カウンター マルクス生誕200年にあたって、マルクスの罪状を記す - 談論サロン天珠道
【広告】AMAZONからG.W.に向けてスマイルセール!4月22日まで開催

談論サロン天寿道

この掲示板は、東洋医学に関する諸問題を真摯に討論するためのものです。
個人的な誹謗中傷ではなく、学問的な議論であれば、どんなに激しくとも可です。
最近他所の問題を此処で意見する者が増えてきました。
ここは独立した掲示板ですのでそのような書き込みは削除いたします。

ホームページへ戻る

名前
メールアドレス
タイトル
本文
アップロード
URL
削除キー 項目の保存


RSS
こちらの関連記事へ返信する場合は上のフォームに書いてください。

[2840] マルクス生誕200年にあたって、マルクスの罪状を記す
愚按亭主 - 2018年05月12日 (土) 08時12分

 宮崎正弘氏のメルマガに次の記事がありました。
「2018年5月7日、北京の人民大会堂に三千名をあつめて開催した『マルクス生誕200年記念』兼「『資本論』刊行170周年記念」の学習会で、習近平が自らの思想を『21世紀のマルクス主義』と言い放った。そのうえで、『マルクスは全世界のプロレタリアートと勤労人民の革命の教師であり、近代以降のもっとも偉大な思想家』と礼賛し、『習思想』が現代のマルクスに匹敵すると定義したのである。」

 これを宮崎正弘氏は次のように批判しています。
「ダボス会議で習近平は『自由貿易の旗手は中国である』と宣言し、保護貿易的なイメージのある米国を揶揄したことは記憶にあたらしい。先月のボーアオ会議でも、中国は自由貿易政策を推進すると豪語してみせた。その舌の根も乾かぬうちに、習近平は『マスクスは正しい』と演説するのだから、どう考えても論理矛盾ではないのか。」

 また、週刊誌の中にも、マルクスを取り上げて、偉大な思想家だったとか、格差が広がっている今、マルクスが見直されているというような記事を載せています。

 しかし、私が、これまでも事あるごとに主張したきたように、現在の人類の混乱の最大の原因は、マルクスにあると云っても過言ではありませんん。そこで、マルクス生誕200年を記念して、その原理的な誤りによって人類の歩みを歪めてしまったマルクスの罪状を具体的に列挙して、正しいマルクス像を提供したいと思います。

1、まず、人類の歩みを正しく導いてくれるはずであった<本物の学問の冠石であるヘーゲルの哲学>を、その座から引きずり降ろし、代わって原理的な誤りに満ちた自らの思い・暴論をヘーゲルの言葉で粉飾して、人類を惑わし、人類にいらざる混乱と不幸をもたらしたことです。

2、その原理的な誤りの第一は、学問のよって立つ世界観において、<即自的唯物論>の立場から説く「有論」と、<対自的観念論>の立場から説く「本質論」とを、統一・止揚した<対自即自の絶対観念論>から説く「概念論」という、ヘーゲルの本物の学問体系とそのよって立つ学問的立場を理解できなかったことです。、その結果、ヘーゲルの<絶対観念論>を、宗教的観念論と混同・同一視して否定してしまうことによって宗教と学問との宥和の道を閉ざしてしまい、その対立をいたずらに激化させて、かえって宗教を頑迷的に強化してしまい、人類が、宗教から円満に卒業して、本当の意味での真の人間となって主体的に自立するという本来の歩みをできなくしてしまったことです。

3、マルクスの原理的な誤りの第二は、人類が、動物的本能の限界を克服するために、その動物的本能で生きる道をあえて捨てた真の目的である、絶対的真理の弁証法を見事に完成した偉大なるヘーゲルの弟子でありながら、その師匠の人類最大の功績である学問的弁証法をぶち壊して、師匠が死んだ論理学と批判していた、あれかこれかの硬直した古い機械的論理学に、師匠のヘーゲルの弁証法に似せて化粧を施した唯物弁証法なる絶対矛盾的自家撞着の面妖な紛い物で、人類を惑わし人類を解決できない混乱への道へと引きずり込んでしまったことです。

4、原理的な誤りの第三は、この世界の絶対(全体)的本質の運動の論理を説くヘーゲルの弁証法を否定してしまったため、その絶対的本質の運動の人類段階における本流の論理を説いた、「法の哲学」の学問的な価値が分からずに、ヘーゲルの学問的な国家論を否定してしまったことです。その結果として、マルクスの階級闘争史観や、人間解放論、自由論は、致命的な欠陥をもった歪んだ論理となってしまったことです。

