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[2784] 国家は、国家第一主義であるべきか、国民第一主義であるべきか?
愚按亭主 - 2018年03月16日 (金) 23時56分

 BSフジのプライムニュースを見ていた時に、元記者のコメンテーターが、おかしな国家観を述べていました。それは、国家は国民が一番上にあってその下に行政や立法府などの召使がある、というものでした。これを聞いて私はギョっとして、民主主義・国民主権とか国民ファースト(国民第一主義)というのはそういう構図になるのか!とあらためてその異常さを痛感させられました。

 これは、国家を人間に例えて言えば、細胞が一番上で脳とか肝臓・腎臓・心臓および胃腸などはその召使というようなものです。たしかに、そう見ようと思えば見れないこともありませんが、人間は細胞第一主義です、などといわれても、えっ?と首を傾げたくなります。というのは、それでは動物とどこが違うのか説明できないからです。

 同じように国民第一主義も、それが国家だと言われても、その国家の国家たる由縁が見えにくいのです。ですから、そういう図式は、国家観として問題があるのではないか、という疑念が湧いてくることになります。つまり、国民国家とか国民主権とかは、国家のあり方として、本来あるべき形ではないのではないか、ということです。

 そのことをもっとも端的に示している事実が、国民第一主義のわが日本国は、敗戦後70年もの長きにわたって、未だに国家として自立しているとは言えず、主体性も持てていないという現実が続いていても、国民の皆さんは何とも思っていない、国民の多くの皆さんは自分の生活が無事できれば、それは大したことではない、だから憲法9条も変える必要はないと思っていることです。国民第一主義ですから、国民の大多数がそう思っていれば、国が国として主体性を回復する行動を永久にとれないということになってしまうわけです。これが、国民主権のもたらした今の日本の現状であり、国民第一主義が、国家のあり方として如何に誤っているか、ということを如実に物語ってくれています。

 ではこの近代的な民主主義や国民主権という考え方は、どこから生まれてきたのでしょうか。近代における国家論形成は、それまでの王権神授説の観念論的な解釈を否定する形で、唯物論者によって創られました。具体的には、ホッブズは、自然状態=においての人間は、万人の万人に対する闘争であるので、畏怖されるような公権力を創って、それに従わせる市民国家の必要性を説きました。一方 ルソーの場合は、人間は本来自然状態においては相互に助け合う存在であったが、財産の私有制が始まると争うようになってしまったので社会契約説によってそれを抑える必要がある。具体的には、選挙などによって多数の意志を一般意志・国家の意志として、それに従う共和制を主張しました。

 これを見ますと、たしかにそれまでの王権に対して自然権としての国民の権利を説いていますが、それに対する公権力や一般意志の優位性を説いた至極まともな国家論ではあります。それがどうして、現在のような歪な・異常な国民主権論になってしまったのでしょうか?それはおそらく、マルクス主義の階級闘争論、あれかこれかの国家権力=悪論、労働者・市民=善論によって、国家権力の上に人権をおくような国民主権論に歪められていったのだろうと思われます。

 しかし、人類最高の学問であるヘーゲルの国家論は、ホッブスやルソーの市民国家論・共和制国家論を次のように批判しています。
「国家が市民社会と混同されて、国家の規定が所有および人格的自由の保全と保護にあるとされるならば、個人そのものの利害が諸個人を統合させられる究極目的となり、これによりまた、国家の成員であることは任意のことがらとなる。」(「法の哲学」より)

 これは、唯物論的な国家観への見事なる反論です。この唯物論的な国家観の誤りは、国民・個人から出発しているところにあります。ここから出発している限り、いくら一般的な意志としての国家意志を説こうとしても、国家意志そのものを説くことはできません。つまり、国家論の本質論を説くことができない、という学問としては重大な欠陥を内包することになります。これが、現在において存在している国家論のすべて言い得ることです。だから、ヘーゲルの国家論の復権が必要なのです。

 このヘーゲルの国家論に関して、「コトバンク」では次のように批判的に述べています。
「国家と社会、国家と個人の関係については、国家形成以前の社会生活において人間が有していたとされる個人の自由や生命の安全を第一義的に重視することが説かれ、悪法・悪政には抵抗し、場合によっては政府や国家を変更・解体することもありうる、という国民主権的立場が強調されている。この意味で社会契約的国家論は、国民主権主義、基本的人権の尊重、法の支配を基調とする現代民主主義国家の理論モデルとなったものといえよう。

 これに対し、イギリスやフランスなどよりも1、2世紀遅れて近代国家を形成したドイツや日本では、富国強兵策がとられ、それとの関連で、国家の個人に対する優位、また国家の利益のためには個人の自由や利益は制限されてもやむなし、とする国家観が説かれた。すなわち、ドイツでは、国家生活において人間は最高度の自由を享受できるとするヘーゲルの国家観が支配的地位を占め、また歴史の各時代には『世界精神』を実現する民族が出現し、それがゲルマン民族であるというヘーゲルの歴史観は、ドイツ民族は他民族を支配する権利をもつという理論となり、またこのゲルマン民族の優秀性という考え方は、のちにナチス第三帝国による世界支配の理論的根拠となる。」

 これは、ヘーゲルの学問からするならば未熟な、形而上学的な、民主主義か、全体主義か、の死んだ論理学”の発想から、民主主義を正しいと前提的に決めつけて解釈したもので、学問的には全く評価できない説明です。その原因はヘーゲルの学問・国家論が全く分かっていないために、全く見当違いな評価をしているからです。

 まず基本的な問題として、ヘーゲルの論理学は、あれもこれもの和の運動体の弁証法だということが、ほとんど理解されていません。ですから、ヘーゲルにあっては民主主義も全体主義も統一されて、個人の自由と国家としての自由とが統一された異次元の国家像なのだということが分からないのです。

 それから、「歴史の各時代には『世界精神』を実現する民族が出現し」というのは、この世界を運動・発展させている絶対的本質=絶対精神=世界精神(人類の本流)が、個人としてでなく必ず民族・国家として出現すると説いているのです。その本流たる資格の要は学問にあります。ですから、古代においてはギリシャとりわけアリストテレスの学問を普及しようとしたアレキサンダー大王の世界統一が本流だったのであり、近世においては科学を発展させた西欧諸国その中で異彩を放つのが、学問中の学問である学問の冠石を完成させたヘーゲルが存在するドイツが、本流中の本流たりうる潜在力を持っていたのですが、マルクスによってすぐに葬られて形而上学に戻されてしまいましたので、結果として形而上学的な全体主義であるナチズムという徒花が咲いてしまうことになってしまったのです。その一方で、本当に不思議なことに、東洋の端っこの日本は、その生い立ちからして、世界の中で唯一異質でまっとうな、ヘーゲル的な国家第一主義による共存共栄の国創りをして「世界精神」の本流たる実力をドイツ以上に育んでいたのです。

 ではヘーゲルの説く学問的・本質的な国家論とはどういうものでしょうか?ヘーゲルは前の市民国家に対する批判に続けて、あらまほしき国家像を次のように説いています。

「しかし国家は個人に対して全く別の関係をもつ。国家は客観的精神であるがゆえに、個人自身は、ただ国家の一員であるときにのみ、客観性・真理・人倫をもつ。諸個人の統合そのものが国家の真なる内容および目的であって、個人の規定は、普遍的生活を営むことである。個人のその他の特殊的満足、活動、ふるまい方は、この実体的なもの、普遍妥当するものをその出発点とするとともに成果とする。――理性的であることは、これを抽象的に見れば、一般に普遍性と個別性との浸透し合う統一のうちにあり、これを具体的に見れば、内容の点では、客観的自由すなわち普遍的実体的意志と、個人的知識としてのまた特殊的目的を求める個人意志としての主観的自由との統一のうちにあり、――したがって、形式の点では、思惟された、すなわち、普遍的な法的に永遠にして必然的な存在である。」(「法の哲学」より)

 ここに何が書いてあるかと云いますと、国家は客観的精神、すなわち対自的理性、つまりその民族その国家が歴史的に創り下てきた普遍的理性である。したがって、その対自的な理性・普遍性を、個人が自分のものにしなければ、即自だけでは国民とはいえないということです。したがって、国民主権というときのその国民も、本来は、即自且対自の統一体として自分を創らなければ国家の一員にはなれないのですから、税金を払っているからというだけで主権者だ、などということはできないのです。その即自且対自の統一体として国民を、世界の中で唯一見事に実現したのが、日本であり日本国民だったのです。ですから、即自的な人権ばかりゴリ押すような人物の云う事を、国家は聞く必要はないということです。したがって、国家は、個人が立派に国民となれるように、その民族その国家が歴史的に創り上げてきた普遍的理性を教育する責任があるので、その大事な教育を、対自的理性をもたない教育委員会などに任せてはならないのです。

 念のために断っておきますが、その対自的な普遍性・一般性を個人に押し付けることは、決して個人の自由を圧殺することにも、個性を摘むことにもならないどころか、かえって真の自由・豊かな個性を育むことになるのです。なぜなら、その民族その国家が歴史的に積み上げてきた真理の高みを、個人に植え付けることになるのですから、その方が個人は立派な国民となって、国家のため己のために縦横に自由と個性をはぐくみ発揮できるようになるのです。

