カウンター マルクス主義が日本および人類の歴史に与えた途方もない害毒 - 談論サロン天珠道
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談論サロン天寿道

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[2800] マルクス主義が日本および人類の歴史に与えた途方もない害毒
愚按亭主 - 2018年04月04日 (水) 21時20分

 人類を真の人間へと導くヘーゲルの学問は、弟子を僭称するマルクスによって壊されてしまいましたが、そのヘーゲルの学問を人類の中で唯一体現してきた日本も、そのマルクス主義によってその歴史的使命の実現を邪魔され、未曽有の犠牲を伴った敗戦という痛い目にあわされ、現在もなお苦しめられ続けているというのは、何か得体のしれない強烈な運命的縁を感じます。それだけに、仇敵であるマルクス主義を徹底的に叩き潰してヘーゲルの復権・復活を果たさなければ日本の再生はもとより、人類が正道を歩むことも永遠に不可能になってしまうのではないかという気がします。

 そのマルクス主義者の辻本清美は、自らを国壊議員と呼んで、確信犯として現在日本国を壊そうと躍起になっているようです。なぜ彼女は、そんなに日本国を憎むのか?それには、彼女なりの個別的な理由があるのでしょうが、それとともに次のような一般的な理由が存在します。それは、マルクス主義の共産主義グローバリズムにとって、国家は、人類段階の歴史の主体となるべき中心的存在などではなく、単なる手段に過ぎないもので、自分たちが権力を握っていない場合は、打倒する対象でしかなく、自分が権力を握ると独裁の道具になる程度の認識しかないのです。

 ところが、このマルクス主義が、ヘーゲルの威光を活用して一時期全世界を席巻し、各国の知識人を魅了し、その思想を染め上げてしまいました。その結果、世界各国の内部に反国家的なマルクス主義に汚染した人間が、多数その国家に大きな影響を及ぼす地位を占めるようになっていきました。

 そして、それら各国のマルクス主義者たちの元締めであったコミンテルンは、彼らを巧妙に使って、日本を蒋介石率いる国民党との戦闘に引き釣り込みんで消耗させたうえで、米国の中枢に忍び込んでいたマルクス主義者によって、日本を米国と戦かわざるを得ない状況に追い込んでいくというシナリオを描いて、その通りに実現していったのです。

 凄惨な残虐さで有名な通州事件も、日本国民を激昂させて戦争に引きずり込むために、コミンテルンの指令のもとマルクス主義者が画策したものだそうです。国民党軍との戦端をひらくことになった盧溝橋事件も、今では共産党が仕掛けたことは常識になっています。コミンテルンの指令のもとに動くマルクス主義者は、日本の軍の内部にもいて、彼らは、コミンテルンの方針に基づいて日本軍がソ連の北に向かわずに南に向かうように仕向け、その日本の方針を密かに通報していたので、日本が満州に多くの兵を動員して牽制した時に、日本軍の意図を知っていたスターリンは余裕で無視できたわけです。

 また、戦局の終盤において、彼らは、ソ連に降伏の仲介を頼むように進言する一方で、ソ連軍の動向の情報はすべて握りつぶして、満州にいた多くの日本国民が、ソ連軍に蹂躙されるお膳立てをしていたのです。彼らには日本国民としての良心は全くなかったようです。これは、現在の、ペキンテルンの指令で、森友問題などで安倍首相を倒せと騒いで、日米を離間させて日本国を習近平に献上しようとしている連中とまったく一緒です。

 それはそうと、これかで米国相手に突っ張っていた金正恩がなぜ豹変したのか?よく言われるボルトンという強面の登場に恐怖したからだというのは、一面的です。もう一つの側面もあるようです。馬渕睦夫氏によると、それまで金正恩と江沢民はを陰から支えていたグローバリストたちが手を引いたためだそうです。つまり、米国相手にあのように粋がって強気でいられたのも、それがあったからに他なりません。その後ろ盾がなくなってしまえば、金正恩は突っ張っていられなくなり、敵対していた習近平とも和解せざるを得なくなり、習近平も江沢民派の脅威が減り、金正恩のほうから歩み寄ってきたので大歓迎というわけです。一方で、対ヒラリー・江沢民派でタッグを組んでいた習近平とトランプはタッグを組む必要性がなくなって、遠慮なく貿易戦争を仕掛けられるようになったというわけです。

 したがって、南北朝鮮は核なしで統一する可能性も出てきて、その際は日本が、多額の援助をさせられる可能性が高くなったと云えます。むしろ、核つきの統一で緊張感が高まり、これでは敵に塩を送る様なものだとゴネて援助を渋り、核武装による自主独立の道を歩む方が日本のためになるかもしれません。

 話を元に戻して、売国奴のマルクス主義者たちは、自分たちは正義をやっているのだと思い込んでいると思いますので、その正義とやらが、人類にとって如何に害毒でしかないかということを、立証しなければなりません。

 マルクス主義の資本主義社会から共産主義社会への唯物論的な発展史観の大本はヘーゲルにあるとして、現実の世界は必ずしも発展するばかりでなく、むしろ後退する場合もある、と共産主義の失敗の原因をヘーゲルに帰する考え方があることを知って、これは何としてもその違いを理論的に証明しなければならない、と思いました。

 ヘーゲルの説く現実世界の絶対精神から絶対理念への発展運動は、この世界の絶対的本質の発展運動であって、マルクスの説くような即自的で一面的な、経済関係のみの人間性を喪失した歪な発展運動ではありません。マルクスが、どうしてそのように歪になってしまったのかと云いますと、ヘーゲルが、学問は唯物論と観念論との統一を構造として持つ絶対観念論でなければならないとしていたのに、マルクスは、学問は部分的な科学の立場である唯物論でなければならないと思い込んで、ヘーゲルの絶対観念論を、宗教の観念論と同一視して否定してしまったためです。

 マルクスが、どうしてそんなに唯物論にのめり込んでしまったのかと云いますと、科学が、観念論的な神学の事実的な誤りを明らかにするとともに、実際の現実的な生活を劇的に変えてきた事実を見て、観念論の宗教や哲学ではなく、科学の立場である唯物論こそが学問の立場であると確信して、その科学がじつは観念論的な哲学の歴史を土台として花開いたものであるという、学問の発展の歴史的事実を論理的に反省しなかったからです。

 
 その結果として、観念論を否定して唯物論のみで学問を構築しようとしたわけですが、これがそもそもの間違いのもとなのです。だから、弁証法はそもそも対立物の統一の論理学であるのに、観念論を否定して唯物論のみにしてしまったために、その弁証法性が失われて、前時代的な形而上学的弁証法に矮小化されてしまうことになってしまったのです。だから、唯物史観における歴史の原動力が、精神ではなく物質に一元化されてしまい、人間性の欠如した共産主義が、人類の次の発展段階であると教条的に決めつけられて、それを強引に現実に当てはめようとして皆無残な失敗を繰り返してきたのですが、今もなおその失敗から学ぼうとしない習近平が、懲りもせずその同じ轍を踏んで支那を崩壊の淵へと陥れようとしています。

 これから肝心のマルクス主義の理論的な誤りの証明をしなければなりませんが、折角書いたものが消えてしまうというアクシデントがあったため、書き直しを余儀なくなれましたが、これから出かけなければならなくなったので、とりあえず、ここまでを公開して、この続きはまた改めてということにしたいと思います。悪しからずご了承ください。
 



 

 

Pass

[2801]
質問者 - 2018年04月07日 (土) 18時37分

またまた勉強になりました。私は辻元清美さんの「国壊議員」発言を知りませんでしたから。

それで、辻元さんについて少し調べてみましたら早稲田の教育学部を出て、とても優秀な方のようなんですね。これまでも所属した政党で要職を任されてきたようですし、国会議員としても相当に良い仕事をしてきているようです。

その辻元さんが「国壊議員」発言をいつしたのかを調べてみたら2005年らしいんです。小泉さんが汚職やら政界不審やらで「構造改革しないのならば、私が自民党をぶっ壊す!」と発言して人気を得たのが2001年ですから、当時は壊してでも良い方向へもっていくとの過激な発言が良い評価を受けた時期なんじゃないでしょうか?

