[2776] 弁証法の基本とはーなぜエンゲルスの弁証法では駄目なのか? |
- 愚按亭主 - 2018年02月24日 (土) 09時09分
ヘーゲルは、それまでのあれかこれかの静止体の弁証法の論理学の判断破壊を通じて、あれもこれもの運動体の弁証法を創り上げましたた。そして私は、これまで、そのあれもこれもの矛盾の論理こそが弁証法の基本だ、との主張してきました。これに対しては、当然次のような反論が予想されます。
「弁証法はどういう科学か」にも、あれもこれもの直接性の説明があるではないか!それが無いというのならともかくも、あるのにどうして無いかのように批判するのか?それは、誤解に基づく見当違いの批判ではないのか!
この批判は、たしかにもっともな批判であり、その気持ちもよく分かります。ただ、云わせてもらいますと、まさにこの批判こそが、ヘーゲルの弁証法が全く分かっていないことを示す証だと云えます。と云いますのは、ヘーゲルは「真理が手につかみ得るものであるかのように考える考え方を斥ける必要がある。」と述べているからです。ですから真理としての弁証法の基本は、事実から相対的に独立した思惟の運動として、技化しなければならないのです。このことは、南郷先生ご自身が、かつて空手の基本技の修得上の秘訣として、空手の基本技は、真剣勝負から相対的に独立した形で、最高の技を創りうる環境にて行わなければならない、と力説されていたのとまったく同一の論理に他なりません。だからゼノンの詭弁と称されている論理を事実レベルで考えてはならないのです。
ところが「弁証法はどういう科学か」の中で説かれている、あれもこれもの直接性の説明は、事実レベルの論理でしかありません。ですから、当然、南郷先生はその論理を事実で考えて自分のものにせよと指導しています。たとえば、その中で例として挙げられている、歯車と回転とが、あれもこれもの直接性だとする論理で、どうして運動が生じるでしょうか?ありえないことです。これは、運動しているという現象の単なる説明でしかないからです。これが、南郷学派が説くあれもこれもの実態なのです。
これに対して、ヘーゲルの説くあれもこれもの直接性は、事実レベルでは決してなく、全体性・普遍性の論理レベル、すなわち思惟レベルで有と無の矛盾、動と止の直接性、つまり、、有即無や動即止が運動の、矛盾の論理構造だとして説いてあるのです。実際、そこのところをヘーゲルは、どのように説いているのかを見てみましょう。
「(1)まだ何もない〔無がある〕が、何かが生ずべきである始元は純粋な無ではなくて、何かがそこから発生するはずの無である。それ故に有もすでに始元の中に含まれている。それ故に始元は有と無との両者を含んでおり、有と無との統一である。――云いかえると始元は同時に有であるところの非有である。また同時に非有であるところの有である。
(2)次にまた、有と無とは始元においては区別されたもの〔ちがったもの〕として存在する。というのは、始元は〔それ自身すでに〕何か他のものを暗示しているものだからである。――始元は或る他のものである有に関係しているところの非有である。始まりつつあるものは、まだない。それは、まず、有を目がけて進む。それ故に始元は非有に別れを告げ、非有を止揚するものであるような有を、非有に対立するような有を含んでいる。
(3)しかし更にまた、始まるところのものはすでに存在するとともに、それはまた存在しない。それ故に有と非有という対立するものは、この始まりの中でそのまま合一している。云いかえると、始元は両者の区別のない統一である。
こういうわけで、始元の分析から得られるものは、有と非有との統一の概念〔即ち一種の有〕――もっと反省的な形式で云えば、区別のあるものと区別のないものとの統一、或いは同一性と非同一性との同一性の概念だと云ってよい。この概念は絶対者に関する最初の最も純粋な、即ち最も抽象的な定義と見てよいもので――一般に絶対者の定義の形式とか、名称とかが問題になるとすれば、実際この概念こそそれだといってよかろう。この意味で、この抽象的な概念が絶対者の最初の定義であるように、すべての更に進んだ規定や展開は、ただこの絶対者の一層規定的な、また一層内実的な定義に過ぎないものと見られよう。」(大論理学上巻の一より)
このように物質の運動の始元の矛盾・論理を説くことこそが、弁証法の基本でなければならないのに、「弁証法はどういう科学」では、この始元の問題を、有のみの物質の永遠性を主張する唯物論と、絶対無から観念の力によって有が生み出されたとする観念論とに、始元における運動の基本的矛盾構造を解体・破壊し、あれかこれかの対立構造に分断した上で、唯物論のみが真理だとえこひいきしているのです。このような非弁証法的な死んだ論理学を、どうして弁証法の基本とできるのでしょうか?
ヘーゲルは、その運動の基本的な矛盾である、有即無から生成と消滅の論理構造までをも引き出し、発展させてくれているのです。曰く。
「2、成の二契機〔生起と消滅〕 成、即ち生起と消滅とは有と無との非分離である。それは有と無とを捨象する統一ではない。むしろ、それは有と無との統一として、こういう規定的な統一であり、云いかえると、その中には有も無も共にあるような統一である。しかし、有と無との各々がその他者と非分離のものである以上、そこには有も無もない。つまり、両者がこの統一の中に有るにしても、消失するものとしてあるのであり、止揚されたものとしてあるにすぎない。両者は、はじめに両者がもっと考えられた独立性から契機に、即ちいまもまた互に区別されてはいるが、しかし同時に止揚〔否定〕されているような二契機に落とされる。
この両契機の区別という点から見ると、各々の契機はこの区別の中にありながら他方のものとの統一という形である。それ故に成は、有と無との各々がそれぞれ有と無との統一であるような二つの統一として、有と無とをその中に含んでいる。一方の統一は直接的なものとしての有であり、他方の統一も直接的なものとしての無であるとともに、また有に対する関係としての統一である。その意味で、二つの規定は共にこういう統一でありながら、不等な価値をもっている。
成はこうして二重の規定をもつ。一方の規定においては無が直接的なものとしてあり、 即ちこの規定は無から始まり、この無が有に関係する。即ち無から有に推移する。これに反して他方の規定においては有が直接的なものとしてあり、即ち規定は有から始まり、その有が無に推移する。――即ちそれは生起と消滅である。
この両者は同じもの、即ち成であるが、またこのような互にちがった方向を取るものとして互に浸透しあい、相殺しあう。一方の方向は消滅であって、有が無に推移するが、しかしまた無は自分自身の反対であり、有への推移であって、即ち生起である。それで、この生起は反対の方向を取るものであって、ここでは無が有に推移するが、しかし有はまた自分自身を止揚するのであって、むしろ無への推移、即ち消滅である。――両者は単に相互的に相手側を、即ち一方が外面的に他方を止揚するのではない。むしろ各々はそれ自身の中で〔即自的に〕自分を止揚するのであり、しかもそれ自身において〔対他的には〕自分の反対となるのである。」(「大論理学」第一巻の上、有論より)
このように有と無との統一としての成にも二重構造があって、その循環によって生起から消滅へ、また消滅から生起への無限的循環の論理が存在することを、ヘーゲルの学問的思惟がつきとめてくれているのです。したがって、われわれはこの見事な思惟の働かせ方を、真の弁証法の基本として学び、これを観念的な技として徹底的に技化して、自らの思惟力としなければなりません。現実との格闘は、その基本技が自分のものとなってから取り組むべきです。
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