができる、対自的な認識が誕生しました。これによって、天上界から世界を丸ごと論理的に俯瞰することが可能となり、動物的な本能システムの相対的真理の限界を根本的に克服できる道が切り拓かれることになり、人類に体系的な学問への道が生まれることになりました。

 実際、人類の学問の曙は、世界を丸ごと捉えようとするギリシャ哲学であり、哲学から始まったのです。そして、その対自的認識による、世界を丸ごと俯瞰的に掴みとった論理、すなわち、パルメニデスの「世界は一にして不動」を端緒・原点とする哲学的な思惟が、人類の論理的な認識を創り上げ、鍛えていったのです。たとえば、有為転変する現象世界の上に本質的な不動の真理が存在する、というアリストレスの形而上学的思惟が、物理学的論理であるニュートンの万有引力の法則の発見の背景に存在している、というようにです。また、学問は体系化である、とするヘーゲルの思惟が創り上げた弁証法の論理が、個別科学の分野における看護学の体系化や武道学の体系化に応用されたという事実も存在します。

 このような哲学的認識や論理的認識の基本技だる哲学的思惟は、通常の日常生活や個別科学の中からは絶対に生み出されることのない、特殊・特別な認識なのです。すなわち、部分的な個別科学をたくさん集めても絶対に全体学としての哲学にはならないということです。その一方で、反対に部分的な個別科学は、全体の体系の中に正しく位置付けられて、はじめてその学問的価値が発揮されるものです。幸いなことに、人類の偉大な先達の営みによって、その貴重な哲学が創り出され、それを学ぼうと思えば学べる環境にあります。

 ところが、マルクスによって「哲学はヘーゲルとともに終焉する」と宣告されて以来、哲学を過去のものという認識が世界中にひろまってしまったために、哲学を学問の体系化に最重要で必須なものという目的意識で研究する者がいなくなり、人類の学問の体系化への道が閉ざされてしまうことになってしまいました。このことは何を意味するかと云いますと、人類が動物的な本能システムを捨てた真の目的である、体系的な学問を人類の新たな本能システムにする道、すなわち人類が真の人間になる道が、同時に閉ざされてしまったことになります。

 人類の国家は、大きく分けて人治国家・法治国家・人倫国家の三種に分けることができます。人治国家とは、国王・独裁者などの即自(主観)が対自(客観)よりも強い力を持っている無法国家です。現在の世界は、この未熟な無法国家が、分に似つかわしくない財力を持ってしまったために、世界の覇権を取ろうとする意思をむき出しにして、無法な人治国家が、法治国家の上に立とうとしているという異様な事態になっています。

 二番目の法治国家とは、対自(法などの客観精神)が即自(主観)を従わせている国家です。現在の多くの識者が、この法治国家を、あたかも大人の国家・国家の完成形態であるかのように見ているようですが、本来あるべき国家からするならば、まだまだレベルの低い発展途上の国家に過ぎません。というのは、即自と対自との統一ができていないために、勝手な即自が多いから、刑罰をもった法という強権的な対自で縛る必要が出てくるからです。とりわけ、本質的に国家を敵対視している人権思想がはびこってしまっている、現在の日本の国家の現状においては、法は権力を縛って人権を守るためにある、教育も人権を守るために道徳教育など国家の介入を許すべきではない、などという本末転倒のおかしな主張が堂々とまかり通っている状態です。その結果として、個人の命は地球よりも重い、生きていることそのものに価値があるなどと言う、感情論が横行し、国家社会に甚大なる被害をもたらした死刑囚にも人権があるとして死刑に反対したり、自分の子供を意図的に餓死させる親や、保険金目当てに自分の妻を殺す勝手な人間が増殖する異常な事態となっているのです。つまり、法治国家の名のもとに、国家の自殺行為が、堂々と正当化されている、という皮肉な現実があります。

 三番目の人倫国家は、人間の国家は、動物の社会の発展形態ですが、動物の社会には外から縛る法は存在せず、内在する本能による道徳的なルールによって社会が保たれております。その本能的なシステムをあえて壊して、人間になった人類は、本能に代わる道徳を教育しなければならなくなったのですが、その人間としての歩む道を説く道徳教育の否定や、まずさによって自分勝手に育ってしまった即自があまりにも多い場合には、強権的に社会に従わせる法がどうしても必要となります。これに対して、早くから国家理念としての17条憲法のもとに国創りをしてきた日本は、江戸期に到って、法がほとんど必要がないほどの人倫国家を実現していたのです。

 その当時の真実の日本の姿を見事に捉えていた外国人がいたことを、河添恵子さんが紹介しています。それは、日露戦争当時母国の再建を志して日本に支援を求めて来日したという、ポーランドのドモフスク氏の著書「光は東方から」の中の一節に「日本は偉大でなければならず、未来永劫生き永らえねばならない。それをその全ての息子が望み、そのためなら全てを投げうつ覚悟がある。この熱意、全てを捧げるという心構え、それこそがまさしく日本の財産であり、強さの源なのであり、勝利の秘訣なのだ!二十世紀もの長きにわたり、国家として存続してきたというその連続性の力は、この民族を統合し団結させた。その結果、日本人においては集団的本能が個人的本能をしのぐことになった。日本人は個人である以上に社会の成員なのであり、自らの行動においては個人的利益より全体の利益を優先する。」

 これは、まさにヘーゲルが説く、人倫的国家における国民のあり方そのものです。だから、このドモフスク氏が熱く説くように「日本は偉大でなければならず、未来永劫生き永らえねばならない。」のです。それは何故かと云いますと、日本が、人類の中で学問的な人倫国家を実現した唯一の国だからであり、マルクスによって、人類が本来歩むべき学問への道が閉塞させられてしまって、混乱の極みの渦中にある世界において、唯一、人類を救えるのは日本しかないからです。         (稲村生)

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[2882]
質問者 - 2018年07月24日 (火) 10時15分

どうも愚按亭主の述べていることは不明瞭でハッキリとしたイメージを持ちづらいのですが、どうやら「人権という概念を廃棄すべし」との主張の根拠は学術的な真理性にあるのではなく、対外的な政治的な理由のようですね。

愚按亭主がハッキリと述べてくれない以上は私自身が想像しながら調べていくしかないのでしょうが、想像するに太平洋戦争においてアジアの国々に日本が行ったと一部外国人たちが主張している人権侵害を調べることが道でしょうか?そこにおいて「人権」という概念を無くしてしまうことが日本に対する非難や賠償責任をも無くしていく方法だとのお考えかな?

あるいは、ヨーロッパの諸国にくらべて日本は国際的な人権活動に協力的ではないとの非難も一部であるようですが、そうした中国や北朝鮮、インドなどの差別問題に口を出さないことも人権概念を無くしてしまうことで正当化できるということかな?

今回の愚按亭主のコメントも随分と長いので、一気に全てを考えることは不可能ですが、ニュートンとアリストテレスとの関係は違うのではないかと思いました。

ニュートン力学に繋がってくるのはアリストテレスでも『形而上学』だとか「第一哲学」だとかの原因に関する論考=四原因説ではなく、『自然学』の「運動と力」の論考だと思いますね。

つまり、アリストテレスは物理学的、生物学的、天文学的、…etc.様々なことを研究したのでしょうが、その中でも政治や経済、倫理といった人間社会を対象とした分野を除いた自然の諸学を包括する第一哲学の論考のなかで「質料因」「形相因」「作用因」「目的因」の4つを考察すべきだと説いてるようですが、ニュートンに繋がっていくのは一般的には「作用因」でしょうし、というか他の「質料因」や「形相因」「目的因」を否定する形で義務教育の理科実験も進められて行くのでは?

だから、アリストテレスは自分の時代までに培われた自然学の「原因」に関する思索を「四原因説」とまとめたわけですが、実は時代の知見を包括しきれていなかったと思いますね。例えば、アリスタルコスだとかの地動説だとか天動説だとかの地球と天体の位置関係がどうなのかということが原因・理由となって人間の目にはこのように現象する、といったことなんかは原因の考察に入ってませんから。

それで、愚按亭主の説く「アリストテレスは原因の無い現象など無い」なんてことを論考したのか私は知りませんね。そんな「すべての現象に原因はある」なんて抽象的な規定から演繹して具体化・肉付けしてく思考はアリストテレスでなくて愚按亭主の思考でしょ?

アリストテレスは「経験主義者」とも呼ばれるくらいで、もっと具体的で事実を見てますよ。確かに思弁的なところも多々ありますけれど。

だから、ニュートンに繋がっていく「物理学の先駆者」としての自然学者アリストテレスは「現象と原因」なんて抽象的なところから始まらずに「物は人間や馬が押したり引いたりしないと動かない。つまり、物が移動するには力が必要だ」という認識から始まっているんです。

それが後にガリレオだとかニュートンにまで繋がってくる「リンゴを落下させる力は何だろう?月を移動させる力は何だろう?」という考察になるんでしょう?

