[2851] 少子化問題、移民問題の議論には肝心な点が欠けている |
- 愚按亭主 - 2018年05月22日 (火) 10時28分
現在の日本は、少子化による国家を支える労働の担い手不足による、日本国の存亡の危機を迎えています。当然、それに対する対策もいろいろ議論されているようです。
たとえば、給料が上がれば、結婚する若者も増え子供も増える、という相関関係を示す統計を示して、日本国民の賃金を低く抑えようとする動きを批判するものなどがあります。確かにこれは、マルクスが解明した資本主義の原理からしても、労働力の再生産を不能にするという意味において理不尽なことだといえます。しかし、こういう議論は、すべて現象論であって、肝心な点が抜けておりますので、根本的な対策とはなりえない、と考えられます。
この少子化の問題は、国家の存亡にかかわる問題ですから、当然にも、正しい国家論からの検討がまず第一になされなければなりません。そこでまず問題になるのは、現在の主流となっている国民主権の国民国家論なるものが、はたして国家論として正しいのか否か、という議論がなされなければなりません。というのは、現在の少子化という国家の危急存亡の危機を招いたのは、その国民国家論の下でのことだからです。つまり、国民国家論は、少子化問題には無力であるばかりか、そこから派生してくる国家の崩壊を招きかねない移民問題に対しても、全く正しい答えを導き出せない代物でしかありません。
それは何故かと云いますと、国民国家論は、ヘーゲルがその本質を見事に喝破し、批判したように、「国家と市民社会を混同」した、個人の自由をベースにした市民社会のサークル活動に毛が生えた程度の代物でしかないからです。
ただ、同じ国民国家論でも、本家本元である西洋の国民国家論は、ナポレオン戦争を経験して国民国家としての戦争を体験した国民国家論であるだけに、個人主義ながらも国家というものを誇りをもって守るべき大事な存在だとする、国家意識が立派に存在している分、まだ良いようです。
これに対して、日本の国民国家論は、戦前の日本の国家を悪とみなす自虐史観教育によって徹底的に洗脳され、それに加えて、ペキンテルンの工作が陰に陽に加わっての戦後のマルクス主義の大流行によって、体制・国家権力=悪という意識が多くの国民に定着してしまった結果として、国家に反抗して国民の権利・自由を守るのが正義であるかのような歪な国民主権の国民国家論になってしまっている現実があります。
そういう日本の現実は、良識ある人々の奮闘によって、自虐史観の影響はかなりな部分克服されつつあるように見受けられますが、もう一方の、なぜ国民主権の国民国家論では国家をまともに発展させることができないのか?なぜマルクス主義は国家を堕落・崩壊させてしまうのか?に関しては、まだまだ学問的な議論・解答が皆無であることこそが、何よりも最大の問題だと思います。
まず、なぜ国民主権の国民国家論では駄目なのか?という問題ですが、この国家論は、国家論が国家論として一人前に完成する途上における、第一の否定としてのアンチテーゼとしての仮の国家論に過ぎないもので、最終的には第二の否定として克服さるべき国家論に過ぎないものだからです。これはどういうことかを、人間の一生に例えて云いますならば、子供から一人前の大人へ脱皮するための、自我の芽生える思春期の反抗期時代の自分が、すなわち国民国家論に相当するということです。つまり、自然成長的に家族の一員・国家の一員として存在していた自分が、自分自身の主体性を確立するために一旦家族を否定し、国家を否定して、主体的・目的意識的に自己を確立するための自分探しの過程を経て、やがて自ら主体的にその過程を否定(第二の否定)的に媒介して即自的な自己と対自的な国家とを統体止揚した真の国家第一主義の担い手となる自己を確立する過程の中の、国家を否定する第一の否定の過程がすなわち国民国家の過程だということです。
だから、国民国家の過程では、一時的に国家はガタガタになってしまうのです。ましてや、マルクス主義という悪友に唆されて、国家を壊す悪行に手を染めてしまうと、なかなか抜けられなくなってしまいやすくなります。
だから、そこから卒業できるようにするためにも、共産主義は駄目だ、という感情論ではなく、なぜ駄目なのかのマルクス主義の原理的な誤謬を理論的に把握しておく必要があるのです。マルクス主義の最も根底にある原理的な誤謬は、ヘーゲルの弁証法が、それまでのあれかこれかの形式論理学の判断を、劇的・革命的に破壊することを通じて形成されたという過程を受け継ぐ努力をしないで、安易に結果だけを知識的に貰った結果として、対立物の統一のできない敵対的矛盾だけのニセモノの弁証法にしてしまったことです。その結果、ヘーゲルが、統一体としての国家の内部構造に過ぎない階級対立を統一するための媒介を重視していることを、批判し否定してしまったために、国家と国民とを統一してとらえる術を失ってしまったのです。そして、そのことが、現代に至って、国家の存亡の危機という共通課題があっても、その国家としての第一義的な課題はそっちのけにして、何が何でもモリカケで安倍政権を倒すという、マスコミ・ヤトウの精神構造の土台をなしているのです。
ヘーゲルは、奴隷労働の中にも、人間の本質としての人間らしさが存在することを指摘していますが、それを読んだマルクスは激しく反発して、ヘーゲルは労働の負の側面を見ていない、と批判しました。ところが、このヘーゲルの説いた、<労働のもつ本質的な人間らしさ>こそが、学問を用いて自然を合理的に創り変えて世界創造をしていくという<人類の使命>(同じことが「古事記」の前文にも説かれているそうです!)に他ならないのです。その通りに、マルクスがこれを激しく否定し、見ようとしなかった結果として、マルクス主義に染まった労働者は、賃上げしか興味がなく、労働者でありながら自らの労働に誇りを持たず、<人間の本質としての労働>を真面目に実践しようとはしなかったのです。だから、共産主義は、即自的欲求の自由にすぎない資本主義にも負けて、大失敗して崩壊の軌跡を辿ることになってしまったのです。その根本的な責任は、マルクスの原理的な誤謬にあります。ところが、その反省もなく、間違いだらけのマルクスを持ち上げて、その轍を踏もうとする大バカ者が、隣の国に登場していることには、開いた口が塞がらない驚きです。