 ヘーゲルは、国家の理想形を立憲君主制としています。そして、その構造は、即自的な国民と対自的な法や国家機関との両者の上に国家理念・憲法およびその実体化としての君主をのせて、国家全体が調和的に一つになる構造になっています。そして、ヘーゲルは、君主は国家理念の実体化したものとして、その両者は一体であらねばならないと説いています。そうでなければ、国家はその高みを維持できず、堕落していくことになると釘を刺してもいます。これがすなわち、ヘーゲルの説く国家第一主義なのです。これはまさに、戦前の日本の国家そのものです。日本は「世界精神」たるべき内実を兼ね備えていたから、世界のいたるところで尊敬されたのです。ですから、私は、日本の再生は、ヘーゲルの学問的な国家第一主義をもってなすべき、であると主張しているのです。

Pass

[2785]
質問者 - 2018年03月18日 (日) 15時26分

時々のぞかせていただいております。

なるほど、もっともなことだと思われる見解の中にも「どうしてそうなっちゃうの?」と不思議な意見が混在していて、もしかしたなら斯様な意見を「論理的に錯綜した見解」と呼ぶのだろうかと私見を述べさせていただきたく思いました。

思うに「国民主権」というのは至極当たり前の考えですし、そこに何らの異議をはさむ余地はないように思います。それは愚按亭主がご指摘のとおり近代の市民社会から発展してきた国民国家の基礎ですし、それに対立するのが専制国家ですから。

ですから、ヘーゲルが生まれる前の1690年にジョン・ロックが

「政府の下にある人間の自由とは、その社会の誰にも共通な、そうしてその中に立てられた立法権によって作られた、恒常的な規定に従って生きることにある。規定が何も定めていないところでは、一切の事柄について自分自身の意志に従い、そうして他の人間の流動不定、不測で勝手な意志には従属しない自由のことである。」(『市民政府論』)

と述べています。この「法の下での自由を実現する形態・組織が国民国家」だということが、近代以降の国民教育に結び付き、いわば国家で生きていく国民として教育されることが自由を得るための必要条件となったのでしょう。ですから国家と国民とは切り離せない一体となったもので、敢えて述べるなら相互規定的であり相互浸透的だとも言えるのでしょう。

それでプライムニュースの2018年3月16日放送分はユーチューブに公開されていますから私も見てみましたが、愚按亭主の述べる「行政や立法府は国民の召し使い」なる発言は見受けられませんでした。現職の防衛大臣や前幕僚長が出て国防や安全保障について語っている番組ですが、そこではそれら重職にある人物が自分たちの取り組み、方針を国民に伝える義務があるとばかりに説明していて、正に日本国憲法の前文にある「国民主権、国政は国民のために」との理念に則っていますから、どうして愚按亭主が国民主権を否定しにかかったのか不思議でしかたありませんでした。

「召し使い」なる発言が意味深で、いま閣僚を国民の召し使いだと思ってる人間がいるのかどうかも不思議ですが、日本国憲法に記載されているように「信託」しているわけですから、下僕のように誰か国民がどうしろと述べたならばその通りにしなければならないなどということはなく、難しい仕事を国民に利益あるものとして果たしていただくようにお任せしてるわけです。

ですからテレビのキャスターが仮に「召し使い」なんて発言したら失言ものの言葉の選択かもしれませんよ。

実際、愚按亭主のご専門の治療の事例で考えたなら、明治時代に西洋医学・西洋医術が入ってきたときに明治の医制で漢方は禁止されるはずだったんですから。

政府が決めた政策としての漢方禁止なわけですから、国家第一主義の愚按亭主ならば無条件に従って漢方を捨てなければならないわけです。

ですが、漢方医の努力によって、特に感染症なんかの微生物の研究に長けていた西洋医師らの「不衛生」との指摘を消毒の知見を導入することで切り抜けて、鍼灸師も骨接師も生き残ったわけです。

そして、漢方医の存続を許した明治政府には近代ヨーロッパから伝わった「国民国家」、国民のためという方向性があったからです。

愚按亭主のような専制国家第一主義とは違うでしょう。

Pass

[2786] 日本の伝統的な国体の方が国民国家よりも優れているのはなぜか?
愚按亭主 - 2018年03月18日 (日) 21時40分

 質問ありがとうございます。プライムニュースの件、どのテーマの時の誰の発言かを明示せず、申し訳ありませんでした。私が見たのは、3月15日の『文書改ざんの闇と元凶 伊吹文明×長妻昭対論』にテーブルの対面に一人で座っていた山田惠資 時事通信社解説委員長の発言で、サーバントという言葉をはっきりと使っていました。

>正に日本国憲法の前文にある「国民主権、国政は国民のために」との理念に則っていますから、どうして愚按亭主が国民主権を否定しにかかったのか不思議でしかたありませんでした。

 「国民主権、国政は国民のために」がなぜ駄目なのかと云いますと、国民はそれぞれ雑多な特殊的な目的を持っています。国民のためにというとその国民の雑多な目的を実現するために国政をしなければならないということで、国家はどこへ向かったらよいのかはっきりしなくなります。国家とは何か?国家は一体何のためにあるのか?何処へ向かうのか?国民主権では、船頭多くして船山に登ることになってしまいます。質問者さんは、だから立法府や行政府に委託・信託しているのだ、というのでしょうが、国家としての理念・目的が無ければ、力のある国民・金のある国民の利害に、国家が大きく左右される可能性が高くなります。これが国民主権・国民国家の限界なのです。

 これを人間に例えて言えば、細胞が集まって人間ができる論が国民主権論で、一つの細胞が分裂していって進化の過程を経て人間になった論が、国家第一主義論です。前者は一体のように見えて実態はそれぞれが利己的な個性を主張してバラバラで、歴史性も発展性も生じることができません。
 これに対して後者は、国家が一個の有機的な統一性・一体性をもって、それ故に国家としての歴史性も発展性もあって、それを構成する一つ一つの細胞はその歴史性の証である遺伝子をもっているので、その歴史性のおかげて発展性をもち、国家の歴史性を自らのものとして誇りをもてて、とても充実して、本当の意味での即自対自の自由を享受できて幸せなのです。

 もっと言えば、前者は、バラバラで闘争し合い、それに勝ったものが力をもち負けたものを支配し私有している関係でしたが、支配されていたものが力をつけ、その支配者を殺しあるいは押さえつけて、これからは俺たちが主役になって国を運営していく、となったのが主権在民の国民国家です。これはたしかに、これまでのように支配されているだけの時よりも、自分たちの国という意識が芽生えて、法も自発的に守るようになり、戦争も自分たちの国を守るのだと思って戦うので強くなりました。

 しかし、基本はあくまでも個人であってバラバラですが、その上に国といいう対自の意識も芽生えて、その区別、使い分けができるようになるものの、実際は、多くの個々人の意識において、本当の意味での即自対自の一体化はできていないのが現実です。なぜできないかと云いますと、その生い立ちに秘密があります。生きるか死ぬか、勝つか負けるか負ければ皆殺し、支配するか支配されるか、というあれかこれかの形而上学的な関係の中で発展してきたので、主権が自分たちのものになったからといって、そんなに変わるものではありません。ましてや主権があるからと言って、自分が支配し所有できるわけでもないので、あくまでも自分にとっては、国家は外的存在でしかないのです。

 これが欧米の国民国家の実態であり、日本が輸入させられた国民国家なのです。この壁を打ち破って本物の国家になるためには、学問的に、ヘーゲルの学問をもって、形而上学的論理学の破壊と、絶対概念の弁証法による意識の大改革が必要なのです。それなしにはまず不可能なことです。

 ところが、日本はそれが必要がなかったのです。なぜなら、もともと日本は、ヘーゲル的な本質的国家を創り上げてきていたからです。日本は、その生い立ちから共存共栄の国創りをしてきました。古事記では、欧米的な支配・私有ー被支配・私有の統治形態の国のことを「ウシハク」と呼んでいました。ところが、これに対して日本の国はシラス国といって、天皇を頂点としてその下に国家権力とそれに統治される国民がいるという三角形の構造になっていて、国民は大御宝(オオミタカラ)といって大切な天皇の民として尊重されて、それを統治する国家権力もないがしろにはできない構造になっていたようです。

 これは、じつは、ヘーゲルの国家第一主義の国家の構造とそっくりなのです。つまり、日本の国創りは、はじめから国家の本質を見事に兼ね備えていたということです。だから、統治権力者が変わり、その統治形態が発展していってさまざまに変化しても、その基本的な構造が変わらずに、国家そのものである天皇の頂点は変わらずに、現在に至るまで維持されてきたのです。こういう国は世界に例を見ないのです。

 つまり、日本は、先に述べておいた後者の例の、一つの国家という卵から細胞分裂しながらも一体として発展していって人間に到達した例そのものなのです。だから、日本にはまともな歴史性・普遍性が存在するのです。

 ところが、そんな日本も、戦争に負けて米国に占領されて、欧米流の国民国家を押し付けられ、自虐史観教育で日本の歴史性を否定されるということを70年間も続けられて、相当に崩されてきてはいるものの、いまだに日本らしさを何とか保っていられるのは、日本人の認識が遺伝子レベルで、即自且対自でできていたことを物語っていると思います。しかしながら、それも限界ぎりぎりに達しているように見えます。