それを「辻元は、どうしてそんなに国家を憎むのか?」なんて方向に話をもっていって、最後にはマルクスとヘーゲルの対決、唯物論を倒して観念論を復活させようなんて所にもっていく離れ業にはビックリです(笑)


Pass

[2802] いま何故ヘーゲルの復権が必要なのか?
愚按亭主 - 2018年04月07日 (土) 20時28分

 マルクス主義の共産主義グローバリズムと、金融資本の経済的グローバリズムの人類を不幸にする共通した理論的誤謬は、国家の否定であり、部分の不当な全体性化、つまり特殊性の不当な一般性化です。その理論的誤謬は、ソ連・中共・北朝鮮の経済的破綻および英国のEU離脱など、現実世界においてすでに実証されています。にもかかわらず、いまだに力を持っていられるのか?その理論的誤謬を正して、人類が歩むべき正しい道が明らかになっていないからです。

 いずれにしてもマルクス主義の共産主義グローバリズムのトロイの木馬は、じつに恐ろしいものがあります。中共が蒋介石の国民党に勝利できたのも、米国内のそのトロイの木馬のせいでした。蒋介石の妻の宋美齢とズブズブの関係にあったルーズベルト大統領の死後、その後の宋美齢を嫌うトルーマン大統領の周りはマルクス主義者で固められていました。だから、米国は突然国民党への支援を止めたので、蒋介石の国民党は敗れて台湾に逃れる羽目になったのです。

 さらにその後に勃発した朝鮮戦争においても、マッカーサー率いる米軍主体の国連軍は、米国中枢のトロイの木馬の国益に反するシビリアンコントロールによって、完全勝利できないようにされたのです。マッカーサーは、その時の悔しさを「懐古録」に赤裸々に綴っているそうです。

 そして、その後の経済建設に大失敗した中共が、どうして異常な形で経済的に増殖できたのかは、経済的グローバリストたちの支援のたまものであって、自力でなし得たものではありません。それに乗って勢力を伸ばしたのが江沢民派のマルクス主義(?)経済的グローバリストたちでした。そして、彼らが北朝鮮の核開発にも協力していたのです。ところが、金正恩が調子に乗って米国を直接攻撃できる核ミサイルがもうすぐできるとやってしまったものですから、トランプとやり合っている米国内の経済的グローバリストたちも、習近平が江沢民派をどんどん潰して勝手なやり方で世界制覇の野望をあらわにしてきたことと相まって、もう収拾がつかんとトランプと手打ちして、東アジアから手を引いてしまったのです。それが今の状況の背景です。

 以上をみれば、マルクス主義的な共産主義グローバリストや金融資本による経済的グローバリストたちによって、世界が、国家のまともな発展が阻害される形で、勝手に引っ掻き回されて、如何に世界がおかしくなってしまっているかが、よく分かっていただけたのではないかと思います。

 それを正道に引き戻すには、どうしてもヘーゲルの復権が不可欠ですが、それを説く前に、是非皆さんに見ていただきたいものがあります。これは、経済やくざだった猫組長というペンネームを持つ、「−政財暴一体で600億稼いだ男の錬金哲学」という副題のついた本の中の一節です。それがとても興味深い内容なのです。

 「日本ではあまり知られていないがヨーロッパにおいては貴族・王族を保有しているかいないかが、その国の価値を決める一つの基準となっている。民主主義国家となった現在でも、モナーク(君主)を持っているかないかいないかは、ナショナルバリューにおいては非常に大きな問題なのだ。あの芸術大国を誇るフランス人の最大のコンプレックスこそ、貴族や王族の不在である。18世紀、世界に先駆けて市民革命を起こしたことで、フランスの貴族や王族は滅亡し、そのことで、王室外交においてフランスは格下に置かれているのだ。」
「どれほど巨万の富を築いても『歴史』を買うことはできない。つまり、『歴史』は価値なのだ。その歴史が育むものが『文化や伝統』である。希少性こそが最も価値を創造する要素であり、唯一無二には高いバリューがある。
 現在世界に王室は27しかない。
 その中で一番古い君主こそが日本の天皇である。日本はキングでなくエンペラーを持つ唯一の国、天皇家は古事記と日本書紀を信じれば紀元前660年から、きちんとした資料によれば6世紀以降から続く『万世一系』である。現在の覇権国であるアメリカ大統領が、自分より格上の儀礼としてホワイトタイ(白い蝶ネクタイ)で空港まで迎える人物は、ローマ法王とイギリス女王、そして日本の天皇であることを知らない日本人は多い。」(「アンダープロトコル」猫組長著)

 これは、唯物論の市民革命が、人類に何をもたらしたのかを見事に示してくれた、素晴らしい論稿です。そして、これは国民国家論の欠陥を見事にあぶり出してくれています。これに対して、ヘーゲルはまともな国家像をどのように描いていたでしょうか?

「しかし国家は個人に対して全く別の関係をもつ。国家は客観的精神であるがゆえに、個人自身は、ただ国家の一員であるときにのみ、客観性・真理・人倫をもつ。諸個人の統合そのものが国家の真なる内容および目的であって、個人の規定は、普遍的生活を営むことである。個人のその他の特殊的満足、活動、ふるまい方は、この実体的なもの、普遍妥当するものをその出発点とするとともに成果とする。――理性的であることは、これを抽象的に見れば、一般に普遍性と個別性との浸透し合う統一のうちにあり、これを具体的に見れば、内容の点では、客観的自由すなわち普遍的実体的意志と、個人的知識としてのまた特殊的目的を求める個人意志としての主観的自由との統一のうちにあり、――したがって、形式の点では、思惟された、すなわち、普遍的な法的に永遠にして必然的な存在である。」(「法の哲学」より)

 ここには何が説かれているかと言いますと、国家は「国民国家」における国家のような国民の下僕などではなく、むしろ、客観的精神すなわち人倫的理念の現実性であって、その現実性である国家の象徴が君主だということです。したがって、国民の側は、その君主が示す人倫的理念の高みに、誇りをもって自らの主体的・主観的自由意志をもってその高みとの統一を図るべく登って行かねばならない存在であり、かつまた国家は、国民に対してそれを要求するものでなければならない、ということが書かれています。だから、君主制の国家は、国民国家とは国家そのものの品格が違うのです。これが猫組長が書いていた中身なのです。

 次に、再び猫組長さんの話に耳を傾けてみましょう。そこには、日本の国家が他の国家とは次元が違うことを如実に表す内容が説かれています。

「私は思想を持たないプラグマティストであるが、プラグマティックに考えれば、『天皇』は国家の価値であり、この歴史が日本の文化や伝統を生んだのだ。
 『文化や伝統』を検証するには、『日本列島』という地政学的特徴も加味しなければならない。海に囲まれた日本は、異文化・異民族が交流する『大陸』とは違う。閉鎖的な環境である島国という社会にあって、誰かを騙せば逃げ場はない。こうして騙した後で逃げ場のある大陸とは違った形での文化的、社会的秩序も含めた、倫理観を生んだのである。
 ビジネスにおいて利害を関係付ける『契約』には、その国の文化や伝統の在り方が如実に反映されるが、この点で比較するとそれは明らかである。海外と取引すると実感するのは、日本の契約書の薄さだ。海外では契約を結ぶ際に、両者が『相手を騙そう』『自分が騙されるのではないか?』という疑念から出発するので、そうした疑いを排除仕組みが契約書に全部入り、必然的に契約書は分厚いものになる。」(アンダープロトコル」猫組長著)

 ここに説かれているのは、日本の国家が、外国の国家とは、そもそもの国家としての成り立ちが全く別物であったことを示すものです。それは、通常は日本の国家が外国の国家とは違う特殊性としてとらえられがちですが、その特殊性こそが、じつは人類の国家が本来持つべき人倫国家としての普遍性なのだ、ということです。そしてその違いが何に由来するものなのかについて、猫組長さんの分析は傾聴に値するものですが、それはビジネスにおける契約書の違いから類推されたものですので、そこからさらに構造的に深化する必要があります。

 通常の外国の言語に一般的に含まれている構造は、負けたら殺されるという弱肉強食の世界において如何に自分の身を守るか、そのために即自の自分中心に、自分の身を守るために、相手を敵と見なして信用しないということを前提とする精神構造が造られることになります。それは何故かと云いますと、大陸は一般的に食料が充分でなかったからです。だから、ですから、人類の戦争史を見てみますと、人口が増えますと必ず戦争が多くなります。例外的に戦争が少ない時期というのはローマなどの統一国家の強大な権力によって抑えられていた時代なのです。しかし、皮肉なことに戦争がないということは、奴隷が得られないということになって、人口の増大に比して生産力が落ちていって国力が落ちて衰退していくという現象でした。

 そういうことに左右されなかった唯一の国が日本です。日本の国家はその成り立ちから和をもって貴しとなす共存共栄の国でしたから、人口が増えてもそれに合わせて墾田したり、生産力を高める工夫をして、人口が増えても戦争が増えることはなかったのです。戦国時代の様な時にも、各国が生産力の増強の競争をして社会の安定を保とうと努力していたので、他の国には見られないさまざまな技術や文化の発展を実現することができたのです。

 じつは、外国にもそれを克服して、人類の国家としての普遍性を持つ日本のような人倫国家へと飛躍する機会と可能性が生まれたことがありました。それはそれまでの西欧社会の基本構造に見合った、敵か味方かの、あれかこれかの形而上学的論理学を、破壊的に変革してできた、ヘーゲルのあれもこれもの和の共存共栄の弁証法の論理学が創られて大きな影響を及ぼし始めたことでした。ところが、それが広がり定着して西欧人の意識革命を成し遂げる前に、マルクスによって壊され、代わって、敵対的対立をますます増長する、前のものよりも質の悪い唯物弁証法の形而上学的論理学を、ヘーゲルよりも進んだものとして宣伝され、それに人類がすっかり騙されてしまったことです。その結果がどうなったかは冒頭に述べたとおりです。

 ですから、歴史を巻き戻して人類が道を踏み外した時点に立ち戻って、ヘーゲルの復権をして、如何にマルクスがニセモノで誤っているかを人類に示していかなければならないと思います。そしてその運動の先頭に立つべきなのは、日本でなければならないと思います。なぜなら、日本はヘーゲルから独立に、ヘーゲルの学問を自然成長的に実践してきたからです。ですから、日本は自らの歩んできた道の意味を、ヘーゲルの学問を通して、客観的かつ冷静に反省することによって、目的意識的・学問的に日本の再生を図っていかなければならないと思います。
 