5、このような欠陥があったにもかかわらず、マルクスの国家論のない階級闘争史観が、なぜ当時の世界に熱狂的に支持されたのかといいますと、それは当時の一定の真実を反映したものだったからです。つまり、日本以外の世界のほとんどが、自己中心的な下の階級を人間扱いしない奴隷的階級社会だったからに他なりません。それを根本的に克服・止揚する道を示したのが、じつはヘーゲルの弁証法だったのですが、マルクスにはそれが理解できませんでした。その結果、自分たちが権力を握ると、即自的な労働者階級は文化性が劣る分、より残酷な結果をもたらすことになってしまったのです。その理由として二つ上げられます。

6、マルクスの人間解放論の原理的誤りは、ヘーゲルが、人間の解放を、人間の即自的認識と学問的な対自的理性との統一・止揚の形成として説いているのに、それを無視して、抑圧されている労働者こそが真の人間解放の担い手だとして、労働者が即自のままにその抑圧を跳ね返すこと自体が、人間解放だとしてしまったことです。同じように奴隷状態にある女性が、家庭における奴隷状態から解放され、職場における差別的な待遇から解放されることが女性解放・人間解放だとして、人間としての質の向上こそが人間の真の解放だという視点が全くないのです。つまり、抑圧された労働者・農民の即自の感情、差別された女性の即自の感情が無条件に絶対視されて、農民に学べと下方運動が起きたり、大学の校長が追い出され処刑されて、農民がその後に就任したり、女性がちょっとでも不快に思ったらそれはセクハラだという、おかしな論調の根底にあるのは、このマルクスの歪んだ人間解放論なのです。

7、このマルクス主義の、抑圧された者の即自的感情の絶対化が人間解放だ、とする人間解放論の原理的な誤りは、その自由論にそのまま横滑りしていきます。その結果が、LGBTを社会的に認知し、その結婚を制度化し、それが当たり前だとしない言動が直ちに批判され修正させられるという理不尽が、あたかも人間解放であるかのようなおかしな風潮の根底には、このマルクスの歪んだ人間解放論・自由論があるのです。
 では、ヘーゲルの説く本物の学問的な自由論とは、どういうものでしょうか?これは「法の哲学」の中に書いている「自由とは必然性の洞察である」ということであり、即自の絶対化では決してなく、即自且対自(国家)・対自(学問)且即自との統一・止揚こそが、本当の自由だということです。じつは、これは日本においては、本当の自由とは、道理にかなったもの、分をわきまえたもののことであることは、太古の昔から当たり前のことのように無意識に行われていたことでした。

8、最後に、マルクスは、「資本論」を書いて資本主義の基本的構造を解明して、資本主義の剰余価値の正当性を立証し、定有としての資本主義を措定することに成功しました。ここで、ヘーゲル学徒としてのマルクスが為すべきだったことは、師の教えにしたがって、その<定有としての資本主義>を、<対自有化>して全体的関連の中に正しく位置づけて、資本主義の人類史的意義を明らかにすべきだったにもかかわらず、それをしないで、抑圧されたユダヤ人としての即自的感情と、抑圧された労働者階級の即自的感情とを共鳴させて、短絡的に剰余価値=悪、資本主義=悪と短絡させてしまって、原理的誤り満載の国家否定の共産主義に走ってしまったことです。

 

Pass

[2841]
質問者 - 2018年05月13日 (日) 06時16分

宮崎さんのメルマガ、私も読みました。

宮崎さんは私も共感している石平さんを高く評価してるみたいですし、私も襟を正して向き合って行きたいと思う次第ですが…。

習近平さんの講演は私も資料を集めて検討させていただきましたが、宮崎さんのように「マルクスが19世紀に書き遺した論考」と「現代の中国の自由主義的・資本主義的な貿易」とを比較して「論理矛盾」と非難するのは如何なものかな?と思いました。

というのも、今の中国憲法は「前文」でマルクス・レーニン主義や毛沢東、トウ小平らを肯定してるからなんですね。これを「マルクスは間違っていた」としたならば「前文」のみとはいえ憲法を改めねばなりませんから、「改憲」という話になるのではないでしょうか?

