[2800] マルクス主義が日本および人類の歴史に与えた途方もない害毒 |
- 愚按亭主 - 2018年04月04日 (水) 21時20分
人類を真の人間へと導くヘーゲルの学問は、弟子を僭称するマルクスによって壊されてしまいましたが、そのヘーゲルの学問を人類の中で唯一体現してきた日本も、そのマルクス主義によってその歴史的使命の実現を邪魔され、未曽有の犠牲を伴った敗戦という痛い目にあわされ、現在もなお苦しめられ続けているというのは、何か得体のしれない強烈な運命的縁を感じます。それだけに、仇敵であるマルクス主義を徹底的に叩き潰してヘーゲルの復権・復活を果たさなければ日本の再生はもとより、人類が正道を歩むことも永遠に不可能になってしまうのではないかという気がします。
そのマルクス主義者の辻本清美は、自らを国壊議員と呼んで、確信犯として現在日本国を壊そうと躍起になっているようです。なぜ彼女は、そんなに日本国を憎むのか?それには、彼女なりの個別的な理由があるのでしょうが、それとともに次のような一般的な理由が存在します。それは、マルクス主義の共産主義グローバリズムにとって、国家は、人類段階の歴史の主体となるべき中心的存在などではなく、単なる手段に過ぎないもので、自分たちが権力を握っていない場合は、打倒する対象でしかなく、自分が権力を握ると独裁の道具になる程度の認識しかないのです。
ところが、このマルクス主義が、ヘーゲルの威光を活用して一時期全世界を席巻し、各国の知識人を魅了し、その思想を染め上げてしまいました。その結果、世界各国の内部に反国家的なマルクス主義に汚染した人間が、多数その国家に大きな影響を及ぼす地位を占めるようになっていきました。
そして、それら各国のマルクス主義者たちの元締めであったコミンテルンは、彼らを巧妙に使って、日本を蒋介石率いる国民党との戦闘に引き釣り込みんで消耗させたうえで、米国の中枢に忍び込んでいたマルクス主義者によって、日本を米国と戦かわざるを得ない状況に追い込んでいくというシナリオを描いて、その通りに実現していったのです。
凄惨な残虐さで有名な通州事件も、日本国民を激昂させて戦争に引きずり込むために、コミンテルンの指令のもとマルクス主義者が画策したものだそうです。国民党軍との戦端をひらくことになった盧溝橋事件も、今では共産党が仕掛けたことは常識になっています。コミンテルンの指令のもとに動くマルクス主義者は、日本の軍の内部にもいて、彼らは、コミンテルンの方針に基づいて日本軍がソ連の北に向かわずに南に向かうように仕向け、その日本の方針を密かに通報していたので、日本が満州に多くの兵を動員して牽制した時に、日本軍の意図を知っていたスターリンは余裕で無視できたわけです。
また、戦局の終盤において、彼らは、ソ連に降伏の仲介を頼むように進言する一方で、ソ連軍の動向の情報はすべて握りつぶして、満州にいた多くの日本国民が、ソ連軍に蹂躙されるお膳立てをしていたのです。彼らには日本国民としての良心は全くなかったようです。これは、現在の、ペキンテルンの指令で、森友問題などで安倍首相を倒せと騒いで、日米を離間させて日本国を習近平に献上しようとしている連中とまったく一緒です。
それはそうと、これかで米国相手に突っ張っていた金正恩がなぜ豹変したのか?よく言われるボルトンという強面の登場に恐怖したからだというのは、一面的です。もう一つの側面もあるようです。馬渕睦夫氏によると、それまで金正恩と江沢民はを陰から支えていたグローバリストたちが手を引いたためだそうです。つまり、米国相手にあのように粋がって強気でいられたのも、それがあったからに他なりません。その後ろ盾がなくなってしまえば、金正恩は突っ張っていられなくなり、敵対していた習近平とも和解せざるを得なくなり、習近平も江沢民派の脅威が減り、金正恩のほうから歩み寄ってきたので大歓迎というわけです。一方で、対ヒラリー・江沢民派でタッグを組んでいた習近平とトランプはタッグを組む必要性がなくなって、遠慮なく貿易戦争を仕掛けられるようになったというわけです。
したがって、南北朝鮮は核なしで統一する可能性も出てきて、その際は日本が、多額の援助をさせられる可能性が高くなったと云えます。むしろ、核つきの統一で緊張感が高まり、これでは敵に塩を送る様なものだとゴネて援助を渋り、核武装による自主独立の道を歩む方が日本のためになるかもしれません。
話を元に戻して、売国奴のマルクス主義者たちは、自分たちは正義をやっているのだと思い込んでいると思いますので、その正義とやらが、人類にとって如何に害毒でしかないかということを、立証しなければなりません。
マルクス主義の資本主義社会から共産主義社会への唯物論的な発展史観の大本はヘーゲルにあるとして、現実の世界は必ずしも発展するばかりでなく、むしろ後退する場合もある、と共産主義の失敗の原因をヘーゲルに帰する考え方があることを知って、これは何としてもその違いを理論的に証明しなければならない、と思いました。
ヘーゲルの説く現実世界の絶対精神から絶対理念への発展運動は、この世界の絶対的本質の発展運動であって、マルクスの説くような即自的で一面的な、経済関係のみの人間性を喪失した歪な発展運動ではありません。マルクスが、どうしてそのように歪になってしまったのかと云いますと、ヘーゲルが、学問は唯物論と観念論との統一を構造として持つ絶対観念論でなければならないとしていたのに、マルクスは、学問は部分的な科学の立場である唯物論でなければならないと思い込んで、ヘーゲルの絶対観念論を、宗教の観念論と同一視して否定してしまったためです。
マルクスが、どうしてそんなに唯物論にのめり込んでしまったのかと云いますと、科学が、観念論的な神学の事実的な誤りを明らかにするとともに、実際の現実的な生活を劇的に変えてきた事実を見て、観念論の宗教や哲学ではなく、科学の立場である唯物論こそが学問の立場であると確信して、その科学がじつは観念論的な哲学の歴史を土台として花開いたものであるという、学問の発展の歴史的事実を論理的に反省しなかったからです。
その結果として、観念論を否定して唯物論のみで学問を構築しようとしたわけですが、これがそもそもの間違いのもとなのです。だから、弁証法はそもそも対立物の統一の論理学であるのに、観念論を否定して唯物論のみにしてしまったために、その弁証法性が失われて、前時代的な形而上学的弁証法に矮小化されてしまうことになってしまったのです。だから、唯物史観における歴史の原動力が、精神ではなく物質に一元化されてしまい、人間性の欠如した共産主義が、人類の次の発展段階であると教条的に決めつけられて、それを強引に現実に当てはめようとして皆無残な失敗を繰り返してきたのですが、今もなおその失敗から学ぼうとしない習近平が、懲りもせずその同じ轍を踏んで支那を崩壊の淵へと陥れようとしています。
これから肝心のマルクス主義の理論的な誤りの証明をしなければなりませんが、折角書いたものが消えてしまうというアクシデントがあったため、書き直しを余儀なくなれましたが、これから出かけなければならなくなったので、とりあえず、ここまでを公開して、この続きはまた改めてということにしたいと思います。悪しからずご了承ください。
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