カウンター 少子化問題、移民問題の議論には肝心な点が欠けている - 談論サロン天珠道
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[2851] 少子化問題、移民問題の議論には肝心な点が欠けている
愚按亭主 - 2018年05月22日 (火) 10時28分

 現在の日本は、少子化による国家を支える労働の担い手不足による、日本国の存亡の危機を迎えています。当然、それに対する対策もいろいろ議論されているようです。

 たとえば、給料が上がれば、結婚する若者も増え子供も増える、という相関関係を示す統計を示して、日本国民の賃金を低く抑えようとする動きを批判するものなどがあります。確かにこれは、マルクスが解明した資本主義の原理からしても、労働力の再生産を不能にするという意味において理不尽なことだといえます。しかし、こういう議論は、すべて現象論であって、肝心な点が抜けておりますので、根本的な対策とはなりえない、と考えられます。

 この少子化の問題は、国家の存亡にかかわる問題ですから、当然にも、正しい国家論からの検討がまず第一になされなければなりません。そこでまず問題になるのは、現在の主流となっている国民主権の国民国家論なるものが、はたして国家論として正しいのか否か、という議論がなされなければなりません。というのは、現在の少子化という国家の危急存亡の危機を招いたのは、その国民国家論の下でのことだからです。つまり、国民国家論は、少子化問題には無力であるばかりか、そこから派生してくる国家の崩壊を招きかねない移民問題に対しても、全く正しい答えを導き出せない代物でしかありません。

 それは何故かと云いますと、国民国家論は、ヘーゲルがその本質を見事に喝破し、批判したように、「国家と市民社会を混同」した、個人の自由をベースにした市民社会のサークル活動に毛が生えた程度の代物でしかないからです。

 ただ、同じ国民国家論でも、本家本元である西洋の国民国家論は、ナポレオン戦争を経験して国民国家としての戦争を体験した国民国家論であるだけに、個人主義ながらも国家というものを誇りをもって守るべき大事な存在だとする、国家意識が立派に存在している分、まだ良いようです。

 これに対して、日本の国民国家論は、戦前の日本の国家を悪とみなす自虐史観教育によって徹底的に洗脳され、それに加えて、ペキンテルンの工作が陰に陽に加わっての戦後のマルクス主義の大流行によって、体制・国家権力=悪という意識が多くの国民に定着してしまった結果として、国家に反抗して国民の権利・自由を守るのが正義であるかのような歪な国民主権の国民国家論になってしまっている現実があります。

 そういう日本の現実は、良識ある人々の奮闘によって、自虐史観の影響はかなりな部分克服されつつあるように見受けられますが、もう一方の、なぜ国民主権の国民国家論では国家をまともに発展させることができないのか?なぜマルクス主義は国家を堕落・崩壊させてしまうのか?に関しては、まだまだ学問的な議論・解答が皆無であることこそが、何よりも最大の問題だと思います。

 まず、なぜ国民主権の国民国家論では駄目なのか?という問題ですが、この国家論は、国家論が国家論として一人前に完成する途上における、第一の否定としてのアンチテーゼとしての仮の国家論に過ぎないもので、最終的には第二の否定として克服さるべき国家論に過ぎないものだからです。これはどういうことかを、人間の一生に例えて云いますならば、子供から一人前の大人へ脱皮するための、自我の芽生える思春期の反抗期時代の自分が、すなわち国民国家論に相当するということです。つまり、自然成長的に家族の一員・国家の一員として存在していた自分が、自分自身の主体性を確立するために一旦家族を否定し、国家を否定して、主体的・目的意識的に自己を確立するための自分探しの過程を経て、やがて自ら主体的にその過程を否定(第二の否定)的に媒介して即自的な自己と対自的な国家とを統体止揚した真の国家第一主義の担い手となる自己を確立する過程の中の、国家を否定する第一の否定の過程がすなわち国民国家の過程だということです。

