カウンター 学問の自由の本当の意味とはどういうものか? - 談論サロン天珠道
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[2858] 学問の自由の本当の意味とはどういうものか?
愚按亭主 - 2018年06月08日 (金) 22時26分

 杉田水脈議員が、国会にて、国家の発展に寄与すべき文科省の補助金:科研費が、日本国に敵対的な外国の団体と親密な研究者の、日本国を貶める研究に提供されているのは、おかしいのではないか!と問い質しているところを、拍手喝さいしながら動画で見ました。

 ところが、SNSなどによると、これに対して、どうやら批判された側がいろいろ反論しているようです。その主な論点は、政治は学問の自由に介入すべきでない、これは改憲勢力による護憲勢力の力を削ごうとする陰謀である、人類の幸福という正義のために、悪の国家を騙して利用するのは、当然であり正当な行為である、などがあります。

 反論の反論に移る前に、この質問に対する文科大臣の答弁が、法令等に規定された手続に従って行っているというもので、一体どこの国の大臣なのか分からない、国家第一主義ならぬ省益第一主義の煮え切らぬ答弁に終始したことには、大いに失望させられました。杉田議員は遠慮して、それ以上は追及しませんでしたが、これは、日本国が、日本国を貶める活動に資金援助していることですから、海外の慰安婦問題に対する外務省のサボタージュよりも、ずっと質の悪い問題だと思います。

 さて、話を本題に戻して、まずは、杉田議員の国会での質問が、学問の自由に対する政治の介入になるのか?という問題ですが、もし、国家が、その研究を禁止したのであれば、学問の自由を持ち出して反論することは、一定の合理性・正当性を有します。ところが、科研費の問題は、国家が国家の発展のために学問をどう使うかという、政治の問題です。国家が学問をどう使うかは国家の自由であって、学問の自由の問題ではありません。

 ですから、その使い方が国家のためにはなっていないのではないか、という杉田議員の質問は、極めて妥当で正当な政治活動ですので、学問の自由を振りかざしてとやかく言われる筋合いはありません。それを、ことさらにスジ違いの学問の自由を持ち出して、正当な政治活動を押さえつけようとすることの方が、スジの通らない歪んだ政治活動であり、むしろ「学問の自由」を冒涜する行為であると言えます。

 つまり、「学問の自由」を持ち出して、杉田議員の国家の金の使い道を正そうとする活動を妨害して、自らの科研費受給を守ろうとすること自体が、政治活動そのものであって、<学問の自由>の主体的精神に反するものだということです。そして、そういう行為が一体何を意味するかと云いますと、その反論者の研究と称するものが、学問といえる代物では到底なく、杉田議員がいみじくも指摘しているように、日本国を貶めるための、政治的(反日的)プロバガンダの材料を見つけ出すための歪んだ研究でしかないということです。

 他の反論は、検討する価値のない低次元のものですから、ここでは、そもそも<学問の自由>とはどういうものであるか、という根源的な問題について検討してみたいと思います。というのは、私は常々、日本の再生は学問をもってする、学問立国を目指すべきである、と説いてきたからです。

 正直言って、現在、「学問の自由」は死語になってしまっていると思います。それは、かつて「学問の府」と称された大学の現実が、そのことを如実に物語っていると思います。文科省や教授の顔色を窺って、自由にものを云えない現実が存在するからです。しかし、それは現象的な問題にすぎず、本質的な問題は、現在の大学には、そもそも学問自体が存在しない、という厳しい現実があることです。あるのは、実用科学技術の研究ばかりだからです。だから、学生たちは、青雲の志をもって大学に入っても、指導されるのは、データベースで、誰もやっていない重箱の隅をつつくようなつまらないテーマを、わざわざ検索して調べて設定して、その研究させられるという退屈な日々に嫌気を指して、離れて行く学生が多いという現実があるのです。

 学問の自由を云々するのであれば、こういう現実こそが問題にされなければなりません。ところが、皮肉なことに、こういう現実を作り出した大本が、「学問の自由」を政治利用する者たちの信奉するマルクスなのです。マルクスは、哲学を否定し、学問の冠石を否定し、学問の体系化に必要不可欠なヘーゲルの弁証法を壊して、役に立たない中古のポンコツに最新の装飾を施して、さも本物の学問的な弁証法だと偽って、人類を騙したのです。

 そもそも学問とは、この世界のあり方に即して、世界を論理的に体系化するものです。つまり学問は、本来、体系化を本文とするものなのです。したがって、部分的な事実にもとづく科学的な相対的真理は、すべて哲学的・全体的な絶対的真理の体系の中に正しく位置付けられ、組み込まれて、初めて、学問的真理となります。ですから、実用的な科学的真理は、それだけでは学問とは言えないのですが、ほとんどの研究者は、自らの研究の成果を学問化しようという意志を持っていないのが、偽らざる現実です。

 それは無理もないことなのです。マルクス以来、学問の冠石・統括者であるべき哲学が否定されてしまったので、学問の体系化の道は閉ざされてしまったからであり、学問への道がなくなってしまったからです。だから、学問とは名ばかりで、実用的な科学技術の研究だらけになってしまって、学問そのものを志す者がいなくなってしまったのです。これが、「学問の府」であるべき大学が、実質的に「学問の府」でなくなってしまった理由です。

 学問立国を目指す日本が、まずなすべきは、本物の学問の復活であり、そのためのヘーゲルの復権なのです。

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