カウンター 瀬江先生の医学原論(学城16号)を論ず - 談論サロン天珠道
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[2772] 瀬江先生の医学原論(学城16号)を論ず
愚按亭主 - 2018年02月14日 (水) 23時03分

 今回の瀬江先生の「医学原論」を読んで、やはり即自的悟性の唯物論的形而上学では、医学という特別に複雑な対象の個別科学としての学的体系化は難しいのか?、という感想をもちました。というのも、医学とは何かという一般論や構造論が、事実の論理の積み重ねの結果として導き出されたものというよりも、即自的悟性が頭の中で抽象化されたものという印象が強く、だとしたならば対自的理性による否定的媒介の洗礼を受けないままの直接態のままという中途半端さがめにつくからです。結果として、生命史観による否定的媒介がないことによって、現象論的で本質的必然性が見えてこないものものになってしまっているからです。そうだから、個別的事例との統一としてある治療論も、教条的でダイナミックさに欠ける、ありきたりで面白味のないものになってしまっています。

 その理由として挙げられる、そのほかの具体的要因としては、糖尿病をもたらす要因について、外界からの浸透にばかり重点が置かれて、それを迎えうつ内界側の問題がなおざりにされているためだと思われます。その内界側の問題とは端的には、内部環境の恒常性の維持の実質的統括者たる<交感神経ー副腎系>とスジのネットワークが全く無視されている点です。その結果として、回復過程の主役たる生命力に対する治療的働きかけが、生活過程を整え膵臓を休ませるという看護的なものになって、医療的な手段はインシュリンのピンチヒッター的投与のみということになってしまっていることです。

 ではまず、医学とは何かの具体的な検討から、初めて行きたいと思います。瀬江先生の、医学とは何かの定義は以下の通りです。

 医学とは「人間の正常な生理過程が病む過程と、病んだ生理構造の回復過程とを統一して究明する学問である。」

 これを読んでまず浮かんでくる素朴な疑問は、南郷学派は人間の頭脳のはたらきを大別して生理機能の統括と認識機能の統括とに分けていたはずなのに、生理過程が病むことの中に精神病も含まれているのか?という疑問です。もし含まれていないとしたら、この定義には不備があるということになります。

 その点を除けば、これは全くその通りで、違うなどとケチをつける気は全くありませんが、この定義は、見たままそのままの現象論であって、本質的定義とはいいがたいと思います。せっかく生命の歴史の論理構造を明らかにしたのですから、生命の発展史における人類誕生の意義や、人間とは何か、人類の認識の誕生による病気の必然性が生まれたこと、そしてその意味とかが、盛り込まれたものへと概念が発展させられるべきだと思うのですが、それがなかったことをとても残念に思います。ですから、今後そうした発展がみられることを期待したいと思います。

 次に、瀬江先生は「生命体は恒常性を維持するしくみによって健康を維持している」の項で、次のように述べています。

「人間を含めて生命体は、外界の変化性に対して、自ら変化することによって変化しないという実力を備えているということである。これがクロード・ベルナールによって提唱され、ウィルター・B・キャノンがその構造を明らかにした、恒常性(ホメオスターシス)を維持するしくみである。」
「そしてこの内部環境の恒常性を維持するしくみというのは、体の中のある特別な器官だけが担っているのではなく、さまざまに分化した体のあらゆる器官が、総力をあげてそのために働いている、と言って良いものである。」
「このように人間の体は、それぞれの生活の状況に応じて、脳の統括により、それぞれの器官の機能するレベルが調節されているのである。」

 最近の現代医学の進歩によって、「さまざまに分化した体のあらゆる器官が」相互に情報を発信しあって「総力をあげて」「内部環境の恒常性を維持」している様子が明らかにされてきています。それはその通りだと思います。その上で「ある特別な器官だけが担っているので」あることもまた確かなことです。そのことは、キャノンの実験によって明らかにされたことです。

 それは一体どういうことかと云いますと、そのキャノンの実験とは、交感神経を切除した動物が、外部環境を一定に保つようにコントロールされたところでは支障なく生きていけたが、調節されないところでは、恒常性の維持が保てず生きていけなかった、という実験です。これは何を意味するかと云いますと、脳の調節のもと人体の諸器官が総力をあげても普通の環境では恒常性を維持できなかったということです。つまり、それを担う特別の専門器官が必要だということです。そして、それが交感神経だということです。この事実は、瀬江先生から教えてもらったようなものですのに、どうして瀬江先生がそれを否定するのか不思議でなりません。