 だから、国民国家の過程では、一時的に国家はガタガタになってしまうのです。ましてや、マルクス主義という悪友に唆されて、国家を壊す悪行に手を染めてしまうと、なかなか抜けられなくなってしまいやすくなります。

 だから、そこから卒業できるようにするためにも、共産主義は駄目だ、という感情論ではなく、なぜ駄目なのかのマルクス主義の原理的な誤謬を理論的に把握しておく必要があるのです。マルクス主義の最も根底にある原理的な誤謬は、ヘーゲルの弁証法が、それまでのあれかこれかの形式論理学の判断を、劇的・革命的に破壊することを通じて形成されたという過程を受け継ぐ努力をしないで、安易に結果だけを知識的に貰った結果として、対立物の統一のできない敵対的矛盾だけのニセモノの弁証法にしてしまったことです。その結果、ヘーゲルが、統一体としての国家の内部構造に過ぎない階級対立を統一するための媒介を重視していることを、批判し否定してしまったために、国家と国民とを統一してとらえる術を失ってしまったのです。そして、そのことが、現代に至って、国家の存亡の危機という共通課題があっても、その国家としての第一義的な課題はそっちのけにして、何が何でもモリカケで安倍政権を倒すという、マスコミ・ヤトウの精神構造の土台をなしているのです。

 ヘーゲルは、奴隷労働の中にも、人間の本質としての人間らしさが存在することを指摘していますが、それを読んだマルクスは激しく反発して、ヘーゲルは労働の負の側面を見ていない、と批判しました。ところが、このヘーゲルの説いた、<労働のもつ本質的な人間らしさ>こそが、学問を用いて自然を合理的に創り変えて世界創造をしていくという<人類の使命>(同じことが「古事記」の前文にも説かれているそうです!)に他ならないのです。その通りに、マルクスがこれを激しく否定し、見ようとしなかった結果として、マルクス主義に染まった労働者は、賃上げしか興味がなく、労働者でありながら自らの労働に誇りを持たず、<人間の本質としての労働>を真面目に実践しようとはしなかったのです。だから、共産主義は、即自的欲求の自由にすぎない資本主義にも負けて、大失敗して崩壊の軌跡を辿ることになってしまったのです。その根本的な責任は、マルクスの原理的な誤謬にあります。ところが、その反省もなく、間違いだらけのマルクスを持ち上げて、その轍を踏もうとする大バカ者が、隣の国に登場していることには、開いた口が塞がらない驚きです。

 そのマルクスの犯した原理的な誤謬の一つである人間解放論の誤りは、ヘーゲルが、人間の解放は、個人としての人間の内における、国民としての即自的自由と、学問的・国家的な対自的自由との、統一・止揚によって達成される即自対自の自由にあると説いているのに、それを無視して、抑圧されている労働者こそが真の人間解放の担い手だとして、労働者のむき出しの即自的認識をそのまま放っておいて、ただその抑圧を跳ね返すこと自体が、人間解放だとしてしまったことです。そして、そこからマルクス主義者たちは、抑圧された即自的感情を解放することが人間解放だとして、芸術家と自称する連中は、性の露骨な表現を、国家によって抑圧された即自的感情を解放する前衛芸術の人間解放の実践だと吹聴し、その歪んだ認識を社会に垂れ流して国家の堕落・崩壊を画策してきたのです。そういうマルクス主義者が、国家の教育行政のトップに座ると、売春の香りが濃厚に漂う出会い系バーに通い詰めることに何のためらいもなく、それが発覚した後も、平気で子供たちの前で教育論を説けるという厚顔無恥をさらけ出すことになるのです。

 その肝心の教育の問題ですが、現在の主流は、画一教育の否定・個性の尊重・初めから子を作る気のないLGBTなどの多様性の重視ということになると思いますが、これはまさにマルクス主義の国家解体の教育方針に他なりません。ところが個人の即自的自由の尊重をベースとする国民主権の国民国家論は、この国家解体の教育方針に対して、国家を守る武器・論理を持たない無力な国家論に過ぎず、それどころか取り込まれてしまって、むしろ手を貸している現実があります。そして、その現実が、パワハラ・セクハラの頻発する土壌となっている一方で、それに対する社会的抑制の対策も、個人の即自的感情の問答無用的絶対視によって行われるという同じ土壌での袋小路的・対症療法的解決の仕方であって、何らの根本的解決につながらないものでしかありません。