また、マルクスが間違っていたとしたならば、清王朝を打倒した辛亥革命に飽き足らず共産党主導による「国共内戦」を起こした、いわば二重権力を実現した毛沢東が間違っていたと認めなければならなくなりますし、辛亥革命で共和制を勝ち取っていながら、尚も同胞を殺し続け台湾と国境を分けたことの正統性を主張できなくまりますから。

だから、習近平さんからしたならば、これまでの中国の、中華人民共和国の歴史をそのまま受け入れながら、今後を見つめていかなければならないという政治家としての当たり前の姿じゃないでしょうか?

これが「辛亥革命の後で中華民国を台湾に追いやったのは間違いでした」となったなら、ゴルバチョフの判断でソ連が崩壊したのと同様に、中華人民共和国が崩壊する事態になるように思われますね。

だから、習近平さんの主張するのは「自由貿易を盛んにする、マルクスの著書に教条的では全く無い、21世紀の発展したマルクス主義」というわけで、私たちが中国の行く末を正しく評価できるか否かは、それこそヘーゲルが『法の哲学』で述べているように「ミネルヴァの梟は夕闇に飛び立つ」が如く、現実の国の行く末が明らかになってから、なのだと思われますね。

Pass

[2843]
質問者 - 2018年05月14日 (月) 08時42分

愚按亭主のお考えだとマルクスを全面的に「悪」として、マルクスを捨ててヘーゲルの復権を!ということのようですが…。

素朴に考えてみても世界中にあれほど影響力を与えた論者の著述が全く良いところのない捨て去るべきものだとは思えないんですがね?

子供でも「良いところもあれば悪いところもあったんだろう」ぐらいは想像するかと思うのですが…。

例えば愚按亭主は廣松渉さんの『物象化論の構図』という本をどう思いますか?出版社による紹介の辞では「物象化論をすべての経済的・社会的・文化的な歴史的諸形象に敷衍し、現代社会科学の方法論としていかに有効であるかを論証する。」とありますが?


Pass

[2844] 物象化論はそれがどうした?論
愚按亭主 - 2018年05月14日 (月) 11時08分

 宮崎正弘氏が「論理矛盾」としたのは、おそらく、マルクスの共産主義の「計画経済」と「自由貿易の旗手」とが両立しないということを云っているのだと思います。つまり、「自由貿易の旗手」を標榜したいのならマルクス主義を捨てなさい、さもなくば自由貿易の旗手ぶらない方がよい、ということが云いたいのだと思います。

 ただ、そもそもマルクス主義には論理的一貫性・体系性がないのが特徴ですから、唯物論を名乗りながら観念論であったり、自分の主張は言論の自由を振りかざしてごり押しする一方で、他人の言論の自由は圧力をかけて封殺しようとするダブルスタンダードは、当たり前なのがマルクス主義者の思考パターンです。つまり、自分たちは正義だから何をやっても許される、と思い込んでいるのです。だから、教育行政のトップにいながら暴力団が経営する管理売春の店に週3〜4回も通うマルクス主義者もいれば、習近平のように、プロレタリアートの自由・解放を謳いながら、プロレタリアートの自由を奪う独裁するという、論理矛盾を平気で犯すのですから・・・・・

>素朴に考えてみても世界中にあれほど影響力を与えた論者の著述が全く良いところのない捨て去るべきものだとは思えないんですがね?

 それはヘーゲルの学問の凄さでしかなく、虎の威を盗んで巧みに人類の目を欺いた詐欺師的能力の凄さは認めます。しかし、それがどれほど人類に災厄をもたらしてしまったかについては、ごまかしようのない事実であり、何よりも、それによって日本がどれほどおかしくなってしまったか、そして、未だにその影響にがんじがらめにされて、国家としてまともな自立が阻害されていることが大問題であり、それによって人類がまともな歩みができないでいることが問題なのです。

>愚按亭主は廣松渉さんの『物象化論の構図』という本をどう思いますか?