 さらに言えば、交感神経と副交感神経とがワンセットではないという事実を教えてもらったのも瀬江先生であり、交感神経に関してはスペシャリストであるはずの瀬江先生が、恒常性の維持のために生まれたといっても過言でない交感神経が、恒常性の維持のしくみについて論じている場所で、またく触れられないというのは、私にはどうにも理解できないことです。

 それはともかく、生命が哺乳動物になりにいく過程において、
陸上の新たな環境の激しい変動に、体中の各器官が「総力をあげて」恒常性の維持をはかろうとしてもうまくいかない中で、そのような環境の中でも恒常性を上手に整えられる「特別の専門器官」として交感神経が、急遽造られることになりました。恒常性の維持は体中のすべての器官が総力を結集しなければできないことですから、当然にもそのために造られた交感神経は、そのすべての器官を統括するために、体中のすべての器官にネットワーク網を造りあげました。

 全体の統括者である脳は、前時代的な統括しかできませんでしたから、最新の複雑な統括のほとんどは現場監督に交感神経に任せて、「良きに計らえ」という統括しかしていないのです。だから、その頼もしい交感神経が突然いなくなったら、オロオロして、交感神経の代わりができないがために、生命を維持できなくなってしまうのです。そのことを明らかにしたのがキャノンの実験です。ですから、瀬江先生が、そんな大事な交感神経になぜ触れようとしないのか、不思議でなりません。

 瀬江先生は、以上の常態論的説明を踏まえて、次の「人間は認識によって恒常性を維持するしくみが歪んでいく」の項で、以下のように病態論を展開しています。

「人間は特殊的・個性的に育ってきた認識によって、特殊的・個性的な外界との相互浸透をしてしまうことによって、それぞれの器官の機能が許容される範囲を逸脱してしまうことが起こりかねないのである。」
「その内部環境の変化が、著しくあるいは長期にわたって持続してくると、その機能を担う器官はいわば疲れ果てて、その機能を維持することが難しくなってくる。それが『生理構造が機能として歪みかけている段階』であり、さらにこの状態が続くなら『生理構造が機能として歪んでしまった段階』へと至るのである。
 そして、それ以上にそのような外界との相互浸透が続くことになると、『生理構造が実体として歪みかけている段階』から、『生理構造が実体として歪んでしまった段階』へと発展していくことになる。」

 以上の病態論に対応する形で治療論を展開していくことになるのですが、その治療論を問題にする前に、この病態論自体が、構造論と称していながら、特殊的とか個性的とかの中身がはっきりしない空虚な規定で済まされてしまって、何らも病気の必然性を明らかにするものとは言えない、ということも確認しておきたいと思います。。単に量的に許容範囲を超えたとしか受け取れない規定のしかたでは、病気の必然性の一般性を示すものとは思えないからです。なぜそういうことにこだわるのかと云いますと、人間は、自然のあり方を次々に人間に合わせて創り変えていってしまう存在だということが説かれていないからであり、そしてそれがどういう意味をもつのかについても言及がないからです。

 さらに言うならば、たとえば、許容範囲を超えるという規定について言えば、本来のあり方が変更されたあり方の質的な許容範囲と、その量的な許容範囲との統一としての許容範囲でなければならない、と思うからです。

 次に治療論について言うならば、元に戻る回復のあり方と、元に戻らない障害が残る回復や、代用物で補填する回復のあり方とを同じ三角形の中で、一緒くたに扱うのは、果たして治療論として正当なのか、疑問が残ります。元の正常な生理構造に戻れる形で治ったものと、元に戻れない形治ったものとは区別すべきだと思います。                             つづく


 

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[2773] 動物の交感神経と人間の交感神経との違いを説くことの重要性
愚按亭主 - 2018年02月15日 (木) 21時36分

 今回、「学城16号」の中の瀬江先生の「医学原論」を読んで、「綜合看護」誌に、交感神経と副交感神経とは一対ではないという論稿を発表して以来、南郷学派の「交感神経論」は全く進展していないどころか、退歩しているのではないかとさえ思えてします。これは、私にとって、まさかのとてもショックなことであり、驚きであり、そして大いなる失望でした。