 ここで、ヘーゲルの学問をもって日本を再建しなければ、人類は本当に不幸になってしまうと思います。最近、元文科省次官の前川氏が名古屋の中学校に呼ばれて講演をしたことについて、文科省から教育委員会や中学校の校長に問い合わせがいっただけで、マスコミは国が教育に介入するのは如何なものか、という論調が踊ります。国家が国民の教育に責任をもつのは当然のことであり、必須な義務でなければなりません。教育委員会や校長を統括するのは当たり前でなければなりません。それが、日本の現実は、国家が教育に介入するのは国民主権を侵すかのような風潮が、日本を深く覆っています。これこそが、日本の劣化の大本なのです。だから、国民主権は駄目なのです。

Pass

[2787]
質問者 - 2018年03月19日 (月) 13時00分

3ヶ月15日の番組だったのですね、教えていただいてありがとうございます。

愚按亭主のおっしゃることは私が今まで意識して考えてこなかったことなので凄く勉強になります。あらためて「どういうことなんだろう?」と調べていくキッカケになりますので。

そんなわけで仕事の合間に愚按亭主がご指摘される事柄について調べ始めたわけですが、全てが系統的に解ってからお返事を投稿すると折角コメントして下さった愚按亭主を待たせることになって申し訳ありませんので理解半ばでもお返事させていただきますね(("⌒∇⌒"))。

それで3月15日の番組を見ましたところ、山田惠資さんの前に長妻昭さんが「servant」と言ってますね。それも文脈・文意を明確に示して「憲法にも書かれているが、官僚は国民のサーブァントで中立でなければならない」と。森友学園の問題で財務省が契約文書を改ざんしたことを、中立であるべきサーブァント=公務員として不適切だと述べてるわけですね。

私も知らなかったわけですが英語で「servant」と言ったら公務員のことで「civil servant」とか「public servant」とか言うんですね。公務員に「召し使い」だとか「使用人」と同じ語彙を当てるようになったのも、おそらくは近代の絶対王制を打倒して市民政府、国民政府を作ってきた流れからなんだと想像しますが、政治家を含めて国民のため公共のために働く人間を「servant」だと理解しておくことは特に国際社会を生きる上でも必要なことではないでしょうか?

近代以降に国政の担い手が「王」から「使用人」に変化したことは愚按亭主が崇拝するヘーゲルの「主と奴隷の弁証法」にも通じる話で興味深いように思いますが…。

虚心に考えても国政に参加する政治家って選挙で勝たないと国会議員になれないわけですから、投票する国民のためになる公約を提示してそれを実現するために働くのでは?

「国民主権では雑多な目的を実現するために国政をすることになる」というご意見が良く解らないです(汗)。「船頭多くして」って内閣総理大臣は1人じゃないんですか?試みに政権与党である自民党のサイトを見てみたら、トップページに6つの公約が掲示してあって「北朝鮮の脅威から国民を守る」だとか「景気回復」だとか全て国民のためなんですね。

この自民党が掲げている公約・目的が「雑多な特殊な目的」なのか理解できないでいます。

また、愚按亭主がおっしゃるような「9条改憲」を望む者は少なからずいるのでしょうが、国民主権の原則を理解している者ならば「改憲することが国民のため」だという論理構成になるのでしょうから、「憲法9条を改憲するために国民主権、国民国家を否定する」という愚按亭主のような論理にはならないのでは?と思いますけど…。

愚按亭主が言う「伝統的な日本の国体」というのも私にはにわかに理解できない話で、日本って近代国家の構成ばかりでなく古代の律令制やら何から何まで他国との関わりの中で作られてきたのでは?

それって人がお付き合いしてきた他人の影響で人格構成されるのに似た話で、「絶対的に他人とは違う自分」というのを見出だすことが困難なように「自分の中にお父さんやお母さん、山田くんや吉田さんがいる。本当のボクはどれなんだ?」なんて悩む思春期の少年にも似て「絶対的に中国や朝鮮、ヨーロッパやアメリカから切り離された伝統的な日本」なんてのを示すことが困難なのでは?

寧ろ「全く独立に切り離されたものでは無い、混じってるんだ、相互浸透なんだ」と理解することが自然じゃなかろうか?とも思うわけです。

「古代からの伝統的な日本の国体」なんて話をしたなら、それこそ愚按亭主は今のように治療の仕事などしていられず、伊東だか熱海だかで百姓のセガレとして百姓以外の選択肢を与えられずに既に寿命は尽きているかも知れません。

愚按亭主が高校を卒業して上京し、南郷氏のもとで空手やら論理やらを学べたことも、また粟島先生や角田先生に漢方を学べたのも、幸龍師匠に日本舞踊を学べたのも、すべて近代以降の国民国家、国民主権あってのことだと理解するべきお話なのではないでしょうか?

私も法学に明るくないものですから、これを機に法学を勉強しようかと思います。でなければ慶應大学で法学を専攻した長妻昭さんなんかの認識が解らないだろうと思う次第です。


Pass

[2789] 国家の二重構造とは
愚按亭主 - 2018年03月20日 (火) 18時28分

>国民主権の原則を理解している者ならば「改憲することが国民のため」だという論理構成になるのでしょうから、「憲法9条を改憲するために国民主権、国民国家を否定する」という愚按亭主のような論理にはならないのでは?と思いますけど…。

 だから国民主権では駄目なのだと言っているのです。国民という視点ではなく、国家という視点がなければ、国家が主体性をもって自立できない「9条」の異常性を実感できないという問題を説いたのです。昔の日本人ならば、国家が主体性を持てていない状態を、自分自身が主体性を持てていない悔しさとして実感じていたはずです。即自(=自分)は即ち対自(=国家)だったからです。

>「国民主権では雑多な目的を実現するために国政をすることになる」というご意見が良く解らないです(汗)。「船頭多くして」って内閣総理大臣は1人じゃないんですか?試みに政権与党である自民党のサイトを見てみたら、トップページに6つの公約が掲示してあって「北朝鮮の脅威から国民を守る」だとか「景気回復」だとか全て国民のためなんですね。この自民党が掲げている公約・目的が「雑多な特殊な目的」なのか理解できないでいます。

 ここで私が云わんとしたことは、ヘーゲルの次の言葉に凝縮されています。

「国家が市民社会と混同されて、国家の規定が所有および人格的自由の保全と保護にあるとされるならば、個人そのものの利害が諸個人を統合させられる究極目的となり、これによりまた、国家の成員であることは任意のことがらとなる。」(「法の哲学」より)

 これが、唯物論的な即自的市民国家・国民主権の特徴と言えます。現在の国家のほとんどはこのレベルの国家でしかありません。市民革命以後の、資本家などの経済的な権力が国家を主導するようになってから、国家はそれまでの絶対的な観念性を喪失し、いわゆる国民国家になっていったということです。この国家の特徴は、即自的な個人が主体であり、個人の集まりということになって、ヘーゲルの云うように、国家の成員であることは個人の任意、ということになってしまうので、自分の国家に見切りをつけて裕福な国家に移民しよとするものが後を絶たないで、貧乏な国家はますます衰退していくばかりである一方、裕福な国家も、国家としての統一性が乱れておかしくなっていくばかり、となっていくのが現在の世界の実態なのです。

 しかしこれに対してヘーゲルは、本来の国家はそうであるべきではないと言っています。曰く

「しかし国家は個人に対して全く別の関係をもつ。国家は客観的精神であるがゆえに、個人自身は、ただ国家の一員であるときにのみ、客観性・真理・人倫をもつ。諸個人の統合そのものが国家の真なる内容および目的であって、個人の規定は、普遍的生活を営むことである。個人のその他の特殊的満足、活動、ふるまい方は、この実体的なもの、普遍妥当するものをその出発点とするとともに成果とする。――理性的であることは、これを抽象的に見れば、一般に普遍性と個別性との浸透し合う統一のうちにあり、これを具体的に見れば、内容の点では、客観的自由すなわち普遍的実体的意志と、個人的知識としてのまた特殊的目的を求める個人意志としての主観的自由との統一のうちにあり、――したがって、形式の点では、思惟された、すなわち、普遍的な法的に永遠にして必然的な存在である。」(「法の哲学」より)

 ここには何が説かれているかと言いますと、国家は国民の公僕(サーバント)ではなく、むしろ、普遍的真理の国家の理念の高みに、国民の側が、誇りをもって自らの主体的・主観的自由意志との統一を図るべく登ってくることを要求するものだ、ということが書かれています。じつはこの国家こそ、国民国家の前の観念論的・対自的な神の絶対王政の国家の時代の、王侯貴族のみがその文化の高み・文明の高みを享受できた国家から、唯物論的な即自的な国民国家の否定的媒介の過程を経て、否定の否定的に発展したヘーゲルの説く、即自対自の絶対的観念論の学問的な真の国家の完成型なのです。

 そこにおいては、国家の理念が第一義であって、その国家の理念とは、絶対的本質が本流として現れた国家としての普遍性が時代的要求に応えるものでなければなりません。そして、その国家の理念を基点として踏まえた上で、その国民の各々は、その主体的かつ自由な意志で自らの人生を決定していくような国家でなければなりません。これが、即自対自の国家における、国家の自由と国民の自由との統体止揚された自由のあり方に他なりません。

 その国家の理念ついてヘーゲルは、次のように述べています。
「国家の理念は類としての普遍的理念であり、また個別的国家に対する絶対的権力である。すなわち、世界史の過程においてみずからに現実性を与える精神である。」(「法の哲学」より)