 じつは、この問題は、少子化の問題とまったくの同根からくるものであって、その根本的解決は、欠陥だらけの国民国家論では、限界があって無理な話なのです。そこで提言したいことは、この問題の根本的解決には、マルクスによって封じ込められ、マルクスを根本的に克服できる唯一の、ヘーゲルの学問的な弁証法、学問的な国家論に基づく国家の立て直し、再生が必須となるということです。

 このヘーゲルの学問的な国家論の説く国家とは、巷に言われているような国家法人説なる低次元なものではなく、目下の現在の宇宙・世界の発展を主導的に牽引する絶対的本質の現象形態としての国家のことです。これが、全宇宙を貫くところの国家の本質論であり普遍性なのです。ですから、国家は、全宇宙に対して責任をもつものでなければなりません。それが、絶対理念を目指す人類の国家の、あるべき姿なのです。そして、その具体的形態は、国家の理念・普遍性を体現する国家そのものとしての君主とその下での統轄機関と国民とで構成される立憲君主制であるべきです。

 そうした立憲君主制国家にあっては、先日の天皇の慰問の時のように天皇が正座で国民の側が胡坐のまま応対するような、君主が国民の下にヘリ下っていくのではなく、国家の理念であり普遍性である高貴な天皇に、国民の側が一歩でも二歩でも近づこうと努力し、よじ登っていく姿こそが、本来の姿というべきです。何よりも強調すべきは、わが日本国は、自然成長的ながらも、そういう道を歩んできた、世界で唯一の国家だったのです。だから、その誇り高さ、品性の高潔さは世界中の信頼を得ていたのです。先の大東亜戦争は、そういう道を歩んできた人倫国家日本が、欧米の人種差別的植民地奴隷主義国家に対して、十分な準備も整わないままに已むに已まれず果敢に挑んだ戦いだったのです。その結果、戦争には敗れたとはいえ、多くの植民地は解放され、奴隷主義国家群は人倫主義国家ぶらずにはいられない世界が現出したのです(もちろんその実質は変わってはいませんが・・)。

 ですから、国家はそういう日本の国家としての歩みを国民にしっかりと教えなければなりません。そうした立派な国家の一員だという誇りと喜びを教えたならば、みなそうした国家の立派な一員となろうと思うはずです。そうなったならば、陰湿ないじめもなくなり、いじめられた側も、いじめられた即自的感情のままに、自殺する子もなくなるはずです。また、国家のことを自分の問題として考える子も増えて、少子化は大事な国家が衰退していくことだと分かれば、率先して子作りする若者も増えて来るはずです。結婚式場で丈夫な子をたくさん作って育てて下さい、と言っただけで差別だ!などと騒がれることもなくなるはずです。もちろん、企業などの社会のすべての組織も率先して協力するようになるはずです。

 また、少子化に伴う移民問題についても、他の国の者が、日本の国籍を取得する基準として、現在のような、誰でも悪意を持った者でも、簡単に国籍を取得できるようなシステムは改めなければなりません。日本の国家の中で、日本に同化しないようにする教育や、日本を害する他国のため働くようにする教育が、堂々と行われている現実は、全く理不尽です。日本の普遍性・伝統・文化を受け入れ、それに同化する意志をもった者のみに、国籍を与えるべきです。
 

Pass

[2852]
質問者 - 2018年05月22日 (火) 17時36分

愚按亭主の説いていることは、申し訳ない?のですが良く理解できません。私ばかりではないのではないでしょうか?

