[2837] ヘーゲルの「法の哲学」から説く憲法論 |
- 愚按亭主 - 2018年05月06日 (日) 19時51分
ここでの議論をベースにして宮崎正弘氏のメルマガに以下の内容の投稿をしましたので、紹介します。
私は、これまで何度かこの場をお借りして、日本の再生は学問をもってすべきであること、その学問を学問として完成させるためには、真の学問の冠石となりうるヘーゲル哲学の復権が、何よりも必須であることを訴えてきました。その一連の流れとして、今回は、過ぎてしまいましたが憲法記念日があり、憲法改正も取りざたされていますので、憲法について、ヘーゲルの「法の哲学」から考えてみたいと思います。
ウィキペディアによれば、現在の世の大方の憲法の解釈は「歴史的経緯などから、多くの国では、憲法は『国民が国家に守らせる法』であり、法律は『国家が国民に守らせる法』であると捉えられている。」なのだそうです。それで、野党やマスコミは口々に、憲法は国家権力を縛るものだ!などと、得々と吹聴しております。しかしながら、この解釈は、学問的に見ますと、歴史的事実に囚われた現象論でしかなく、国家とは何か、憲法とは何かの本質論を踏まえない、学問的価値のない駄論にすぎません。
この考え方は、いわゆる自由と民主主義という共通の価値観をもつとよく言われる、国民主権の国民国家における憲法論のようですが、そのベースには、ルソーなどの「社会契約説」が存在します。しかしながら、学問的には、この説は、ヘーゲルの「法の哲学」の中で、「国家と市民社会とを混同している」「国家は国民の下僕ではない」と、はっきりと否定されているしろものでしかありません。ところが、このヘーゲルの学問的な国家論である「法の哲学」が、マルクスによって「敵対的な対立を国家という媒介物によって和らげ胡麻化そうとしている」と批判され、否定され、封殺されてしまったことによって、せっかくのこのヘーゲルの学問的な国家論が、人類の学問的な国家形成に役立つ道が閉ざされてしまったのです。
先の社会契約説も、マルクス主義の階級闘争史観も、ともに国家を、国民の自由を束縛・抑圧する悪、とみる見方がベースにあります。つまり、国家と国民を敵対的対立として見る、見方だということです。それは、何故かと云いますと、それらが、ユダヤ人思想家によって創られたものだからです。もともとユダヤ人には国家意識がなく、彼らにとって、国家は敵対的に抑圧する存在でしかなかったからです。だから、国家を縛って自分たちの自由を守るのが正義となって、その根拠として、自然権・人権をもちだし、抑圧されている牢働者が人間解放の真の担い手だから、何をやっても許される、となるのです。その結果が「憲法は『国民が国家に守らせる法』」というとんでも屁理屈になるのです。そして、これが、国家破壊の金融資本主義グローバリズムや、共産主義グローバリズムへと、発展していくことになったのです。つまり、両者は同根だったということです。そして、両者に共通しているのは、対自的な国家の否定によって、即自的欲求を肥大化させた自己中心的人間の増産と、人間性の劣化、格差の増大をもたらしたのです。
彼らにとって、ヘーゲルの本物の学問は、目障りな封じ込めるべき存在だったわけです。そのヘーゲルの国家論においては、動物の後を受けた人類段階の発展の主役は、国民ではなく国家なのです。もちろん、国家は国民と一体であって、別々に切り離すべきものではありません。あくまでも国民はその国家の一構成員であって、それと関わりなく個々の国民に自然権など存在するわけではありません。これは、たとえて言えば私の主役は、私であって、私の体の中の細胞ではなく、細胞に自然権など存在しない、ということと同じことです。これを、主役は細胞(国民)だとしてしまうと、自分がご主人様だと勘違いした癌細胞が、傍若無人に自己を主張した結果として、本体の私(国家)が死んで、癌細胞自身も生きていく場を失う、ということになりかねません。じつは、金融グローバリズムが行き詰った理由が、これなのです。そして、このことに人類が気づいた、というのがナショナリズムが勃興の理由なのですが、これまでのような非学問的国家論のままでは、早晩行き詰まるのは目に見えています。
