[2772] 瀬江先生の医学原論(学城16号)を論ず |
- 愚按亭主 - 2018年02月14日 (水) 23時03分
今回の瀬江先生の「医学原論」を読んで、やはり即自的悟性の唯物論的形而上学では、医学という特別に複雑な対象の個別科学としての学的体系化は難しいのか?、という感想をもちました。というのも、医学とは何かという一般論や構造論が、事実の論理の積み重ねの結果として導き出されたものというよりも、即自的悟性が頭の中で抽象化されたものという印象が強く、だとしたならば対自的理性による否定的媒介の洗礼を受けないままの直接態のままという中途半端さがめにつくからです。結果として、生命史観による否定的媒介がないことによって、現象論的で本質的必然性が見えてこないものものになってしまっているからです。そうだから、個別的事例との統一としてある治療論も、教条的でダイナミックさに欠ける、ありきたりで面白味のないものになってしまっています。
その理由として挙げられる、そのほかの具体的要因としては、糖尿病をもたらす要因について、外界からの浸透にばかり重点が置かれて、それを迎えうつ内界側の問題がなおざりにされているためだと思われます。その内界側の問題とは端的には、内部環境の恒常性の維持の実質的統括者たる<交感神経ー副腎系>とスジのネットワークが全く無視されている点です。その結果として、回復過程の主役たる生命力に対する治療的働きかけが、生活過程を整え膵臓を休ませるという看護的なものになって、医療的な手段はインシュリンのピンチヒッター的投与のみということになってしまっていることです。
ではまず、医学とは何かの具体的な検討から、初めて行きたいと思います。瀬江先生の、医学とは何かの定義は以下の通りです。
医学とは「人間の正常な生理過程が病む過程と、病んだ生理構造の回復過程とを統一して究明する学問である。」
これを読んでまず浮かんでくる素朴な疑問は、南郷学派は人間の頭脳のはたらきを大別して生理機能の統括と認識機能の統括とに分けていたはずなのに、生理過程が病むことの中に精神病も含まれているのか?という疑問です。もし含まれていないとしたら、この定義には不備があるということになります。
その点を除けば、これは全くその通りで、違うなどとケチをつける気は全くありませんが、この定義は、見たままそのままの現象論であって、本質的定義とはいいがたいと思います。せっかく生命の歴史の論理構造を明らかにしたのですから、生命の発展史における人類誕生の意義や、人間とは何か、人類の認識の誕生による病気の必然性が生まれたこと、そしてその意味とかが、盛り込まれたものへと概念が発展させられるべきだと思うのですが、それがなかったことをとても残念に思います。ですから、今後そうした発展がみられることを期待したいと思います。
次に、瀬江先生は「生命体は恒常性を維持するしくみによって健康を維持している」の項で、次のように述べています。
「人間を含めて生命体は、外界の変化性に対して、自ら変化することによって変化しないという実力を備えているということである。これがクロード・ベルナールによって提唱され、ウィルター・B・キャノンがその構造を明らかにした、恒常性(ホメオスターシス)を維持するしくみである。」 「そしてこの内部環境の恒常性を維持するしくみというのは、体の中のある特別な器官だけが担っているのではなく、さまざまに分化した体のあらゆる器官が、総力をあげてそのために働いている、と言って良いものである。」 「このように人間の体は、それぞれの生活の状況に応じて、脳の統括により、それぞれの器官の機能するレベルが調節されているのである。」
最近の現代医学の進歩によって、「さまざまに分化した体のあらゆる器官が」相互に情報を発信しあって「総力をあげて」「内部環境の恒常性を維持」している様子が明らかにされてきています。それはその通りだと思います。その上で「ある特別な器官だけが担っているので」あることもまた確かなことです。そのことは、キャノンの実験によって明らかにされたことです。