Pass

[2803]
質問者 - 2018年04月08日 (日) 14時02分

う〜ん、愚按亭主の提言は本当に勉強になると心から思いますね。

確かに、私にとって意味不明なことを多々書いているわけですし、何ら解答らしい解答は書かれていないわけなんですが、記載されたいくつかのキーワードを拾って調べていくと私自身の論理的な道筋や解答に辿り着けている手応えがあります。

それで、先ずは

>ヘーゲルが、学問は唯物論と観念論との統一を構造として持つ絶対観念論でなければならないとしていたのに

これは違うのではないかなと思われました。ヘーゲルの「絶対的観念論(absolute idealism)」の「絶対的」というのは「一元的」と同義で、すべてが観念に帰結する一元論だということが核心なのだと思いますから、「物質に帰結する一元論である唯物論との統一を構造として持つ」なんてことをヘーゲルが説いていたとは思えないです。

これは寧ろ、世界を一元論的な体系理論として語るというシェリングやヘーゲルにおいて果たされたドイツ観念論の到達地点であって、それ以前から連綿と続いてきた考え方ではないように思います。スピノザなんかも汎神論だったみたいですが、あらゆることをたった一つの原理から説明するなんてのは普通の人間の思考ではありませんから、三浦つとむの本で突然に「世界の見方には観念論と唯物論とがあり…」なんて始めたことも不自然で、その前に世界の見方には一元論と多元論があるし、またそれ以前に理論的・体系的でない見方もある、としていかないと観念論や唯物論の位置が分からなくなるのだと思われました。

だからヘーゲルからすればマルクス主義の「人間の頭の中だけに観念を認める」なんて考えは「主観的観念論」であって一元論でなく哲学としては未完成だと考えるのではないでしょうか?

それで、愚按亭主が「マルクス主義の害毒」なんて話からグローバリズムの害毒に行ってるのは論点が変わってるんじゃないかと思うのですが、いまグローバリズムで問題となっているのは「地球規模で人が交流すること」ではなく「無規制」ということじゃないですか?

確かに「グローバル」といったら「地球規模」という意味なんでしょうけれど、いまグローバルといって共産主義の世界化を思い浮かべる人はいないんじゃないでしょうか?

やはり主として「地球規模での自由経済」ということで、この「自由」という概念には西洋で培われた「平等」という概念が付随してくるんですよね。

その「平等」が「無関税」というあたりに結びつけられたりして、そしたら日本のような国の米農家は世界中の米生産者と市場で競わなければならなくなる。そしたら勝てないから生活・命が脅かされるという話ですよね。

でも、西洋って自由貿易ばかりでなくスポーツなんかも発達してきてて、そこには「ハンデキャップ」という考えがあるんですよね。強い者には余分に負担をかけるという。

ゴルフなんかもそうみたいですし、資本主義経済の中で高額所得者から多く税金とったり、貧困層に負担を軽くしたりすりのは、そうした「ハンデキャップ」の考えにも通じるんじゃないですか?

「命懸けの武道精神」とは違って路地裏での決闘には勝てないかも知れませんけれど、そうした社会正義に基づいて立憲主義的というかルールに則って運営することが大事じゃないですかね?

だから何でもかんでもグローバルになれば良いものでもなく、奈良の大仏は奈良にしかなく、見るためには海外の人は奈良まで来てもらわなければならない。

フランスやイタリアに奈良の大仏を作られても困る。でも柔道は日本ばかりでなく世界中で学んでもらいたい。

そんなグローバリズムとローカリズムが混在してて良いんじゃないでしょうか?


Pass

[2804] ヘーゲルが説く自由とはどういうものか
愚按亭主 - 2018年04月10日 (火) 21時35分

 絶対観念論の構造がどういうものかを、ヘーゲル自身の言葉で示した方がよいのでしょうが、その部分をしっかりと記録してないので、それを一から探す時間がないので、ヘーゲルの体系はすべてその論理で貫かれているので、そちらで立証することにしましょう。

 ヘーゲルの体系は、即自的・唯物論的な事実を起点とする直接的な<有論>と、対自的・観念論的な本質的論理を基点とする媒介的な<本質論>との両者の一体的統一としての、即且対自的・絶対観念論の直接即媒介の<概念論>という構造になっています。だから、マルクスやエンゲルスは、ヘーゲルの哲学は非常に唯物論的だとしたのです。それは、ヘーゲルの絶対観念論が、唯物論を構造として内に含んでいるからです。

「〔Y始元の本性〕
 それ故に、もしも、絶対者または永遠なるもの、或いは神という表現の中に(神が始元とせられることについては何人も争い得ないところであろう)、またそれらについての直観や思想の中に、純粋有の中に含まれるよりも遥かに多くのものが含まれているとしても、そこにあるものは表象的知識の中にではなくて、思惟的知識の中にはじめて現われて来るはずである。この点から見ると、この内容が如何に豊富なものであるにしても、知識の中に最初に現れてくる規定としては単純なものである。なぜといって、単純なものの中には純粋な始元以上のものはないからである。つまり、直接的なものだけが単純である。というのは、直接的なものの中には、まだ一つのものからたのものへと前進を経た形態はないからである。従って絶対者とか神とかいうような豊富な観念形式の中に有以上のものが云い表されており、或いは含まれていると云われるにしても、それは始元においてはただ空ろな言葉であり、単に有にすぎない。それ故にこの何らそれ以上の意味をもたない単純なもの、この空虚なものこそ哲学の始元でなければならない・」(「大論理学 有論上巻」)

 ここに書かれていることは何かと云いますと、始元において唯物論と観念論は同体・一体であるということです。唯物論の永遠性・直接性・純粋有は、すなわち観念論の絶対者・神・本質的単純性・思惟的抽象性(世界は一にして不動ーパルメニデス)から哲学は始まるということです。また、それを学問体系の構造論から説くと以下のようになります。

「有の一般的区分
有は先ず第一には、一般に他者に対立するものという規定をもつ。
第二に、有は有は有自身の内部で自分を規定するものである。
第三に、この区分の先行の面を除いて見れば有は、抽象的な
無規定性と直接性であって、その点で有は始元でなければならない。
 
〔1〕第一の規定から見れば、有は本質と区別される。というのは、後に有が展開するとき、有の全体がただ概念の一領域にすぎないことが明らかになり、この一契機としての概念の一領域〔有の立場〕に対しては、もう一つ別の領域〔本質の立場〕が対立してくるからである。」(「大論理学 有論上巻」)

 つまり、ヘーゲルの体系は、否、本物の学問体系は、即自対自の絶対観念論の概念が、即自の唯物論の〔有の立場〕と、対自の観念論の〔本質の立場〕をグルグルと螺旋状に否定と回帰をくり返しながら発展していくのものだということです。

 さて、次に自由の問題ですが、自由・平等・博愛を掲げて行われた市民革命の代表であるフランス革命の自由も、マルクス主義の抑圧された労働者がその抑圧をはねのけて自由を獲得する人間解放という旗印の自由も、ともに唯物論的な即自の自由でしかなく、国家の意志と対立した場合、あれかこれかでどちらかを否定する形で選択するしかない自由です。ですから、国民国家は主権が国民にあるのだからその場合国家の意志よりも国民の自由の方が重い、とばかりに言論の自由や報道の自由を主張して、国家に反抗するということが、あたかも正義であるかのように扱われるのが、現今よくみられる光景です。また、国家が画一的な教育を押し付けることは、国民の自由を侵害することになるので、教育は個性尊重・子供の自由を尊重する教育が良い、という風潮が強くなってきています。

 一方、マルクス主義の即自的な人民(あえて国民と言わないところがその特徴と言えます)の自由を尊重してやったところ、皆楽して働かなくなって社会主義経済は崩壊し、現在では中共も北朝鮮も人間解放どころか奴隷制に逆戻りして自由を徹底的に束縛して個人の独裁体制の古き時代のアジア的国家に退化している始末です。

 これと対極にあるのが、歴史的日本(今の日本ではなく)です。歴史的日本は、世界でもまれな良い環境に恵まれて、過酷な弱肉強食的環境になかったために、即自の自分を極端に守ろうとする認識とはならず、共存共栄のあれもこれもの弁証法的認識が育っていくことになりました。つまり、唯物論的な直接性の即自の自分と、観念論的な媒介性の対自の国家とを統体止揚した即自対自の認識が早くから育っていました。そのことを示すのが、〔2795〕に書いた

「大伴部博麻という兵士は、白村江の戦に敗れて捕虜として長安に連れていかれ、そこでたまたま『唐』が『倭国(日本)を攻める計画』を立てていることを知り、捕虜仲間に自分を奴隷として売ったその金て日本に帰って、この緊急事態を知らせてほしいと頼んで、日本を危地から救ったという自己犠牲的愛国精神に富んだ若者でした。」

 つまり、即自の自分よりも対自の国家を守ることを何よりも大事にする心情が、即自対自の心が存在していたということです。そして、大事なことは、このような逸話は枚挙にいとまがないほどに、歴史的日本には当たり前の出来事だったのです。こういう行動を歴史的日本の日本人は、自らの主体性において、自由に行っていたのです。

 の自由は、国民国家の国民の即自的自由とは全く中身の異なる、即自対自の自由であり、ヘーゲルが「法の哲学」の中で説いていた「自由とは必然性の洞察である」と述べた自由と同一の自由なのです。すなわち、真の自由とは、即自の自由と対自の必然性・人倫的普遍性(=国家)との統一だというのが、その意味するところだからです。

