カウンター 誰も分かっていない宗教と学問との関係のヘーゲルの見事な卓見 - 談論サロン天珠道
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[2780] 誰も分かっていない宗教と学問との関係のヘーゲルの見事な卓見
愚按亭主 - 2018年03月08日 (木) 12時04分

 人類の宝であるヘーゲルの偉大な学問を、壊して紛い物にしてしまったマルクス主義は、一時期一世を風靡し、世界中を席巻しました。どうしてそんな紛い物が人類の心をつかんでしまったのかと云いますと、それはそれだけヘーゲルの学問が素晴らしかったからに他なりません。つまり、マルクスは虎の威を借りるキツネだった、ということです。そして、何よりも深刻なのは、数々の馬脚を現す事態が起こっているにもかかわらず、未だにそんな紛い物が猛威を振るって人類を苦しめ続けていることです。

 何故そうなってしまうのかと云いますと、それだけマルクスが借りた虎の威が立派すぎてみえるために、これだけその無様な現実が衆目の目に歴然と曝されても、マルクスのせいではないなにせ理論は素晴らしいのだから、と思っている人が依然として多いからです。だからこそ、本当はマルクスではなくヘーゲルの方が凄いのだ、マルクスはその凄さが分からずに壊して金目の物を盗んだ盗人なのだ、学問的にも大きな過ちを犯している、という真実を人類に知らしめることが必要です。これまでそういうことを説くことができる者がいなかったから、このように、いつまでもマルクス主義というアヘン患者が堂々とのさばってしまっている現実があるのです。

 人類にとって、最も深刻なのは、マルクス主義やその他のグローバリズムの脅威から、人類を救える潜在力をもつ唯一の国である日本に、その猛威が最もし烈に吹き荒れていることです。それは、もともとマルクス主義には、即自対自の国家は存在せず、階級対立しか存在しないのですが、世界中のマルクス主義者の中で、とりわけ日本のマルクス主義者が、自分の国を愛さないという意味で、最も質が悪いという事情によるものです。今、日本を無用に苦しめている反日問題のほとんどは、彼らが種をまき油を注いで回ったせいなのです。しかも、それによって日本国民全体が大変な迷惑をこうむり、消耗させられている現実があるのに、反省するどころか自分たちがやっていることは正しいと思い込んでいるのですから、本当に救いようがありません。これでは本当に、アヘンを吸って正気を失った者たちそのものです。

 「宗教はアヘン」と言ったのは、マルクスだということは有名ですが、「宗教を否定する宗教はもっと質が悪い」ということも、マルクスの言葉だそうです。この言葉は本当に、云い得て妙と云いたくなるほどにズバリ核心をついていて、自覚があったのかと思いたくなるほどです。

 じつは、このマルクスの「宗教はアヘン」という言葉も、ヘーゲルからのパクリなのです。勿論、ヘーゲルとマルクスとでは宗教に対する理解も全然違っていましたから、中身は同じではありません。マルクスは、ヘーゲルの宗教論を全く理解できておりません。ですから自分の都合の良いように解釈して使っているわけです。

 マルクスは、宗教を観念論だからと否定しているわけですが、この観念論の否定は、すべてを物質的生活から解釈してかかろうとする態度を生み出します。ですから、彼は宗教を現実の生活の矛盾・苦しみから、目を背けさせ、逃避させる、権力者の人民を支配するための道具、という意味で「アヘン」という言葉を用いています。

 これに対して、ヘーゲルは、学問も宗教も、人類が誕生した本質的な契機としてとらえ、それ故に、その絶対性の希求は本質的必然性であるとしています。では、その両者の違いをどのように述べているかと云いますと、宗教は、その絶対性を己の外部に表象として描いて、それに己を従属させる形で信仰することによって安堵するその気持ち良さを、ヘーゲルは人類の自立を妨げる「アヘン」だとしたのです。これは一見マルクスの「宗教はアヘン」と似ているように感じられるかもしれませんが、ヘーゲルは、観念論的に真の人間へ向けて自分を磨く道を妨げるものとして説いているのに対して、マルクスの場合は、歴史の原動力である現実の矛盾と闘うのを妨げるものとして説いている、という歴然とした違いがあります。これは、マルクスとヘーゲルとの、人間解放論の違いと同一の違いなのです。つまり、マルクスは即自のまま、ヘーゲルは即自対自へと向かう志向性をもっているという違いです。だからマルクス主義は、即自のまま、あるがままの自分でOKということなので大衆受けしやすく、一旦権力を握ると、あるがままの自分の欲望のままに人民の自由を奪い、資本主義以上に冷酷に搾取する、強暴な独裁政治になりやすいのです。もっと言えば、即自のまま即自対自への品性の向上を目指さないから、力で抑えなければ統治できなくなるのです。その良い反証は、江戸時代の日本はしっかりと即自対自の認識が品性高く創られていたので、犯罪を犯すものが非常に少なく、力で押さえつける必要がなかったという事実が挙げられます。

 ではもう一方の学問はどうかと云いますと、その絶対性は唯一概念としてのみ到達可能であるとして、その絶対性を外部にではなく、己の内なる学的王国として自意識として、体系的に構築することが、すなわち絶対的本質たる己自身に回帰(存在と意識の同一化)することであるとしています。さらにこれが、すなわち真の主体性の確立であり、己自身が神になることだとしたのです。そしてヘーゲルは、人類は必ずそうなれると断言し、自らそれを実証して見せたのです。つまり、人間は、絶対的本質の発展の結果として生まれ、最先端の発展を牽引しうる存在として、努力して絶対的本質そのものにもなりうる存在であり、その努力の結果として学問を完成して絶対理念へ到達できたとき、絶対的本質は絶対的本質としての己自身に回帰したということが云える、ということです。

