[2857] なぜ今ヘーゲルの復権なのかを再確認 |
- 愚按亭主 - 2018年06月01日 (金) 09時21分
今の人類にとって、ヘーゲルの復権がどれほど重要であるか、がなかなかに分かってもらえないようですので、そのことが分かってもらえるように、ここでまとめてみたいと思います。
1、人類の使命とは何か ヘーゲルは、絶対精神の自己運動として、すなわち、絶対的本質の発展の道筋を描いた全体像を、学問が学問として完成するために必須な<学問の冠石>として創り上げました。このことは、人類とは何か、絶対的本質としての本流であることを自覚した人類が、本流として歩むべき道を明確に示してくれたことになります。
そこでヘーゲルが説いた最も重要なことは、人間自身が<神>になるべきだ、としたことです。この主張は、敬虔なキリスト教社会であったその当時の西洋社会においては、猛烈な反発を招くことになりました。その筆頭がキルケゴールです。
また、一方で、当時の西洋社会は、台頭する科学と、それまでの精神世界を支配してきたキリスト教との対立が顕著になっていた時期でもありますが、ヘーゲルは、この観念論的な宗教と、唯物論的な科学との対立を、絶対観念論の立場から学問的に統体止揚し、その解決の道を示していたのにもかかわらず、マルクスはそれが理解できず、同じ観念論だとして葬ってはならない<ヘーゲルの学問>の方を葬ってしまったのです。結果として、宗教は、己の進むべき道を閉ざされて、いつまでもはびこることになってしまって、人類に害を与え続ける存在になってしまっているのです。
では、ヘーゲルの説く解決の道とは、どういうものであったかと云いますと、哲学と宗教とは、同じ観念論の立場に立って、同じく絶対性を追究するものですが、その絶対性を、宗教は、その中身をすでにあるものとして問わない形で、絶対性を外部に求め、一方、哲学は、世界そのもののうちに絶対性が存在するとして、その中身を問う形で絶対性を内部に求めて追究していきました。
その結果はどうなったかと云いますと、初めの方こそ哲学と宗教は互いに影響し合い、協力し合って発展していきましたが、ある程度形が整いますと、宗教は、発展することを止め(というよりそれ以上の発展は不可能となり)、もっぱら現世の人間の支配の方に力を注ぎ、学問は真摯にその絶対性を追究していき、ついに絶対的真理にまで至ることができました。それがヘーゲル哲学だったのです。
そして、ヘーゲルは、学問は、宗教の必然性とその長所・短所とをすべて分かった上で、自らの内部にそれを構造化するものであると説いています。そして、宗教は、絶対性への信仰を外部に向けるのではなく、己自身の内部にある絶対性に対する絶対的信仰という正しい姿に改めることによって、その信仰の下で行う修行によって自らを高め、自らを神としての主体性を確立することによって、真の人間として自立するという、人類の歩むべき道を説いたのです。これによって、宗教が人間の主体性の確立・自立の道を阻んでいるという深刻な偽らざる現実を、根本的に解決できる道を示したのです。これこそが、現在世界中で頻発している、最早合理性を喪失している昔の相対的真理を神格化(絶対化)している、あるいは自分たちの邪悪な意図を、神の威を借りて正当化する形で行われている理不尽を、根本的に解決できる道が切り拓かれることになります。それこそが、宗教を構造化できる真の学問の使命なのです。
かくしてヘーゲルの説く<人類の使命>とは、この世界の絶対的本質の自己運動の結果として、絶対的本質たる己自身を自覚しうる最高の発展形態として生まれた人類が、学問の研鑽によってそのことを自覚して、目的意識的に学問を完成して、自ら<絶対理念=神>となって、あらまほしき世界創造をして、世界の発展を牽引していくということです。そういう世界創造を担う本流としての人類とは、すなわち国家に他なりません。したがって、そう云う事が学問的に明らかにされた暁には、国家は、学問的・目的意識的に、これを、国家の理念・普遍性とすべきなのです。ですから、日本国はそういう理念を憲法化すべきであるし、日本国民もそういう日本国の国民としてふさわしい国民となるべく努めなければならない、ということなのです。
