[2870] そもそも人権という概念は非学問的概念 |
- 愚按亭主 - 2018年06月30日 (土) 10時32分
以下は、宮崎氏のメルマガに投稿したものです。
私は、これまで、人類の再生のため、日本の再生のためには、ヘーゲルの復権が絶対的に必須だ、と訴えてきました。とりわけ、日本においては、未だに、国家という言葉自体にある種の憚りが根強く存在しているようです。そのために、当たり前のことが当たり前に議論できない雰囲気が、常に重くのしかかっている感が、どうしても拭えません。今回の二階発言も、これは教育の問題であり、現在の日本の教育が、まともな日本国民を育てる教育になっていないことが、一番の問題なのです。
こういう状況を劇的に変えるためにも、ヘーゲルの復権がどうしても必要だと考えます。というのは、ヘーゲルの観ている景色と、一般の我々が見ている景色とが、全く違うものだからです。では、それがどう違うのかと云いますと、私たちが見ている景色は、私たちの立ち位置から見える景色か、せいぜいのところその付近の道路地図程度のものです。ところが、ヘーゲルの観ている景色は、始元からの物質の歩み全てを見通せる本当の意味での全体像の地図なのです。
そういう観点から眺めてみますと、たとえば、日本の常識は世界の非常識、という日本を卑下するような自虐的な言葉も、じつは、学問的に見れば、日本の常識の方こそが、本来あるべき常識であるべきものだ、ということが分かります。そのことを端的に示す遺跡的というか、化石的な誤魔化し不可能な証拠として、日本語と他の外国語との文法構造の違いがあります。言語の文法構造は、それが創られた時代の、その民族の精神構造がそのまま反映されます。では、その言語の文法構造が何を物語っているかと云いますと、日本語のみが、相手に対する警戒心のない共存共栄の、まず何よりも早く相手に内容を伝えたいとなって、自分の考えは後回しの構造になっていることです。これに対して、他の外国の言語の方は、弱肉強食の中、自己防衛的・自己中心的に、相手が敵か味方かを判別するために、その意志をまず最初に確認したい言語の構造になっているということです。
このことは、国家の生成発展に決定的な影響を及ぼすことになりました。 そのことは日本の国家の歩みと、他の外国の国家の歩みとを、比較すれば一目瞭然となります。日本は、幸運なことに、ヘーゲルが生まれる前から、自然成長的にしっかりと学問的な人倫国家への道を歩んでいって、江戸期にそれを見事に完成させたのです。その土台は、すでに社会的認識として存在していた共存共栄の精神を、人倫国家の普遍性として明文化した17条憲法にあります。だから、江戸時代は犯罪が本当に少なかったのです。つまり、法による縛りが不要になるほど、本当の意味での憲法の精神・道徳が社会の隅々にまでいきわたった、本物の人倫国家だったといことです。 これに対して、多くの外国の歩みはというと、弱肉強食の奴隷支配国家がほとんどでした。ほとんどだったということは、そうでない国も存在したことを意味します。いかにも!確かにそういう国家は存在しました。それは、アリストテレスの学問をもって世界を統一しようとした、アレキサンダー大王が創った国家です。これは、奴隷支配国家ではなく、共存共栄のヘレニズム文明を創った学問的な国家です。そして、これが日本以外の人類の歴史を形成した国家の歴史において、唯一の例外といえるものです。
弱肉強食の奴隷支配国家には、本物の国としての理念の一体性は生まれにくいものです。ですから、そういう国で生まれた憲法は、本来の憲法からは程遠く、権力の力を制限するものが憲法だ、とする歪んだ憲法論を生み出すことになりました。その根底には、国家そのもの・社会そのものの中から導き出したものでは無い、自然権なる外部から持ってきた概念で作らざるをうなかったというおかしな国家論・国民主権論が、その根底にありました。 ヘーゲルは、この学問的でない国家論・憲法論を、学問的に批判して、正しい国家論・憲法論を提示したのです。この時が、弱肉強食的な奴隷支配国家の道を歩んできた西洋諸国が、学問的に正しい人倫国家への道が拓かれようとした最大の機会でしたが、マルクスが、その機会をものの見事に潰してしまいました。これによって、マルクスは、人類を、不毛な敵対的な対立・地獄の世界へと、突き落としてしまったのです。
これに対して、共存共栄の人倫国家への道を歩んできたわが日本は、好んで戦争をしませんでしたが、いざ戦いとなると、無類の強さを発揮しました。それは何故かと云いますと、一人一人が、国家と自分とが一体のものであることが当たり前の、即自対自の精神を持っておりましたので、わが身可愛さに逃げ出すものなどいなかったからです。だから、強力な武器を持つ欧米諸国も、日本を植民地化することができませんでした。そればかりか、必死に欧米諸国に対抗しうる実力をつけるべく、国家・国民が一丸となって努力し、ついにとうとう欧米の人種差別的植民地奴隷主義に対抗して、人倫的共存共栄の大東亜共栄圏の理念のもとに戦いを挑んで、敗れはしたものの、欧米の植民地支配体制を崩壊させる、という人類史を大きく書きかえる歴史的偉業を成し遂げたのです。
したがって、いわゆる第二次世界大戦は、その歴史的意義という観点から見る場合、植民地奴隷主義国家同士の争いという面はあまり大した意義はなく、欧米の人種差別的植民地奴隷主義と、日本の共存共栄の人倫的国家との戦いであった大東亜戦争こそが、主要な歴史的意義を持つものだったと云えると思います。さらにいえば、歴史的には、当時狂い咲きしていた徒花に過ぎない、人類が本来歩むべき道から外れた共産主義グローバリズムが、それぞれの国家の内部に深く浸透して事態をより複雑にし、結果として漁夫の利を得る形になってしまったことが、人類の大いなる不幸であったといえます。 こういう日本国の歩んできた正しい歴史を、日本人が、日本国民だることに誇りを抱き、まともな日本国民となるために、学校で教えなければなりません。そうすれば、個人としての自分の感情のままに、新幹線の中で突然隣の女性に斬りかかったり、警官を襲って銃を奪って人を撃ったり、いたいけないかわいい子を餓死させる非常な親になったり子供を造らない方が幸せだというような、勝手な日本人は少なくなるはずです。これは、今の日本の教育が、まともな日本国民を創る教育になっていないからです。
ヘーゲルの云うように、全世界の絶対的本質の本流としての人類は、国家として存在するものであり、したがって、人類史は国家の興亡の歴史に他なりません。したがって、個々の人類である人間は、あくまでも本質的に社会的・国家的存在であって、単なる個人では決してありません。如何なる個人にも必ず国籍が存在するのは、そういう意味であって、便宜的・便利的なものと云う事ではありません。 だから、個人は、まともな国民になるために、人類の歴史・国家の歴史を受け継いで日本国民としての遺伝子を後天的に獲得するために、教育を受けなければならないのですし、国家は、自らの存続・発展のためにそれを行う責任があるのです。ところが、そういう当たり前のことすら、憚りがある現実は本当に異常です。
この人間は本質的に社会的・国家的存在であるということを、国家を否定するマルクスは、「類的存在」などと曖昧にしてぼかし。国家の解体を企図する金融グローバリストの意を受けた誤用思想家が、自然権に基づく基本的人権、などという非学問的な屁理屈にすぎない概念を、人類と関係のない外部から持ち込んで、あたかも国家と関係のないところに、人権なるものが存在するかのようにしてしまったのです。ここから、その人権に守られて、勝手をするのが自由となって、国家がガタガタになっていくのです。これが、現在の日本の現実であり、それに対するいら立ちが、二階発言を引き出したのです。
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