 つまり、国家の理念は、全世界の絶対的本質としての普遍的理念として現在の世界情勢において現実性を与えるものとして設定し、それを憲法としなければならない、ということです。


 以上を総括しますと、国家には二重構造が存在するということが云えます。一つは唯物論的な動物の集団を受け継ぐ市民社会の即自的な利益を集約・保障・統括する国家としての側面であり、もう一つは観念論的な絶対的本質の運動の普遍性を受け継いでその発展を主導していこうとする対自的理性としての人間的な・精神的国家としての側面とです。

 これを人間の二重性の場合に例えて云いますと、人間は大きな人生の目的をもってそれを達成しようとしている人ですら、腹が減っては戦ができぬと空腹のときはそちらを優先する(しかしよんどころない事情で人生の目的の方を優先しなければならない時はそちらを優先する場合ももちろん存在する)。というのが、人間の場合の二重構造の関係性です。しかし、自分が食べることにガツガツし、金もうけにしか興味のない者と、高邁な理想に向かって邁進している者とではどちらが人間として評価されるかと云えば、間違いなく後者の方であるはずです。国家の二重性の場合も、これと同様のことが云えます。ですから、国民国家はまだ動物性の国家のレベルに過ぎず、人間性の国家のレベルには到達できていないということが云えるのです。現在の日本や世界の醜い争いの実相を見れば、まさにその通りだと納得してもらえるのではないかと思います。

 しかし、日本の戦国時代はどうだったのかと云いますと、その時代の日本をつぶさに観察したザビエルの報告書によると、人々は貧しくとも非常に名誉を重んじて誇り高く、他の国よりも安定して落ち着いた社会だったそうです。そして、その戦国時代を経て統一された江戸時代の日本は、世界に類を見ない犯罪の少ない、したがって社会の隅々までが幸せな、それでいて世界に誇れる超一級の文化を創り上げた、ヘーゲルが思い描いた理想の国家だったのです。これは一体どういうことでしょうか?

 日本以外の世界の国は、即自対即自の弱肉強食から出発し、一番優秀な国でもやっと即自的な国民国家にまで到達したところです。ところが日本は、その国民国家までの過程を吹っ飛ばして、その過程を経験することなく、縄文のはじめから共存共栄の精神で身を守ることに余計な神経をすり減らすことなく豊かな文化を築き上げていきました。この共存共栄とは、国家の完成形の即自対自の認識を育む絶好の土壌でした。この即自対自の認識は、絶対的本質である概念の自己運動の結果であり起点でもあります。つまり、それが生まれると、概念の自己運動が生まれますので、日本の歴史はまさに、この即自対自の弁証法的な概念の発展運動の歴史だったということです。その意味で、日本は、世界の中で非常に特殊でありながら、絶対的本質の本流としての人類のとしての・国家としての絶対的普遍性を見事に体現した民族だといえるのです。

>「自分の中にお父さんやお母さん、山田くんや吉田さんがいる。本当のボクはどれなんだ?」なんて悩む思春期の少年にも似て「絶対的に中国や朝鮮、ヨーロッパやアメリカから切り離された伝統的な日本」なんてのを示すことが困難なのでは?

 唯物弁証法の説く「相互浸透」は法則でもなんでもなく、単なる現象の説明でしかないので、たしかに本質的論理の発展を、それだけで説くことは不可能な話です。だから「本当のボクはどれなんだ?」となるのであり、周りの国との関わり合いの中で伝統的な本質的日本を維持していく論理を説くことも不可能なのです。つまり、本物の絶対観念論の概念の弁証法でないと説けないということです。

 日本の歴史において、初めて国家と言える国家が誕生したのは、隋という強大な軍事国家がお隣に出現したことによって、それまでのような共存共栄の平和でのんびりした緩い連合体では危ないという危機意識が芽生え、聖徳太子(蘇我馬子)が、17条憲法と冠位12階を制定すると直接に、統一した国家として組織化された時でした。ですから本当は、蘇我馬子(聖徳太子)が初代の天皇になるのです。実際、隋の煬帝に「日出る処の天子」と対等の独立自尊の気概を示す形で名乗っているのですから間違いのないことです。そしてこの聖徳太子が制定した「和を以て貴しとなす」に代表される17条憲法は、それまでの日本に普遍的に存在していた共存共栄の精神を実体化した憲法で、西欧の近代国家の憲法よりも千年も早く創られた、というだけでなく国家の理念としての本質をも兼ね備えていた驚嘆の先進性を示すものです。これは、むしろ相互浸透と云うよりも、否定的媒介を通じて自らを国家として主体的かつ自由に発展させたという方が、本質的論理の発展としても、現実的にも正当だと思います。

 そして、その蘇我王朝が、即自的な争いのし烈な国である支那からの亡命者にそそのかされたクーデターによって滅び、その後の白村江の戦いに敗れて唐の属国の道を歩もうとする亡命氏族のグループを、壬申の乱で破った蘇我馬子(聖徳太子)の血と魂を受け継いだ天武天皇が、古事記と日本書紀を編纂して、即自対自の独立自尊の道を盤石なものにしました。とりわけ、古事記の前文の哲学部分は、宇宙の生成から地球の誕生、および人類の使命を叙述したもので、ヘーゲルの哲学を彷彿させる壮大さであり、人類の使命などは非常に近いものがあります。これは何を意味するかと云えば、この日本の発展運動は、まさにヘーゲルの説く概念の自己運動の実質を備えていた、ということが云えるのではないかと思います。

 だから、その後、亡命氏族グループの巻き返しがあっても、悪しき相互浸透とはならず、むしろ、その本質的な概念の自己運動に彼らを巻き込み、日本に同化させて、日本の文化の発展に寄与させたのは、まさにしく、即自対自の本質的な概念の自己運動のたまものと言えるものだと思います。このような本質的な運動の論理を、現象論レベルの相互浸透だけで説明しようとしても、土台無理な話です。

 最後に日本語について見てみますと、当時文化的な先進国であった支那から漢字という強力な文化的な攻勢にあった時に、既に存在していた日本固有の「大和言葉」が、侵略され、駆逐されなかっただけでなく、むしろ、文化的に高度であった漢字を柔軟に包み込んで、自らの構造の一部にして、言語として大きく飛躍・発展させて、表意文字と表音文字とを弁証法的に統体止揚した世界一の日本語を創り上げた、という発展のあり方は、相互浸透という論理だけでは到底説明できるものではありません。これも、外国からの浸透に対して、日本が独自の文化・本質的構造の発展的維持の一つの好例となりうるものです。、

 

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[2790]
質問者 - 2018年03月21日 (水) 06時32分

>ここで私が云わんとしたことは、ヘーゲルの次の言葉に凝縮されています。
>「国家が市民社会と混同されて、国家の規定が所有および人格的自由の保全と保護にあるとされるならば、個人そのものの利害が諸個人を統合させられる究極目的となり、これによりまた、国家の成員であることは任意のことがらとなる。」(「法の哲学」より)

新たな興味が湧いてきました。ここでヘーゲルが説いていることは如何なることなのかな?と…。

ヘーゲルは「国家と市民社会を混同するな!」と述べてるわけで具体的には「所有と人格的自由」を揚げています。これって現在で言うところの「所有権と人格権」でイワユル「民法」「私法」に分類されるものではないですか?

それら「私法、民法」に対して「公法」というのがあるわけで、憲法だとか行政法らしいんですが。

ですが、私も法学に明るくないので間違ったらご免なさいですが、例えば「窃盗」という他人のものを盗む「所有権という私法の侵害」に対して「警察が逮捕し勾留する」という行政的・公法的な対応がなされるわけです。

また、現在の日本では公法ばかりでなく私法・民法も国会で決められて法務省という国家機関で管理されてるみたいですね。

だから言ってみれば国家は公的なことも私的なことも扱っている。換言すれば嘗ては私的だったことも「私法・民法」という公的なものに変えられているようなんですね。

そこから想起するのが、愚按亭主が拠り所としているヘーゲルの『法の哲学』というのが書かれた時代は何時なのかな?ということなんです。

それで民法の歴史を少し調べるとヘーゲルと同じ時代にティボーという法律学者が全ドイツ的な民法典を作ろうとしたらしいんです。

つまりは国家における法的世界が現在のようになっているには、そうなるまでの過程があるわけですから、どうして愚按亭主が2018年の現代で1824年の『法の哲学』を拠り所に無条件に「今の国家、今の世界はダメだ、ヘーゲルに帰ろう!」と復権思想を振り回すのか理解できないわけなんです。





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[2791] ヘーゲルが説いていること
質問者 - 2018年03月21日 (水) 09時13分

私も秀才タイプではなく鈍才タイプなものですから、愚按亭主が引用しているヘーゲルの文言を一気に理解することは難しいのですが、引用文をジッと眺めていると文章の中に分け入っていくことができ、解読していくことが出来るようです。

この読解・解析の過程を一口に「量質転化」だと言うことも出来なくはないのでしょうが、文系にしろ理系にしろ必要な思考だと思われます。

愚按亭主が引用した箇所を再録すると

「国家が市民社会と混同されて、国家の規定が所有および人格的自由の保全と保護にあるとされるならば、個人そのものの利害が諸個人を統合させられる究極目的となり、これによりまた、国家の成員であることは任意のことがらとなる。」(「法の哲学」より)