 さいごに規制のない自由・平等は、意見すると公平なように見えて、実はそうではないという事実はいくらでもあります。かつてインドを植民地化していた大英帝国が、その自由・平等という最新のリベラリズムを武器に、インドの原料の綿花を買い付け、自国で産業革命で創り上げた最新鋭の自動紡織機で編んだ安価な綿織物を関税なしの自由競争でインドに売りつけ、インド内の伝統的な手工業的な綿織物業を壊滅させて、多くの餓死者を出したという事例があります。つまり、その自由・平等がインドの社会を壊してしまったということです。

Pass

[2805]
質問者 - 2018年04月11日 (水) 17時14分

愚按亭主のコメントを読むと真に私とは別人格だということが理解されて、他者の思考に対する理解と寛容が改めて必要だと実感いたします。

>絶対観念論の構造がどういうものかを、ヘーゲル自身の言葉で示した方がよいのでしょうが、その部分をしっかりと記録してないので

私個人としては愚按亭主の、この「絶対観念論の構造」という言語表現をとても不思議に、そして軽い違和感を覚える次第ですが、埼玉県の私塾で教育指導された南○学派の会員は特定の言葉の内容を詳細に説く必要に迫られたときに「構造」なる表現をするように条件反射化されているようですので、愚按亭主もそのお仲間かなと推察する次第です。

ヘーゲルが「絶対的観念論」について説いているのは31歳の頃に執筆した「フィヒテとシェリングの哲学体系の差異」論文らしいですし、それは『大論理学』第3巻概念論、第3篇・理念でも展開されてるそうなので私も当たってみようと思いますが…。

ネットで識者の見解を参照しているとヘーゲルはフィヒテやシェリングの観念論に対する自分の絶対的観念論の立場を表明しているわけですが、そこにはラインホルトの「哲学は一元論であるべきだ」というような提言に基づいたカントの二元論の克服という面があったようです。

その二元論から一元論への移行には、そうでなければ現実の認識に不都合が生じるといった実益的な理由からではなく、正に哲学的というか観想的な理由からだったようですが…。

ですから現実認識の必然性に促されて一元論にいったのではなく、先ずは「一元論でなければならない」との前提から生じた帰結なのだと思います。

その「主観と客観の統一」というか「同一哲学」的というか、結局は対立しているかに見える関係も同じということでシェリングのように客観的な自然は人間の認識から区別された非観念的なものだという理解を否定して汎観念的な理解をするわけでしょう。

それはある意味、日本の「和して同ぜず」のような違って構わないから仲良くするという考えとは違い、同じであることを強要する全体主義的な匂いもしなくはありませんが…。

それで愚按亭主が引用した大論理学の「有論、始元の本性」からは「唯物論」だとか「物質と観念とを区別して物質を優先する」なんて考えは読み取れませんでした。

「絶対者だとか、神だとか永遠なもの」なんてものの始まりは、単純で媒介されてない有でしかない、と言ってるわけだと思われました。

この「媒介されてない単純な有」というのは正に「有るがまま」という「現実そのまま」ということだと読み取りましたが。だから、換言すれば「神の始まりは現実に存在してる人間」だというフォイエルバッハの考えにも通じて、単純だというのは何ら哲学的な思索の操作を加えられていない「人が生活していて腹へったと思って牛丼屋に入って腹ごなしした」とかの他愛ない事実そのものでしょう。

「精神現象学」というか人間の思考は、そうした経験的なものから始まり(始元)、「有→本質→概念」という大論理学の構成のように「有:現実のヒンズー教の身分差別、本質:人間は類的存在、概念(理念):階級格差を無くさなければならない」といった流れがヘーゲルの思考じゃないでしょうか?

だからヘーゲルは「唯物論」なんてことは言ってないように思いますし、「物質と観念を分ける」とも言ってないのでは?

その「主客同一」の考えを拡張すると出てくるのが「聖徳太子と蘇我馬子は同一人物」という同一哲学?なんでしょうかね?







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[2806]
愚按亭主 - 2018年04月12日 (木) 17時58分

>ヘーゲルはフィヒテやシェリングの観念論に対する自分の絶対的観念論の立場を表明しているわけですが、そこにはラインホルトの「哲学は一元論であるべきだ」というような提言に基づいたカントの二元論の克服という面があったようです。その二元論から一元論への移行には、そうでなければ現実の認識に不都合が生じるといった実益的な理由からではなく、正に哲学的というか観想的な理由からだったようですが…。ですから現実認識の必然性に促されて一元論にいったのではなく、先ずは「一元論でなければならない」との前提から生じた帰結なのだと思います。

 カントの二元論は、二律背反を整合性をもって説明するために「物自体」という概念を作り出したもので、その実態は、主観的観念が物自体に性質を与えるというものですので、本当の意味で唯物論と観念論とを統体止揚できなかった結果としての二元論なのです。このカントの欠点を見事に批判したのがヘーゲルで、彼は、時計が数字の順番に時を刻むのは、主観的観念が勝手に、適当に決めているのではなく、物質自体の運動にそうなる性質があるからだ、と述べて唯物論と観念論とを統一した本当の学問の立場としての絶対観念論を創ったのです。

>その「主観と客観の統一」というか「同一哲学」的というか、結局は対立しているかに見える関係も同じということでシェリングのように客観的な自然は人間の認識から区別された非観念的なものだという理解を否定して汎観念的な理解をするわけでしょう。

 精神を、物質の本質とみるか、それとも、物質の特殊な在り方である人間の機能の一種である認識だけを指している、と見るかによって分かれてきます。ロックなどの唯物論者やシェリングは、後者の方です。しかし、ギリシャ哲学では基本的に前者だったのです。存在と思惟とを一体として論じられていました(その当時は主観と客観という概念はありませんでした)ところが、部分に焦点が移って科学が生まれ唯物論的な考え方が生まれると、人間の認識と客観的な自然とが分けられるようになりました。これが第一の否定です。

 これを再び統一して、第二の否定を完成したのがヘーゲルです。ヘーゲルにあっては、精神とは絶対的本質を意味します。つまり、絶対精神です。この絶対的本質の発展的な自己運動が現れたものが、本流の流れです。その本流の流れが、生命の段階に到りますと、論理能力のある遺伝子がその進化を主導するようになりますので、その精神は概念へと質的発展をすることになります。そして、その運動が人間の段階に到りますと、遺伝子が外化した人間の認識が本流となって、その後の発展を主導していくようになります。その人間の認識が対自的理性となって己自身の本質を自覚できたとき、それまで陰に隠れていた精神が表に姿を現すことになります。これを、精神が己自身に回帰したと呼んでいるのです。そして、その時の己自身は、否定の否定を経た、絶対精神から絶対理念へと見事に昇華できた己自身なのです。

 これが、ヘーゲルの云うところの「存在と思惟の統一」・「主観と客観との統一」の中身なのです。これを見ると、人間の認識と客観的な自然とを厳然と区別するのが本物の学問だ、と思い込んでいる唯物論者を、ヘーゲルが死んだ論理学と侮蔑した理由が分かろうというものです。南郷学派は、せっかく生命史観を措定しておきながら、その契機を掴みながら、それを活かすことができずに第二の否定の壁の前で立ち往生している自分を自覚できずにいるのです。ところが、その自覚がないために、新世紀の新しい学問を創っていると錯覚して、そこに止まれば留まるほど、どんどん腐敗し劣化してきていることに全く気付いていないようです。

>それで愚按亭主が引用した大論理学の「有論、始元の本性」からは「唯物論」だとか「物質と観念とを区別して物質を優先する」なんて考えは読み取れませんでした。「絶対者だとか、神だとか永遠なもの」なんてものの始まりは、単純で媒介されてない有でしかない、と言ってるわけだと思われました。この「媒介されてない単純な有」というのは正に「有るがまま」という「現実そのまま」ということだと読み取りましたが。だから、換言すれば「神の始まりは現実に存在してる人間」だというフォイエルバッハの考えにも通じて、単純だというのは何ら哲学的な思索の操作を加えられていない「人が生活していて腹へったと思って牛丼屋に入って腹ごなしした」とかの他愛ない事実そのものでしょう。

 「それら(始元としての神や永遠なるものー愚按)についての直観や思想の中に、純粋有の中に含まれるよりも遥かに多くのものが含まれているとしても、そこにあるものは表象的知識の中にではなくて、思惟的知識の中にはじめて現われて来るはずである。」とあるのは、始元について説(解)きうるのは、哲学的思惟だということです。そして、それは、さまざまな多くのものを捨象した単純な有であり、すなわち一だということです。しかし、それが始元たりうるためには、有と無との統一、有限と無限との統一、直接と媒介との統一、つまり唯物論と観念論との統一が必要だということです。そうでなければ、運動は生じえず、発展も生まれえないので、したがって、始元となり得ないからです。

 これには、二重の意味があるのです。それは、この世界の始元であり、もう一つは、学問としての哲学の始元です。それが「この何らそれ以上の意味をもたない単純なもの、この空虚なものこそ哲学の始元でなければならない」ということです。そして、それは具体的には「世界は一にして不動」というパルメニデスの規定が哲学の始元となる、ということです。すなわち、これが「存在と思惟」「主観と客観」との統一に他ならないということです。