そのマルクスの犯した原理的な誤謬の一つである人間解放論の誤りは、ヘーゲルが、人間の解放は、個人としての人間の内における、国民としての即自的自由と、学問的・国家的な対自的自由との、統一・止揚によって達成される即自対自の自由にあると説いているのに、それを無視して、抑圧されている労働者こそが真の人間解放の担い手だとして、労働者のむき出しの即自的認識をそのまま放っておいて、ただその抑圧を跳ね返すこと自体が、人間解放だとしてしまったことです。そして、そこからマルクス主義者たちは、抑圧された即自的感情を解放することが人間解放だとして、芸術家と自称する連中は、性の露骨な表現を、国家によって抑圧された即自的感情を解放する前衛芸術の人間解放の実践だと吹聴し、その歪んだ認識を社会に垂れ流して国家の堕落・崩壊を画策してきたのです。そういうマルクス主義者が、国家の教育行政のトップに座ると、売春の香りが濃厚に漂う出会い系バーに通い詰めることに何のためらいもなく、それが発覚した後も、平気で子供たちの前で教育論を説けるという厚顔無恥をさらけ出すことになるのです。
その肝心の教育の問題ですが、現在の主流は、画一教育の否定・個性の尊重・初めから子を作る気のないLGBTなどの多様性の重視ということになると思いますが、これはまさにマルクス主義の国家解体の教育方針に他なりません。ところが個人の即自的自由の尊重をベースとする国民主権の国民国家論は、この国家解体の教育方針に対して、国家を守る武器・論理を持たない無力な国家論に過ぎず、それどころか取り込まれてしまって、むしろ手を貸している現実があります。そして、その現実が、パワハラ・セクハラの頻発する土壌となっている一方で、それに対する社会的抑制の対策も、個人の即自的感情の問答無用的絶対視によって行われるという同じ土壌での袋小路的・対症療法的解決の仕方であって、何らの根本的解決につながらないものでしかありません。
じつは、この問題は、少子化の問題とまったくの同根からくるものであって、その根本的解決は、欠陥だらけの国民国家論では、限界があって無理な話なのです。そこで提言したいことは、この問題の根本的解決には、マルクスによって封じ込められ、マルクスを根本的に克服できる唯一の、ヘーゲルの学問的な弁証法、学問的な国家論に基づく国家の立て直し、再生が必須となるということです。
このヘーゲルの学問的な国家論の説く国家とは、巷に言われているような国家法人説なる低次元なものではなく、目下の現在の宇宙・世界の発展を主導的に牽引する絶対的本質の現象形態としての国家のことです。これが、全宇宙を貫くところの国家の本質論であり普遍性なのです。ですから、国家は、全宇宙に対して責任をもつものでなければなりません。それが、絶対理念を目指す人類の国家の、あるべき姿なのです。そして、その具体的形態は、国家の理念・普遍性を体現する国家そのものとしての君主とその下での統轄機関と国民とで構成される立憲君主制であるべきです。
そうした立憲君主制国家にあっては、先日の天皇の慰問の時のように天皇が正座で国民の側が胡坐のまま応対するような、君主が国民の下にヘリ下っていくのではなく、国家の理念であり普遍性である高貴な天皇に、国民の側が一歩でも二歩でも近づこうと努力し、よじ登っていく姿こそが、本来の姿というべきです。何よりも強調すべきは、わが日本国は、自然成長的ながらも、そういう道を歩んできた、世界で唯一の国家だったのです。だから、その誇り高さ、品性の高潔さは世界中の信頼を得ていたのです。先の大東亜戦争は、そういう道を歩んできた人倫国家日本が、欧米の人種差別的植民地奴隷主義国家に対して、十分な準備も整わないままに已むに已まれず果敢に挑んだ戦いだったのです。その結果、戦争には敗れたとはいえ、多くの植民地は解放され、奴隷主義国家群は人倫主義国家ぶらずにはいられない世界が現出したのです(もちろんその実質は変わってはいませんが・・)。
ですから、国家はそういう日本の国家としての歩みを国民にしっかりと教えなければなりません。そうした立派な国家の一員だという誇りと喜びを教えたならば、みなそうした国家の立派な一員となろうと思うはずです。そうなったならば、陰湿ないじめもなくなり、いじめられた側も、いじめられた即自的感情のままに、自殺する子もなくなるはずです。また、国家のことを自分の問題として考える子も増えて、少子化は大事な国家が衰退していくことだと分かれば、率先して子作りする若者も増えて来るはずです。結婚式場で丈夫な子をたくさん作って育てて下さい、と言っただけで差別だ!などと騒がれることもなくなるはずです。もちろん、企業などの社会のすべての組織も率先して協力するようになるはずです。
また、少子化に伴う移民問題についても、他の国の者が、日本の国籍を取得する基準として、現在のような、誰でも悪意を持った者でも、簡単に国籍を取得できるようなシステムは改めなければなりません。日本の国家の中で、日本に同化しないようにする教育や、日本を害する他国のため働くようにする教育が、堂々と行われている現実は、全く理不尽です。日本の普遍性・伝統・文化を受け入れ、それに同化する意志をもった者のみに、国籍を与えるべきです。
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