観察や実験によって発展してきた物理学の認識を、愚按亭主の「原理を考えるときには事実を考えるな」という南郷流の阿呆な思考と一緒にしないほうが良いでしょう。

物理学者が腹を立てますよ(笑)




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[2883] ヘーゲルとロック・ルソー等々の人権論者との違いは何か
愚按亭主 - 2018年07月26日 (木) 09時11分

 それを一言で云うと、ヘーゲルは哲学者であり学問の完成者であるのに対して、ロックやルソーは政治色の強い思想家に過ぎません、つまり、学問を創り上げた学者などではないということです。どういうことかと云いますと、人権は、社会・国家の生成発展の、学問的な研究の結果として導き出されたものではなく、虐げられている平民が立ち上がる精神的武器として、自称唯物論者が、観念論的に考案した屁理屈に過ぎないということです。だから、まず自然権によって保証された人権をもった、人間なるものがあらかじめ存在して、その空想的人間の契約によって、社会が成り立っているとする、現実離れした空想に過ぎない「社会契約説」なる屁理屈が、さも学説であるかのようにまかり通っている現実は、異常です。しかも、本物の学者であるヘーゲルによって、その珍説は、直ちに否定され、論破されているにもかかわらずに、です。このように本物の学者によって学問的に否定されたものが、なぜ現在もまかり通っていられるのか?本当に不思議です。

 学問でもなんでもない単なる政治的思想である人権思想と、学問を標榜しながら重大な欠陥をもつマルクス主義とは、国家そのものを敵対視する点では共通しており、即自的な自分を絶対視して、即自と対自とをより高度に統一したより高品質な人間らしい人間を、決して目指そうとしない、という点でも共通しています。だから、左翼的・反日的マスコミは、即自的な非国家的LGBTを礼賛して、国家が衰退していくのを歓迎しているのです。さらに言えば、積極的にLGBTをテレビに登場させて、彼らを英雄のように扱い、より多くの日本人が、彼らに憧れてLGBTになりたがるように、国民を一生懸命教育して、国家が衰退してくように意図的に画策しているのです。そして、杉田議員をバッシングしている野党も、それを応援し、瀬局的に加担しているのです。

>どうも愚按亭主の述べていることは不明瞭でハッキリとしたイメージを持ちづらいのですが、どうやら「人権という概念を廃棄すべし」との主張の根拠は学術的な真理性にあるのではなく、対外的な政治的な理由のようですね。

 私の主張は、一点の曇りもなく明瞭そのものです。それが曇って見えるのは、自分のかけている偏向眼鏡のせいに他なりません。一度外してみたら、鮮やかに見えてくることは間違いないことです。その偏向メガネとは、自分の偏向した問いかけのことですから、責任は自分自身にあります。だから、これが私の真意だろうとする想像も、そっくりそのまま自分の認識が、もろにそのまま投影したものになってしまうのです。つまり、日本に住んでいながら日本人になり切れない偏向ぶりが、そこにそのまま投影しているということです。

>他者に邪魔立てされずに生きる権利というものは生まれたばかりの目も見えない、ものも考えられない赤子だってもってるわけです。だから「もう おねがい ゆるして ゆるしてください」とノートに綴って亡くなった五歳の船戸結愛ちゃんは生きる権利を侵害された人権侵害なんですよ。その子が何の努力を怠ったから、人間性を発揮できなかったから殺されるべき必然性があったというんですか?

 この事例は、「人権」思想の害毒がもたらしたものに他なりません。というのは、人権思想が、人間は社会的・国家的存在である、という人間の本質を、ないがしろにするものであるからです。具体的に云いますと、この人権思想の下に、国による日本の国家への誇りと忠誠心を養う道徳教育が否定され、即自だけの対自のない自己中心的な人間が、数多く創り出された結果なのであって、人権教育の不足が招いたものでは無く、むしろいきすぎた人権教育が招いたもの、と云えるからです。生まれたばかりの子が、他者に邪魔立てされずに生きる権利を主張したらどうなるか?それは確実に死を招くことになります。赤子は保護されなければ生きていけない存在だからです。

 今問題になっている、杉田水脈議員のLGBTへの正当な発言へのバッシングも、対自のない即自オンリーを礼賛する誤った人権を、正しいと錯覚した者たちによる、不当な批判にすぎません。なぜ不当なのかを、彼らが根拠にしている多様性について、取り上げて検討してみましょう。彼らは、国家が多様性を認めて差別しないことが、あたかも進んだ国家のあり方であるかのように主張しています。彼らが分かっていないこと、勘違いしていることは、彼らにとって多様性は多様性でしかないという、現実離れした硬直した思考しかしていない点です。では正しいとらえ方は、どういうものかと云いますと、多様性は、国家としての普遍性との統一においてとらえて初めて、その多様性の意義が明らかになり、意味をもつものになる、ということが分かっていないということです。

 もともと社会は、多様性を持つ存在です。それを、一元的・体系的にまとめ上げ統括するのが、国家の使命です。ですから、多様性の中に国家としての普遍性が貫かれなければなりません。その国家としての普遍性の第一は、国家理念をもって歴史性・発展性をもって存続し続けることです。そのことを、杉田議員は「生産性」といったのです。これのどこがおかしいのですか?国家としての普遍性ですから、最も大事なことです。それは多様性の中にも貫かれなければなりません。判やむを得ずそれがかなわなくなる事情ができたとしても、その自覚は忘れてはならないということです。、

 さて問題は、問題になっている多様性というオブラートにくるまれたLGBTは、国家としての普遍性に貫かれた多様性と云えるのか、という疑問が生じることです。なぜなら、それは国家の普遍性が正しく教育されなかった結果として、対自抜きの即自の感情のままに、結果的に国家の普遍性を自らの意志で否定する生き方を選択した、という意味での多様性だからです。自分で否定しておきながら、一般の夫婦と同等に扱え、というのは少々厚かましすぎるのではないか!行政も、そこはきっぱりと線を引くべきです。そのことを杉田議員は指摘しただけです。何のバッシングも、される筋合いは一切ないものです。できてしまったものを差別する必要はないが、手厚くする必要も、助長する必要は更にない、ということです。つまり、放っておけばよい問題でしかないのです。実際、一般のLGBTは、皆そう思っているようです。国家を弱体化したい連中が、ことさらに政治利用したくて騒いでいるだけなのです。本当に余計なお世話でしかありません。

 ここが、子供が欲しくてもできなかった夫婦と、LGBTとの決定的な違いです。すなわち、人間として、国民としての正道を歩んでいるかどうか、の違いです。この問題の根本的解決は、教育に求めなければなりません。それは、人間の認識は、ゼロの状態で生まれて、後天的に創り創られて育つものだからです。国家が責任をもって、日本国民として、皆一人ではなく、偉大な先達の労苦のたまものとして、世界一等の環境で生きてい来る幸せを感じるとともに、それをより良くして次の世代に引き継いでいく責任と生きがいとを教育しなければなりません。そう言う対自の認識をしっかりと教育して、即自の感情のままに自分勝手に生きることの、人間としての価値のなさをしっかりと教えなければなりません。

 ところが、人権主義は、人権尊重・多様性尊重・個性尊重の偽善のもとに、人間が人間としてまともに教育されて、育っていくことを邪魔するのです。それは、人権主義が、人間は生まれつき自由で平等だ、としているから教育する必要を感じないからです。というより、教育すると自由で平等でなくなる、という恐怖を持っているからです。だから、まともな教育をしないで、皆を主役にしてお茶を濁して、自己中心的で子供のまま大人になったような日本人を、大量に量産しているのが、人権主義による欠陥教育の現実なのです。

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[2884]
質問者 - 2018年07月31日 (火) 21時54分

LGBTと子供が欲しくても出来なかった夫婦との決定的な違い、と愚按亭主が言っている判断や区別が良く分かりませんよね。

愚按亭主の国家主義からすれば、LGBTも子供が欲しくても出来なかった夫婦とでは「人口を増やす」という面で国家に貢献しないという面では一緒なんですよね。
それを、人口問題は国家にとって核心的で重要な問題だと認識するならば、愛し合っている夫婦に子供が出来ない理由を科学的に追究し、例えば出産できない理由が旦那の**産出能力に有るとしたならば、奥方は受精能力の無い旦那と離婚して子供を授かる可能性の高い配偶者を選択すべしということになるでしょうね。

もしも子供を授かれない原因が嫁さんのほうにあると科学的に明らかになったとしたならば、旦那は嫁と離婚して国家のための人口を増やすためという理由・方便で精力絶倫な男を配偶者に迎え入れることが「好きか嫌いか」という異性間の恋愛関係の問題ではなく、国家のための、国家第一主義のための義務として強要されるのでしょう。

それは




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[2885] 偽善的な人権を廃棄して、国民としての権利・責任・自由とすべし
愚按亭主 - 2018年08月01日 (水) 12時15分

 杉田水脈議員の発言をきっかけとして生じた一連の騒動は、最早人権の賞味期限が切れていることを明らかにしたことです。騒いでいるのは時代遅れの野党のみで、そのシンパたちが、なぜ豊田議員のときのようにワイドショーが騒がないのか?と不満を述べている状態です。おそらく、LGBTを積極活用しているテレビとしては、ワイドショーにも取り上げられず、ミイラ取りが反ってミイラになってしまうことを本能的直観的に感じて、及び腰になっているのだろうと推察されます。

 現在の世界を見渡してみますと、ヨーロッパに移民が大挙して押し寄せて、EU各国が国家的な危機を迎えてしまっているのは、グローバリズムが持ち込んだこの人権思想の成果に他かりません。これこそグローバリズムの破綻の象徴と言えます。したがって、替わりにナショナリズムが台頭するのは必然と言えます。それ故に、その反国家的なグローバリズムの人権思想も、廃棄され歴史の舞台から姿を消すべき時が来たといえます。

 その人権思想が如何に偽善であり、欺瞞であるかは、人権主義者のいう<人間の尊厳>も、<多様性>も、その実態は、文科省の次官という国家の教育行政のトップという重責を担う立場にありながら、管理売春の巣窟に週四日も足しげく通いたくなる即自的感情の肯定・礼賛でしかなく、反国家・非国家的生き方をする者でも、まともな国民と同等に、差別なく平等に扱えという<多様性>でしかありません。

 これらすべては、反国家的な、非学問的かつ偽善的概念でしかない、人権思想の論理的な帰結なのです。だから、この人権なる概念は、国家から個人を守っているように見えて、じつは国家を破壊して、国民である個人をむしろ不幸に陥らせるものでしかないのです。つまり、人権は、人類を救うものなどでは決してなく、むしろ、反対に不幸のどん底に落とすものでしかないということです。