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[2807]
質問者 - 2018年04月13日 (金) 13時58分

力作を書いて送信しようとした時に全て消えてしまった脱力感は大きいです。

すぐに書き直す気力は湧いてきません。

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[2808]
質問者 - 2018年04月13日 (金) 15時32分

気を取り直して…

同じものは書けないので新たに書きますが、愚按亭主との語らいは私に新たな興味関心を喚起するという点で他の哲学仲間との語らいにも匹敵するくらいの誠に得難き機会だと痛感しています。

愚按亭主との語らいがキッカケとなり、いくつも書籍を取り寄せて検討し始めたことも多々あり、そのいくつかを挙げてみると先ずは江戸期の町人文化の資料を取り寄せて検討しました。それは愚按亭主の例の「ヘーゲルの説く国家像を日本は体現していた」という辺りから、近世以前の日本の町人階層が市民社会と呼べるものだったのかの確認のためでしたが…。

結論的には江戸の文化の華と咲いた町人たちはいわゆる「近世封建社会」で生きていたので近代の資本主義経済のなかで生まれてきた市民社会とは呼べないということになりましたが。ですが、そうした全体的には封建的な国家にあってご恩と奉公で生きていた町人たちの理念を見てみると

「商家は財を通じ有無を達するの職分、その余沢を得て相続を立てる」(中井源左衛門家初代「遺戒」、18世紀末)

「商人の使命は万物の有無を通じ、万人の用を弁ずるにあり、徒らに私欲に走るは本来を誤り、神の御心に違い、身を破るに至る」(西谷小兵衛「世俗弁利抄」19世紀中)

「商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの
利真於勤」(伊藤忠兵衛家初代「座右銘」19世紀初)

つまりは利益を目的に行動するのではなく、世の中の需給を調整するのが商人の任務で、その任務を遂行した暁に余沢として利益が得られるという商人の社会的責任を重視する理念です。(小倉栄一郎『近江商人の理念』より)

それに対して武士は金銭を賎しいものだと蔑んだそうです。(『武士はなぜ腹を切るのか〜日本人は江戸から日本人になった』より)

それは武士は働かなくとも食べていける社会的身分だったからで、時として「町人拝金主義」という言葉も聞かれますが、それは武士の側からみた偏った見方ですし、その後の町人文化や大衆文化の発展からみても軽視できない点だと思われました。

江戸期の町人階級の倫理性は、支配階級が自分たちのためにそれを求めたという部分も少なからずあったと思いますから、果たしてそれを「人倫」と呼んでいいのか俄には判断できませんが、やはり「国民国家」「議会制民主主義」とは相当に異なります。

それで、愚按亭主からグローバリズム自由経済についての話が出ていたので、より具体的に「ヘーゲルと資本主義」について語った本がないか探したところ竹田青嗣さんの『人間の未来〜ヘーゲル哲学と現代資本主義』や『哲学は資本主義を変えられるか』が見つかりました。

やはり愚按亭主が述べている「有」だとか「定有」だとかの話を古典そのものとして教養を高めるために読むことも興味深いのですが、現代社会で如何に活用できるかに関心は一層あるわけです。

確か以前は愚按亭主、「自分たちは専門のヘーゲル研究者ではないから治療に活用できるだけの学びでよいのだ」と書いていたと記憶しているのですが、治療に活用するには哲学の専門家はだしのところまで行ってるように思われますが?もちろん人間の思考は進歩もすれば退化もするので発言当時とは考えが変わっても構わないわけですが、その愚按亭主の「有」の一元論的な理解が健康腺療法の施術に大きく関わってくるのでしょうか?

私はカントにも詳しくありませんが、カントが「物自体」を否定したのは一元論的な形式よりも真理性を重視したからではないでしょうか?普遍的な物の理解から現象を説くことに無理を感じたからでは?

もしもカントが純粋理性による物の普遍的な理解から個々の現象を説くことを否定して悟性での現象理解を説いたとしたならば、現代の分子メカニズムから現象を説く行き方はヘーゲルでなくカントを選んだと言えるんでしょうか?

ついでに池田信夫さんの『資本主義の正体〜マルクスで読み解くグローバル経済の歴史』にはグローバリズムを無条件に賛美することも反グローバリズムを叫ぶことも間違いでグローバリズム資本主義を上手くやっていく新たな国家のあり方が肝心だと説いています。

その辺りは愚按亭主の「国家第一主義」とも重なるところではありますけども。まあ「似て非なる…」とも言えなくはありませんが(笑)

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[2809] 文化人の弁証法に対する誤解
愚按亭主 - 2018年04月14日 (土) 16時19分

 最近、識者たちから発せられる以下のような、弁証法に対する疑問をよく耳にします。それは「弁証法では文明は発展するものとされていますが、現実は必ずしもそうとはならず退化する場合もある」というものです。それは直接にはマルクスの封建制から資本制、資本制から共産制へと社会は発展していくものだ、という階級闘争史観的な、形而上学でしかないまがいものの弁証法の説く発展論を念頭に置いたものと思われますが、問題は、それと、ヘーゲルの本物の弁証法とが、一緒くたにされてしまっている場合が多いということです。

 マルクスの階級闘争史観は、国家そのものの発展を見るのではなく、常に、国家権力=支配階級=悪という形而上学的規定から発して、善の抑圧されている被支配階級による革命によって、社会が進歩していくとみる見方です。日本における歴史学界は、このマルクス主義者に牛耳られていますので、日本の戦国時代や江戸時代は、封建制の暗い時代であったと記述されているのがほとんどです。

 では、そんな暗い時代にどうして、世界の何処に出しても恥ずかしくないような、否、逆に浮世絵のように西洋の芸術家に大きな影響を与えるような、西洋の貴族文化に匹敵するような見事な町人文化が花開いたのでしょうか?

 戦国時代に日本に来た宣教師のザビエルは、日本の国民はみな名誉を重んじ、平和と秩序を守って幸せに暮らしていて、貧しくとも武士は皆から尊敬されている」という内容の報告書を送っています。

>「商人の使命は万物の有無を通じ、万人の用を弁ずるにあり、徒らに私欲に走るは本来を誤り、神の御心に違い、身を破るに至る」(西谷小兵衛「世俗弁利抄」19世紀中)
「商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの
利真於勤」(伊藤忠兵衛家初代「座右銘」19世紀初)
つまりは利益を目的に行動するのではなく、世の中の需給を調整するのが商人の任務で、その任務を遂行した暁に余沢として利益が得られるという商人の社会的責任を重視する理念です。(小倉栄一郎『近江商人の理念』より)

 これは何を意味するかと云えば、当時の日本国民はみな、国家・社会における自分の立場・役割・責任を自覚して主体的にその道を追求していたということです。つまり、それが商人であれば商人道、武士であれば武士道だということです。そしてこれが、すなわち国家第一主義だということです。そして国家第一主義の対自即自の自由たということです。これを江戸時代の日本人は、みな共通して持っていたということです。だから、歌舞伎で主君の跡継ぎの身代わりとして、自分の子供の首を差し出すという物語が、当時の(現在も)日本国民の人気を博し、皆その思いに同情して涙していたのです。

 国家第一主義は、国家としての普遍性ですから、蘇我馬子の聖徳太子による17条憲法による建国当初から、日本の国家に貫かれていたものです。だから、一兵卒に過ぎない大伴部博麻にも「日本を危地から救ったという自己犠牲的愛国精神」が存在したのです。だから、日本国民は、統治形態は様々に変化しながらも天皇を頂点とする君主制は基本的に維持されて現在に至っているのです。それは他国には見られない極めて稀有な現象です。

 何故それが可能となったかと云いますと、それは日本の国家が、ヘーゲルが説く学問的な国家論の普遍性を、しっかりと持った国家だったからに他なりません。、

 ヘーゲルの弁証法は、全体性レベルでのマクロの大きな流れとしての発展性と、個別のレベルにおける生成・発展・衰退・消滅を通じての発展との統体止揚された発展であって、マルクス主義の現実離れした機械的な発展観ではありません。ですから、全体性レベルの概念は、本流たる契機をを充分に備えた日本国民の国家第一主義が、退化している現実を前に、辛抱強くその覚醒と主体的な復活を見守っているというのが、現在の状況です。

>それに対して武士は金銭を賎しいものだと蔑んだそうです。(『武士はなぜ腹を切るのか〜日本人は江戸から日本人になった』より)
それは武士は働かなくとも食べていける社会的身分だったからで、時として「町人拝金主義」という言葉も聞かれますが、それは武士の側からみた偏った見方ですし、その後の町人文化や大衆文化の発展からみても軽視できない点だと思われました。

 これもマルクス主義的な階級闘争的発展史観を土台として、武士が儒教に囚われていたという偏見から歪んだ解釈をしたものにすぎません。なぜなら、儒教と云うなら、そもそも血生臭い殺生をする武士そのものが、儒教においては賤しまれるべき存在であるからです。そんな武士が、どうして商人を侮蔑できるでしょうか?武士も働かなくてよい存在なのではなく、国家・社会の統治・治安維持の仕事をせっせとしていたのです。だから当時の日本国家は非常にうまく機能できていたのです。その武士の生活が、統治される者たちの模範となるべく厳しく律せられていたからこそ、尊敬され、商人たちもそれに倣って、自分の任務である商道に励んで、西洋の資本主義社会よりも早く、世界初の先物取引という信用取引のシステムを、封建制の日本が世界に先駆けて確立したのです。これは、その当時の日本の国家が、人倫国家であったからこそできたことだったのです。また逆からいえば、当時の資本主義国家は、人種差別的植民地収奪の利益の上に成り立った、お世辞にも人倫国家などととても言えない実態であっただけに、信用取引などできようはずもなかったのです。

>確か以前は愚按亭主、「自分たちは専門のヘーゲル研究者ではないから治療に活用できるだけの学びでよいのだ」と書いていたと記憶しているのですが、治療に活用するには哲学の専門家はだしのところまで行ってるように思われますが?