 なぜ私が、このように交感神経の問題を重要視するのかと云いますと、交感神経こそが、人間が人間になることによる矛盾・葛藤を一番背負わされることになったからです。ですから、人間の医学・生理学(常態論)・病理学(病態論)・治療論を旗印に説こうとする場合に、まず第一に問題としなければならないほどの重要な項目なのです。

 ところが、瀬江先生は、人間の体の恒常性を維持するシステムについて説こうとする場面においてすら、交感神経がその為に生まれた事情を熟知しているにもかかわらず、それを専門的に担う器官はないときっぱりと否定して、交感神経のこの字も論稿に出そうとしませんでした。想像するに、その後問題にする具体的事例としての糖尿病の問題を解説するのに、交感神経を出してしまうと面倒である上に、まだそのつながりも見えておらず確証もないので、あえて触れようとしなかったのかも知れません。

 しかし、本当に人間の医学としてのスジを通そうとするのであれば、ここは何が何でも出さなければならなかったはずです。なぜなら、この問題こそが、人間の医学の何たるかを象徴するほどの大問題だからです。

 そのことを分かり易く理解するために役立つのが、動物の交感神経と人間の交感神経との違いです。動物の交感神経は太くてしっかりしているそうですが、人間の交感神経は、とりわけ現代の日本人の交感神経は、細くなってとても分かりにくくなってしまっている人が多いのだそうです。ただ、赤ちゃんの交感神経はまだ太いものが多いのだそうです。

 問題は、これは一体何を意味するか?ということです。そもそも交感神経は、哺乳類の時代に体内の恒常性を維持する機能を一体的に統括するものとして、そしてその交感神経幹は現場レベルでの統括司令本部と完成しました。そして、この哺乳動物の時代は、本能による一元的統括が行き届いておりましたので、交感神経はその実力を安心して存分にふるうことができ、それによってその実力が向上していきました。

 ところが、人類の時代になりますと、その本能による一元的な統括システムが、大きく変更を余儀なくされました。それは、哺乳動物時代は本能の統括下での一機能に過ぎなかった認識機能が、サルの段階で二重構造化して大きく発展して、主体性をもつようになってとうとう本能の上に立って全体の指揮を執るように、まるでクーデターのような大変革が起こったのです。

 この革命的な出来事は、最早限界点に達していた内在的な動物的本能による発展から、そうした即自的な本能的合理性から相対的独立に、自主・自由に発展できるようになった認識による真の自由を目指しての発展へと、物質・生命の本流が大きく変化したことを意味します。

 この即自対自の真の自由への道のりは、即自の自由から始まりますので、恣意的な自由さを多く含んだものになる可能性が大という面をもっています。この認識の恣意的な自由さが、その認識の感情と深く関わり合う交感神経の本能的合理性と衝突し、交感神経内部に葛藤をもたらし、消耗させることになります。

 この交感神経の立場と、人類が認識と本能による二重権力構造をもつにいたっての再編、いってみれば人事異動で本能の統括下から認識の直属の部署に異動して随意神経となった運動神経の立場とを、比較して見ますと、運動神経の方は、如何なる無理難題を押し付けられようとも、ただできないだけで内部的な矛盾・葛藤は生じようもなく、ただ従うのみです。これに対して交感神経の場合は、本能の統括下にあって認識の命令を直接に聞く立場ではなく、あくまでも自律的・本能的にその本分を全うしようとします。

 これは腸管運動神経である副交感神経も同様です。しかし、副交感神経の場合は、ただ入ってきたものを消化・吸収しようとするだけですから、瀬江先生の言うレベルでの、認識の気まぐれによって許容範囲を超えて働かされるとか、時間外で無理やり働かされるという非合理な目にあわされて疲労させられることはあっても、内部的な矛盾葛藤を抱えさせられて変質させられてしまうという危険はそれほどありません。

 これに対して交感神経の場合は、認識からは相対的独立の本能統括下にあって自律的に活動する立場にありながら、認識のとりわけ感情と積極的に密接な関係をもってその秘書のような役割を自律的に行っているのです。たとえば、寝床で認識が目覚める気配を敏感に察知してサッと起きられる体制を整えるというようにです。こういう交感神経の働きが悪い人が夜尿症やグズグズと朝起きられない人です。また、命を守るという交感神経の本分からするとこれ以上は危険であるという場合でさえも感情がやる意志を示せば、その本分を抑えて感情に協力するということがしばしば生じます。これは自律的で独自の主体性をもっている交感神経だけに、そういうことはジワジワと交感神経を変質させてしまう要因となりうるのです。このような役割・事態は、哺乳動物時代の交感神経にはなかったことです。以上のように、人類の交感神経は、非常に微妙で自分で自分を否定しなければならないこともありうる、非常に消耗させられるだけでなく、狂ってしまいかねない大変な役割を担うようになった、ということがとても重要なことなのです。