ヘーゲルは18世紀の人ですから、生きた現実が私たちとは違っていたわけで、国王のいたドイツにいたヘーゲルは立憲君主制に賛同していたのでしょう?そして君主の世襲も当然だと認めていた。

ですが、今の先進国で君主制の国って無いのでは?イギリスのような王公貴族のいる国でも統治のあり方は立憲君主制でなく議員内閣制だったかと思います。

そうした議員内閣制のような代議員制の民主主義が出てきた思想を辿っていくとルソーなんかの社会契約説となるらしいんですが。

確か社会学のデュルケームだったかの著書に「社会の根幹は契約でなく規範だ」というような記載があったと記憶してますが、法律を守ることが無条件なる義務だとしたならば、契約書にサインするか否かが任意であるような契約とは異なるものだという論も立つのかも知れませんが、ルソーらが説いて現代の民主主義にまで連なってきた社会契約説というのはそうしたものなんでしょうか?

どうも愚按亭主はヘーゲルが正しいという論拠が見えもしないうちから、とにかくヘーゲルは正しいのだという先入観から文字を綴っているように思われてなりません。

Pass

[2853] 社会契約説批判
愚按亭主 - 2018年05月24日 (木) 07時39分

>愚按亭主の説いていることは、申し訳ない?のですが良く理解できません。

 私は当たり前のことしか言っていないので、それが理解できないということは、人の云う事を素直に聞きたくない、何らかの思いがあるのだろうと思います。残念ですが、そうであるならば、いくら理解してもらおうとしても無理な話です。もし本当に理解したいのであるならば、その思いを捨てることです。そうすれば、スッと理解できるようになると思います。

>ヘーゲルは18世紀の人ですから、生きた現実が私たちとは違っていたわけで、国王のいたドイツにいたヘーゲルは立憲君主制に賛同していたのでしょう?そして君主の世襲も当然だと認めていた。

 ヘーゲルの国家論は、学問的に絶対的本質から導き出したものです。国家の最上のあらまほしき姿として、立憲君主制こそが学問的な国家論の実現形態だとしたのです。決して、その当時の国家形態がそうだったからではありません。そのヘーゲルの国家論が如何に普遍性を持っているものだったかは、ドイツから遠く離れた最果ての地である日本において、奇跡的に太古の昔から一貫して貫かれてきたという歴史的事実によって見事に実証されていたのです。しかも、その世界で唯一の人倫国家:日本が、如何に世界から尊敬され、信頼されていたかをみれば、ヘーゲルの哲学が正しいことは一目瞭然と云えるのです。このことは、日本こそが本流であり、本流になるべきであることを示していると思います。

>社会学のデュルケームだったかの著書に「社会の根幹は契約でなく規範だ」というような記載があったと記憶してますが、法律を守ることが無条件なる義務だとしたならば、契約書にサインするか否かが任意であるような契約とは異なるものだという論も立つのかも知れませんが、ルソーらが説いて現代の民主主義にまで連なってきた社会契約説というのはそうしたものなんでしょうか?

 ルソーの社会契約説は、自然権としての人権なるものがあるとの前提に立っていますが、これは、それまでの物質の発展の歴史・生命の発展の歴史・人類の発展の歴史とも、無関係に、何の脈絡・根拠もなしに、唐突に外部から導入し、勝手に頭の中で創像(想像)し、仮定として前提とされたものにすぎません。

 人間の社会は、動物の群れ・集団を受け継ぐものとして、半ば自然成長的に、半ば目的意識的に生まれたもので、独立した個人の社会契約によって生まれたものではありません。だから、動物の場合は本能によって集団を維持するルールが守られているように、本能を否定して認識で生きるようになった人間の場合も、社会を維持するための内的規範としての道徳が作られ教育される必要・必然性があるのです。ただ、人間の場合は、発展性を獲得するために、本能のような先天的な内なる規制を外して、認識の自由な運動を可能にし、その自由な運動によって獲得された有用な情報は、文化として蓄積して歴史的に継承され、新たな人間の必須な一部として後天的に教育されるようになった反面、その自由さが、時に内的な道徳律をはみ出して社会に害を与える現象が生じるようになって、それを規制するための外的規範としての法が、社会を維持するために生まれたのです。