 そして、ヘーゲルは学問と宗教の宥和を説いている(これもマルクスの気に入らなかったところでしょう)のですが、それはどういうことかと云いますと、絶対性に到達しうる形式は、概念以外は不可能であるので、はじめはそれを宗教として信仰して励む必要がある。しかし、その宗教は外部に絶対性を求めるのではなく、あくまでも内部にあるところの潜在的な絶対性を信じて努力する、という形での学問と宗教との宥和です。こういう形式であるならば、宗教が人類の自立心を阻害することはなくなり、むしろ、自立を積極的に促すものになるという統体止揚が達成されるということです。

 以上の内容をヘーゲルが説いていますので、それを見てみましょう。

「哲学と宗教との区別
 即且向自的に〔絶対的に〕普遍的な内容がはじめて哲学に所属するようになるための形式は思惟の形式であり、普遍的なものそのものの形式である。ところが宗教においては、この内容は直接的な外的直観、即ち表象と感覚との手段によって捉えられる。」
「宗教によって我々に現われる真理の啓示は、人間に外部から与えられたものだというのが宗教の建前である。そこで真理は預言者または神の使といったものによって告げられる。」
「哲学は本質を認識するものだという場合、本質とは或るものそのものの本質であって、その或るものに外面的なものでないということが大事である。私の精神の本質は、私の精神そのものの中にあるのであって、その外にはない。個人的精神においては、この本質的なもの〔神的精神〕の現象にすぎないところの、非常にたくさんの実存がある。しかし外面的な実存に囲繞された個体的なものは、この本質とは区別されねばならない。
 ところが宗教もまた、この本質について知ろうとする態度である。しかし、宗教が想像の所産としてであれ、歴史的存在としてであれ、意識の対象として表象するものを、哲学は思惟し、概念するのである。この両形式は互いに差異するものであり、またそれ故に対立するものとなり、さらに矛盾するものとなりうる。両者がいわば、いよいよ具体的な形をとって来るにつれて、両者ははじめは自分たちの差別を意識するのみであるが、やがて必然的に両者が互いに敵対するものとなって来る。歴史上におけるこの対立は、一般に次のような行程をとる。思惟は一番最初は、ただ宗教の内部で、不自由に、個々の外的な形をとって現われる。第二には、思惟が強くなり、自分が自立的なものであるということを感じ、他の形式に対して敵対的な態度をとる。第三には、思惟がこの他者の中で自分自身を認知することでもって終わる。これを言いかえると哲学は、その仕事を全く独立にやること、思惟を全ての民族信仰から切り離して、自分を全く別の領域と考えること、即ち表象の世界とは全くちがった領域と考えることから始めなければならなかったのである。
 このように宗教は哲学と共通の内容をもつが、形式だけがちがっている。そこで概念の形式が宗教の内容を把捉しうるところまで完成することが大切である。哲学が宗教に打ち勝つのではなく、それと宥和せねばならない。宗教は表象を元にするものであり、哲学(概念とか普遍的な思惟諸規定)を理解することはできないが、哲学はこの内容の概念的思惟として、宗教を理解することができる点において優っている。」(「哲学史」ヘーゲル著)

 このように人間自身が神になるというと、たいていの敬虔な宗教家は猛反発します。キルケゴールがそうでした。しかし、キルケゴールは、ヘーゲルのあれもこれもの運動体の弁証法が全く理解できず、常識的なあれかこれかの形而上学的な弁証法で、批判しているのですが、神と人間とをあれかこれか式に絶対的に分断して、人間を何時までも絶対性を体得できない無知蒙昧なままにしておきたいようです。また、概念と、表象的・感性的認識とを、あれかこれか式に絶対的に分断して、概念で神秘的・感性的な神は分からないと批判しています。ところが、ヘーゲルはとうにそのようなあれかこれかの形而上学的な論理学を、死んだ論理学として完璧に論破しています。その結果としてヘーゲルはあれもこれもの運動体の弁証法を創り上げたのです。

 だから、神(絶対的本質)と人間(潜在的絶対的本質性)とのあれもこれもの同一性・一体性を、自ら実証して見せたのです。そして、宗教の表象的・感性的・事実的論理では絶対的真理には到達できないことも、概念論的に立証した上で、学問・概念の宗教に対する優位を宣言し、宗教との宥和を、宗教を同じ絶対的真理を追究する同志として、真の絶対的真理へと至る道である学問の体系化への道程の一過程としての宗教を説いたのです。

 そうでなければ宗教は、絶対性を思わせる表象的な像を人間の外部に描くことでしか絶対性を表現できず、まだ絶対的真理の分かっていない者によって想像された神の言葉を、絶対的真理と思い込んで信仰し、それに従うことは、絶対的真理になり得なかった相対的真理を絶対化することになり、たとえばそれにそぐわない現実が現れた場合、その絶対化されたその現実にそぐわない相対的真理の方が不当に尊重されることになって、その現実に合わせることができないという不自由・不便・誤謬を人間に強制することになってしまい、結果として宗教が人類を苦しめることになってしまいます。これは、現在の世界に普通に見受けられる宗教的現実です。そして何よりも、せっかく人間は絶対性を獲得しうる存在であるにもかかわらず、それを宗教が邪魔をし、その達成を宗教が阻害してしまうことこそ、人間のための宗教の本義・存在意義に反するものであるといえるからです。これが、ヘーゲルの言う「宗教はアヘン」の本当の意味なのです。


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