 なぜならこれが、交感神経の統括下にある免疫機能が狂って自己免疫という現象となって現れたり、ストレスによって異常なアレルギー反応を起こしたり、うつ病やパニック症候群・慢性疲労症候群になっていくことにあるからです。

 ところが、瀬江先生の規定には、こうした問題が入っておらず、したがって不備があると云えます。ましてや、交感神経を軽視する姿勢のままではますます難しいと言えます。さらに言えば、糖尿病の中にも自己免疫で起きるものもあるそうですから、交感神経の異常やその交感神経の異常をどう治すのかという問題は、とても重要な課題になるはずです。

 ついでに云えば、糖尿病と交感神経の関係は、決して無関係ではなく、膵臓も恒常性を一体的に統括する交感神経の統括下で働いているもので、その交感神経の統括下にあるスジのネットワークの中心基地である、骨から分泌される物質が膵臓の働き大きく関与している事実も、現代医学によって解明されてきております。そういう意味からも、糖尿病の事例を扱う場合においても、交感神経を無視する態度は、学問を志す者として正当ではないと思います。

 

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[2774] 瀬江先生の治療論は唯物論的でなく観念論
愚按亭主 - 2018年02月16日 (金) 18時51分

 先に私は、瀬江先生の治療論に対して、そんな単純な三角形にはならない、と異議を唱えました。それは、治り方の二重構造からのものでしたが、治し方の二重構造からもそれは言えます。つまり、四重構造のもっと複雑なものになるということです。その治しかたの二重構造とは、具体的には治已病と治未病の二重構造ということです。実際に治し方にこのような違いがあることは、東洋医学的な治療と西洋医学的な治療の存在することからも、事実的にすぐ分かることであります。また、先に挙げた元に戻る形で治る場合と、元に戻らない形で治る場合との二通りあることも、現実を見ればすぐに分かることです。

 そういう事実からかけ離れた抽象的な規定が導き出されるということは、この規定は事実から積み上げられたものではないということを示していると思います。つまり、この規定は、事実全体を見ないで観念論的な演繹、ありていに言えば、当てはめによって作られた規定だということです。具体的に云えば、実体と機能という抽象的規定を基にして、順番にそろえただけの代物だということです。

 しかも、この抽象的規定自体が、むき出しの抽象的悟性のままの直接態で、対自的理性による否定的媒介を経ていない、したがって真理としての資格を持たないものですので、同じ観念論と言っても、事実との付き合い方が分かっている概念論からの正当な観念論とは別の、南郷学派がつとに批判しているようなレベルの抽象的悟性的観念論でしかありません。唯物論こそ本当の学問的立場だ、ということを常日頃から標榜している南郷学派が、自分たちが攻撃しているその観念論に自らが、はまってしまっていることに気づかないというのは、いかにも皮肉な現象です。しかし、このことは、逆に人間の認識におけて、唯物論と観念論との統一は、むしろ一般性なのだということを示す良い例を提供してくれているのではないかと思いります。

 しかし、この批判に対して、そうは言うけどその後の糖尿病の事例の検討で示されているように、実際の治療の指針として立派に役に立っているではないか、という反論も予想されます。しかし、それはあくまでも一断面に過ぎないのです。瀬江先生は治療論の構造論の一般性としてこれを説いているので、私は異議を唱えているのです。

 と云いますのは、病態論と違って治療論は、単なる外界ではない医療者による目的意識的な働きかけとしての医療と、それを受ける患者の病態を含んだ生命体との、病気の治癒を目指した相互規定・相互浸透的な発展過程を、運動態としてダイナミックに説くものでなければならないと思うからです。そういうものとして規定されたならば、治已病的医療による病態をもつ生命体の反応・変化と、治未病的医療を受けた場合の反応・変化との違い、元に戻る治り方と元に戻らない治り方の違いなども浮き彫りにされるはずです。そういうものを明らかにすることこそが、治療論の使命であるはずです。