ここで「国家の成員」であることと「社会社会の成員」であることとを混同せずに区別しろとヘーゲルは説いているわけです。

「市民社会の成員」というのはイワユル企業の社員だとか武道団体の会員などの共同体の構成員でしょうから、そこに所属しているためには自分が望む団体で採用側が任意で決められるし、脱会する場合も退職届けや退会届けは必要かも知れませんけど任意で決められることなんです。団体側も任意で首にすることも可能なんでしょう。

ですが、「国家の成員」つまり国民となるのは現代の日本では任意では出来ません。日本国憲法の第10条に法的に定められていて「国籍法」というのもあります。

簡単には、日本国民となるためには親が日本人でなければならないわけなんですね。自分がなりたい国の国民になることが出来ないわけです。

ですから、日本空手道○○会の会員になるには日本人だろうがメキシコ人だろうがアメリカ人だろうがフランス人だろうが構わないのでしょうけれど、日本人になるには採用側の任意というわけには行きません。出生届を出しに行ったら役所の役員の任意で決められるわけには行かないからです。

つまりは、ヘーゲルが『法の哲学』で説いている「国家と市民社会の区別」というのは現代の実際の国家において現実化されていることで、愚按亭主が何を改めて説きたいのか不明なんです。

まさかオウム真理教の麻原のように「オウム真理教が1つの国家なのだ!」などと、それこそ国家と市民社会(共同体)との区別がつかない狂った頭の持ち主のような駄論を放出したのだろうか?と不思議な気持ちにさせられるんです。

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[2792] 学問の発展過程と国家の発展過程との同一性
愚按亭主 - 2018年03月21日 (水) 19時04分

 史上初の国家のヘーゲル的な弁証法的発展過程論を展開してみたのですが、そちらには全く関心がないようですね。勿体ない!

 ヘーゲルの
「国家が市民社会と混同されて、国家の規定が所有および人格的自由の保全と保護にあるとされるならば、個人そのものの利害が諸個人を統合させられる究極目的となり、これによりまた、国家の成員であることは任意のことがらとなる。」(「法の哲学」より)

という主張は、現在の国民国家論の土台となる唯物論的なルソーの「社会契約論」等々、への批判として書かれたものです。つまり、現在の民主主義や人権主義などの国民国家論は、個人を主体とした市民社会と国家とを混同した国家論だから、個人を優先して気に入らなければ平気で国を捨てる者が出るということになる、と批判しているのです。

 そして、それに続けて本当の国家というものはこうでなければならない、ということを示したのです。

「しかし国家は個人に対して全く別の関係をもつ。国家は客観的精神であるがゆえに、個人自身は、ただ国家の一員であるときにのみ、客観性・真理・人倫をもつ。諸個人の統合そのものが国家の真なる内容および目的であって、個人の規定は、普遍的生活を営むことである。個人のその他の特殊的満足、活動、ふるまい方は、この実体的なもの、普遍妥当するものをその出発点とするとともに成果とする。――理性的であることは、これを抽象的に見れば、一般に普遍性と個別性との浸透し合う統一のうちにあり、これを具体的に見れば、内容の点では、客観的自由すなわち普遍的実体的意志と、個人的知識としてのまた特殊的目的を求める個人意志としての主観的自由との統一のうちにあり、――したがって、形式の点では、思惟された、すなわち、普遍的な法的に永遠にして必然的な存在である。」(「法の哲学」より)

 ここに書かれている「国家は客観的精神」とはどういう意味かと云いますと、絶対的本質である絶対精神の自己運動が、生命の人類の段階に至ると、それは個人ではなく国家として現れるということなのです。国家として地球をピラミッドに創り変え、運河に創り変え、船に創り変えるというように、地球を主体的に変えていくようになったということです。

 これに対して「個人自身は、ただ国家の一員であるときにのみ、客観性・真理・人倫をもつ。諸個人の統合そのものが国家の真なる内容および目的であって、個人の規定は、普遍的生活を営むこと」が重要であると述べています。これは人間の身体で考えてみればよく分かることです。人間の身体の一員である細胞は、その個体としての普遍性をその遺伝子の中にもってその個体の一部としての普遍的な生活をしています。だからその個体はその個体としての一体的な活動ができるのです。ところが、もしその一員であるべき細胞が、その個体としての身体の普遍性を逸脱した自由を要求したとしたら、それはいってみれば、自分勝手に増殖する癌細胞になる自由を要求することと同じことになってしまうのです。

 もちろん、一個の体内に一体的に組み込まれている人間の身体の細胞と、一見して個人・国民が独立した存在のように見える国家とを一緒くたに扱うことはできませんが、基本的な構造としては同じことが云えるのです。否、むしろ、国民が独自の意志をもって独立しているように見える国家の方こそ、国家としての普遍性が国民の間に行き届くように、目的意識的かつ強力に働きかける必要性があるといえるのです。ところが、今の国民国家の現状は、細胞ががん細胞化の自由を要求することが、正しいことだというおかしなことになっています。現に、今の日本では、文科省が中学校に質問のメールを出したというだけで、「国が教育に介入するな」と大騒ぎになります。これは、国家とは何かが全く分かっていないということであり、国民国家論の国民主権が、如何におかしいかということを物語るものに他なりません。もっと具体的に云えば、日本の教育行政のトップにいながら、出会い系バーに通って女性を買い、獣医学界と結託してその利益のために日本の獣医教育の発展を阻害していたところに、安倍首相がそれを正そうと指揮権を発動したところ、国家が介入して教育行政を歪めたと批判して、何とか日本国の自立を阻もうとする野党の倒閣運動に加担した、国家を著しくないがしろにした人物を、権力に逆らった英雄として中学生にその話を聞かせようとした校長に、教育者としての真意を問いただそうとすることが、どうして不当な介入なのか?国家は教育に中立であってはならないのです。国家は国民に国家としての対自的な普遍性を教育する責務があるからです。

 だから、ここでヘーゲルが説いていることも、個人は、本流である対自的な普遍的理性としての国家の一員であることをしっかりと自覚して、その国家としての対自的理性を己がものとして、即自の自分と国家の一員としての対自的理性としての自分との両面を統体止揚した即自対自の国民であらねばならないし、国家は国民がそうなるように教育する責任があるということなのです。日本国で云えば、世界の本流であるべき日本国の国民として、世界破壊ではなく、正しい世界創造の先頭に立てる日本国・日本国民となるべく教育する責務が、日本国に存在するということです。

 これに関連して、前の記事で引用した「コトバンク」の次の一節について一言
「ドイツでは、国家生活において人間は最高度の自由を享受できるとするヘーゲルの国家観が支配的地位を占め、また歴史の各時代には『世界精神』を実現する民族が出現し、それがゲルマン民族であるというヘーゲルの歴史観は、ドイツ民族は他民族を支配する権利をもつという理論となり、またこのゲルマン民族の優秀性という考え方は、のちにナチス第三帝国による世界支配の理論的根拠となる。」

 これは、ヘーゲルの哲学を全く理解できない者の悪意に満ちた記述です。おそらくマルクス主義者であろうと思いますが、マルクスはヘーゲルの和の弁証法を否定し、すべてあれかこれかの対立にしていしまい、国家も支配階級の被支配階級をだまして云う事を聞かせるための共同幻想にすぎないとして否定し、結果として体制・権力全部悪という硬直した図式で固まってしまっているから、国の介入即悪となってしまいます。さて、話を戻して、そのヘーゲルの言葉について私は以下のように解説しておきました。

 「歴史の各時代には『世界精神』を実現する民族が出現し」というのは、この世界を運動・発展させている絶対的本質=絶対精神=世界精神(人類の本流)が、個人としてでなく必ず民族・国家として出現すると説いているのです。その本流たる資格の要は学問にあります。ですから、古代においてはギリシャとりわけアリストテレスの学問を普及しようとしたアレキサンダー大王の世界統一が本流だったのであり、近世においては科学を発展させた西欧諸国その中で異彩を放つのが、学問中の学問である学問の冠石を完成させたヘーゲルが存在するドイツが、本流中の本流たりうる潜在力を持っていたのですが、マルクスによってすぐに葬られて形而上学に戻されてしまいましたので、結果として形而上学的な全体主義であるナチズムという徒花が咲いてしまうことになってしまったのです。その一方で、本当に不思議なことに、東洋の端っこの日本は、その生い立ちからして、世界の中で唯一異質でまっとうな、ヘーゲル的な国家第一主義による共存共栄の国創りをして「世界精神」の本流たる実力をドイツ以上に育んでいたのです。

 ですから、「『世界精神』を実現する民族」というのは、絶対的本質として世界をリードしていくということで、他の民族を支配する権利を持つなどという、バカげたことを云っているのではありません。現に、アレキサンダー大王は、現地の文化と融合したヘレニズム文化を創り上げ、征服者であったにもかかわらず、今でも「イスカンダル」という名前の英雄として崇拝されているほどです。これこそが「世界精神」であった証ではないでしょうか?日本もそうならねばならないと思います。今の世界を見ますと、日本がそうならねば、世界は必ず不幸になってしまうことは断言できるからです。