 なぜそうなってしまうのかと云いますと、人間の本質は、人権論が云うようなあらかじめあるような固定的なものではなく、社会的・国家的かつ歴史的存在だからです。つまり、社会・国家の歴史的な歩みの中に存在するものだということです。つまり人間は国家なしには生きていけない存在だということです。たとえば、国家を失ったユダヤ民族ですら、国家の中に潜り込まなければ生きていけなかったのです。しかし、彼らの多くはは決してその国家に同化しようとはしませんでした。そういう者たちが、この国家に基づかない反国家的な人権思想を作ったのです。ここに人権思想の欺瞞性の淵源が存在します。

 この<人間は国家なしには生きていけない>ということを、国家の側からいうならば、そうした国家の歴史的な歩みは、国民たる人間の生産および再生産によって支えられているということでもあります。したがって、人間の生産及び再生産は、国家にとっても人間にとっても、本質的な一大事です。そしてそれは、国家単位でおこなうものですから、子供が欲しくとも恵まれない場合も、その中に含んでの全体として、国家が生産再生産されることが大切なのです。

 そういう意味で杉田議員が、LGBTを非生産的だとしたのは、事実であり、全く正当な指摘です。この場合の生産性は、子供があるかないかという現象的な問題ではなく、人間の本質、国家の普遍性を、自分の意志で拒否している、という意味での非生産性なのです。もっと言うならば、国家・社会の歴史性の中に生まれ、その歴史性を享受しながら、その歴史性を、歪んだ形で育ってしまった自らの即自的感情を、何よりも絶対視し、国家よりも大事だとして拒否するという、確信的な非社会・反国家の非生産性であり、個性であり、多様性だということです。

 したがって、このように、国民としての責任を自ら放棄しておきながら、国民の権利だけは平等に認めろと要求するというのは、自由のはき違えであり、全く不当な要求です。これを国家として社会としてまともな国民と差別するのは当然のことです。ところが、これを差別だ(そのとおりそれのどこが悪い?)人権侵害だ!と非難するのが人権思想の正体なのです。

 問題は、その人権を、憲法によって、基本的人権と称して保証されていることです。しかしながら、その肝心の人権には、「人間は生まれながらに自由にして平等」とあるだけで、どういうわけか国家が全く入っていません。このような国家と関係ないところで規定されている人権なる概念は、国家の憲法を構成する概念として不適当であり、廃棄されるべきです。代わりに憲法で謳われるべきは、国民としての権利であり、責任であり、自由であるべきです。



 

 

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[2888] ガラパゴス国家 徳川幕藩体制
tada - 2018年08月14日 (火) 16時15分

孫の世話や父親の一周忌などで 集中力を欠いてしまって コメントが書けずにいました。だいぶ時間がたったコメントになりますがどうぞよろしく。

カなき正義は無能であり、正義なき力は圧制である。力なき正義は反抗を受ける。 正義なき力は弾劾される。なぜならば、つねに悪人は絶えないから それゆえ正義と力を結合せねばならない。梶原一騎 いや パスカルでしたね。(笑)これは権力が人権の後ろ盾になるということです。権力がなければ 人権も何もないのです。権力がなければ 自らの意志を貫き 自らの安全つまり自由を守ることはできない。欧米市民革命が教えてくれた事実です。だから前回のコメントの題は単なる市民ではなく 「武装」市民と人権だったのです。権力をもって市民の権利を守り 市民の権利を守る国家を打ち立てたということです。これはそのまま 国家の成立と同じなのです。一般論として 国家は社会の安全を守るために組織化されたものです。この社会の安全こそが人権の萌芽、人権の本質なのです。アジア的国家・古典古代国家・中世封建国家と その権力の特殊性をいちいち説明はしませんが たとえば農民であれば 一揆をおこし 税の徳政を求め 自らの権利を守ることも人権運動であると私はみています。これは生きる最低限のための抵抗であって 自由や平等をめぐる啓蒙的なものではないですが 本質的には自然権に通じるものがあります。支配者は支配者で やはり生きるために収奪をします。これも彼らの人権です。その支配者はその権力を失えば なぶり殺しにされるだけです。だから ここで権力と権力の戦いがおきるのです。正義は相対的なものです。そして この歴史的闘争の中から人権に対する考え方が思想として打ち出され 市民革命を契機に 人権思想は議会性民主主義体制として実現していったのです。だから 人権思想とは それを唱えれば かならず理想的世界が訪れるという 念仏思想ではありません。今も それに向かっていく闘争と言えるのです。美輪明宏氏による文化的活動の大きな力は「ゲイ」と呼ばれる市民の地位を正当化しました。現代の差別や偏見の克服は それを受け続けた人々の社会力・文化力の向上が政治力に結晶したものであり 人権思想は 法的・イデオロギー的にその力を下支えしてきたのです。今までの説明通り 人権は後ろ盾の権力に依拠し 権力は人権により正当化されます。当然ですが 人権は無限定に優先されるものではありません。極端な話 国家が崩壊すれば 国民は難民・移民として生きる他はない。彼らを助けるのは受け入れる先に余裕があるかないかです。そこでは人権よりも国家意志が優先されるはずですから。後ろ盾の「権力」を失えば すべてを失うのです。だからこそ国家が大事であり その母体である社会も その構成する個人個人の考え方・生き方も大事なのです。ちなみに私は国家第一主義ではありません。<市民―国家>主義です。

 前にも話ましたが 徳川幕藩体制を人倫国家として 理想国家とみるのは観念的で 思い込みの強い考え方です。19世紀後半までの資本主義の発展と軍事の発達が 前近代と近代とを圧倒的な力で分けたことに理解が及んでいないのです。この圧倒的力をもつ近代国家への対策は議会制民主主義と三権分立であり 対抗は同じ力を持つ近代国家だけなのです。それでは天寿道さんが言う 人治や法治ではなく 道徳 文化の力、社会の力で運営する人倫国家徳川250年の泰平の正体とは 何だったのでしょうか?それはガラパゴス国家のことなのです。日本は四方を海に囲まれ 玄界灘を代表とする渡海困難な海域をもち地政学上 外敵からの侵略に対して基本的に無防備でいることができた国家なのです。徳川氏はこのことを十分に意識し  軍事力放棄と軍事組織を行政組織に変換する体制の構築に邁進できたのです。それがため 徳川体制下では国家認識の低下と 市民社会ではないのですが 社会の文化と経済がガラパゴス的に展開した 社会第一主義になったのです。だから この国家体制に特殊性あるガラパゴス国家を理想化することはできないのです。

このガラパゴス国家徳川体制のあと 明治体制は国際政治に躍り出て 世界の列強に肩を並べる国家になりますが この場合は国家第一主義です。しかし 明治体制は天皇制というアジア的国家体制と資本主義経済体制をミックスした形で近代化し 昭和に向かい 近代社会としてのブレーキがないまま(つまり議会制民主主義と三権分立がないために) 大戦に突入し瓦解したのです。面白いことに大戦後の新体制は 日本国憲法下で外的国家活動を米国に委託し 行政専門の内的国家として平和国家を続けるガラパゴス国家にもどったということです。市民社会第一主義ですね。現代日本は<市民―国家>主義ではないのです。市民社会の中で軍事的世界と関係がないと錯覚して 生きているのです。では どうすればいいのか?市民主義を相対化するために 国家主義だけを声高に唱えるだけではダメです。近代国家の本質を 市民社会と国家の歴史的な構造から認識することからはじめなければなりません。そのために 滝村国家論があるのです。

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[2889]
質問者 - 2018年08月15日 (水) 13時43分

同じようなことを述べていても、どういった立場の誰が述べているかで含まれているニュアンスが大きくも小さくも変わってくることは否めないと思います。

だから、南郷さんが国家第一主義、一昔前なら学者への道を語るのは弟子をその方向に導いての発言だと想像できるわけです。

現に南郷さんのお弟子さんには学者=大学教官になっている方々が少なからずいるようですし、また大学の支部活動が主軸らしい南郷流の武道では流派を担う会員学生に国家公務員を含めた役人への道を示唆するところ大なりなのだと考えますね。それが人を導く指導者というものでしょうから。

ですが、国家的な医療の道から逸れて療術の方向にいった愚按亭主が国家第一主義を語るのは普通は解せない話なんです。隙間産業と一緒ですから、国家的な方向の隙間を探して仕事していくものですからね。

tadaさんの投稿で宗道臣の「正義なき力は暴力なり」の出所がパスカルのパンセだと知りましたね。まあ、一代で多くの人を惹き付けるような大きな仕事をした人は何かしら先人の文化遺産を取り込んで消化していることの証明でもありましょうが…。

私から見たところ、tadaさんは滝村に入れ込んで滝村を持ち上げているわりには滝村国家論に対する理解は余り深くないのでは?と思われますね。

というのも権力と武力とが区別されずに混然と武力=権力のように理解されているようですから。

端的に述べて、権力というのは護身術力ではありません。滝村の著述でいったなら「マハトとクラフトとゲバルトの区別」といったあたりになるのでしょうが、tadaさんはマハト=ゲバルトっ理解しているようだ。

tadaさんが拘っている徳川幕藩体制の事例で語るならば、水戸黄門で助さんと格さんが悪代官の一味をコテンパンに成敗する殺陣のやりとりは「ゲバルト」、その後で「え~い、静まれ静まれ、このお方をどなたと心得る、先の副将軍・水戸光國公なるぞ、ご老公の御前である、頭が高い、控えおろ~」で悪代官らが「はは~っ」と土下座するのは「マハト」。