 私はその本を読んだことがないのでインターネットで調べた限りでは、重箱の隅をつつくようなもので、学問的価値のほとんどない。ものだと思います。

 物象化というのは、疎外論における対象化を、即自的な立場から見ると物として見えるというだけの話であって、地球から見れば太陽が回って見えるというだけの話で、それがどうした?という話でしかありません。晩年のマルクスは本当に頭がおかしくなっていたのだなと痛感します。

 大事なことは即自的悟性と対自的理性との対立物の止揚であって、これこそが本当に学問的な価値のある止揚です。このことを私は、次のように記しておきました。

「「資本論」を書いて資本主義の基本的構造を解明して、資本主義の剰余価値の正当性を立証し、定有としての資本主義を措定することに成功しました。ここで、ヘーゲル学徒としてのマルクスが為すべきだったことは、師の教えにしたがって、その<定有としての資本主義>を、<対自有化>して全体的関連の中に正しく位置づけて、資本主義の人類史的意義を明らかにすべきだったにもかかわらず、それをしないで、抑圧されたユダヤ人としての即自的感情と、抑圧された労働者階級の即自的感情とを共鳴させて、短絡的に剰余価値=悪、資本主義=悪と短絡させてしまって、原理的誤り満載の国家否定の共産主義に走ってしまったことです。」

 物象化論にはほとんど学問的価値がないので、それを読んだ者から次のような呟きが漏れることになるのです。

「従来、マルクス主義者たちの多くは、人間性の疎外からの回復を革命の大義としてきたわけだが、廣松はそれを否定し、物象化の克服こそが革命の意義なのだと主張したわけである。しかし、物象化を克服することで、その先に何が見えて来るのか。それについては、廣松は多くを語らない。」(「廣松渉の物象化論」続壺齋閑話 )

Pass

[2845]
質問者 - 2018年05月15日 (火) 05時52分

う~ん、『続壺齋閑話』なんてブログがあったんですね。愚按亭主に促されて私も読んでみましたが、ブログ主は東京都庁の参事までいった人で、参事って他企業の部長らしいですから社会人としてかなり高い地位の人ですよね。

愚按亭主の挙げている「地球から見れば太陽が回って見えるというだけの話で、それがどうした?」というのは、まあ『続壺齋閑話』に引用されてる廣松さんの文言に「「大地不動・太陽回転」の錯認」なんてあるからなんでしょうが、それって丸っきり「天文学」というイワユル「自然科学」の話であって『物象化論の構図』を出版している岩波書店の広告コピーである「現代<社会科学>の方法論」というのにリンクしてこないんです。

それで、私自身も廣松さんの『物象化論の構図』をまだ読んでないわけなんですが、『続壺齋閑話』を見ていて連想されるには「物象化」というのは平たく言ったなら「人間が物として扱われている」「人間が人間として扱われていない」ということじゃないかと思われて、これが単に「疎外」論だとか「疎外感」だとかの話でなく、廣松さんは「自然科学的方法ならぬ社会科学的方法」という「学理的省察」の話にまで高めたんじゃないかと思われましたね。

だから端的には「物象化」って「物(モノ)扱いしちゃダメ」という意味で、「労働力の商品化」なんてのに対して「金では動かない」なんて人間性?の話がでてくるのだと思います。

それで、「教育行政のトップが管理売春の店に」っていうのは前川喜平さんが歌舞伎町の出会い系バーに行ってたという件ですね?私はそうした面に丸で興味が薄いもので全然知りませんでしたが、私の場合は前川さんの「貧困女性の実態を調査するため」という説明は納得できてしまうんですね。

確かに文部科学省の官僚がそんな貧困女性の実態なんか調べることは実務と関係ないんだと思われますが、高学歴の人間って、そうした「変な趣味」を持っていて不思議でないと思うんです。普通に風俗遊びするには歌舞伎町は顔が売れてる人がブラブラ歩いていくような場所じゃないと思いますし。

まあ、やっぱり「立場」というものがありますから、普通の人なら許されることも偉い人だと許されないこともあるのでしょうね。それを「ダブルスタンダード」というのかは知りませんけど、「お宅は加害者だから殺したのは罪になる、私は被害者だから死に至らしめてしまったのは正当防衛」なんてのも良く聞く話で、ただ漠然と「ダブルスタンダードは悪い」と言われても具体的に如何なる事例の如何なる展開だったかを知らないと判断しにくいことってありますよ。

まあ、そもそもがマルクス主義ってのは他人の所有物を奪って共有化しようと狙っている人間なんでしょうから、現行憲法に忠実ならざる面を必ず持っているものだと想像できますけど。


Pass

[2846]
質問者 - 2018年05月15日 (火) 06時27分

話は全く変わるのですが、私は愚按亭主との対話で新たな知見がどんどん拓けていってますから実に有り難く思っていますけど、愚按亭主の言うことを盲信しようとはしませんよね?