  冒頭私は、「史上初の国家のヘーゲル的な弁証法的発展過程論を展開してみたのですが、そちらには全く関心がないようですね。勿体ない!」と述べましたが、この国家の発展過程論は、私自身意識していなかったのですが、出来上がったものを見て、これは学問の発展過程論とまったく同一ではないか、驚きました。具体的に、それを比較して見ますと、

国家論〕
「じつはこの国家こそ、国民国家の前の観念論的・対自的な神の絶対王政の国家の時代の、王侯貴族のみがその文化の高み・文明の高みを享受できた国家から、唯物論的な即自的な国民国家の否定的媒介の過程を経て、否定の否定的に発展したヘーゲルの説く、即自対自の絶対的観念論の学問的な真の国家の完成型なのです。」

すなわち
基礎的契機:観念論的・対自的な神の絶対王政の国家の時代の、王侯貴族のみがその文化の高み・文明の高みを享受できた国家(革命以前のフランスなど)
否定的契機:唯物論的な即自的な国民国家(現在の民主主義国家)
統体的契機:即自対自の絶対的観念論の学問的な真の国家の完成型(江戸時代の日本)

 つまり、人類は、その本性からして、また時代性からして、絶対性を求める必然性をもって生まれました。だからまずは、神の文化が生まれ、次にそれを否定する形で地に足の着いた人間の文化が発達するという形で発展していきました。しかし、欧米ではヘーゲルがマルクスによって葬られてしまったために、未だに絶対性を喪失したままその復活と統合への道は見えていない状況です。一方日本は、はじめから即自対自でしたので、地に足をつけながらも高い精神性を持つ文化が発展しました。

学問)
基礎的契機:観念論的な対自的理性すなわち絶対的真理を追究する哲学が生まれ、弁証法的な思惟である論理学がまず生まれます。
否定的契機:その論理学を指針として唯物論的な即自的悟性の相対的真理の科学が誕生し発達します。
統体的契機:即自対自の弁証法的理性による学問の完成(その一歩手前で足踏みした状態)

 学問の場合も、国家と同様にまず全体性・絶対性を追求する観念論的な哲学が宗教とともに生まれ、発達します。そしてそこから部分性の個別科学が次々に分化して発展し人間の生活を大きく変えました。そんな時に学問の救世主と言えるヘーゲルによって、哲学と科学とを統合した学問の体系化の道が示されましたが、マルクスによってその道が閉ざされてしまって、科学がばらばらに発達して、国民国家と宗教国家とが乱雑にバトルを繰り返している混乱した世界情勢と同様の状態が、学問の世界にも存在している状況です。奇しくもその元凶は、同じヘーゲルの学問を破壊したマルクスである、と断言できます。

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[2793]
質問者 - 2018年03月23日 (金) 09時58分

どうも愚按亭主の述べていることは短絡的で混乱しているように思われますね。全く別の問題が短絡されているようですから、もっと整理して整序だてては如何でしょうか?

一つ遡って「[2789]国家の二重構造とは」から引用いたしますが

「この国家(国民国家)の特徴は、即自的な個人が主体であり、個人の集まりということになって、ヘーゲルの云うように、国家の成員であることは個人の任意、ということになってしまうので、自分の国家に見切りをつけて裕福な国家に移民しようとするものが後を絶たないで、貧乏な国家はますます衰退していくばかりである一方、裕福な国家も、国家としての統一性が乱れておかしくなっていくばかり、となっていくのが現在の世界の実態なのです。」

確かに今、ヨーロッパだとかでは「難民移民問題」というのがあるみたいですね。でも実際に日本人である私たちが国家とは無関係に他国に旅行したり移住したりは出来ないわけですよね?「出入国管理及び難民認定法」という法律があって入国管理局が管理してるわけで。

ですから愚按亭主の言うような「国民国家だと国家の成員であることは個人の任意となる」というのが先ず現実と違っているわけですし、「個人の任意で自由に他国に移住できる」というのも違っています。

「国民国家」では「法に従って生きる」という立憲主義のもとでイチローのように海外の市民社会で日本国内とは比較にならない収入を合法的に得ている者もいれば、法の意志に従って出入国を禁じられてしまう者もいるわけで。

ですから、「国家を前提として単なる個人として生きるのではなく国民として生きる」というところに「国民」という概念が成立するのでしょうから、愚按亭主の最初の「国家第一主義か、国民第一主義か」という問いの立て方からして変なわけで、適切に問いを立てるにも対象の関係性が理解できていなければ立てられないという実例でしょうね。

「単なる個人なのか?それとも国民なのか?」という、そこが正当な出入国の手続きを経て他国に行く者と密入国して不法就労する者との違いでしょうから。

次に「[2792]学問のうんたらかんたら」から引用します。

「現在の民主主義や人権主義などの国民国家論は、個人を主体とした市民社会と国家とを混同した国家論だから、個人を優先して気に入らなければ平気で国を捨てる者が出るということになる、と批判しているのです。」

実際、「気に入らなければ平気で国を捨てる」なんてことが出来るんでしょうか?国民として法に則って生きるならば出入国の正当な手続きをしなければなりませんし、確かに昔、よど号ハイジャックで赤軍が北朝鮮に亡命したみたいですけど、亡命者を受け入れるのも、当事国の国家としての判断があるでしょうから、北朝鮮が赤軍の亡命を受け入れたのにも、アメリカがコマネチのルーマニア(旧社会主義国)からの亡命を受け入れたのも、ロシアがスノーデンのアメリカからの亡命を受け入れたのも、すべて国家的な判断なのだと思います。強制送還する選択肢だってあったでしょうから。

ですから、おそらくはヘーゲルが『法の哲学』で説いているのは、そうした実務的・政策的な話ではなく哲学原理的なことじゃないかと思いますね。ヘーゲルがルソーとかの社会契約説を否定したというのも、国家元首だとか国会議員だとかを任期つきの役職として委託するといった実務的な話として否定したんじゃないと思いますよ。

確認したいので愚按亭主が参照している『法の哲学』の訳者と出版社を教えて下さい。


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[2794] 国家とは何か
愚按亭主 - 2018年03月24日 (土) 10時54分

 ヘーゲル全集「法の哲学下巻」(上妻精・佐藤康邦・山田忠邦訳、岩波書店)の第三章国家のタイトルのページの次のページにあります。

 原理的な問題を説いている時に、事実レベルの問題を持ち出して短絡と言われても、原理的な問題はいちいちそんな事実レベルを経由しなければならないということはないので、何が短絡なのかよく分かりません。

 「国家が市民社会と混同されて」というのは形式は国家のように見えてもその実質は市民社会の原理になっていることを云っているのです。その原理というのが国民第一主義であり国家を社会と同様に個人の任意の集まりと見る認識が根底に存在するということです。ですから形式的な手続きがどうのこうのと言っているのではなく、個人の認識がそもそもそうなっているということを問題にしているのです。だから、保育所に落ちたから「日本死ね!」となるような認識がなぜ生まれるのかと云えば、国民第一主義の国民主権だから、自分の思い通りにならないような国はいらないとなってしまうのです。

 これに対して、国家第一主義とは、国家を単なる個人の集まりとして見るのではなく、国家を一個の実体的意志として見る、ヘーゲルの言葉を借りれば「人倫的理念の現実性」と見るということです。そのヘーゲルの国家の規定を見てみましょう。

「第三章 国家
 国家は人倫的理念の現実性ーー人倫的精神、すなわち顕現した、自分自身にとって明瞭な実体的意志である。この意志は、みずからを思惟し、みずからを知りかつ、みずからが知るものを、しかも自らが知るかぎりにおいて、成就する。国家は習俗においてはその直接的現存在をもち、個人の自己意識、知識、活動においては媒介された現存在をもつ。同様に個人の自己意識は、その志操を通じて、自らの活動の本質、目的、所産としての国家において実体的自由をもつ。」(ヘーゲル全集「法の哲学下巻」〔上妻精・佐藤康邦・山田忠邦訳、岩波書店〕)

 ここに何が書かれているのかと云いますと、国家は、全体の絶対的本質である絶対精神が、全体のそれぞれの段階の本流としてその発展を牽引してきて、それが、生命の人類という段階に人倫的理念となり、それが現実性となって現れたもの、だということです。この人倫的理念の実体的意志は、それ自体として直接に現れるものではなく、即自対自の志操を貫ける多くの国家の成員だる国民という個人の自己意識の思惟によって成就される憲法や法体系および、それに基づく国家機関や軍隊あるいは国民個人の活動などによって媒介された形で顕現するということです。と同時に、それによって媒介される国民という個人も、国家の媒介によって己自身の特殊的目的を成就するという実体的自由を享受できる、ということです。

 このように、国家および国家の意志は、たしかにそれ自体として直接的に存在するものではなく、憲法や法体系、さらには国民という個人・個人の活動の総体という媒介的な形でしか現れることはできません。ここからやはり国家は国民によって構成されるから国民国家で良いではないか、という意見が生まれてきます。しかし、たとえば私が自分が何者なのかを説明するときに、自分は細胞でできているから自分は細胞だ、などとは決して説明しません。私の意志は細胞の多数決で決まるわけではありません。私の意志は、私の普遍性が凝縮されている脳細胞のはたらきの結果として、どのように生きてきて、どういうことを考え、これから何を為すつもりなのか、ということを自分自身の説明として話すと思います、国家の場合も、それと同じことです。本来の国家の意志は、現在のように国民第一主義・国民主権の単純な民主主義的多数決によって決められるべきものではありません。そこには国家としての普遍性が貫かれていなければなりません。国家としての普遍性も分からない者たちによる多数決には、国家の普遍性は貫かれていないからです。