これが水戸黄門でなく木枯らし紋次郎だとか座頭市なら際立った武力でもって相手を叩きのめして、「このお方をどなたと心得る、さすらいの渡世人・木枯らし紋次郎さんにあらせられるぞよ~」とのたまわっても相手を土下座させる意志の支配関係はありません。

ですから、権力を考えるなら武力から離れて、例えば税金が未払いならば銀行の口座残高を役所が強制的に差し押さえしてしまうような事態を考えてみたら良いでしょう。私も経験あるのですが、取引銀行の口座から強制的に金が引き落とされているわけです。これが民間の企業とのやりとりならば、未払いだからといって本人に無断で口座から引き落とすなんて出来ないでしょうから。

民間企業の社長が誰々の口座から金を取り立てろなんて指示を出しても銀行員は従わないでしょうけれど、役所の指示には従うという特権が武力とは無関係なところに成立しているところに、滝村の著述の「マハトとクラフトとゲバルトの区別」なるところを理解する鍵なんだと思いますね。

それが、滝村の著述ではマルクスやエンゲルスの文献解釈のような形で取り上げて、「同じように力と訳される三者の区別」のような形で書いているから、マルクス主義とは縁のない初学者には一向に解りにくい。


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[2891]
愚按亭主 - 2018年08月18日 (土) 04時51分

 滝村先生は、絶対的真理をバカげた妄想と否定してしまったために、国家論の研究者だるにもかかわらず、客観精神としての国家を否定し、国家の発展史として人類の歴史を眺めることができず、国家そのものから国家の歴史を捉えることができなかったために、現象論的構造論の域を超えることができないままに終わってしまったのです。

 その結果として、日本と他の国との国家の成り立ちの本質的な違いが分からずに、ガラパゴスなどという見当違いの現象論的な評価をするに至ってしまったのです。

 日本と他の国との成り立ちの本質的な違いは、日本が和を持て貴しとなすという客観精神を国家理念とした共存共栄主義によるものでしたが、他の国は自国中心の人種差別的奴隷主義によって国創りをしたという本質的な違いがあります。その証拠として、その精神構造に見合った言語の文法構造からも証明できます。

 日本は、7世紀にすでに17条憲法という、国家理念を憲法にするというヘーゲルの主張する憲法論に則ったまともな憲法を創って、国創りをして、その客観精神がその後もずっと日本の国創りを規定していました。だから、日本の戦争は、その範囲内で行われたので、戦死者が他の外国の戦争に比べて非常に少ないのです。

 他方、その他の外国の場合は、自己中心的奴隷主義で国創りをしたために、憲法が創られたのが、日本から遅れること六白年も遅く、しかもその憲法の内容たるや、国王の権力を制限するという、およそ憲法の本義から外れた、歪な憲法でしかありません。それでも、力で勝ち取った人権主義の草分けだ!とでもtadaさんなら云いそうですね。しかしながら、その人権主義も、自己中心的奴隷主義の同じ穴の狢でしかなかったことは、その後の欧米諸国の行動が歴史的に証明しています。

 彼らがアジアやアフリカで行った、人種差別的植民地奴隷主義は、その人権主義の名の下に行われたのです。

>徳川幕藩体制を人倫国家として 理想国家とみるのは観念的で 思い込みの強い考え方です。19世紀後半までの資本主義の発展と軍事の発達が 前近代と近代とを圧倒的な力で分けたことに理解が及んでいないのです。

 徳川幕藩体制が、ヘーゲルが説くような人倫国家として熟成し完成できたのは、17条憲法以来の日本における客観精神としての歩みがあったからに他なりません。日本は建国当初から、国家第一主義に基づく共存共栄主義が隅々まで浸透しておりました。だから、白村江を一兵卒として戦った大伴部博麻の身を犠牲にしてまで国家を守ろうとした行動があるのです。そして、江戸時代には、支配階級であった武士が、率先して武士道(これこそ国家第一主義)で自らの生き様を厳しく律していたために、社会全体にその精神が浸透して、法による縛りが必要でなくなるほどの、人倫国家が完成したのです。だから、江戸時代は犯罪が非常に少なかったのです。

 「逝きし世の面影」の中で描かれているように、西洋人が、日本に来た時、衝撃を受けたそうです。自分たちが最高の文明人だと思っていたのに、日本は、子供たちが遊んでいるところに金目のものをおいておいても、なくなることが一切ないという、本国でもあり得ないことが、日本では当たり前のように存在していたことです。これが、法治国家と人倫国家との違いなのです。だから、彼らは、これはもう一つの文明だ!と認めざるを得なかったのです。

 その前近代的な国家第一主義の人倫国家が、圧倒的な力を持つ近代的な欧米列強という脅威に直面したときに、国家第一主義に基づいて、それまでの平和的な小国連合体であった国家体制を、その脅威に対応できるように統一的な中央集権体制に瞬く間に変身させ、かつ敵国の高い科学力・技術力を吸収して自分のものとするだけでなく、中には追い越すものまで出てくるまでに至ったのは、国家第一主義の人倫国家だったからこそ、できたことなのです。

 唯物論的に現象する構造だけ見ていても、この国家の生命力ある運動は見えてこないのです。滝村先生は、国家論を専門としながら、国家の本質論がないから、こういう国家のダイナミックな生命的運動が見えていなかったようですね。、

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[2892]
質問者 - 2018年08月18日 (土) 11時58分

tadaさんのコメントは実に具体的な事例を交えてのものですから、理解しやすいと思いますし、私の見解とどこでどう違っていくのかも実に追跡しやすいと思います。

その上で感じるのは、私とtadaさんとでは事実関係に関する認識はほぼ等しいと言ってもよく、ただ、その事実を構成する概念や理論といったところが違っていくように思われます。

具体的にのべるならば、私は文明開化以前の日本に人権という考えはなかったのではないかと思っています。人権というのは「人間としての権利」ですから、私個人の権利だとかお役人の権利だとか、お代官さまの権利だとか庄屋さまの権利だとかではありません。

窮鼠猫を噛むのような弱者が生き延びようと他を攻撃することは人間以外の生物界でもありますが、そうした人間以外の生物では「権利」としての「意志の共有=合意」ということは無いでしょうし、自分以外の同類の権利獲得のための闘争ということも無いでしょう。つまりは「類としての規範」という形には収まらないだろうということです。

だから百姓一揆も、自分たちの近隣の顔見知りの仲間を集めて余りの苦痛から逃れようとの直接的なゲバルト行為をしたとしても、百姓全体の解放だとか百姓の武家との平等性を訴えたことは無かったのではないかと想像します。逆に不平等であっても苦痛が緩和すればよいといった面もあったでしょうし、士農工商えたひにんのヨリ低い地位がいるという階級社会じゃないでしょうか?

犬同士が餌を奪い合って一方が他方を追いやっても、それは単に実力行使で餌を独占したというだけで「権利」という他者からの承認は得ていません。徳川幕藩体制における権利とは天皇や徳川幕府からの承認といった共通規範を得てのものだったのではないかと思います。

そうしたtadaさんのコメントとは全くの逆で「絶対的真理」を主張する愚按亭主のコメントは事実認識からして私は全く同意できません。

日本は他国と違って古の昔から共存共営が実現された社会だったなんて話は、現代教育を受けた大半の人間が同意しないでしょう。

それはNHKの高校生歴史講座なんかでも裏付ける史料とともに理解するよう指導されているようで、昔の支配層が住んでいた屋敷や着ていた服、食べていたものなどが、被支配階層の住居や衣服、食事の内容とどう違ったかを現物を見せて理解を促していましたから、愚按亭主の「共存共栄」という発言がどこから出てくるのか不可思議なんです。

これは全くもって愚按亭主の発言の裏にある「認識」の問題で、そうした認識の成立を一般的に語るならば「認識論」ということになるのでしょうが、史料を交えて個別の認識の正否を吟味するならば「認識論」ではなく具体的な歴史認識の正否ということになるのでしょう。

そうした意味では、愚按亭主が滝村の記述のどこを「現象論的構造論」などと捉えたのかも意味不明で、滝村は或現象を取り上げたときに別の現象を持ってくることによって、初めの現象から離れて概念のほうに行くわけです。

そのときの滝村の脳裡に「構造論」なるものがあったとしたならば、一つの現象・事象の構造ではなくてもっと広い理性的構成体とでも呼ばれ得るもので、敢えて述べるならば二重権力論がロシア革命の構造ではないが如きことだと考えますね。

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[2893] 人権とガラパゴス国家についてもう一度
tada - 2018年08月18日 (月) 23時53分

 私の言っている人権論が全く理解されてないもどかしさがあります。植民地主義はその当時 彼ら欧米諸国の人権論からみて 正義だと信じられていた。私の場合はその正義を相対化する人権論です。支配諸国と戦う植民地諸国の独立運動も人権闘争です。支配権力に対して異議申し立てできる思想 それを権力によって 実力で権利を勝ち取るのが 真の人権思想です。欧米人は都市市民の人権を支配者から勝ち取りましたが 有色人種に人権を認めませんでした。欧米人諸国の人権理解が間違いであったこと。つまり 人権思想に普遍性があり 有色人種にも人権があると思わなかったということ。そして 有色人種の国家が欧米諸国よりも劣っていたことから 正義は我にありと勘違いしたわけです。同じ有色人種でも 欧米諸国が徳川・明治日本の実力を認めていたことは当然です。
 
 天寿道思想は歴史の一部分しか見ることができないのですね。全体を見る視野が大事ですよ。


 徳川時代の文化をはじめとする社会の発展に対して 別に問題視はしていません。それが明治維新の原動力の一つとして働いたのは疑いようのない事実です。しかし 戦争を放棄した平和国家を人倫国家として賞賛し理想化することに問題があるということです。文化力は高かったものの国家財政は破綻状態 軍事力の劣勢を回復することもできず 戊辰戦争で国家体制を守れずに壊滅したのです。だからガラパゴス的だというのです。逆に明治維新は国家の近代化と国際化であり ビギナーズジャンプで欧米諸国と瞬く間に肩を並べたのですが その徳川幕藩体制と同じアジア的国家構造(天皇制・国体論)つまり天寿道理論では人倫国家体制が 軍部の暴走を呼び込み 太平洋戦争で崩壊するのです。
 
 天寿道理論は社会構成上の規定性もなく 無原則だから自分の思いを そのまま理論にすることができて いいですね。

 同じことばかりの繰り返しで少々疲れました。読者の方々もお疲れ様です。

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[2896]
質問者 - 2018年08月21日 (火) 10時11分

世の中の問題は多様ですから、いま「人権」が話題となっているからといって世間の事象、問題が全て人権の問題だと考えるのは短絡的ではないでしょうか?