 この私の発言の真意は、専門の研究者のように本の一節を細かく解釈するのではなく、ヘーゲルの学問の王国を自らの頭の中に構築して、それをもって現実の問題と格闘していくということです。それには、まずヘーゲルの学問を正確に創り上げなければなりません。だから、必要な限りヘーゲルの説いていることを正確に把握する必要があり、それを広く多くの人に分かってもらう必要があるということです。それが、たまたまヘーゲルを研究している研究者が、何十年もかかっても解けなかった問題が、いとも簡単にあっさりと解かれていたということです。それは必要だから、それが解けなければヘーゲルの学問が頭の中に創ることができないから解いたまでのことです。

>私はカントにも詳しくありませんが、カントが「物自体」を否定したのは一元論的な形式よりも真理性を重視したからではないでしょうか?普遍的な物の理解から現象を説くことに無理を感じたからでは?

 カントは、あくまでも、真理は、悟性的な経験由来の認識の中にはなく、先験的な全体性の純粋理性・対自的理性の住む真理の王宮の中にある、という立場を貫いたのです。ですから、二律背反も、物自体も、その王宮内での議論なのです。それに、カントは物自体を否定していません。物自体は、二律背反に整合性を持たせようとして導入しただけですので、その内容は空虚で、唯物論のように見えて、二元論のように見えて、その実質は、主観的観念論のままだった、ということなのです。

>グローバリズム資本主義を上手くやっていく新たな国家のあり方が肝心だと説いています。

 グローバリズムの問題は、マルクスの資本論でどうこうできる問題ではありません。経済学的な小手先の技術でどうこうできる問題ではないということです。それは、もっと根本的な国家論の問題だからです。マルクスの理論には階級を支配する国家論しかなく、学問的な正当な国家論がないからです。だから、ヘーゲルの復権が必須なのです。




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[2810] メルマガへの投稿
愚按亭主 - 2018年04月18日 (水) 15時53分

 ここでの議論を踏まえて、宮崎正弘氏のメルマガに投稿した内容を以下に紹介します。

最近、世の中の動きを客観的に分析し、本当の日本の姿を明らかにしてくれている、まともな有識者の方々の中から、弁証法に対する疑問が発せられているのを耳にして、とても心を痛め、悲しんでおります。
その疑問というのは「弁証法では文明は発展するものとされていますが、現実は必ずしもそうとはならず、退化する場合もある」というような内容だったと思います。
おそらくそれは、直接にはマルクスの封建制から資本制、資本制から共産制へと社会は発展していくものだ、という階級闘争史観的な発展観を念頭に置いたものと思われます。たしかに、マルクス主義者たちは、それを弁証法と呼んでいるかもしれませんが、じつはそれは弁証法ではないのです。つまり、自称弁証法であって、紛い物の弁証法でしかないのです。

 弁証法は、ヘーゲルによって完成されましたので、ヘーゲルの和の運動体の弁証法こそが、本物の弁証法であって、それ以外のものは、それに至るまでの歴史的弁証法(たとえばアリストテレスの静止体の弁証法すなわち形而上学など)が、弁証法と呼ぶのを条件付きで許される程度です。したがって、それ以降のマルクスの自称弁証法などは、弁証法と呼ぶべきではないと考えます。
というのは、マルクスは弁証法の前に冠として唯物論の立場に立つということを示す言葉を載せていますが、これが、そもそも弁証法でないことを告白していることになるのです。

 というのは、唯物論と観念論は、世界の起源に関するあれかこれかの一面的な観方ですが、この世界の起源・始元に関して、ヘーゲルは、その両者を弁証法的に統一・統体止揚して、この世界の起源・始元に関して、学問的に弁証法的な答えを出して、すでに解決していたのです。このようにして本物の弁証法が完成していたのに、マルクスは、こともあろうに、それをわざわざ解体して、あれかこれかの古い唯物論か観念論かの対立に引き戻した上で、観念論を全否定して、唯物論の立場に立つ弁証法こそが学問的な弁証法だ、として嘘吹いたのです。

ですから唯物弁証法というのは、まさに弁証法を否定する弁証法であり、絶対矛盾的自家撞着に陥った紛い物に過ぎないのです。だから、マルクスの唯物弁証法の実態は、ヘーゲルが死んだ論理学と批判していた、古いあれかこれかの運動性のない硬直した形而上学にすぎないのです。
さらに言えば、同じ形而上学でも歴史的形而上学は全体性の論理そのものでしたが、マルクスの唯物弁証法は、部分性に過ぎない唯物論的な事実の論理を、不当に一般化した論理的誤謬を犯した形而上学ですので、悪質なものであり、実際にそれは大きな災厄をもたらしました。

 たとえば、マルクスの階級闘争史観は、国家そのもの(全体性)を否定しているので、その発展を見るものではなく、部分的な経済的側面を不当に全体化して、そこから国家権力=支配階級=悪という硬直した形而上学的規定を導き出し、抑圧されている被支配階級による革命によって、社会が進歩していくとみる機械的な発展観です。
 日本における歴史学界は、このマルクス主義者に牛耳られていますので、日本の戦国時代や江戸時代は、封建制の暗い時代であったと記述されているものがほとんどです。

 では、そんな暗い時代にどうして、世界の何処に出しても恥ずかしくないような、否、逆に浮世絵のように西洋の芸術家に大きな影響を与えるような、西洋の貴族文化に匹敵するような見事な町人文化が花開くことができたのでしょうか?戦国時代に日本に来た宣教師のザビエルは、「日本の国民はみな名誉を重んじ、平和と秩序を守って幸せに暮らしていて、貧しくとも武士は皆から尊敬されている」という内容の報告書を送っています。
 また、そのマルクス主義者たちが、封建時代においては蔑まれていたと決めつけている商人たちの実際の言葉を見てみますと、「商人の使命は万物の有無を通じ、万人の用を弁ずるにあり、徒らに私欲に走るは本来を誤り、神の御心に違い、身を破るに至る」(西谷小兵衛「世俗弁利抄」19世紀中)「商売は菩薩の業、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの利真於勤」(伊藤忠兵衛家初代「座右銘」19世紀初)

「つまりは利益を目的に行動するのではなく、世の中の需給を調整するのが商人の任務で、その任務を遂行した暁に余沢として利益が得られるという商人の社会的責任を重視する理念です。」(小倉栄一郎『近江商人の理念』より)

 これは、何という哲学的な誇り高き名言でしょうか!
これらの言葉が意味することは、当時の日本国民は、みな、国家・社会における自分の立場・役割・責任を自覚して、主体的にその道を追求していたということです。つまり、それが商人であれば商人道、武士であれば武士道だということです。
そしてこれが、すなわち国家第一主義における、国民のあらまほしき在り方そのものだということです。
これがヘーゲルの云う、国家第一主義における対自即自の自由たということです。これを江戸時代の日本人は、みな共通して持っていたということです。
だから歌舞伎で主君の跡継ぎの身代わりとして、自分の子供の首を差し出すという物語が、当時の(現在も)日本国民の人気を博し、皆その思いに同情して涙していたのです。

 ヘーゲルの説く国家第一主義は、国家の本来あるべき普遍性を、人倫的理念の現実性と見ております。この観点から見ますと、日本国は、強国隋の煬帝に独立自尊の気概を示した蘇我馬子の聖徳太子による建国当初から、「和を以て貴しとなす」の17条憲法という、国家としての普遍性を具現した人倫的理念に一貫して貫かれた国家でした。
その証拠として、一兵卒に過ぎなかった大伴部博麻の、自己犠牲的愛国精神による行動によって日本国が救われたという事実をあげることができます。
 そして、その注進によって、壬申の乱において唐になびくグローバリストに勝利した、蘇我馬子の魂と血を受け継ぐ天武天皇によって、日本書紀と古事記が編纂されて、人倫的理念の実体化である天皇に包み込まれた独立自尊の国体が、盤石の基盤に据えられて、日本国は、統治形態は様々に変化しながらも、天皇を頂点とする君主制が基本的に維持されて、現在に至っているのです。
それは、他国には見られない極めて稀有な事例ですが、じつはこの事実は、日本の国家が、まさに国家としての普遍性を兼ね備えていたことを物語るものに他なりません。

 ヘーゲルの本物の弁証法の発展観は、全体性レベルでのマクロの大きな流れとしての発展性と、個別のレベルにおける生成・発展・衰退・消滅を通じての発展との統体止揚された発展であって、マルクス主義の現実離れした機械的な発展観ではありません。そのヘーゲルの説くマクロレベルでの発展性とは、具体的には以下のようなものです。
 