 ですから、「社会学のデュルケームだったかの著書に『社会の根幹は契約でなく規範だ』」の方が、ルソーの社会契約説よりも、学問的には正しいといえます。

>どうも愚按亭主はヘーゲルが正しいという論拠が見えもしないうちから、とにかくヘーゲルは正しいのだという先入観から文字を綴っているように思われてなりません。

 ヘーゲルは正しいという論拠は、一連の私の論稿全体から云えるはずですが、それが「見えもしない」のはそちらの勝手であり、そちらの不明でしかありません。こういっただけでは、分からないと思いますので、老婆心から云いますと、マルクスの理論が誤りであったのは、ソ連の崩壊や、中共や北朝鮮の社会主義経済建設の大失敗という事実によって、すでに証明済みのことですが、その大本であるマルクスの原理的誤謬がどのようにして生まれたのかについて、具体的にヘーゲルの論理を提示し、それをマルクスがどう誤って理解したかについて詳しく説いております。

 これが根拠でないというのであれば、この分析のどこがどう間違っているのか、具体的に指摘してほしいものです。

 また、ヘーゲルの哲学が如何に正しいかは、絶対精神の自己運動としての本流の人類段階においては、学問を使っての世界創造として現象するという、ヘーゲルの論理が真実であることは、学問の応用として創られた数々の人工物を見れば、一目瞭然です。また、その一方で、人類が、学問の完成形態である絶対理念を目指しながらも、それを措定したヘーゲル自身がその実現へ向けてその要となる「学問の冠石」を完成させたのですが、それをマルクスによって否定され封殺されることによって、人類は、その宝物をせっかく手に入れたはずなのに、すぐに落としてしまって、今もって人類は、学問を完成できず、学問のいびつな発展によって翻弄され、混乱と対立をますます促進してしまっているのが現実です。この世界の混乱の現実は、ヘーゲルの主張を逆説的に裏づけているといえます。

Pass

[2854]
質問者 - 2018年05月24日 (木) 10時33分

>そのヘーゲルの国家論が如何に普遍性を持っていたものだったかは、ドイツから遠く離れた最果ての地である日本において、奇跡的に太古の昔から一貫して貫かれてきたという歴史的事実によって見事に実証されていたのです。

ヘーゲル自身は日本の中世以前が近代的な「人倫の現実態である国家」だとは考えていなかったのではありませんか?

『法の哲学』§270に次のように記載されていますよね。

「国家と教会との統一、近世においてもしばしば論ぜられ、かつ最高の理想として提出されたこの使命にもう少し言及しておこう。…東洋の専制政治には上に述べたような教会と国家とのこのようにもしばしば望まれた統一がある。~しかし同時に国家は存在せず、~法や自由な倫理や有機的発展となってあらわれるところの、ひとり精神にのみ値する自己意識的形成はない。」

ヘーゲルは『法の哲学』を「抽象法、道徳、倫理」と構成しましたけど、聖徳太子が十七条憲法に取り込んだ儒教や仏教の思想は倫理に至る以前の道徳だと考えていたんじゃないのかな?

それで、十七条憲法の「和をもって尊しとなす」というのは、つまり儒教の「和をもって尊しとなす」というのは、「長いものには巻かれろ」ということですから、基本的に判断基準は長幼の序で下の者が逆らわなければ争いにならないという宗教的な考えでしょう。臭いものには蓋だとか。

だから、大正時代や昭和時代に十七条憲法を「単なる道徳でしかないのでは?」と論じた者はヘーゲルを学んで知っていた可能性があると思いますね。

だから、愚按亭主の言う「当たり前」ということならば高校卒業して大学にも行かずに専修学校で職業訓練を受けた愚按亭主が大学教授だった廣松さんを扱き下ろせる学力など無いと判断するほうが「当たり前」ですし、治療の師との絆を強くするために愛もないのにタイ人女性と結婚し、師に仲人を頼むなんて打算的で政略的な婚礼をしても、直ぐに別れることになったのも「当たり前」ということなんでしょう。