まあ、植民地支配と人権ということで検索してみると当時の西洋人は異国の人を人間だとは思っていなかったから異人に人権など考えなかったという見解もありますが、まあ自分を優先して自分に責任をもつという個人主義・自由主義の観点からすれば「自国の国益」を最優先する考えはビジネスにおいての雌雄を決するとか勝者敗者の考えとも類似するんでしょうね。

敢えて述べるなら植民地支配の当時の「人権」は人権というよりも「民権=国民の権利」だったのではないでしょうかね?文明開化の日本でも民権運動というのがあったようですけどね。

人権宣言を出した当時のフランスにも、まだ奴隷はいたでしょうなら、人権以外の他の多くの諸権利との兼ね合いというか、「お金を出して買ったんだ」という所有権と「人間としての自由と平等」という人権との権利配置で人権が最もベースにくるまでには時間が必要だったんではないでしょうか?

それを、植民地支配の時代は植民地支配をすることが人権だったという考えは適切ではないように思います。人権というのは個々人の権利でしょうから、国家が支配国家から独立することとは問題が違うのではないかと思います。

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[2897] 大事なことは何か
愚按亭主 - 2018年08月21日 (火) 10時15分

>私の言っている人権論が全く理解されてないもどかしさがあります。

 充分に理解した上で、完全に論破されていることが理解されないもどかしさがあります。それだけでなく、マルクスも宅村先生もできなかった国家の歩みから人類史を見ると、どういう景色になるかをてんかいしても、、それこそが本物の歴史観であることを、理解しようとしないことへのいらだたしさもあります。

 というのは、本来国家の個々の成員すなわち国民の権利は、勝ち取るべきものではなく、当たり前のように守られるべきものだからです。人間の身体を想定してもらえば分かるように、個々の細胞が人権を主張して闘ってばかりいたらどうなると思いますか?日本の国家においては、天皇の臣民は、大御宝といって、とても大事にされました。これが本来の国家のあり方であり、国家第一主義のあり方です。

 ヘーゲルもそういうことを述べたのですが、マルクスは国家を一つにまとめようとするのはおかしい。敵対的な対立をもっと助長して徹底的に戦うことが重要だ、と批判しました。このマルクスによって作られた伝統が現在のマスコミや野党の何でも反対する反国家的態度に受け継がれているのです。

 tadaさんのいう闘う人権主義は、奴隷主義国家の中で生まれた、奴隷主義の裏返しでしかありません。つまり、その本質は、自己中心主義でしかないということです。つまり、国家がないということです。だから、人権主義がはびこると国家が滅びることになるのです。その良い例が現在のヨーロッパです。過去のヨーロッパの繁栄は、人種差別的植民地奴隷主義によってもたらされましたが、現在のヨーロッパの衰退は、グローバリズムの偽善的人権主義によってもたらされたものです。

 ですから、人権主義のいう自然権としての普遍性というのは、人間とは何かという人間の本質とは無縁な所で作った、自分が勝手に言っているだけの現実離れした空虚な空想的普遍性でしかありません。だから、自分の都合で勝手に使い分けられるのです。つまり、何らも論理性・体系性を持たないものなのです。

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[2898]
質問者 - 2018年08月21日 (火) 11時45分

私は愚按亭主が滝村に対して評した「現象論的構造論」というのを詳しく説明して欲しいと思いますね。

思うに、愚按亭主らが言ってる現象論だとか構造論だとかは師匠筋の南郷さんらの言う「本質論、構造論、現象論」から来てるんだと思いますが、これってルーツを辿ると武谷三男の3段階論なんだと思います。

南郷さんは自他ともに認める三浦つとむの私淑弟子ですけれど、三浦はマルクス主義者として共産党の民科でも盛んに取り上げられた武谷の3段階論を田中吉六なんかと共に絶賛してますからね。

ですが、1942年に岩波書店の『科学』誌に発表された「ニュートン力学について」での三段階論は、そもそもが物理学史、天文学史から直接に導かれたものではなく、マルクスの『資本論』の「商品論」に書かれていた論理にティコブラーエやケプラー、ニュートンら自然科学者の仕事を当てはめたのだということが知られています。

ですから、ニュートンの業績はニュートンの業績として当然にありますし、ケプラーの業績はケプラーの業績として当然にあるわけですが、それを「本質論、実体論、玄小論」という3段階論の枠組みにはめてしまうと、どうも不都合が生じてくる面がある。

ニュートン力学はニュートン力学として理系の学生は普通に使うでしょうし、ケプラーの法則もケプラーの法則として普通に覚えて使うでしょうが、ではニュートンは本質論でケプラーは構造論か?というと「う~ん?」となってしまうところがあります。あらためて、「このフレームは何だ?」と。

それで、真正の科学史家さんなんかでもニュートンやケプラーの業績に詳しくなればなるほど「武谷は、どうしてこんな考え方してるんだ?」と悩むらしいんです。でも、それって南郷さんの著述の言葉を使うならば「借り物の論理」だからなんですね。それは後年、武谷自身がインタビューの中で認めていました。

ところで、ニュートンの考えが本質論かといえば、特定の天体だとかに限った話じゃないから普遍的でもあり本質的だとも言えるんでしょうけれど、ティコブラーエやケプラーは太陽だとか月だとか地球だとかの太陽系という個別の対象を見つめているから普遍的でないとも言えるんです。

では、ニュートン力学という普遍的な古典科学がどこからきたかと言えば、ティコブラーエやケプラーの研究からではないんです。つまり、武谷の言う現象論や実体論からではありません。

ならば、ニュートン力学形成に関わる現象や構造はないのか、まったくの純粋理性でなされたのかというと違うと思います。

さらに、武谷の3段階論ではティコブラーエやケプラーのイワユル現象論や実体論の上にニュートン力学というイワユル本質論を乗せれたのですが、そのニュートン力学は非慣性系だといわれる量子力学の登場で絶対的・全体的なものでなくなり条件つきで適用対象を選り好みするものとなったわけでしょう?

そこからも愚按亭主が大上段に「絶対真理を信じない愚か者」と声高に叫んでも「愚かなのはお宅では?」と山彦が返ってきます。

そうした意味で、南郷さんも「学問はルーツを辿ることが大事」だと書いていましたけど、愚按亭主の思考の枠組みとして武谷3段階論の「本質論、構造論、現象論」があり、そのルーツは科学史ではなくマルクスの「資本論」であり、さらにマルクスのルーツはヘーゲルのトリアーデなんだろうと思います。

マルクスの著述にヘーゲルの大論理学の「本質」という考えが如何に生きているかは私は未確認ですけれど、滝村が特定の国家や共同体を超えて通底する本質的なことを述べているのは確かだと思いますね。

その意味で滝村の論述には内在論よりも超越論的なモノ言いのところがあると思っています。

インドネシアの9.30クーデターを二重権力の別の事例だという考えや、国家の始まりが戦争だといった滝村の考えは今では全く市民権を得ていないようですし、それは在野だから無視しているなんてことではなく正統な学術的な理由に基づいているのだと、それこそ対自的に、他の学者の実力を推し量るべきかと思います。

私は「国家論大綱・第2巻」をまだ読んでませんけど、それ以外の著書で滝村が行っている弁証法的な思考を改めて一つ一つ検討しといくのも意義があると考えています。それを南郷学派は『国家の本質と起源』あたりで滝村が「弁証法は役立たない」みたいに書いているところだけを取り上げて「滝村は弁証法を棄てた」と総括して、本田さんなんか本職の大学教授ですけど「弁証法を棄てた後で滝村に学的発展はなかった」とか書いていて、あれ、どう読んでも法医学者として多忙な中でやっつけ仕事で書いただけの代物でしょ?