 ヘーゲルにあっては、精神とは絶対的本質を意味します。つまり、<絶対精神>です。この絶対的本質の発展的な自己運動が現れたものが、すなわち本流の流れです。その本流の流れが、生命の段階に到りますと、論理能力のある遺伝子がその進化を主導するようになりますので、その本質である<絶対精神>は、<概念>へと質的発展をすることになります。そして、その運動が人間の段階に到りますと、遺伝子が外化した人間の認識が本流となって、その後の発展を主導していくようになります。
その人間の認識が対自的理性となって己自身の本質を自覚できたとき、それまで陰に隠れていた<概念>となっていた<絶対精神>が表に姿を現すことになります。
これを、<絶対精神>が己自身に回帰した(つまり人間の認識が<精神>となること)と呼んでいるのです。
そして、その時の己自身は、<絶対精神>から否定の否定を経て論理体系化された<絶対理念>(学問の完成態)へと見事に昇華できた己自身なのです。そして、<絶対理念>となり神となった人類が、真の世界創造をしていくようになるのが、人類の未来なのです。
 その人類段階における本流の現象形態が、すなわち国家だということです。
これがヘーゲルの説く国家なのです。
そして、そのヘーゲルの説く本流としての国家を、見事に実現できた国家が、わが日本だということです。だから人類の歴史は、一代で次々に姿を消していく個人としての国民を主体として見るのではなく、歴史的に生成・発展して地球レベルで大きな影響力を及ぼす国家を、その本流の主体として見なければならないというのが、ヘーゲルの主張なのです。

 そういう本流としての日本国家の国民の在り方について、次のような指摘がなされています。「それに対して武士は金銭を賎しいものだと蔑んだそうです。」(『武士はなぜ腹を
切るのか〜日本人は江戸から日本人になった』より)

 これもマルクス主義的な階級闘争的発展史観を土台として、武士が儒教に囚われていたという偏見から歪んだ解釈をしたものです。
しかし、儒教に囚われていたと云うなら、そもそも血生臭い殺生をする武士そのものが、儒教においては賤しまれるべき存在であるからです。
そんな武士が、どうして商人を侮蔑できるでしょうか?
日本の武士は、儒教に染まった両班と違って、国家・社会の統治・治安維持の仕事をせっせとしていたのです。だから、当時の日本国家は非常にうまく機能できていたのです。その武士の生活が、統治される者たちの模範となるべく厳しく律せられていたからこそ、尊敬され、商人たちもそれに倣って、自分の任務である商道に励んで、西洋の資本主義社会よりも早く、世界初の先物取引という信用取引のシステムを、封建制の日本が、商品経済を基本とする資本主義諸国よりも先に確立したのです。
これは、その当時の日本の国家が、人倫国家であったからこそできたことだったのです。また逆からいえば、当時の資本主義国家は、人種差別的植民地収奪の利益の上に成り立った、お世辞にも人倫国家などととても言えない実態であっただけに、信用取引などできようはずもなかったのです。

 そもそも、民主主義・国民国家や人権主義は、日本以外の国で一般的であった、弱肉強食の勝者が敗者を奴隷と見て人間と見ないことが当たり前の、したがって人倫国家になれなかった国家の次善の策として生まれたものにすぎません。
つまり国家の本質・普遍性に沿ったものではないということです。それが目下のところ最も進んだ政治思想と思われているのは、大東亜戦争で人倫国家であった日本が、奴隷支配国家に敗れてしまったからに他なりません。
つまり、大東亜戦争は、西欧列強のアジア・アフリカの人間を人間と見ない人種差別的植民地奴隷支配国家、およびトロイの木馬戦術をお得意とする国家破壊的共産主義グローバリスム連合と、それに対する本物の本流たるべき日本の共存共栄の人倫国家との戦いだったということです。
残念ながら、日本がその戦いに敗れたことによって、人類は、世界は、進むべき人倫国家への道を大きく遠回りさせられることになってしまいました。

 それに先立つところの西洋においても、ヘーゲルの出現によって人倫国家への道が拓けようとしたとき、マルクスによってその道が閉ざされ、さらにその後の大東亜戦争においても、ヘーゲル的な国家を実現した日本によってその道が拓かれようとした時、またしてもマルクス主義者の策謀によって阻止され、そして現在もなお、日本は彼らによって頭を抑えられっぱなしの状態になって、未だに国家として自立できず主体性を持てないままになっています。
それだけに、マルクス主義の偽善を暴き、この人類を蝕む害虫を根本的に駆逐するためには、本物のヘーゲルの弁証法の復権こそが、最良の処方箋となるのです。

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[2811]
質問者 - 2018年04月19日 (木) 10時44分

宮崎正弘さんのメルマガを私も登録しましたが、愚按亭主の投稿がどこにあるのか見つけられませんでした。

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[2812] それは
愚按亭主 - 2018年04月19日 (木) 13時06分

 通巻第5675号の(読者の声)にあります。

 以前徳川幕府が農民を生かさず殺さずの状態で支配していたということがいわれている、という話がありましたが、これもマルクス主義者たちの思い込みからくる勝手なねつ造であったことを示すものが以下の記事です・

ChannelAJER プレミアムメールマガジン Vol.1182.0
日本の国柄(くにがら) 第293号   福住蟷螂

京都の医師橘南谿の旅行記がある。「天下泰平」「四海波静かにして」、「嶤舜の世もかくやあらん」と書いた。外国人も同じで、トマス・C・スミスが『徳川時代の年貢』(1965年)を書き、江戸期の農村が存外豊かであったことを検証している。技術的な進歩により反当たりの収穫量が増えたのに、開幕当初の検知以来年貢を上げなかった。加えて新たに開拓した「隠し田」という田畑にも年貢がかからなかった。これは各藩も同じで、百姓には一揆という反抗手段があったからと、スミスが見ている。一揆は体制を否定するものではないから大目に見られたのだ。当然。百姓にも気配りがあるから滅多なことでは起こさなかったはずである。経済活動の進展によって、多大な利益を上げている商人や流通業者にも幕府は課税していない。
「四海波静か」だから外国からの侵略される恐れがなかった。「天下泰平」だから内乱の恐れもない。幕府は戦費も軍備の維持費も必要なかった、増税しなくても「武士は食わねど高楊枝」で済ませる余裕があったのであろう。江戸っ子も「宵越しの銭は持たねえ」と応じている。社会全体が安定しこの平安な暮らしが続くと信じていたのだ。
「駐日アメリカ大使として赴任したライシャワーらジャバノロジスト考え方で、日本の近代化は、すでに江戸時代にその基礎がほとんどつくられていた。読み書き能力においても、経済の市場化の進み具合においても、徳川家の遺産があったから日本は近代化ができたのだ」と捉えている。西欧の学者も憲法の発展と資本主義は影響し合っていたと言っている。西欧は資本主義の先進国だから、民主主義も順当に進展したと、我々日本人は思うかも知れないが、そうではない。労働者の権利を認めた理想的な立憲主義のワイマール憲法は運用の結果どうなったか。長谷部恭男氏が「ワイマール共和国は、さまざまなイデオロギーや世界観が激しく対立し、それが結局、民主的な政治体制を崩壊させた。ケルゼンが、自己決定に多数決にもとづいて正当化する議論を提示した背後には、それぞれの立場の内容が正しいか否かという問題に踏み込まずに、ともかく可能な限りかぎりの多くの人々の同意をとりつけることの決定によって,かろうじて社会の秩序を守ろうとする意図を見てとることができる」(『憲法と平和を問いなおす』20ページ)と西欧の実情を述べている。絶対に妥協しないイデオロギーは民主主義を破壊する。

Pass

[2813]
質問者 - 2018年04月19日 (木) 14時51分

ああ、ありました。ありがとうございます。

それから、弁証法に対する疑問を発しているまともな有識者ってどなたですか?

Pass

[2814]
質問者 - 2018年04月19日 (金) 16時59分

ああ、取り敢えず、私も栗本慎一郎さんが弁証法ダメ、マルクスダメと述べているインタビューを見つけましたけど。

愚按亭主の説いてるのとは論旨が違うから別の人だとは思いますが…

Pass

[2815] 習近平の野望から地球を救うことの大事さ
愚按亭主 - 2018年04月21日 (土) 14時50分

 反共産主義的な知識人はほとんど弁証法を否定しています。

 習近平の独裁国家は、すでに経済的に破たんしていると言われながら、着々と「一帯一路」なる世界支配体制構築に向かって貪欲にその魔手を伸ばしてきています。その手口は、金融やIT技術を駆使して、巧妙に相手国を借金地獄へ引きずり込み、その借金の担保の港や土地を奪い取って軍港や軍事基地とするという形で自らの支配領域を拡大し、借金の名目となった事業には、現地人を使わずに中国人を送り込んでその地を文字通り植民地とするという形で、世界中を支那化しようとしています。また、アフリカの独裁国家に対しては、自国でのIT技術を駆使した監視体制のノウハウと機器を供与して、独裁者を取り込んでその影響力を拡大しているのです。これは、まさに習近平的な独裁体制の輸出に外ならず、まさに世界はその暗雲に蓋われようとして来ています。

 こうしたチャイナに対して始めた米国の貿易戦争は、単なる貿易戦争などではなく、世界覇権をめぐる戦争であることは明らかです。その証拠が、華為技術(ファウェイ)ならびにZTE(中興通訊)の製品、施設が米国市場から排斥されたことです。