 だから、個人主体の国民第一主義では駄目なのです。国家の意志は、国家とは何かを自覚し、国家の普遍性の志操を貫く思惟によって、その国家の普遍性と、現実性とが、絡み合いが練り上げられる中で統体止揚されて国家の意志となるべきなのです。そのためには、国民第一主義ではなく、国家第一主義でなければならないのです。その国家第一主義の下、国家と国民は一体的に切り離しがたく存在して、決して任意の関係ではないというのがまともな国家のあり方なのです。この関係を自然成長的にものの見事に実現してきたのが日本です。

 これが国家とは何か、国家の本質論なのですが、マルクスや滝村先生は、それが全く分からずヘーゲルの「法の哲学」は国家論として全然駄目だと切り捨ててしまったのです。南郷先生の言動を見ますと、法の哲学を評価しておりませんので、おそらく同じなのだと思います。このヘーゲルの学問・国家論は、唯物論から自由にならないとその真価は理解できません。まず「人倫的理念の現実性」という言葉自体に観念論アレルギー反応を引き起こして触れようともしなかったのでしょう。それで分かるはずがありません。その結果として、マルクスの階級闘争史観には国家そのものがなく、国家は支配階級の道具レベルに過ぎないものになってしまい、だから、支那のマルクス主義者たちは、国家の上に共産党をおくというバカげたことをしているのです。これもマルクスの理論的誤謬の成れの果てなのです。

 では滝村先生はどうかと云いますと、構造論ばかりで、とうとう最後まで、国家とは何かの本質論を措定・規定できずに終わってしまったのです。それは何故かと云いますと、ヘーゲルの学び直しを志しながら、ヘーゲルが絶対観念論の立場に立っていることを意識しても、最後まで唯物論の自分を捨てられず、絶対的真理をバカげているとけんもほろろに鼻から相手にしなかったからです。

 国家第一主義が最も求められるのが、官僚なのですが、それが無いために、財務省は省益第一主義になって、その巨大な権力をもって日本国を亡国への道へと突き落とし、文科省は反日マルクス主義者たちがはびこって、日本国民を劣化させる教育行政を意図的に行っているのです。たとえば、韓国軍のベトナム人への暴虐は日本軍によって仕込まれたからだ、とする信じられないバカげた説を唱える大学の教授に、ナント補助金二千万円も出している、というおかしなことが堂々と行われているのです。また、韓国に合わせて日本の古代を鎌倉時代まで遅らせる、という日本の文化を愚弄する措置を、韓国のではなく日本の文科省が行っているのです。最近、前川問題で、政治家の教育への介入を、教育の中立の侵犯だと騒ぎ立てるマスコミの意図は、そういう反日的文科省を守るための「教育の中立」の振り回しだということが良く分かります。その前川という人物はゴリゴリのマルクス主義者のようです。そういう人物が教育行政のトップにいたわけですから、日本の教育がおかしくなるわけです。

 それを変え、それから守るためにも、国家第一主義が必須なのです。国民第一主義では役に立たないのです。なぜなら、その国民第一主義の旗印のもとに、国民の自由を守るために、国の教育への介入を阻止して中立を守る、という大義名分が掲げられているからです。ですから、国家の本質論、国家とは何かという普遍性そのものである、国家第一主義でなければならないのです。

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[2798]
質問者 - 2018年03月31日 (土) 08時24分

何だかんだで気がついたら一週間が過ぎていましたが…。

私も『法の哲学』を買ってみました。愚按亭主と同じ岩波書店の新訳を買いたかったんですが、結構高価だったので高峯一愚の『法の哲学』を選んで。

古本屋で安いの探しても高峯一愚のが千円、長谷川宏さんのが三千円くらい、岩波書店の新訳は上下で一万円くらいでしたから懐が温かいときでなければ手が出せませんね。

愚按亭主が引用した「国家」のところに関しても、この三者の訳が結構ちがうんですが何れの本でも大意は掴めると判断しました。

それで、やはりヘーゲルが説いているのは近代以降の国民国家だと思いますね。そう判断したのは目次構成からで、愚按亭主が引用した「国家」の文章は目次から眺めるなら「第三部 倫理
第一章 家族
第二章 市民社会
第三章 国家 」
の第三章の冒頭に書かれた文なんですね。それで第二章で「みずから特殊者として目的をなす具体的な人格は、諸種の欲望の全体でありまた自然必然性と恣意との混合であり、これが市民社会の一原理である。」と説いてます。

「市民社会は諸種の欲望の全体」であるのに対して「国家は倫理的理念の現実態である。」としています。

これって、英米系の法律だという現代日本の法律で考えると例えば商法の「第5条 未成年が前条の営業を行うときは、その登記をしなければならない。」だとか「第6条 後見人が被後見人のために第4条の営業を行うときは、その登記をしなければならない。」なんて規定で理解できるんじゃないでしょうか?イワユル「弱者保護」で頭が良くズル賢い人間の一人儲けを抑圧するわけですから。

ですが、こうした「公正」な商取引の考えは中世以前の絶対王制からは出てこずに、また資本家が己が儲けるという欲望の意志からも出てこずに、滝村が言う「市民社会から切り離された第三権力」ということでなければ成し得ないんじゃないですか?「倫理的理念の現実態」というのは。

それで、愚按亭主が言う
>原理的な問題はいちいちそんな事実レベルを経由しなければならないということはないので、
という考えそのままにヘーゲルにはアプリオリな思考が混在してるんです。

それが「普遍、特殊、個別」の関係だとか「主観と客観」との関係だとか、そうした抽象論が前提となって具体の問題を扱っていこうとするのが所謂ヘーゲルの「経験諸科学、実証諸科学とは違う哲学的思考」のようなんですね。

ですから、具体的な論考を大雑把にアバウトに概括して説く現代の「概論」なんかとも違う、前提として小論理学だとか抽象法だとかがあって具体に関わっていこうとするわけだから正に「逆立ちしている」わけなんです。

その「普遍と特殊との関係はこれこれだ、だからこの事例は…」という思考の仕方がイワユル「形而上学的」で「静止している」「動かない、不動の」とエンゲルスが否定したところじゃないかと思いましたね。

それで、正面からお訊ねしたいのですが、愚按亭主は玄和さんや南郷学派とは絶縁したんですよね?京都で健康腺療法の指導をされていたと思ったら、そのページが閉鎖されていて「理論は理論家にまかせて治療だけしてればいい」という野中豪策や吉田先生の考えが理由だと断り書きがされています。

これって、京都で愚按亭主を受け入れていたのが南郷学派の信奉者だったからでしょうか?



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[2799] ヘーゲルの「法の哲学」の国家論は絶体的本質レベルの概念論
愚按亭主 - 2018年03月31日 (土) 21時42分

 京都健康腺療法勉強会と南郷学派とは全く何の関係もありません。

 ヘーゲルの「法の哲学」は絶対的本質レベルの概念論ですから、唯物論では、マルクスや滝村先生のように、誤って理解して分かったつもりになって見当違いの批判をしてしまうことになります。少なくとも自由な立場で、理想的には絶対観念論の立場に立たないと正しく理解できないのです。

 たとえば滝村先生は、次のようにヘーゲルを批判しています。
「ヘーゲルがここでも、余りにも徹底的に、その概念弁証法による思弁的構成に、こだわり過ぎた点にある。それは、学的国家論を、〈法ー道徳ー人倫)という法的理念の弁証法的展開による、〈法哲学〉の構成に、端的に示されている。これを裏からいうと、国家論の学的解明において、〈国家〉それ自体を学的対象として、直接正面に据える学的方法が明確に斥けられたことである。」(「国家論大綱第二巻」452P)

 ここで滝村先生は、ヘーゲルが<法ー道徳ー人倫>を「概念弁証法による思弁的構成」として説いていることを分かった上で、国家論は、唯物論的に近代国家以降の法とか道徳とか人倫という即自的・悟性的・事実レベルで捉えて展開すべきだ、と批判しています。しかし、このように捉えてしまったために、滝村先生は国家論を完成できなかったのです。それは何故か、ヘーゲルの言葉を見てみましょう。

「国家をそれだけで考察し、国家組織や政府がどうあるべきかを明らかにしようとする傾向があります。人びとは上の階を建てるのに忙しく、上層を組織立てようとはするが、土台たる結婚や職能集団はおざなりになり、ときに、粉々にされたりもする。が、一組織、一建造物は空中に浮かんでいるわけにはいかない。共同体は国家の共同性という形をとって存在するだけでなく、その本質からして特殊な共同性をとっても存在しなければなりません。」(長谷川訳、「法哲学講義」作品社、496P)

 滝村先生は、おそらく前半部分の国家をそれだけで考察する傾向をヘーゲルが批判している部分を示すためにこれを引用したのだと思います。ところが、滝村先生は気づかなかったようですが、ここで、ヘーゲルはとても重要なことを述べています。

 キーワードは「空中に浮かんでいる」のではない、という部分です。ここでいう土台というのは、直接には家族や職能集団などの市民社会という共同体を云っているのですが、概念論的発展の観点から云えば、生命の歴史とのつながりで、人間の市民社会や国家をとらえよということです。だから、「共同体は国家の共同性という形をとって存在するだけでなく、その本質からして特殊な共同性をとっても存在しなければなりません。」となるのです。