 ところが、瀬江先生の規定は、病態論的規定をただそのまま治療論に横滑りさせているだけのように見えます。しかもそれに対して治療論としてつけ加えたものが、病態が進行すればするほど治療の選択肢の幅が狭まる、だから三角形なのだとしていますが、それも本当にそうなのか疑問が残ります。なぜなら、自分の力で元に戻ることのできる段階と、元に戻ることができない段階とでは、手術無用の前者より、さまざまな手術の種類・方法の増える後者の方がむしろ選択肢が増えるということも考えられるからです。

 このような杜撰な規定のしかたは、この規定が事実から導き出された規定ではなく抽象的悟性からの演繹、当てはめという観念論的手法によるものであることを示しています。そしてその抽象的悟性というのは、部分的な事実の論理を抽象化・一般化したままの特殊性の一般化という宿命をもつものですから、対自的理性による否定的媒介なしには本当の全体性の論理になり得ないものですので、それを安易に一般的論理としてしまうことは禁物なのです。

 さらに言えば、それに対して対自的な概念論の場合は、節度があって、石橋(しゃっきょう)の親獅子のように、仔獅子が絶壁をよじ登ってくるのをじっと見守るのと同様に、事実の論理がそれ自身の論理性によって一定レベルまで突き詰められるまで何もしないでじっと待つことを、ヘーゲルはしっかりと明言しております。こうした節度があるから、抽象的悟性の現実離れした観念論的当てはめと違って、概念論の普遍性は現実的なのです。 

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[2775] ヘーゲルの論理学とはどういうものか?
愚按亭主 - 2018年02月19日 (月) 10時40分

 南郷先生は、ヘーゲルに対して、新しい論理学だと宣言しながらその中身を説くことができなかった、と批判しました。これに対して私は、前の記事で、瀬江先生の医学の体系を、ヘーゲルの論理学から具体的な形で批判を展開しておきました。以前の私でしたら羨望のまなざしで遠くから見上げるしかありませんでしたが、そんな私がこのように批判できるようになったのも、ヘーゲルの論理学を学んだおかげであることを示すためでした。そして、そのように私を変えてくれたヘーゲルの論理学がどういうものかを、ヘーゲル自身がどのように述べているかを実際に示して、ヘーゲルが見事に批判した古い死んだ論理学が、まさに南郷学派の論理学そのものであることを明らかにし、本当のヘーゲルの論理学がどういうものかをここに紹介したいと思います。まず、そのヘーゲルの文章を見てみましょう。

「普通に、論理学には素材が欠けており、その欠除に論理学の不充分があると云われるのである。それにしても、真理の領域は、素材の中に求められるべきものではない。論理的形式の無内容ということは、むしろただこの形式を考察し、取り扱うところの方法の中にある。これらの形式が、固定的な規定として、互に分離したものであって、有機的な統一をもたないとすれば、それは死んだ形式であって、その生きた具体的な統一である精神を、その中に宿していない。そのために、論理的形式は実質的な内容をもたないことになり、質料をもたないことになり、質料が内容ではないことになる。

 すると、この論理的形式のない内容は、こういう抽象的諸規定の単なる基礎、単に具体的なものにほかならない。従って、こういう実体的本質は、普通には、形式の外部に求められることになる。しかし、すべての抽象的規定をその中に包容し、それらの実質的な、絶対的な統一であるところの実体的なもの、或いは実在的なものこそ、まさに論理学的理性そのものなのである。」(「大論理学」第一巻の上、有論より)

 南郷先生は、概念は運動を止めて固定化して規定すべきであり、論理学は形而上学として創られるべきだと、はっきりとその著書で述べています。ここに述べられているヘーゲルの文章は、その形而上学的論理学に対する批判です。この文章は、ヘーゲルにしてはとても分かり易く書いてありますので、解説の必要はないとは思いますが、老婆心からあえて解説しておきましょう。

 まず、「真理の領域は、素材の中に求められるべきものではない。」とは同じ対象(素材)を扱っても、形而上学すなわち静止体の弁証法の論理学の形式と、ヘーゲルの運動体の弁証法の形式とでは、真理としての質が全然違ってくるということです。つまり、前者の形而上学的論理は、「これらの形式が、固定的な規定として、互に分離したものであって、有機的な統一をもたないとすれば、それは死んだ形式であって、その生きた具体的な統一である精神を、その中に宿していない。そのために、論理的形式は実質的な内容をもたないことになり、質料をもたないことになり、質料が内容ではないことになる。」まさにその具体例が、瀬江先生の医学体系の論理の形式に他なりません。