Pass

[2855]
質問者 - 2018年05月25日 (金) 13時48分

再三述べるように、私が聖徳太子やらヘーゲルやらの書き遺した文化遺産をこれほどまでに追究しようとするなんて愚按亭主と対話する機会でもなければ無かったことだと思います。

私も愚按亭主と同様に十代の頃は南郷学派のファンでしたから南郷さんやら瀬江さんやらの論文にヘーゲルの『哲学史』だとか『歴史哲学』だとかの書名が出されているのは未成年の時から見ていたわけですが、実際に『哲学史』や『歴史哲学』を紐解いて読んでみようと思うにはヘーゲルの論述は膨大であり難解でもあったと思います。

南郷学派とは書店で本を購入するだけの直に会ったことのない関係だったことも本気でヘーゲルに向き合おうと思わなかった理由の一つかも知れません。

ですが、今回、南郷学派の直系(愚按亭主の好きな言葉なら「本流」かな?)の愚按亭主が、東洋伝統医療をご専門としているが故に?ヘーゲルと日本の古代国家とを両方ともに肯定しようとするお考えに触れ、私自身も自分の問題として調べてみる気になったわけです。

そこから朧気に見えて来たのは、日本古代社会との関連でヘーゲルが孔子とブッダについて如何なる考えを持っていたのか?を知りたく思い、『哲学史』を斜め読みしてると中国哲学とインド哲学とは本論に入る前の序論として扱われているに過ぎず、孔子についても「どこの国の民族でも持っている低俗な道徳に過ぎない。孔子を読むならセネカを読んだほうが有益」などと低い評価でしかないことを知りました。これは南郷さんやらが本に書いている「哲学はギリシャとドイツのみ」というのと合致しますよね。

そして、既述のように『法の哲学』では中世以前の東洋世界を「国家が無い」とまで述べている。

これは一言でいえば巷で良く聞く「ヨーロッパ中心主義」そのもので、ヘーゲルの学説は『哲学史』にしろ『歴史哲学』にしろ日本を含めた東洋世界を低きに見下す思想のものだったことは明らかでしょう。

それがどうして「日本のヘーゲル、安藤昌益」だとか「ヘーゲルを実証する聖徳太子の十七条憲法」なんて話になるのか?生兵法は大怪我のもと、という素人のくせに学者を気取って知ったかぶった天罰なんでしょうか?

残念なことです。

やはり愚按亭主は南郷さんの元にお帰りなさい。例の自由びとなる人間が妙案を提示しておりますぞ。玄◯の講習会に乗り込んで大粒の涙をこぼしながら「南郷市販、私は気が狂ってしまいそうです!」と懇願することで相手の情を引き出して仲直りを謀るらしいですぞ。

愚按亭主、疲れた頭を休めて古巣へお帰りなさい、老婆心ながら。


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[2856] 日本がなぜ本流なのか?
愚按亭主 - 2018年05月25日 (金) 17時57分

>ヘーゲル自身は日本の中世以前が近代的な「人倫の現実態である国家」だとは考えていなかったのではありませんか?

 ヘーゲルが、学問の冠石を完成させて絶対理念の原基形態を創り上げた、自分自身の所属するドイツ国家を本流だとしたのは、彼の学問の論理からすれば、当然のことです。同様に、ヘーゲルが日本のその当時の国家の実体を知れば、彼の学問の論理からして、当然のように、これこそ世界に発現した本物の本流だ、と感激してよろこんで断定したはずです。

>「国家と教会との統一、近世においてもしばしば論ぜられ、かつ最高の理想として提出されたこの使命にもう少し言及しておこう。…東洋の専制政治には上に述べたような教会と国家とのこのようにもしばしば望まれた統一がある。~しかし同時に国家は存在せず、~法や自由な倫理や有機的発展となってあらわれるところの、ひとり精神にのみ値する自己意識的形成はない。」ヘーゲルは『法の哲学』を「抽象法、道徳、倫理」と構成しましたけど、聖徳太子が十七条憲法に取り込んだ儒教や仏教の思想は倫理に至る以前の道徳だと考えていたんじゃないのかな?