2、マルクスが終焉させた哲学の歴史は、本来の輝きを取り戻さなければならない! この問題の答は、なぜ人類が誕生したのか?という根源的な問題を解くことによって、明らかになります。すなわち、そもそも人類がなぜ誕生したかといえば、それは、それまでの動物的な遺伝子の論理能力に基づく本能の限界を、根本的に乗り越えるためだったのであり、より大局的な観点から云えば、絶体的本質が絶対的本質である己自身の姿を堂々と現わす形で己自身に回帰するため(できるようになるため)だったのです。これだけでは、何のことかわからない人が殆どであろうと思いますので、もっと具体的且つ詳しく説明しましょう。
人類が、自らの基盤としながらも、その限界性を根本的に克服しようとしたものは、動物的な遺伝子の相対的真理レベルの事実にもとづく論理能力の限界性です。つまり、即自的・局所的な事実の論理の限界性です。これに対して、人類が誕生してから発達した唯物論的な科学的な事実の論理に基づく方法論は、、たしかに動物的な限界性を乗り越えて一定の発展性を示すものではありますが、それはあくまでも動物的な相対的真理レベルの事実の論理能力の延長線上の発展に過ぎないものであって、本当の意味で、<人類が誕生する必然性の核心>をなすほどのものではないのです。
では、その核心をなすほどのものとは一体何か?といいますと、局所性・即自性の限界を根本的に克服できるのは、全体性・対自性です。その全体性・対自性を獲得するためには、一旦即自性を否定し、局所性から離れる必要がありました。だから動物的な遺伝子・本能は止揚されなければならなかったのです。それによって、生まれたのが、即自性と対自性とに二重構造化した人間の認識です。
そして、その人間の認識の対自性が創り上げた最たるものが、全体性の究極の論理である<絶対的真理>を追究する哲学です。その<絶対的真理>を追究する全体性の論理を扱うのが思惟であり、思惟能力です。この思惟能力は、動物的な遺伝子の論理能力とは、まったく異次元のものであり、新たに創り上げなければ、絶対に手に入れることのできない、人間にだけ可能な、許されたものなのです。ですから、これを手に入れるために人類は人間になった、と言っても過言ではないほどのものなのです。したがって、その全体性の論理を扱う思惟能力の鍛錬・技化は、人類が真の人間になるために、必ず行わなければならないとても重要で必須な、必然的な過程なのです。
その過程を人類レベルで創り上げたのが、ギリシャ哲学からドイツ哲学にいたる哲学の歴史なのであり、その完成形態がヘーゲルの哲学に他なりません。ですから、この哲学の歴史は、人類史においてもっともっと燦然と輝いていなければなりませんが、マルクスやエンゲルスによって、「哲学の歴史はヘーゲルとともに終焉する」などと規定されて、過去の遺物扱いされてしまっているのが現状です。
しかし、人類が、新たな人間的本能として頭の中に創像し対象化すべき、論理的に体系化された世界の全体像である<精神の王国>は、動物的・唯物論的な科学的思考能力だけでは、到底到達不可能なもので、哲学的な思惟能力があって、はじめて創り上げることが可能となるものです。したがって、その哲学を貶めるマルクス・エンゲルスの規定は、人類の真の人間への道を閉ざす大罪に値するものであり、妄言でしかありません。