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[2899] 滝村先生の国家論が現象論的構造論である理由
愚按亭主 - 2018年08月22日 (水) 15時15分

 滝村先生も、観念論を否定し、絶対的真理を否定してしまいました。これを知って、私はガッカリし、これでヘーゲルが分かるはずがないと確信しました。その結果、唯物論的な有論(現象論)の構造は説けても、観念論的な本質論は解けなくなり、ましてやその統一体としての絶対精神の運動としての、学問の本体としての概念論は、逆立ちしても説けないということになってしまったのです。

 だから、国家は戦争によって生まれる、などという現象論丸出しの論理を説いて、さも学問的に解いたように錯覚しているのです。生命史観的に説く、国家の成り立ちの必然性は、自然的に存在する人間社会を、より人間的・目的意識的に創り変える、つまり、組織化したものが、すなわち国家なのだということです。ですから、戦争は単なるキッカケでしかなく、国家が誕生するのは、人間にとって必然的な歩みだと捉えることこそが、本質論的、学問的に捉えることなのです。

 これをさらに、概念論的に、絶対精神の歩みとしてとらえる場合、絶対精神は個々人の精神として現れるばかりでなく、その綜合体としての客観精神としての国家として現れることのほうが、むしろ絶対精神にとっては、本流なのだということです。だから、国家を客観精神としてとらえることが、学問的・概念的・本質的なのですが、その視点が滝村先生には全くないのです。だから、現象論なのだということです。

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[2900]
質問者 - 2018年08月23日 (木) 13時19分

どうして愚按亭主が滝村先生のことを誹謗中傷するのか、理由を察することの出来ぬ私でもありませんが…

私も滝村先生の著述の研究はいまだ中途半端なままですが、『国家論大綱』でも唯物論だ観念論だといった物言いは出てこないようですし、大綱の前書きでも社会科学という言い方はしてますし、政治は観念的事象だという言い方をしています。

つまりは、滝村先生は人間社会を科学的に追究していくという学術立場にいるのであって、対象は初めから心身一如の人間社会であって観念の無い物質だけの世界から時代を経て観念が生じたというマルクス主義かスターリン主義か分かりませんけど弁証法的唯物論を下敷きにする学術方法は放棄したのでは?

確かに『革命とコミューン』や『マルクス主義国家論』の頃は唯物論的方法だとか書いてましたけど、いつだか転向というか学術的立場を変えたんじゃないですかね?

そうした滝村先生に対して「唯物論か観念論か」という見方をするのは南郷さんの弟子としての愚按亭主の色眼鏡なんでしょうね。

「生命史観的には…」という愚按亭主の物言いが、滝村先生よりも南郷学派側の人間なんだという愚按亭主の信条表明となってもいるようです。

それを理解した上で愚按亭主とお付き合いするか否かを判断するのもまた、観念的な政治的な事柄なんでしょうね。

私も滝村先生の著書は改めて勉強させていただこううと思いますが、それは南郷学派とは切り離して考えたほうが良いのでしょうね。

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[2901]
tada - 2018年08月24日 (土) 22時54分




>国家の成り立ちの必然性は、自然的に存在する人間社会を、より人間的・目的意識的に創り変える、つまり、組織化したものが、すなわち国家なのだということです。

 これでは 滝村先生の組織的権力論からの国家論と同じですよ。「より人間的」などと非学問的概念は使っていませんがね。それにガラパゴス国家と戦争国家の統一的国家論つまり内的国家と外的国家の統一国家論が常識なので 「国家は戦争によって生まれる、などという現象論丸出しの論理」は 滝村理論を理解できない偏見でしかありません。ヘーゲルだって言っているでしょう。戦争にあらわれる観念性と対内的な国家諸権力を全体の有機的契機たらしめる観念性は同一だと。そして 戦争によって諸国民の倫理的健全性は維持されるのであると。


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[2903]
質問者 - 2018年08月25日 (土) 09時08分

tadaさんが引用した愚按亭主の文章なんですが、ね…

>国家の成り立ちの必然性は、自然的に存在する人間社会を、より人間的・目的意識的に創り変える、つまり、組織化したものが、すなわち国家なのだということです。

この「組織化」というのを除いてしまうと「自然成長性から目的意識的へ」という南郷さんの**作以来の論点そのままなんですね。つまりは玄和さんの教科書に説かれている空手修業の道しるべそのまんまということで。これで国家論になるのだろうか?という思いしきりで。

それで私もtadaさんの指摘を受けて『大綱』の「組織的権力論」を見てみたんですが…

そこだけ一見しただけだと愚按亭主の言う「現象論的」という指摘が的を得ているようにも感じられたんです。「組織化」って形式的なところですし、組織化することが国家の本質的なところでも無いように思われて…

医学における解剖学の授業のように人間には肉体が附随しているからその事実を詳しく説いているが如くに、国家には組織が付きものですから権力に付随する組織の現象分析をしてるがごとき印象で。

ですが、その「組織的権力論」の前の箇所で滝村先生は本質的なところを書いているように思われました。それは「権力の本質」p63~64の

「歴史始源的な、最初のイデオロギー権力は、神的・宗教的な支配力という形をとって、登場した。」

敢えて平たく言うと「国家とは(古代国家とは)人類がその観念(神的・空想的な観念)を実現すべく行った組織的・集団的な活動総体」とでもなるのでしょうか?

それが国王を神の化身として死語も復活させるべく、また復活するものだと信じ信仰して成された組織的・集団的なミイラの作成やピラミッドの建設、スフィンクスその他もろもろの宗教的・儀式的でもある活動の痕跡が今に遺されている数々の遺跡だということでしょうか?

やはり滝村先生は南郷学派が書いているのとは裏腹に本質的なことを説いていたのだと思います。

初期の著作で国家を「共同体・内・国家」と「共同体・即・国家」とに区別して、後者の先行を思弁的に説いたのはエンゲルスの『家族、私有財産、国家の起源』の影響からだったのか分かりませんが、『大綱』の権力の本質は実証史的な蓄積から説かれているように思われてなりません。





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[2906] 人間的は学問的ではないのか?
愚按亭主 - 2018年08月26日 (日) 18時21分

 滝村先生とヘーゲルの文章を比較して見て、似ているように見えて全然違います。そこが分からない理由は、おそらく唯物論にあるのだと思います。

>ですが、その「組織的権力論」の前の箇所で滝村先生は本質的なところを書いているように思われました。それは「権力の本質」p63~64の
「歴史始源的な、最初のイデオロギー権力は、神的・宗教的な支配力という形をとって、登場した。」敢えて平たく言うと「国家とは(古代国家とは)人類がその観念(神的・空想的な観念)を実現すべく行った組織的・集団的な活動総体」とでもなるのでしょうか?

 滝村先生は、古代の国家をこのように見ていながら、これはあくまでも古代国家の特徴・特殊性にすぎないとして、その中に貫かれている国家の普遍性・本質を見ようとしなかったから、反国家的な人権とか民主主義が、古代国家よりも進んだ国家の発展形態だと解釈し、国家の普遍性を見事に実現した日本をガラパゴス国家などと見当違いな規定をしてしまったのだと思います。どういうことかと云いますと、西洋の近代国家は、その歪んだ観念性(ユダヤの息のかかった思想家によって歪められた)によって作られたものであり、ガラパゴス国家日本こそが、正しい観念性によって作られた国家だったということが、分からなかった、ということです。それは、ヘーゲルを唯物論を離れて虚心坦懐自由な精神になって学ばなかったから、ヘーゲルではなく、ヘーゲルが批判した人権国家・民主主義国家の方が正しいと思ってしまったのです。

また
>戦争にあらわれる観念性と対内的な国家諸権力を全体の有機的契機たらしめる観念性は同一だと。そして 戦争によって諸国民の倫理的健全性は維持される

 これは、「戦争は単なるキッカケでしかなく、国家が誕生するのは、人間にとって必然的な歩みだと捉えることこそが、本質論的、学問的に捉えることなのです。」と同じことを述べているのです。つまり、外敵を媒介として国家を一つにまとめる戦争における観念性と、対内的に国家を一つにまとめる観念性とは同一であり、戦争は一つの契機に過ぎないと述べているのです。もちろん、戦争という強烈な媒介によって、反国家的な人権や民主主義によってバラバラになった国家を、一つにまとめようとする観念的な力が働いて「諸国民の倫理的健全性」が回復され、維持されるのだ、ということをヘーゲルは述べているのです。

 最後に、より人間的に、というのは、絶対精神が本来の姿を現す段階に到った人間の本質、すなわち、世界の本質たる己自身について論理的体系的に自覚するに至り、それを応用して目的意識的に世界創造していく存在、にふさわしくという意味であって、国家はまさしくそういうものとして、自然的集団・社会が、人間的に組織化され、創造されたものであるという意味であって、これの何処が非学問的だと云えるのでしょうか????

Pass

[2907]
質問者 - 2018年08月29日 (水) 04時28分

>滝村先生とヘーゲルの文章を比較してみて、似ているようにみえて全然違います。

いま京都弁証法認識論研究会さんのブログでヘーゲルの歴史哲学について解説してますけど、滝村先生と似ているところを探すのが寧ろ難しいのでは?

どうして愚按亭主がこんな文を持ち出してきたのかは、南郷さんの武道講義で南郷さんがヘーゲルと同じようなことを説いても全然違った意味になるとか全然違った表現になるようなことを書いていたからでしょう?

そのご自分の記憶の引き出しから取り出してきて文字を綴っていく過程を追っていっても愚按亭主のいう「純粋理性」というのが理解できそうですが…。

昨日の京都さんのブログに三角形の二重構造の図か書かれていて一瞬「ん!?」と惹き付けられたんですが、理性的意志と主観的意志の二重になってる図は、端的には諸個人が神の意志を実現するように動くということらしいと知りガッカリしましたけども。

滝村先生はこうしたことは書かんでしょう?