それは一体どういうことかと云いますと、そのキャノンの実験とは、交感神経を切除した動物が、外部環境を一定に保つようにコントロールされたところでは支障なく生きていけたが、調節されないところでは、恒常性の維持が保てず生きていけなかった、という実験です。これは何を意味するかと云いますと、脳の調節のもと人体の諸器官が総力をあげても普通の環境では恒常性を維持できなかったということです。つまり、それを担う特別の専門器官が必要だということです。そして、それが交感神経だということです。この事実は、瀬江先生から教えてもらったようなものですのに、どうして瀬江先生がそれを否定するのか不思議でなりません。
さらに言えば、交感神経と副交感神経とがワンセットではないという事実を教えてもらったのも瀬江先生であり、交感神経に関してはスペシャリストであるはずの瀬江先生が、恒常性の維持のために生まれたといっても過言でない交感神経が、恒常性の維持のしくみについて論じている場所で、またく触れられないというのは、私にはどうにも理解できないことです。
それはともかく、生命が哺乳動物になりにいく過程において、 陸上の新たな環境の激しい変動に、体中の各器官が「総力をあげて」恒常性の維持をはかろうとしてもうまくいかない中で、そのような環境の中でも恒常性を上手に整えられる「特別の専門器官」として交感神経が、急遽造られることになりました。恒常性の維持は体中のすべての器官が総力を結集しなければできないことですから、当然にもそのために造られた交感神経は、そのすべての器官を統括するために、体中のすべての器官にネットワーク網を造りあげました。
全体の統括者である脳は、前時代的な統括しかできませんでしたから、最新の複雑な統括のほとんどは現場監督に交感神経に任せて、「良きに計らえ」という統括しかしていないのです。だから、その頼もしい交感神経が突然いなくなったら、オロオロして、交感神経の代わりができないがために、生命を維持できなくなってしまうのです。そのことを明らかにしたのがキャノンの実験です。ですから、瀬江先生が、そんな大事な交感神経になぜ触れようとしないのか、不思議でなりません。
瀬江先生は、以上の常態論的説明を踏まえて、次の「人間は認識によって恒常性を維持するしくみが歪んでいく」の項で、以下のように病態論を展開しています。
「人間は特殊的・個性的に育ってきた認識によって、特殊的・個性的な外界との相互浸透をしてしまうことによって、それぞれの器官の機能が許容される範囲を逸脱してしまうことが起こりかねないのである。」 「その内部環境の変化が、著しくあるいは長期にわたって持続してくると、その機能を担う器官はいわば疲れ果てて、その機能を維持することが難しくなってくる。それが『生理構造が機能として歪みかけている段階』であり、さらにこの状態が続くなら『生理構造が機能として歪んでしまった段階』へと至るのである。 そして、それ以上にそのような外界との相互浸透が続くことになると、『生理構造が実体として歪みかけている段階』から、『生理構造が実体として歪んでしまった段階』へと発展していくことになる。」
以上の病態論に対応する形で治療論を展開していくことになるのですが、その治療論を問題にする前に、この病態論自体が、構造論と称していながら、特殊的とか個性的とかの中身がはっきりしない空虚な規定で済まされてしまって、何らも病気の必然性を明らかにするものとは言えない、ということも確認しておきたいと思います。。単に量的に許容範囲を超えたとしか受け取れない規定のしかたでは、病気の必然性の一般性を示すものとは思えないからです。なぜそういうことにこだわるのかと云いますと、人間は、自然のあり方を次々に人間に合わせて創り変えていってしまう存在だということが説かれていないからであり、そしてそれがどういう意味をもつのかについても言及がないからです。
さらに言うならば、たとえば、許容範囲を超えるという規定について言えば、本来のあり方が変更されたあり方の質的な許容範囲と、その量的な許容範囲との統一としての許容範囲でなければならない、と思うからです。
次に治療論について言うならば、元に戻る回復のあり方と、元に戻らない障害が残る回復や、代用物で補填する回復のあり方とを同じ三角形の中で、一緒くたに扱うのは、果たして治療論として正当なのか、疑問が残ります。元の正常な生理構造に戻れる形で治ったものと、元に戻れない形治ったものとは区別すべきだと思います。 つづく
|
|