 「国家と教会との統一」というのは、学問が宗教を構造化し、その学問によって、目的意識的に人倫国家として創られるべきだということです。そして、国家は単一民族によって創られるべきことも述べています。

 ところが、東洋の専制国家というのは、直接にはチャイナの唐や明・清などを云っているのだと思いますが、みな外来民族による漢民族の奴隷的支配であって、皇帝の意志が全てを決する人治であって、法治ではなく、だます自由や狼藉する無法の自由はあっても、即自対自の自由や倫理など存在せず、したがって、他民族に支配される漢民族に国民としての自己意識などさらさらなく、ヘーゲルの云うようにとても国家といえる代物ではなかったことは明らかです。

 一方、同じ東洋にあっても、日本はどうだったかと云いますと、まさにヘーゲルの云うような、聖徳太子と天武天皇の魂を受け継ぐ聖武天皇治下において、全国に国分寺・国分尼寺が建立されるなど、国家と宗教との見事な統一があり、仏教という宗教に貫かれた17条憲法による法治の国家であったのであり、「自由な倫理や有機的発展となってあらわれるところの、ひとり精神にのみ値する自己意識的形成」のあった、世界で唯一の国家でした。だから、ザビエルの報告にもあるとおり、戦国時代であっても、秩序が保たれ、平和で、皆誇りを名誉を重んじる人倫的国民であったのです。これをヘーゲルが知ったら、本当に感激したことだろうと思います。

>高校卒業して大学にも行かずに専修学校で職業訓練を受けた愚按亭主が大学教授だった廣松さんを扱き下ろせる学力など無いと判断するほうが「当たり前」ですし、治療の師との絆を強くするために愛もないのにタイ人女性と結婚し、師に仲人を頼むなんて打算的で政略的な婚礼をしても、直ぐに別れることになったのも「当たり前」ということなんでしょう。

 常識人は肩書で物事を判断するようですが、問題は中身だと思います。人間はいろいろ誤りを犯しながら、試行錯誤を反省しつつ、一歩一歩、真理に近づいていくものです。私も、一時期マルクスに心酔した時期もあり、マルクスを超えるぞ!と高校時代に誓ったものですが、寄り道が多すぎて、この年になってしまいました。しかし、まさか本当に、このような形で、マルクスを批判することになろうとは、夢にも思いませんでした。いろいろ回り道しましたが、これも、ヘーゲルに出会えたおかげです。

>それがどうして「日本のヘーゲル、安藤昌益」だとか「ヘーゲルを実証する聖徳太子の十七条憲法」なんて話になるのか?生兵法は大怪我のもと、という素人のくせに学者を気取って知ったかぶった天罰なんでしょうか?

 私が、安藤昌益の「自然真営道」を「日本においてヘーゲルに匹敵するほどの哲学体系」と評価するのは、その内容が、医学を中心としてそのすべてに、一貫した運動体の弁証法が貫かれているからです。ヘーゲルが低い評価しか下さなかった東洋の五行説を、安藤昌益は、ヘーゲルが生まれる前に、活真(ヘーゲルの絶対精神に相当する)を中心とする、直接と媒介の二重構造的な生成発展のダイナミックな、弁証法的な四行構造に、見事に創り変えたからです。ヘーゲルもこれを読んでいたら、きっと評価を変えていたはずです。

 17条憲法にしても、日本の人倫的普遍性をずっと支え続けてきた結果として、世界中から尊敬され信頼される日本人を創り上げたという事実を見れば、ヘーゲルも納得してくれるはずです。

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