[2840] マルクス生誕200年にあたって、マルクスの罪状を記す |
- 愚按亭主 - 2018年05月12日 (土) 08時12分
宮崎正弘氏のメルマガに次の記事がありました。 「2018年5月7日、北京の人民大会堂に三千名をあつめて開催した『マルクス生誕200年記念』兼「『資本論』刊行170周年記念」の学習会で、習近平が自らの思想を『21世紀のマルクス主義』と言い放った。そのうえで、『マルクスは全世界のプロレタリアートと勤労人民の革命の教師であり、近代以降のもっとも偉大な思想家』と礼賛し、『習思想』が現代のマルクスに匹敵すると定義したのである。」
これを宮崎正弘氏は次のように批判しています。 「ダボス会議で習近平は『自由貿易の旗手は中国である』と宣言し、保護貿易的なイメージのある米国を揶揄したことは記憶にあたらしい。先月のボーアオ会議でも、中国は自由貿易政策を推進すると豪語してみせた。その舌の根も乾かぬうちに、習近平は『マスクスは正しい』と演説するのだから、どう考えても論理矛盾ではないのか。」
また、週刊誌の中にも、マルクスを取り上げて、偉大な思想家だったとか、格差が広がっている今、マルクスが見直されているというような記事を載せています。
しかし、私が、これまでも事あるごとに主張したきたように、現在の人類の混乱の最大の原因は、マルクスにあると云っても過言ではありませんん。そこで、マルクス生誕200年を記念して、その原理的な誤りによって人類の歩みを歪めてしまったマルクスの罪状を具体的に列挙して、正しいマルクス像を提供したいと思います。
1、まず、人類の歩みを正しく導いてくれるはずであった<本物の学問の冠石であるヘーゲルの哲学>を、その座から引きずり降ろし、代わって原理的な誤りに満ちた自らの思い・暴論をヘーゲルの言葉で粉飾して、人類を惑わし、人類にいらざる混乱と不幸をもたらしたことです。
2、その原理的な誤りの第一は、学問のよって立つ世界観において、<即自的唯物論>の立場から説く「有論」と、<対自的観念論>の立場から説く「本質論」とを、統一・止揚した<対自即自の絶対観念論>から説く「概念論」という、ヘーゲルの本物の学問体系とそのよって立つ学問的立場を理解できなかったことです。、その結果、ヘーゲルの<絶対観念論>を、宗教的観念論と混同・同一視して否定してしまうことによって宗教と学問との宥和の道を閉ざしてしまい、その対立をいたずらに激化させて、かえって宗教を頑迷的に強化してしまい、人類が、宗教から円満に卒業して、本当の意味での真の人間となって主体的に自立するという本来の歩みをできなくしてしまったことです。
3、マルクスの原理的な誤りの第二は、人類が、動物的本能の限界を克服するために、その動物的本能で生きる道をあえて捨てた真の目的である、絶対的真理の弁証法を見事に完成した偉大なるヘーゲルの弟子でありながら、その師匠の人類最大の功績である学問的弁証法をぶち壊して、師匠が死んだ論理学と批判していた、あれかこれかの硬直した古い機械的論理学に、師匠のヘーゲルの弁証法に似せて化粧を施した唯物弁証法なる絶対矛盾的自家撞着の面妖な紛い物で、人類を惑わし人類を解決できない混乱への道へと引きずり込んでしまったことです。
4、原理的な誤りの第三は、この世界の絶対(全体)的本質の運動の論理を説くヘーゲルの弁証法を否定してしまったため、その絶対的本質の運動の人類段階における本流の論理を説いた、「法の哲学」の学問的な価値が分からずに、ヘーゲルの学問的な国家論を否定してしまったことです。その結果として、マルクスの階級闘争史観や、人間解放論、自由論は、致命的な欠陥をもった歪んだ論理となってしまったことです。
5、このような欠陥があったにもかかわらず、マルクスの国家論のない階級闘争史観が、なぜ当時の世界に熱狂的に支持されたのかといいますと、それは当時の一定の真実を反映したものだったからです。つまり、日本以外の世界のほとんどが、自己中心的な下の階級を人間扱いしない奴隷的階級社会だったからに他なりません。それを根本的に克服・止揚する道を示したのが、じつはヘーゲルの弁証法だったのですが、マルクスにはそれが理解できませんでした。その結果、自分たちが権力を握ると、即自的な労働者階級は文化性が劣る分、より残酷な結果をもたらすことになってしまったのです。その理由として二つ上げられます。
6、マルクスの人間解放論の原理的誤りは、ヘーゲルが、人間の解放を、人間の即自的認識と学問的な対自的理性との統一・止揚の形成として説いているのに、それを無視して、抑圧されている労働者こそが真の人間解放の担い手だとして、労働者が即自のままにその抑圧を跳ね返すこと自体が、人間解放だとしてしまったことです。同じように奴隷状態にある女性が、家庭における奴隷状態から解放され、職場における差別的な待遇から解放されることが女性解放・人間解放だとして、人間としての質の向上こそが人間の真の解放だという視点が全くないのです。つまり、抑圧された労働者・農民の即自の感情、差別された女性の即自の感情が無条件に絶対視されて、農民に学べと下方運動が起きたり、大学の校長が追い出され処刑されて、農民がその後に就任したり、女性がちょっとでも不快に思ったらそれはセクハラだという、おかしな論調の根底にあるのは、このマルクスの歪んだ人間解放論なのです。
7、このマルクス主義の、抑圧された者の即自的感情の絶対化が人間解放だ、とする人間解放論の原理的な誤りは、その自由論にそのまま横滑りしていきます。その結果が、LGBTを社会的に認知し、その結婚を制度化し、それが当たり前だとしない言動が直ちに批判され修正させられるという理不尽が、あたかも人間解放であるかのようなおかしな風潮の根底には、このマルクスの歪んだ人間解放論・自由論があるのです。 では、ヘーゲルの説く本物の学問的な自由論とは、どういうものでしょうか?これは「法の哲学」の中に書いている「自由とは必然性の洞察である」ということであり、即自の絶対化では決してなく、即自且対自(国家)・対自(学問)且即自との統一・止揚こそが、本当の自由だということです。じつは、これは日本においては、本当の自由とは、道理にかなったもの、分をわきまえたもののことであることは、太古の昔から当たり前のことのように無意識に行われていたことでした。
8、最後に、マルクスは、「資本論」を書いて資本主義の基本的構造を解明して、資本主義の剰余価値の正当性を立証し、定有としての資本主義を措定することに成功しました。ここで、ヘーゲル学徒としてのマルクスが為すべきだったことは、師の教えにしたがって、その<定有としての資本主義>を、<対自有化>して全体的関連の中に正しく位置づけて、資本主義の人類史的意義を明らかにすべきだったにもかかわらず、それをしないで、抑圧されたユダヤ人としての即自的感情と、抑圧された労働者階級の即自的感情とを共鳴させて、短絡的に剰余価値=悪、資本主義=悪と短絡させてしまって、原理的誤り満載の国家否定の共産主義に走ってしまったことです。
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