まあ、ヘーゲルが言う「理性的意志」というのが滝村先生の言う第三権力の法の意志だと考えたなら似た図式になるとも考え得るでしょうけれど、それだとアレクサンダーやナポレオンの事例と合致しませんしね。

Pass

[2910]
tada - 2018年09月02日 (月) 22時37分

>戦争という強烈な媒介によって、反国家的な人権や民主主義によってバラバラになった国家を、一つにまとめようとする観念的な力が働いて「諸国民の倫理的健全性」が回復され、維持されるのだ、ということをヘーゲルは述べているのです。


 このように天寿道さんが指摘してくれたおかげで ヘーゲルの国家論と滝村国家論がまたまた本質的に重なることがわかります。論文「パーマストンの独裁と<戦時的国家体制>」にくわしいことが書いてあります。クリミア戦争時 英国 民主主義体制の軍事的専制国家体制化の問題についてのべたもので 戦争勝利のために民主主義国家が一時的に軍事的専制国家に変化する権力過程を論じています。元ネタはマルクスの論文です。このユダヤの息がかかった思想家のすばらしい慧眼にはおそれいります。(しかしマルクス・エンゲルスらの国家論は大NG。そもそも彼らには学的な国家論はないからです。)ヘーゲルの場合 組織的Gewalt論がないのが問題になります。近代を知らないので仕方のないことだと私は思っていますので ここをヘーゲルの限界点とみています。近代における組織的Gewalt 専制国家の恐ろしさは 社会契約論者たちのほうがわかっていたのです。(しかし 彼らの思想は近代民主主義体制を導いたけれど 学的国家論としてはNGでした。)
 人権論の基本的原理もヘーゲルは危急権という形で提出していることを最後にネタバレしておきます。

Pass

[2911]
質問者 - 2018年09月03日 (月) 11時36分

tadaさん、「パーマストンの独裁と<戦時的国家体制>」というのは何処に掲載された論文ですか?滝村が書いた論文なのでしょうか?

読んでみようと検索したのですが出てきませんでした。

私はクリミア戦争についてもパーマストンについても丸で知らなかったのですが、tadaさんのコメントで関心をもち、取り敢えずウィキペディアで見てみたところ、tadaさんが指摘する「戦争で勝利するために民主主義国家が一時的に軍事的専制国家に変化する」という事実をパーマストン内閣の事例に見出だすことが出来ませんでしたが…。

ウィキペディアで提示されている事実、知識が不足しているのかも知れませんが、イギリスがクリミア戦争に参戦したのも国民の世論という民主主義的な原理に従ってのものだと読みとれましたし、その後、パーマストン内閣が総辞職となったのも国民の支持を失ったという近現代国家の原理からだと理解できたのですが…。

ですので、クリミア戦争におけるパーマストンの事例をみても民主主義の原則に従って選出された間接民主制の議員内閣が国民の合意、世論のもと外交の一つの手段として行ったものがイギリスの戦争なのではないでしょうか?




Pass

[2912] 即自的悟性の有論と、対自的理性の本質論・概念論の違い
愚按亭主 - 2018年09月04日 (火) 06時43分

 滝村先生が分かっていないことは、観念論や絶対的真理を否定してしまっているために、学問の形成過程が分かっていないことであり、そこから自らの専門の国家論を学問体系化する道が分かっていないことです。

 だから、対自的理性の本質論・概念論で説いていることを、即自的悟性レベルの構造論がない、と見当違いの批判して批判したつもりになってしまっていることです。つまり、問題は時代性などではなく、学問体系そのものにおける論理の次元の違いからくる問題なのだということが分かっていないことです。具体的な構造論がないという批判が通用するのは、即自的悟性論においてなのだということが分かっていないということです。

 つまり、学問体系というものは、即自的悟性による事実の論理化としての有論と、それを対自的理性の本質的論理による否定的媒介を通じて、その両者が肯定的に統一されて一つの運動・発展する学問体系としての概念論となるのです。このヘーゲルの学問論を、マルクス・滝村先生・南郷先生などの唯物論者たちは、全く理解できなかったためのすれ違いなのです。

 だから、即自的悟性が事実の論理をそれなりに論理化して、運動する有を止めて定式化した定有を措定しただけで、自己満足してしまい、学問の体系化に向けての作業を全くしようとせず、それを指摘しているヘーゲルの提案を、無碍に否定してしまって、自ら学問体系構築の道をとざしてしまっているということです。

 その提案とはどういうものかと云いますと、国家論をそれだけで定式化するのではなく、全体の中の特殊性としてもとらえ返しておく必要があるというものでした。これは要するに、即自的悟性の定有を、学問の体系化のために対自的理性から対自有化せよという提案だったのです。そうでないと学問体系は出来上がらないよ、という提案だったのです。

 ところが、マルクスは、部分性を全体性化する橋など存在しない、と真っ向から否定し、滝村先生は、ヘーゲルは国家論の対象を曖昧にして国家論を国家論でなくしてしまおうとしている、と、ヘーゲルの真意を、全く理解できずに、全く見当違いの批判をしているのです。これが、唯物論では、絶対に、学問の体系化はできないということの、事実的な証拠です。

 そして、追い打ちをかけるように、実際に学問の体系化を図ろうとして、できずにもがき苦しみ続けている南郷学派が、そのことを、そのものズバリ実証的に証明してくれています。私は何度も、なぜできないのかの原因を正しく指摘して、ヘーゲルに戻るように諫言し続けていますが、全く耳を貸そうとしていないようです。

 学問は、まず全体性(観念論的哲学)を確立した後に→それを一旦否定して【第一の否定】部分性を構造化し(唯物論的個別科学)→再びそれを否定して【第二の否定】学問全体のの体系化(絶対観念論による哲学と科学の統一)によって成し遂げられ宇ものですが、南郷学派なその【第二の否定】すべきところで、それを行わずに体系化できると思い込んで、強引に突き進もうとしても壁にぶつかって右往左往している間に、どんどん落とし穴にはまり込んで抜け出せなくなってしまっているのです。

 南郷先生は、かつて個々の細胞が集まって生命体を成すとするウィルヒョウを、正しく批判して、生命は一個の細胞から分化して成ったもので、個々の細胞が寄り集まったものではない、と主張していました。また、全体の運動を止めて部分を取り出して、その部分の構造を明らかにした後は、とり出した部分は部分が全体化してそのままでは全体に戻せない状態になっているので、それを戻せるように(対自有化ー愚按)して全体に戻す必要がある、と道場で講義されていました。かつての南郷先生は、まさにヘーゲルと同じことを云っていたのです。ところが、そのかつての葉を忘れてしまったかのような、現在の悲しい現実があります。

 それほどに唯物論という偏った観方は、真実を見る目を歪めてしまうということです。これは本当に恐ろしいことです。かつての南郷先生は、精神性を重んじ、むしろ観念論的でした。それがいよいよ学問の体系化という問題が、現実の問題となって学問的立場と信じ込んでいる唯物論を徹底しようとすればするほどに、おかしくなり、かつての自分の主張を否定し、裏切るようなますます体系性をなくし、めちゃくちゃになってしまっているにも関わらす、それに気づかず、アリストテレスやヘーゲルを凌駕して新しい学問を自分が建設していると思い込んで、見当違いな批判をして、恥をさらし続けています。本当に悲しくなります。

 南郷先生は、ヒュームが何故唯物論に疑問を持って懐疑論を唱えたか?ヨセフ・ディーツゲンが「現実的立場(唯物論ー愚按)を離れて自由にならなければ学問は体系化できない」と云った意味を真面目に考えるべきです。それが本当の学問の歴史に学ぶということです。


 最後に、「人権論の基本的原理もヘーゲルは危急権という形で提出している」について解説しましょう。このヘーゲルの本文を私は知りませんが、ヘーゲルが何を云わんとしているかは、ヘーゲルの体系を自分のものとしている私には、手に取るように分かります。それはこういうことです。

 まず、「危急権」というのは、学問的には正しくないが、応急処置としてやむを得ず認める、ということです。つまり、国家としてのまともな成り立ちができずに、自己中心的奴隷主義で国作りをしてしまった国家においては、闘って権利を獲得する以外に方法はなく、そのための旗印としての人権概念が、非学問的な方法で定立された状況は、緊急避難的処置として認めよう、ということです。日本以外の国の現状は、みなこの範疇に入ります。

 ところが、日本だけは違います。国の成り立ちが、和を以て貴しとなすという共存共栄を国家理念として憲法に明文化して、国創りを行った世界で唯一の国家なのです。これがヘーゲルの云うまともな国家の成り立ちそのものなのです。だから、ヘーゲル的な人倫的国家第一主義を見事に実現できたのです。こういう国家においては、国家の一部の国民は「おみたから」として大事に守られているので、あえて「人権」を掲げて戦う必然性は存在しないのです。

 ところが、戦後そういう日本の人倫的国家第一主義を、軍国主義として否定する洗脳教育が施され、憲法九条によって国家の主体性がはく奪され、マルクス主義の蔓延によって、国家を敵視し何でも国家のすることを否定し闘うことが正義であるかのような常識が形成され、人権や民主主義という下等な反国家第一主義的政治思想が押し付けられて、せっかく世界で唯一創り上げたヘーゲルの唱える学問的な人倫的国家第一主義が、まさに危急存亡の危機にある状態です。それが顕わになったのが、今まさにワイドショ―的に話題になっているスポーツ界トップの堕落の実態です。人倫的国家第一主義がないとこうなるのが人間の性なのです。

 

Pass

[2913]
質問者 - 2018年09月04日 (火) 12時58分

愚按亭主はもとよりtadaさんも玄和関係者なのだと確信しています。

お二人に共通するのは真摯に学問学術を追究していく姿勢ではなく、他者の知らない用語や概念を多用して幻惑し煙に巻こうとする「対話で負けない方法」ですし「会話で主導権を握っていく方法」なんですね。いわゆる「強弁」というやつで。

南郷さんが日本論理学研究会を玄和会とは切り離せないと語っているのは、そうした意味だったんですね。対人的な勝ち負けとして言葉の羅列を捉えているレベルだったわけですから。

これでは本物の学者とは対話になりませんし、そこから本物の学問なども生まれてくるはずがありません。

つくづく残念ですね(苦笑)。

Pass

[2914]
tada - 2018年09月04日 (水) 23時42分

 滝村先生は観念論を否定していないですよ。否定していたら 権力を規範による観念的支配などと言えません。もちろん 国家意志論など論じられないでしょうから。また 哲学がないわけがない。国家論大綱の方法論を読めば 国家論が<全体―部分>の思考つまり概念的弁証法を使っていることがわかります。さらに 滝村先生は 概念的弁証法を科学的思考法として確立しています。