愚按亭主とは異なる人格として、愚按亭主とは異なる見解を持つ私のことを許容して律儀にコメントを返してくれるような愚按亭主が、主宰されてる弁証法講座に学びにきた人間を問答無用で破門したというのが信じ難いように思われるんですね。

余程に無礼な振る舞いでもしたのだろうか?との思いもあるのですが、まあ具体的に言ったなら「自由びと」なるコテハンでブログを書いてる人物ですが、自分のブログで愚按亭主に悪態をつきながら、一向に発展していかない幼稚な思考を見るにつけ、「心を入れ換えて愚按亭主のコメントから真摯に学ぶならば、新たな自分を創出できるだろうに…」との気持ちを強く持ちますが…。

愚按亭主が述べた「言論の自由」も、ダブルスタンダードではありませんがやはりどこまでも自由というわけには行かず、人それぞれに「生存権」「自衛権」というものがあるわけで、自己の生存が脅かされるような事態では発言の撤回を求めもするでしょうし、発言を抑制しようともするのは致し方ないように思われます。

「世話人」としての愚按亭主を蔑ろにするような傍若無人な振る舞いを「自由びと」なる人間はしたのでしょうか?

Pass

[2847] とりあえず
愚按亭主 - 2018年05月15日 (火) 08時46分

>「世話人」としての愚按亭主を蔑ろにするような傍若無人な振る舞いを「自由びと」なる人間はしたのでしょうか?

 世話人の権限で無理して入れてあげたのに、その恩をあだで返すように、2チャンネルに、弁証法ゼミの潜入に成功したと、ゼミ員の発言などを暴露してスパイのような書き込みをして、弁証法ゼミそのものを危機に陥れたことです。おかげでゼミ員はみな大変な思いをさせられたことです。

Pass

[2848] そうだったのですか…
質問者 - 2018年05月15日 (火) 09時31分

そんなことがあったのですね。

ですが「自由びと」なる人間は古くからの玄◯会の道場生で、もう三十年以上も在籍していたように発言しています。道場で愚按亭主の直接指導も受けていたようで、言わば愚按亭主からすれば同門の「弟子」ないしは「後輩」にあたる相手だと思うのですが?

そんな古くからの愚按亭主の顔見知りだという気のゆるみからか、自分ももう長いこと南郷学派の出版物で学んできているという自信からか、弁証法ゼミという「学びの場」を大事にしようというところを失念したのでしょうか?

「百年の不作」といいますか、残念なことどはありますが…

Pass

[2849] 物象化とは
愚按亭主 - 2018年05月15日 (火) 17時53分

>それって丸っきり「天文学」というイワユル「自然科学」の話であって『物象化論の構図』を出版している岩波書店の広告コピーである「現代<社会科学>の方法論」というのにリンクしてこないんです。

 物象化論とは、即自の立場に立つと、どう映るかという認識論の問題であって、自然科学の問題ではありません。たとえば、人間の労働力が、商品経済の論理という関係性から、他の物としての商品と同じという意味で、人間の労働力という機能的側面の目に見えない商品も、物と同じ商品という意味で、物と同列のものと解釈して(観念論的に問いかけてそう見たいからそう)見ると、たしかに物に見えてくる、というだけの話です。

>「物象化」というのは平たく言ったなら「人間が物として扱われている」「人間が人間として扱われていない」ということじゃないかと思われて、これが単に「疎外」論だとか「疎外感」だとかの話でなく、廣松さんは「自然科学的方法ならぬ社会科学的方法」という「学理的省察」の話にまで高めたんじゃないかと思われましたね。

 もともと「資本論」に説かれている論理は、自然科学的方法などではなく、りっぱな社会科学的方法に基づくもので、労働力を商品として資本家に売却するということは、契約時間内においては、労働者の労働力は、自分のモノであって自分のモノでは無い、つまり、資本家の意志の指揮下に入るということで、そうであるからこそ集団力が発生し、剰余価値がより大きく生まれることになります。そして、その剰余価値は資本家の所有になるというのは、何ら理不尽なことではなく、理にかなった合理的な帰結です。皮肉なことに、マルクスは、そのことを見事に論理的に証明して見せたのです。これは物とか人間らしくとかいう感情論とは次元の違う問題です。

 人間らしくというのであれば、ヘーゲルが奴隷労働の中にも人間の本質としての人間らしさが存在することを述べているところがあります。それを読んだマルクスは激しく反発して、ヘーゲルは労働の負の側面を見ていないと批判していました。このように、ヘーゲルの説く労働のもつ本質的な人間らしさを否定し、見ようとしなかったから、マルクス主義に染まった労働者は、労働を真面目にやろうとしなかったから、共産主義は失敗したのです。それは、マルクスの責任です。