3、ヘーゲルの弁証法の真骨頂をどう受け継ぐべきか? 哲学史における思惟の発展は、無を否定し、運動を否定するすることによって獲得された、パルメニデスの「世界は一にして不動」から出発して、はじめは、その固定的な規定を矛盾することなく貫く論理が追究されることになります。それがゼノンの詭弁です。運動しているように現象している矢も一点に動かないとする論理が追究され、常識的には明らかに変化するであろう関係性も変化しない論理が追究されたのが、ゼノンの詭弁です。 かくして、あれはあれ、これはこれ、というあれかこれかの固定的な形式論理学がまず創られました。これがギリシャ哲学の成果です。時が過ぎ、19世紀のドイツで、カントが、相反する正反対の論理がそれぞれに成立することを、反証の方法を用いて論理的に証明することによって「二律背反」という命題間矛盾が成立する、と問題提起をしました。しかしながら、これは、あくまでも、命題と命題との間の矛盾であって命題内部では矛盾のない、旧来型のあれかこれかの形式論理学のままですので、運動が生じようがないものでした。
これを革命的に変えて、本当に運動の生じる矛盾の論理として、運動体の弁証法を完成させたのが、ヘーゲルです。そして、そのヒントとなったのが、ギリシャ哲学のヘラクレイトスの、有も、無も、肯定した上で、その両者の統一によって成が生じる、すなわち、運動が生じるとした論理です。ところが、ギリシャ哲学の時代においては、このヘラクレイトスの論理は、パルメニデスやゼノン以上に理解されなかったのです。プラトンも、はじめはこのヘラクレイトスの論理に注目したようですが、途中で放棄して離れていってしまい、パルメニデスやゼノンの論理を発展させる方向に向かってしまいます。つまり、第一の否定の段階では、第二の否定の論理は理解され難かったということです。ただ、その一方で、そうであるからこそ尚更のこと、ギリシャ哲学の段階で、運動体の弁証法の萌芽がすでに存在していたということは、本当に凄いことであったのです。まさに、原基形態の中にすべての要素が含まれているという箴言は、まさしく真理なのだ、ということをこの事実は示していると思います。
このヘラクレイトスの論理を、はじめて正しく評価できたのはヘーゲルであり、ヘーゲルは、弁証法の祖を、ゼノンではなくヘラクレイトスである、と明確に述べています。そして、ヘーゲルの「大論理学」はこのヘラクレイトスの論理を基礎にして展開されているのです。実際のところ、このヘラクレイトスの論理を、本当の意味で分かるためには、形式論理学的な判断を破壊することなしには不可能です。だから、ギリシャ哲学の哲人たちはヘラクレイトスの真価を見抜くことができなかったのです。
たとえば、有と無との関係について、有は無であると云われると、おそらくは強烈な違和感があると思います。なんで有が無なのか?有は有であって無でないから有なのに、それが無だなどと無茶苦茶だとなるはずです。こういう感覚は、形式論理学的な常識の中で創られたものですから、それを壊さなければならない、ということです。それを行ったのが、ヘーゲルの形式論理学の判断破壊です。
これを真面目にやらなかったから、マルクス主義は、直接的同一性とかあれもこれもが存在する、と知識的には分かったつもりになっても、その実態は、あれかこれかのままだったのです。つまり、ヘーゲルの弁証法を受け継ぐためには、この過程を真面目にやって、自分自身を根本的な変える必要があるということです。マルクス主義は、これをやらなかったから、ヘーゲルを正しく理解できず、自分が理解できないのはヘーゲルの方が悪いからだ、と責任を相手に押し付けて、やらなければならなかった自らの内なる判断破壊は行わずに、やってはならないヘーゲルの正当な学問の破壊の方を、一所懸命やってしまったのです。
結果として、現在の世界は、解決できない対立が激化するばかりで、一向に出口の見えないままになってしまっているのです。だからこそ、<ヘーゲルの復権>が、なんとしても必要なのです。なぜなら、ヘーゲルの弁証法はこれらの対立の統体止揚という解決の道を提示してくれるものからです。具体的に云いますと、民主主義と国家主義との対立の統体止揚の道、ナショナリズムとグローバリズムとの対立の統体止揚の道、学問と宗教の対立の統体止揚の道、国家と国民との対立の統体止揚の道、自由と必然性との統体止揚の道等々を切り拓いてくれるものが、ヘーゲルの学問的な弁証法だからです。
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