 いつものことですが 天寿道さんの絶対的真理はそういう点を一切考慮せず 自分の偏見で物事を判断する ガラパゴス思考です。井の中の蛙ですよ。

Pass

[2916]
tada - 2018年09月09日 (火) 12時55分

 ご存じのように 法の哲学は 法―道徳―倫理の3部構成になっています。法は普遍的規範の考察 道徳は特殊的意志である善からの価値の考察 倫理は個別的実存としての規範の考察になります。

危急権は

「生命は、もろもろの目的の総体として、抽象的な権利に反対する一つの権利をもっている」

「この生命は、究極の危険に瀕し、ある他人の正当な所有と衝突したばあい、危急権を〔衡平としてではなく権利として〕要求しなければならない。なぜなら、そういうばあいには、一方のがわに現存在の無限の侵害と、したがって全面的な権利喪失とのおそれがあるのに、他方のがわには、ただ自由の或る個別の制限された現存在の侵害のおそれしかないからであり、したがってこのばあい同時に、権利そのものと、ただこの所有の点でだけ侵害された者の権利能力とが認められるからである」

「生命の危機に瀕した人間にとって そのようなやり方をして自分の生命を保つことがゆるされていないとされたら 彼は権利のないものとして規定されていることになろう。そして彼の生命が認められないとしたら 彼の全自由が否定されていることになろう。」

と「道徳」の中で述べられています。緊急避難権とも訳されているわけですが 私はヘーゲル用語として 生命価値尊重の「生存権」の主張とみています。「道徳」とはより善く生きることです。天寿道さんの言われる「国家の成り立ちの必然性は、自然的に存在する人間社会を、より人間的・目的意識的に創り変える、つまり、組織化したものが、すなわち国家なのだということです。」の「より人間的」とは ヘーゲルでは より人間的に善く生きることです。そして「より人間的に生きる権利」であるバラバラの無数の意志が 規範に規定されながら 整理され そのひとつとして生存権である危急権となり また全体として 福祉として人権体系に統合化(国家)されるのです。つまり ヘーゲルの「道徳」とはヘーゲル流の人権論だったわけです。人間的に善く生きるための権利 略して人権です。
 法の哲学とは「法的規範と人権」の哲学 つまり「法と正義」の近代国家の根幹をなす概念についての 学的考察でもあったわけです。ヘーゲルはフランス革命期に生きた人物です。他者の人権論を念頭において市民社会と国家を論じているのは当然ですし、これだけ自由を論じたヘーゲルが人権と無関係なはずがないのです。

追記  法の哲学とは 法―道徳―倫理の公式に 世界史レベルで 歴史哲学の諸条件を加味することにより 上記の近代的国家だけではなく アジア的国家 古典古代国家 中世封建国家を考察するための ヘーゲル流の社会構成理論であります。

Pass

[2918] 観念論とは
愚按亭主 - 2018年09月13日 (木) 09時08分

 観念論は、物事をその本質から解くことです。もっと言うならば、この世界全体の本質、すなわち絶対的真理から説くものです。ところが、滝村先生は、この絶対的真理を荒唐無稽だとして否定してしまっているのです。これは、観念論を否定することです。

 だから、滝村先生は、ヘーゲルの云うことを、最も肝心な点において正しく理解できなかったのです。とりわけ、絶対的真理が問題になるのは学問の体系化においてです。というのは、絶対的真理は<学問の冠石>だからです。<学問の冠石>がなければ、頭がなければ首なし人間になってしまうように、学問も体系化しようがないからです。

 国家意志を、唯物論的に事実から論理化し、定有として措定したならば、そこで満足せずに、観念論の絶対的真理からの否定的媒介によって、対自有化しなければ、学問としての体系化の道を歩むことはできません。ところが、滝村先生は絶対的真理を否定しているので、やりたくともできないのです。

 この観念論の絶対的真理は、唯物論的思考からはかけ離れて見えるので、ガラパゴスとして映るのですが、それが学問を完成する上でとても重要な役割を果たすことが、どうしても理解できないのです。

>法の哲学は 法―道徳―倫理の3部構成になっています。法は普遍的規範の考察 道徳は特殊的意志である善からの価値の考察 倫理は個別的実存としての規範の考察になります。

 これは、運動体の弁証法の三項の論理としてとらえ返してみますと、その意味が鮮明に理解できるようになると思います。すなわち、対自的な法的規範、それを媒介する即自的などう道徳、その両者の統一としての対自即自の倫理です。その法的規範と道徳とが癒合一体化して個別実体化したものが、倫理の実体化としての人倫です。

 ですから、この人倫においては犯罪はほとんど発生しません。だから、江戸時代の治安はよく、牢屋はいつもガラガラだったそうです。ですから、テレビで流されている時代劇が如何に嘘かということが分かります。

 その原因は、一つは、当たり前のことを流しても視聴率は稼げませんから、どうしても例外的なことに偏りがちになってしまう必然性があること、もう一つは、作者の多くはマルクス主義発展史観に染まっていて、江戸時代は遅れた封建社会だったという先入観で作られてしまっているせいだと言えます。

>「より人間的」とは ヘーゲルでは より人間的に善く生きることです。そして「より人間的に生きる権利」であるバラバラの無数の意志が 規範に規定されながら 整理され そのひとつとして生存権である危急権となり また全体として 福祉として人権体系に統合化(国家)されるのです。つまり ヘーゲルの「道徳」とはヘーゲル流の人権論だったわけです。人間的に善く生きるための権利 略して人権です。
 法の哲学とは「法的規範と人権」の哲学 つまり「法と正義」の近代国家の根幹をなす概念についての 学的考察でもあったわけです。ヘーゲルはフランス革命期に生きた人物です。他者の人権論を念頭において市民社会と国家を論じているのは当然ですし、これだけ自由を論じたヘーゲルが人権と無関係なはずがないのです。

 前の記事は、ヘーゲルの文章を直接読んでいなかった時のヘーゲルの論理性にもとづく推論でしたので、そう間違いではありませんが若干の修正をする必要が出てきましたね。まず、修正しなければならない点は、これまで人権という概念を、非学問的だとしてきましたが、ヘーゲルは、

「生命は、もろもろの目的の総体として、抽象的な権利に反対する一つの権利をもっている」

というように人権より広い生命から説いていますので、生命の生存権として、「抽象的な権利に反対する一つの権利」を有すると、生命の危急に際しては、国家一般、法一般に反して自己の生命を守る権利を有すると認めています。これについては、前の記事の私の説明と変わりがありませんが、生命一般ととらえて自然権としての人権という概念も、それに含まれるということが云えますので、それを非学問的だとした、私の主張は正しくなかったと認めて撤回します。

 ただ注意しなければならないのは、それはあくまでも、生命の危機に瀕した場合の例外的な規定であることです。ところが、現実は、それがあたかも「抽象的な権利」として、戦って勝ち取られた正式な権利であるかのように扱われ、拡大解釈されて何にでも人権が持ち出されるようになって、権力に対抗する有力な武器として利用されている現実があることは、権利の不当な乱用として、正されるべきです。

 国民としての権利・自由は、あくまでも国家の抽象的権利としての法によって、守られ・保護されることが原則となるべきです。生命権は、あくまでも、生命の危機に際してのみ発動される、いってみれば緊急避難的なものであるということを肝に銘ずるべきです。

Pass

[2919] 絶対的真理と人権論
tada - 2018年09月16日 (水) 18時55分

>観念論は、物事をその本質から解くことです。もっと言うならば、この世界全体の本質、すなわち絶対的真理から説くものです。ところが、滝村先生は、この絶対的真理を荒唐無稽だとして否定してしまっているのです。


滝村先生は 「世界全体の本質」からは説きません。直観的な仮説からまず始めます。概念弁証法の循環思考が前提ですから 未熟な本質(直観的な仮説)が個別性の事実を特殊性と普遍性として取り込みながら 本質に戻り またその少し向上した本質が個別性の事実をまた少し向上させた特殊性と普遍性して本質に取り組む流れが 無限に続くなかで これしかないこれが解答であるとの確信が生まれる。そのときの本質論こそが 概念弁証法による認識(=観念)の運動で創りあげられた 天寿道さんの言う 絶対的真理にあたります。ヘーゲルの著作により ヘーゲルも滝村先生と同じ発想であると確認しています。ヘーゲルの「絶対者」「有論」「世界史」「国家」も成長する概念です。最初から完成したものではありません。完成に向かっていく概念です。


>国民としての権利・自由は、あくまでも国家の抽象的権利としての法によって、守られ・保護されることが原則となるべきです。生命権は、あくまでも、生命の危機に際してのみ発動される、いってみれば緊急避難的なものであるということを肝に銘ずるべきです。


まさに その通りです。緊急避難は当然です。革命事は非日常的なことですから。悪政や愚かな国家がそう続く訳ではないのです。人権(社会)は国家が守るのが 本道です。そして 生命権としての人権は 国家がだめなときの支柱になります。逆に 天寿道さんが 危惧するように 人権や民主主義はポピュリズムを招来し かつて オルテガが警告をした「大衆の反逆」を呼ぶのです。ここでは 国家統治が本来の役割を果たすときなのです。国家は政治的決断をし ポピュリズムの間違えを正すのです。が しかし 人気取りに走る政治家は国民の感情におもねり 現状は先送りにされ 最悪の事態を迎えることもあるのです。そういう失敗国家はヘーゲルも言うように 世界史において 淘汰されるのです。もしかしたら 最悪のその危機感が生命権としての人権を発動し 国家体制の血を流すような大改革を支持し 困難を乗り越えるかもしれません。 

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