 これに対して後者のヘーゲルの概念論の論理学はどのようなものでしょうか?南郷先生は、ヘーゲルはそれを説くことができなかったと決めつけていますが、本当にそうなのか、次のヘーゲルの文章を見てみることにしましょう。ヘーゲルは古い論理学の批判的反省に続けて、新たに創り上げた論理学について次のように説いています。

「以上の反省は更にまた、論理学的考察の新しい立場を明らかにすることになる。即ちそこから、この立場が、これまでの論理学の取り扱い方とどんな風に異なるのかという点、それが如何なる意味で、将来永久に論理学の立つべき唯一真実の立場であり得るか、ということが解明されるのである。

 私は、精神現象論の中で、意識がその対象との直接的対立から出発して、絶対知に到るまでの進展運動を叙述した。この道程は、意識のその客観に対する関係のあらゆる形式を通過して、その最後に至って学の概念を獲得する。」

「絶対知は意識のあらゆる形態の真理である。というのは、あの意識の道程が絶対知に達するとき、その絶対知の中では実際、対象と対象そのものの確実性との分離は完全に解消され、真理はこの確実性と同じになり、またこの確実性は真理と同じになったからである。

 それ故に、この純粋学は意識の対立からの解放を前提する。純粋学は、思想が事柄そのものであるかぎりにおいて、この思想を含むのであり、或いは事柄そのものが純粋思想であるかぎりにおいて、この事柄を含むものである。

 真理は、学としては、純粋な自己展開的な自意識であって、自己という形態をもつ。即ち即且向自的に存在するものは意識された概念であるが、しかしまた概念そのものは即且向自的に存在するものである、という自己の形態をもつのである。そこで、このような客観的思惟が純粋学の内容である。だから、この論理学は決して形式的なものではなく、現実的な、真の意識に必要な質料を欠くものではない。むしろ、絶対的真理のみがこの学の内容なのであって、もしも質料という言葉を用いたいというなら、絶対的真理のみが真の質料である。――しかし、この質料はむしろ純粋思想であり、従って絶対的形式そのものであるから、形式は質料に対して外面的なものではない。それ故に、論理学は、純粋理性の体系として、純粋思想の國として把握されねばならない。

 この國は何らの覆いもなく、即且向自的にあるような真理である。この意味で、われわれは論理学の内容を、自然と有限精神との創造以前の永遠な本質の中にあるところの神の叙述だということができる。」(「大論理学」第一巻の上、有論より)

 普通多くの人がイメージする真理というのは、対象と認識との一致というものだと思います。これに対してヘーゲルはこの文章の中で真理について次のように述べています。
「真理は、学としては、純粋な自己展開的な自意識であって、自己という形態をもつ。即ち即且向自的に存在するものは意識された概念であるが、しかしまた概念そのものは即且向自的に存在するものである、という自己の形態をもつのである。」

 これは一体どういうことかと云いますと、絶対的本質の立場から説くとこうなるということです。つまり、絶対的本質の歩んできた過程、すなわち本流の流れにおいて、物質の最高の発展形態として誕生した人類は、目下の本流そのものに他なりません。その本流たる人類の精神が追究する学問とは己自身が何たるかを己自身が展開する自己展開だということです。つまり、対自(向自)の己自身が、即自の己自身のみならず対自(向自)の己自身をも含めて解明することによって、己自身を概念的・体系的に知ることが完全なる自己回帰であり、本当の真理なのだということです。そして、そこにおいては、対象と認識との対立、客観と主観との対立は絶対的統一され、一体化されて解消されるということです。

 つまり、ヘーゲルの説く新しい論理学とは、それまでの古い論理学のような、対象(客観)と認識(主観)とを絶対的に分離するものではなく、生命の遺伝子の相対的真理の論理学のような、現実的実体との有機的な統一によって発展する生きた論理学を継承し、さらにそれを絶体的真理にまで高めた、云ってみればその遺伝子的論理学の人類版と云えるものなのです。つまり、遺伝子から託された使命を、人類の最高の哲学者たちが実現すべく心血込めて到達できた純粋理性による絶対的真理の神的な論理学だということです。

 これはすなわち、人間(概念)が学問体系を完成して絶対理念(神)となって世界創造をする、ということです。ヘーゲルは本気で人類が歩むべきそういう道・地図を描き、人類に提示してくれていたのです。


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