 チャイナが、このように世界に重大な脅威を与えるほどに成長するのを助けたのは、他ならぬ日本と米国です。先の大東亜戦争において、直接戦ったのは植民地奴隷支配国家の欧米と、人倫国家の日本でした。人倫国家の日本は、残念ながら敗れてしまいましたが、この戦争によって欧米の植民地奴隷支配体制は崩壊し、植民地化されていたアジア諸国が次々に独立し、それまでその地を植民地として奴隷支配していた欧米諸国は、不当にも自らの悪行の責めをすべて人倫国家である日本にその濡れ衣を蓋い被せて、自分たちは素知らぬ顔で前から人倫国家であったかのようにふるまっているのです。

 ところが、大東亜戦争に関わったもう一つのソ連や中共などの国家破壊的共産主義グローバリズムは、中でもとりわけ中共は、自らは戦わずに、奴隷支配国家群と人倫国家日本とを戦わせるように謀略を巡らして、漁夫の利を得ようという巧みな戦術を成功させて、ついに国民党に勝利するや、清帝国の滅亡後自立の道を歩んでいたチベット・ウィグル・モンゴルを次々に侵略して奪い取ってしまったのです。

 かくして大東亜戦争後、ソ連や中共などのマルクス主義の国家が次々に生まれることになりますが、その後は社会として経済的に破たんして発展性をもつことができず、すべていつまでも貧乏のままでしかも不幸ばかりもたらして失敗に終わりました。原因は、マルクスの共産主義理論に致命的な欠陥があったことです。それは、唯物論的形而上学の手法で物質的生活の生産様式のみを見て、生産様式さえ変えれば共産主義が完成するとしたことです。つまり、観念論を否定して人間の精神の主体性を見ようとしなかったからです。もう少し具体的に云いますと、抑圧されていた労働者や農民が、その抑圧から解放されることがすなわち解放だとして、労働者や農民の即自の認識を不当に高く評価して、人間としての精神性を示す対自の認識の形成に全く関心を示さなかったことです。

 結果として、労働者や農民の即自の認識のままに共産主義を実践しても、働いても働かなくても給料は同じなら楽して働かないとなって、失敗することになってしまうのです。そんなチャイナが、どうして今日のような経済的な隆盛を誇るようになったのかと云いますと、それは先にも申したように日本や米国からの資金援助や技術援助のおかげなのです。

 このチャイナの歴史的即自は、上に強大な力で抑えつけるものがいなければ、即自と即自が殺し合う内乱となり、外来民族であろうとなかろうと上に強大な権力で抑えつけている間だけは平和か保たれて、上に政策あれば下に対策あり」というように、対自的な法や政策を如何にに誤魔化すかに腐心するという、無法が当たり前の歴史的即自の認識が連綿と続いてきているのです。だから、石平氏は、チャイナの民衆は民主主義よりも、むしろ独裁政治の方を望んでいる、と述べているわけです。

 そんなチャイナが大金を持ったらどうなるかが、冒頭に述べた今の世界の現実なのです。では、台湾にどうして民主主義が定着できたのか問いますと、人倫国家であった日本が統治した時代に即自対自の認識がしっかりと教育されていたからであり、あとからチャイナから国民党が逃げてきても、崩されることはなかったからに他なりません。

 習近平は、この対自を持たない即自のみのチャイナシステムを世界中に輸出しようとしています。それも即自のお化けのようなチャイナの民衆を植民するという形での新たな植民地にするためにです。そのチャイナの勢いが凄まじいだけに、慌ててアメリカがそれを阻止しようと動き出したのですが、肝心の人倫国家の歴史と伝統を持つ吾が日本は、中共の意を汲む連中によっていまだに、国家として自立できずにいます。このままでは手遅れになってしまいそうです。そうなると、人類の人倫国家への道はますます遠のいて、人類は不幸の真っただ中に陥るしかなくなってしまいます・・・・。

Pass

[2816]
質問者 - 2018年04月22日 (日) 12時20分

>反共産主義的な知識人はほとんど弁証法を否定しています。

まあまあ、そう仰らずに(笑)。

愚按亭主の論旨は「マルクスの弁証法ではダメで、ヘーゲルの弁証法でなければならない。唯物論もダメで観念論でなければ」ということで、「弁証法を疑問視する有識者」というのは単なる枕詞で言葉の綾、定型句のようなものなのでしょうが、私には大いに重要なことなんです。

これまでの私のコメントを振り返っていただけば了解されるように、私は愚按亭主の見解を非難することも論駁することもしていません。

私は愚按亭主の見解を私とは異なる人格のもつ個性的なお考えだとそれこそ「思想の自由」として眺めていますから、愚按亭主の見解から見え隠れする「日本主義」や「国家主義」、そして歌舞伎や浄瑠璃の「菅原伝授手習鑑」なんかの教養から自己の考えを豊かにするよう努めて関わらせていただいてるばかりです。

ですから、私の疑問・質問にも納得いくような形で答えることなく、すべてご自分の都合のいいようにネジ曲げて解釈してる論法にも文句や抗議も言わずに静観してるだけでしょう?

そんな愚按亭主の姿も、私からすれば「他者理解」と背中合わせにある「独我論」への理解に繋がっていきますから有益ではあるのです。

愚按亭主が述べる「近代以前、文明開化以前の日本は暗い時代ではなかった」なんてのも、そう説いている著書を知りませんから教えて欲しいわけです。

暗いか明るいかというイメージカラーの話は別にしても、封建制か否かというのは経済システムの話でしょうから事実か否かは史料的に確認できるんじゃないですか?

それで、その封建制が資本主義や民主制という新たな制度に切り替えられるべきであったか否かは社会のイメージが暗いとか明るいとかとは余り関係ないのでは?そもそもが制度やら何やらが新しくなることを「○○の夜明け」なんて言語表現するのは定型的な飾り言葉・レトリックでしょうから、坂本龍馬ならぬ鞍馬天狗が言ったとされる「日本の夜明け=明治維新」の前の時期は「夜=暗闇」なわけですよ。

「啓蒙」なんてもの「明かりで照らし出す」というイメージですから、あらかじめ用意されている言葉が「新しくなる」ことを「光が当たる」と表現するようになってるだけで、実際に江戸時代の日本には太陽が公転せずに日が射さなかったなんて話じゃないでしょう。

ですから、愚按亭主のように「日本主義」を井上哲太郎のように主張する人間は大抵はヨーロッパ近代の批判者なわけですから、近代の超克論から日本主義を主張するわけですが、愚按亭主の場合は日本主義からヘーゲルなわけでネジれてるんだと思うんですね。それはやはり、聖徳太子を支持する思想を愚按亭主に与えた人間とヘーゲルを支持する思想を与えた人間とが別人なんでしょう。別人なんだけど両者ともに愚按亭主にとっては大事な人だということなのだとネジれた思考の背景を想像したりしてるわけですが。

弁証法と識者に関しては栗本慎一郎さん以外には副島隆彦さんが「弁証法的歴史観」という表現で否定してるのを見つけましたけど。でも、愚按亭主の説く「発展ばかりでなく退化もする」というのはイワユル「ヨーロッパ中心主義」というやつで、世界中がヨーロッパの近代化に倣わねばならぬという、ヘーゲルなんかも東洋は牛や豚の動物の世界だしアフリカは植物の世界だと言ったアレでしょう?

そこから「いや、そんなことはない、日本だって誇るべき歴史や文化がある!」となるなら解るのに、愚按亭主は何故かそこから「ヘーゲルへ還れ」ですからね。

大局的な歴史観として発展史観・進歩史観を把持していては正しく歴史を掴めないという警鐘ならばもっともなことでしょうし、また発展と退化を合わせて取り上げろというのも弁証法的で有益な指摘でしょう。また、歴史観というよりも未来への志向性・自由意志として「歴史は発展させていくべきだ」という理念を説くならば、それもまた正統なのではないでしょうかね?

私も愚按亭主から「主君の子供の身代わりに自分の子供の首を差し出す話が今も昔も日本人には人気」だなんて聞いて「日本人がそんな残忍な民族だろうか?」と背中に寒気が走ったのですが、調べてみたら「菅原伝授手習鑑」のモデルになった実話は平安時代で、浄瑠璃や歌舞伎の演目とされたのは江戸時代、すごい長い時間が経ってるわけです。

それで、この菅原伝授手習鑑の「寺子屋」で観客が感動するのは「主君の子供を殺さない忠義」より「親の苦悩を除きたい」という自らの首を投げ出した子供の親への情なんでしょう。愚按亭主の言う「国家第一主義」でなく「親子の情」なんですよ。日本人は国体とかよりも義理人情が好きなんでしょう。

ですから、思想史もデリケートなもので、例えばレヴィ=ストロースだとかの構造主義者がヘーゲル信奉者を語ったとしたならば、そこにはヨーロッパ中心主義・進歩史観への批判が潜んでいる可能性があるわけです。

「○○は牛や豚だ!」と食わず嫌いしてる手合いを尻目に「神秘主義的な時代遅れであるかに見受けられる文化」を追究するが如くに。そのときに、ああ、あれはレヴィ=ストロースなんだなと察せられるくらいの教養が身についていたら素晴らしいと思うわけです。

しかし、それがまた一方でヘーゲル的な「螺旋的発展」の構図になってるとも言えるわけですが…

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