余談ですが、国家でなく国民が主役だとしたら、何のための教育なのかも分からなくなります。せいぜいのところ、良い大学を出て安定した就職先を見つけるため、というのが関の山でしょう。昨今では、国家による道徳教育すらもが、国家による国民の自由の侵害、とまで堂々と公言するテレビのコメンテーターもいるほどです。これに対して、国家が主役ならば、国家が責任もって、憲法に則った国民が育つように、人類としての普遍性の教育・日本人としてのDNAを受け継ぐ教育をしなければならなくなります。そして、国民の側も、何のために学校に行くのかと子供に問われたときに、自信をもって、立派な日本人となって、国のためにみんなのために役立つ人間になるために、今は一生懸命学校で勉強しなけらば駄目ですよ!と説明できるようになるはずです。
先に述べたグローバリズムとナショナリズムの問題の解答は、じつは、日本にあります。日本は、ヘーゲルの人倫的理念の国家論を、歴史的に実践してきた世界で唯一の国です。ですから、日本に来た西洋人をして「ここはもう一つの別の文明だ」と感嘆させたのです。そこには、西洋では、あまりにも現実とかけ離れていたために理解され難かった、ヘーゲルの説く理想国家が、見事に実現されていたからです。
そのヘーゲルが説く国家論の憲法とは。国家の普遍性である人倫的理念を、その国家の歴史性・現実性に即して展開して、その国家・国民の精神的支柱とするものです。これが憲法の本質論です。じつは、こういう憲法の本質を含んだまともな憲法および国家が、今もっていまだに実現・存在できていない世界の中で、日本は、すでに6・7世紀というとても早い段階において、17条憲法という世界初の真っ当な憲法によって国創りをした、世界で唯一の国だったのです。
この17条憲法について、役人の心得にすぎないとか、罰則規定がないから憲法とは呼べない、とかいう否定的意見があるようですが、先に述べた学問的な憲法の本質論から見ますと、17条憲法は、実に優れた国家の理念を見事に表した、人類初の憲法であることは断言できます。そして何よりも、その理念は、日本の国家の歴史に脈々と受け継がれてきていることが、その普遍性を見事に証明しているといえます。 そして、それをもう少し具体的に云いますと、17条憲法の第二条には、次のような内容があります。 「第二条:二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。」
そして、壬申の乱から平安遷都までの間の、聖武天皇などの天武系の天皇の治世において、この17条憲法の精神から、仏教の国分寺・国分尼寺が全国に建立され、仏教が一般にも積極的に流布されて、鎮護国家の象徴としての大仏の建立に際して、一般庶民からも多くの寄付が寄せられたそうです。この事実が、17条憲法が、単なる役人の心得などではなく、本物の憲法だったことを示す何よりの証明となるものです。
、また、17条憲法に処罰の規定がないことをもって、憲法でないという主張は、本末転倒です。憲法は、本来国家の理念を説くものですから、処罰の規定などあってはならないのです。そんなものは個別的・現実的な法に任せておけばよい問題です。その意味で、「『憲法』の『憲』は、『手本となる大もとのきまり』という意味ですから、『憲法』とは『きまりの中のきまり』ということになります。」という説明は形式としてはその通りです。ですから憲法は、国家の根幹をなす普遍的な理念を規定すべきもので、そこから派生する特殊的・具体的な規定として、罰則を伴った法律が設けられるべきです。したがって、先の「憲法は『国民が国家に守らせる法』であり、法律は『国家が国民に守らせる法』である」という説が、法理論として、如何に陳腐なものであるかが分かろうというものです。
さらに言えば、この17条憲法は、その当時の日本の社会にもともと存在していた<共存共栄の精神>を、国家の理念として明文化したものですから、処罰などありようはずもないのです。国家の根幹をなす理念としての憲法に、罰則規定があって、これはやるな、あれはやるなばかりであったとしたならば、国家は委縮して罰が怖いからやらないという、後ろ向き国家になってしまいます。ところが、現在の日本の憲法は、戦争はするな、軍隊は持つな、と、まさに後ろ向き国家になりさがってしまっています。これをありがたがっている日本国民とは、一体どうなっているのか?本当に日本人なのか?と不思議でなりません。本来憲法は、国民が、国家とその一員である自らに、誇りが持てるような国家理念と、それに基づいた国民としての生きる道を説くものであるべきです。そういう本物の日本人のための憲法を一日も早く創るべきだと考えます。 (稲村正治)
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