[2795] 個別の問題に寄り道:持統天皇はなぜ大伴部博麻を顕彰したか? |
- 愚按亭主 - 2018年03月25日 (日) 19時48分
これまでヘーゲルの観点から、国家とは何か、日本の国家の生い立ちに関して説いてきましたが、このような本質的な論議をしていくと、個別の案件についても、これまで誰も説いていなかった事柄が見えてきます。そこで、今回は少し寄り道をして、その個別の案件について見てみましょう。
その個別の案件とはどういうものかといえば、表題にある通り、持統天皇はなぜ大伴部博麻を顕彰したか?、という問題です。これを論じることは壬申の乱がどういう意味をもつものであったかを明らかにしてくれるはずです。
まず、「[2789] 国家の二重構造とは」の中の次の文章を見てください。
「日本の歴史において、初めて国家と言える国家が誕生したのは、隋という強大な軍事国家がお隣に出現したことによって、それまでのような共存共栄の平和でのんびりした緩い連合体では危ないという危機意識が芽生え、聖徳太子(蘇我馬子)が、17条憲法と冠位12階を制定すると直接に、統一した国家として組織化された時でした。ですから本当は、蘇我馬子(聖徳太子)が初代の天皇になるのです。実際、隋の煬帝に「日出る処の天子」と対等の独立自尊の気概を示す形で名乗っているのですから間違いのないことです。そしてこの聖徳太子が制定した「和を以て貴しとなす」に代表される17条憲法は、それまでの日本に普遍的に存在していた共存共栄の精神を実体化した憲法で、西欧の近代国家の憲法よりも千年も早く創られた、というだけでなく国家の理念としての本質をも兼ね備えていた驚嘆の先進性を示すものです。これは、むしろ相互浸透と云うよりも、否定的媒介を通じて自らを国家として主体的かつ自由に発展させたという方が、本質的論理の発展としても、現実的にも正当だと思います。
そして、その蘇我王朝が、即自的な争いのし烈な国である支那からの亡命者にそそのかされたクーデターによって滅び、その後の白村江の戦いに敗れて唐の属国の道を歩もうとする亡命氏族のグループを、壬申の乱で破った蘇我馬子(聖徳太子)の血と魂を受け継いだ天武天皇が、古事記と日本書紀を編纂して、即自対自の独立自尊の道を盤石なものにしました。とりわけ、古事記の前文の哲学部分は、宇宙の生成から地球の誕生、および人類の使命を叙述したもので、ヘーゲルの哲学を彷彿させる壮大さであり、人類の使命などは非常に近いものがあります。これは何を意味するかと云えば、この日本の発展運動は、まさにヘーゲルの説く概念の自己運動の実質を備えていた、ということが云えるのではないかと思います。
その後の白村江の戦いに敗れて唐の属国の道を歩もうとする亡命氏族のグループを、壬申の乱で破った蘇我馬子(聖徳太子)の血と魂を受け継いだ天武天皇が、」
続いて表題に直接むすびつく問題を説いた、「[2767] いわゆる国民国家と日本のヘーゲル的国家第一主義との違い 」において、私は次のように説いておきました。
「『我(朕)は おまえが朝廷を尊び わたし(天皇)の国を思い己を売ってまで忠誠をしめしたことを(顕・あきらかにした)うれしくおもう(嘉・よろこぶ)』
これは、持統天皇が持統4年(690年)『大伴部博麻(おおともべのはかま)』という元倭国(日本)兵士に与えた勅語です。(日本書紀:第三十三巻持統天皇より)この大伴部博麻という兵士は、白村江の戦に敗れて捕虜として長安に連れていかれ、そこでたまたま『唐』が『倭国(日本)を攻める計画』を立てていることを知り、捕虜仲間に自分を奴隷として売ったその金て日本に帰って、この緊急事態を知らせてほしいと頼んで、日本を危地から救ったという自己犠牲的愛国精神に富んだ若者でした。」
問題は、なぜ持統天皇は、大伴部博麻を顕彰したのか?ということです。しかも、それがなぜ日本書紀に載せられたのか?です。それはおそらく、それが壬申の乱の行方を決するような大きな影響を及ぼすものだったからに他ならないと思います。
それはどういうことかと云いますと、白村江の敗戦以降、天智天皇系は、防人などで防御体制を構築しながら、唐との融和を図って遣唐使を派遣しています。一方、唐はと云えば、何とか高句麗を滅ぼし、高句麗を滅ぼした後は同盟関係にあった新羅に対して牙をむき始めます。それに対抗するため新羅は日本と和睦を結びます。しかし、唐の方も日本に協力を求めてきます。さすがに天智天皇もそれに応じることはできなかったのですが、武器の供与はしたようです。つまり、天智天皇は唐に対して独立自尊を貫けなかったようです。
そんなときに、大伴部博麻の献身的な働きによって、唐が日本も侵略しようと計画している、との知らせが届きます。そこで、唐との友好関係を維持したい天智天皇系と、関係を断って独立自尊で行くべきだとの天武天皇系との対立が生まれ、それが壬申の乱につながって、独立自尊派の天武天皇系の勝利に大きく貢献することになったから、それが日本書紀に載るほどの大きな顕彰として残されたのだと思います。実際それは日本の国体を創り上げるうえで非常に大きな意義をもつものだったと思います。
その後、天武天皇系の天皇が続いている間は、遣唐使は派遣されておりません。そして、その天武天皇系の天皇は天皇の皇統の中に入れられていないケースが多いのだそうです。つまり、平安遷都後の天皇は皆天智天皇系だそうです、
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