 生命の本流の流れとして、動物の本能的な共同性から、人間の段階に至って市民社会的共同性と国家的共同性とに二重構造化したという特殊精化した共同性としてとらえよ、ということです。また、動物時代の内在的な規範的本能による共同性から、人間時代の本能に代わる新たな認識を規定するために目的意識的に作られた外在的な法的規範に基く共同性という特殊性としてとらえよ、ということでもあります。これが、ヘーゲルの概念論レベルの国家論となるのです。

 このヘーゲルの概念論レベルの国家論を、マルクスは現実性がない抽象論だと批判しています。しかしながら、それはマルクスが、ヘーゲルを「根本的二元論」と批判したのと同様に、マルクス自身が犯している誤りに外ならず、ヘーゲルにおいては、当に解決されている問題である、ということが全く分かっていない、ということをこの批判は示しています。では、具体的にマルクスはヘーゲルの「法の哲学」をどのように批判しているのかを見てみましょう。

「したがって家族と市民社会が政治的国家に移り込んでいく移行は、即自的に国家精神であるところのそれら両圏の精神が、こんどはまた実際にそのような国家精神として己に相対し、そしてそれら両圏の芯髄として己に相対して現実的であるといった移行である。それゆえにこの移行は家族等々の特殊的本質と国家の特殊的本質から導き出されるのではなくて、必然性と自由との普遍的関係から導き出される。これは論理学において本質の圏から概念の圏へはいっていく場合になされる移行とまったく同じである。この同じ移行が自然哲学においては非有機的自然から生命へはいっていく場合になされる。いつでも同じ諸範疇が魂を時にはある圏のために、また時には他の圏のために供与する。要はただ、個々の具体的な諸規定のために、それらに対応する抽象的な諸規定を見つけ出すだけである。」(国民文庫版「ヘーゲル国法論批判」p13)
 
 そう見えるかもしれませんが、そうではないことはヘーゲルが彼の「法の哲学」の中で明確に述べています。つまり、それはへーげるによって論破されていたということです。

「〔概念の学における発展と、現存在する諸形態における発展〕
 理念は、自分をさきへさきへと規定しなくてはならない。というのは、はじめには、やっと抽象的な概念でしかないからである。だが、このはじめの抽象的な概念は、けっして放棄されるのではなく、ただ自分のなかでますますより豊かになるばかりであって、最後の規定が、最も豊かな規定というしだいである。

 このことによって、以前はただ即自的に有るだけのもろもろの規定が、自分の自由な独立性を得るにいたる。だがそれは――概念こそがどこまでも魂であって、これがすべてを総括するのであり、そしてただ、ある内在的なやり方によってのみ、それ自身のもろもろの区別を得る、というふうにである。それゆえ、概念がなにか新しいものを得るなどと言ってはならないのであって、最後の規定は、最初の規定と一体になって、もとどおり一致するのである。

 そこで、たとい概念が、その現存在においては、ばらばらに割れているように見えるとしても、これはまさに仮象にすぎないのであって、進行していくうちに、そういうものだということが明らかにされる。というのは、すべての個別的なものは、ひっきょう、普遍的なものの概念のなかへ、もとどおり帰ってゆくのだからである。

 経験的な諸科学においては、通常、表象のうちに見いだされるものを分析する。そしてこんどは、個別的なものを普遍的なものへ連れもどしたばあい、そこでこれを概念と呼ぶ。

 われわれは、そのようなやり方はしない。というのは、われわれはただ、どのように概念が、みずから自己を規定してゆくかを、よく追って見てゆこうとするだけであって、われわれの意見や思惟は、一つもつけ加えないように自制するわけだからである。

 ところで、こういう仕方でわれわれの得るものは、一系列のもろもろの思想と、そしてもう一系列のもろもろの現存在する形態とであるが、これら二つの系列にあっては、現実の現象における時間の順序が、概念の順序とはいくぶんちがっているということが起こりうる。だから、たとえば、所有は、家族より前に現存在していたということはできないのであるが、それにもかかわらず、本書で、所有は、家族より前に論ぜられるのである。

 そうすると、ここで、なぜわれわれは、最高のものから、すなわち具体的に真なるものからはじめないのか、という疑問が出されるかもしれない。答えは、こうであろう。――われわれは、真なるものを、一つの成果という形式においてみようと欲するからこそであって、そのためには、まず第一に抽象的な概念そのものを、概念において把握することが本質的に必要なのである、と。

 それゆえ、現実的であるもの、つまり概念の形態は、たとい現実そのものの中では最初のものであろうとも、われわれにとってはやっとその次のもの、後のものなのである。われわれの進行は、もろもろの抽象的な形式が、それら自身だけで存立するものではなくて、非真なる諸形式であることが示されていく、という進行である。」(ヘーゲル著「法の哲学」)

 ここでヘーゲルは、マルクスや滝村先生などの唯物論者の方法論を、次のように批判しています。

「経験的な諸科学においては、通常、表象のうちに見いだされるものを分析する。そしてこんどは、個別的なものを普遍的なものへ連れもどしたばあい、そこでこれを概念と呼ぶ。
 われわれは、そのようなやり方はしない。というのは、われわれはただ、どのように概念が、みずから自己を規定してゆくかを、よく追って見てゆこうとするだけであって、われわれの意見や思惟は、一つもつけ加えないように自制するわけだからである。」(ヘーゲル著「法の哲学」)

 これと先に挙げておいたマルクスのヘーゲル批判とを並べて比べてみると一目瞭然となります。

「この移行は家族等々の特殊的本質と国家の特殊的本質から導き出されるのではなくて、必然性と自由との普遍的関係から導き出される。これは論理学において本質の圏から概念の圏へはいっていく場合になされる移行とまったく同じである。この同じ移行が自然哲学においては非有機的自然から生命へはいっていく場合になされる。いつでも同じ諸範疇が魂を時にはある圏のために、また時には他の圏のために供与する。要はただ、個々の具体的な諸規定のために、それらに対応する抽象的な諸規定を見つけ出すだけである。」(国民文庫版「ヘーゲル国法論批判」p13)

 この二つを比較して見て分かることは、マルクスはヘーゲルの概念の自己運動を全く分かっていなかったということです。
 ヘーゲルの概念は、その概念自身が現象した具体的・現実的なものが、その自らの論理性にしたがって自発的に論理化していくのを見守るだけで、そこに何ら意見や思惟を加えようとはしないとしています。
 これに対して、マルクスが、これがヘーゲルの概念だとするものは、「個々の具体的な諸規定のために、それらに対応する抽象的な諸規定を見つけ出すだけである」としています。じつは、これはヘーゲルが「われわれはそのようなやり方はしない」と否定した唯物論者のやり方すなわち「個別的なものを普遍的なものへ連れもどしたばあい、そこでこれを概念と呼ぶ」と同じことです。

 では両者はどう違うのかと云いますと、ヘーゲルの概念は運動し生きているのに対して、マルクスの概念は死んで動かない概念だという違いがあります。

 なぜそのような違いが生まれるのかと云いますと、マルクスがヘーゲルの概念を如何に分かっていなかったのかを示す事実を見れば、一目瞭然です。それが次のマルクスの言葉です。

「この移行は家族等々の特殊的本質と国家の特殊的本質から導き出されるのではなくて、必然性と自由との普遍的関係から導き出される。これは論理学において本質の圏から概念の圏へはいっていく場合になされる移行とまったく同じである。この同じ移行が自然哲学においては非有機的自然から生命へはいっていく場合になされる。」(国民文庫版「ヘーゲル国法論批判」p13)

 ヘーゲルの論理学における本質の圏から概念の圏への移行は、本質の圏と有論の圏との統一においてなされるものです、つまり、本質的論理と現象的事実との一体化がヘーゲルの概念だということです。ですから「非有機的自然から生命」への移行も現象と本質的論理との一体化が、活発な有機的自然の運動となり、その運動が生命に結実し、その生命の運動が遺伝子を生みだし、その概念性を帯びた遺伝子によって生命の進化の運動が生じて人類へと発展できたわけです。

 それにしても、先に長々と引用したヘーゲルの文章は、何という素晴らしい丁寧な概念の弁証法の実態の説明でしょうか!!ヘーゲルの「法の哲学」は、まさに概念の弁証法の最高のテキストです。

 ところが、マルクスは、この概念の弁証法の最高のテキストである「法の哲学」を徹底的に研究しながら、その真髄を全く理解できていなかったようです。その原因は、何度も言うように唯物論の立場にこだわった結果なのです。マルクスが、物質の本質が精神であることを喝破しながら、南ク先生が、哲学とは何かを自力で措定しておきながら、物質の本質である絶対精神の自己運動こそが哲学の真髄であることを、ヘーゲルから学ぶことができなかったという事実は、論理の恐ろしさ・厳しさを物語るものです。

 しかし、その反面、マルクスがあれほど心血を注ぎ、徹底的に研究しても分からなかった、ヘーゲルの論理を、「法の哲学」引用のために初めて部分的に読んだ私が、一読で即座に自分のものとして、マルクスの誤謬を喝破できるのも、論理の別の意味での恐ろしさであり、素晴らしさなのです。

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