 マルクスは晩年になっても、この自分の誤りを反省しようとせず、相も変わらず労働者の怠けを正当化する物象化論などを唱えていたとは、本当に情けないと思います。この物象化論は、明らかに学的省察として、「資本論」から大きく後退したものにすぎないと思います。

>私の場合は前川さんの「貧困女性の実態を調査するため」という説明は納得できてしまうんですね。確かに文部科学省の官僚がそんな貧困女性の実態なんか調べることは実務と関係ないんだと思われますが、高学歴の人間って、そうした「変な趣味」を持っていて不思議でないと思うんです。

 マルクス主義は、抑圧された即自的感情を解放することが人間解放と考えているので、金まみれ性欲まみれになりやすいのです。青山繁晴氏の取材によると、クーデタによって外された、彼の尊敬する高潔・清貧な連合幹部に取材に行って際に、その連中がいるからここに行ってみろと言われて行ったところが、前川氏が通っていた店だったそうで、そこは、プロの女性がいて、男性側からのみ顔が分かる仕組みの中で、男性が女性を選択して連れ出すシステムの店だそうです。そこに、金欲と性欲にまみれたマルクス主義の連合幹部連中が入り浸っていたそうです。そういう連中も、前川氏と同じように「変な趣味」を持っていたのでしょう。青山氏によると近くに車を止めて張り込みしていると、どういうわけかすぐに共同通信社の方に、クレームがいったそうです。凄いですね!

 これは、ダブルスタンダードというより、マルクス主義の人間解放論の根本的欠陥をあらわしている例です。ところで、マルクス主義が、どうしてダブルスタンダードに陥ってしまいやすいかと云いますと、マルクス主義の唯物弁証法は、運動性のない死んだ形而上学的論理学にすぎませんので、運動性のある対象を全的に貫く弁証法的な論理を構築できない結果として、ご都合主義的に、その場その場で都合の良い論理をとるという無節操な態度を取るしかないものだからです。

 だから、唯物論を標榜するマルクス主義が、観念論的な計画経済の共産主義を推進するというダブルスタンダードになってしまうのです。

Pass

[2850]
質問者 - 2018年05月21日 (月) 15時30分

私個人の欲求として「物象化論」に纏わる廣松さんの著書や関連した個別の人文科学の本を集めて読んでいましたが…。

私自身は廣松さんの「物象化論」は凄く面白いと感じていますし、これが着想されて執筆されはじめたのが1960年代後半から1970年代なのに注目しています。

といっても、これは飽くまでも私の興味関心ですから、「物象化論なんて、それがどうした?論」だという愚按亭主に物象化論の面白さを納得させて認めさせようなどと微塵も考えていませんし、それこそ愚按亭主が敬愛するヘーゲルが法の哲学に説いてるように「思想の自由、信教の自由」で違う考えの相手に無関係である面も必要だろうと思っています。

まあ、私は廣松さんの物象化論は発想的にはツリーではなくてリゾームなんだろうと感じていて、愚按亭主のような生命史観だとか発展史観だとかの方法を採る者だと「マルクスはヘーゲルになるべきだった」とかの決定論になりがちなんでしょうけれど、リゾームでいくと実業的にはスティーブ・ジョブズのようなマッキントッシュの開発になりもするし、学術的には廣松さんのようになるんじゃないかと感じもしますね。

私、愚按亭主のコメント読んで常に感じるのが南郷さんの本の記述なんですね。愚按亭主がヘーゲルに入れ込んでるのも南郷さんが「認識に関しては唯物論者は観念論者の半分も実力がない」とか書いてるでしょ?

だから愚按亭主は「ならば実力をつけるために第一の否定で観念論者のヘーゲルになり、後に第二の否定で唯物論者に戻る」なんて否定の否定を考えているように感じますよ。

ま、私にとってはそれこそが「それがどうした?」でしかないわけですが(笑)

Pass



Number
Pass

ThinkPadを買おう!
レンタカーの回送ドライバー
【広告】AMAZONからG.W.に向けてスマイルセール!4月22日まで開催
無料で掲示板を作ろう   情報の外部送信について
このページを通報する 管理人へ連絡
SYSTEM BY せっかく掲示板